【徳島秘話】大坂口御番所跡と隠れキリシタン。 源義経と弁慶が通った大坂峠。 徳島藩と高松藩の殉教者。 小豆島の隠れキリシタンと小西行長、マニラに渡った高山右近
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
いつも当サイトを応援くださり誠に有難うございます。
今回は、香川県東かがわ市と徳島県板野郡板野町の国境にあった大坂口御番所 (おおさかぐちごばんしょ)とキリシタンの取り締まり、徳島藩と高松藩の殉教者、小豆島の小西行長とフィリピンに渡った高山右近についてです。
【主な内容】
・徳島藩大坂口御番所の役割、行き方
・大坂口御番所役人 村瀬家旧宅の公開日と連絡先
・大坂口御番所とキリシタン取り締まり
・徳島藩、高松藩のキリシタン取り締まり
・小豆島の隠れキリシタン、高山右近
・小豆島に残る高山右近が1年間、潜伏した場所への行き方
・高松藩の殉教者 アントニオ石原孫右衛門父子の殉教地
・大坂口御番所と殉教者 ディオゴ結城神父の生涯と2007年に発見された墓碑の場所
・島原の乱後の小豆島から天草への移住とそうめん製造技術の伝播
この大坂口御番所があった大坂峠は、源義経が屋島の戦い(1185年)に際し、阿波国から讃岐国へ向かうために通った大坂峠越えの道です。
2025/11/13に、板野町 文化の館に電話をかけて再確認しました。大坂口御番所役人が住んでいた村瀬家旧宅の公開日は偶数月の第一週目の日曜日、次回は、2025/12/7の日曜日に公開予定とのことです。訪問される方は、公開日をご確認されてから行かれるのがよいかと思います。
🔸大坂口御番所 村瀬家旧宅の管理団体
板野町 文化の館
電話番号: 088-672-5888
訪問される際は電話で開館日、開館時間を確認することをおすすめします。
※2025/12/5に電話で大阪口御番所の開館日を確認したところ2025年度から偶数月の第一日曜日: 10時から4時までの開館になったとのこと。2025/12/7は開館。
大坂口御番所とは?
大坂口御番所は、江戸時代に徳島藩(阿波国)が讃岐国(現在の香川県)との国境である讃岐街道の大坂峠の登り口に設置した重要な関所跡(番所)です。

大坂峠展望休憩所から車で14分

JR高徳線 阿波大宮駅から車で6分

設置時期・期間:
正保元年(1644年)に設置され、明治5年(1872年)に廃止されるまで、約230年間にわたり機能しました。
目的:
主に、阿波国と讃岐国の間の人や物資の出入りを監視し、特にキリシタン(邪宗門)の取締りや、無許可で村を出る出百姓の取り締まりを行っていました。
役人:
代々、村瀬家と久次米(くじめ)家の両家が御番所役人を務めました。
・鳴門市北灘町にあった碁浦御番所や大坂口御番所は小豆島や九州、関西方面などから来るキリシタンの取り締まりを行っていました。

『阿波淡路両国 番所跡探訪記』 桑井薫 著



大坂口御番所とキリシタン取締り
大坂口御番所(おおさかぐちごばんしょ)は、江戸時代の徳島藩(阿波国)が讃岐国との国境に設置した関所であり、キリシタン(当時は「邪宗門」や「切支丹」と呼ばれた)の取り締まりは、この番所の重要かつ厳重な任務の一つでした。
取締りの目的と対象
キリシタン取締りは、幕府の禁教政策を徹底し、藩内へのキリスト教の再流入を防ぐことを目的としていました。
1. 藩境での監視
大坂口御番所は、阿波国と讃岐国を結ぶ主要街道である大坂峠の登り口に位置していました。
対象:
主に讃岐方面から阿波国内へ入ろうとする旅人、行商人、お遍路(四国遍路)などの通行者が対象でした。
警戒:
徳島藩は、キリスト教が盛んであった畿内(大阪方面)や、初期キリシタンの足跡が残る小豆島などから、宣教師や信徒が讃岐を経由して阿波へ潜入することを強く警戒していました。
2. 邪宗門改め(宗門改め)
すべての通行者に対して、キリシタンではないことを証明させるための宗門改めが実施されました。
手形(関所手形)の確認:
通行人は、自分の住む村の寺院や領主から発行された宗門手形を提示する必要がありました。
手形には、その人物がキリシタンでないこと(仏教徒であること)が明記されていました。この手形がない者は通行を許されませんでした。
踏み絵の実施:
疑わしい者や、特に厳重な宗門改めが必要とされた者に対しては、踏み絵が実施されました。
御番所には、キリストやマリアの像を彫った真鍮製または木製の板が用意され、通行人にその板を踏ませることで、キリスト教の信仰がないことを確認しました。
御番所跡(旧村瀬家住宅)には、当時使われた手形や踏み絵のレプリカが展示されています。
村瀬家文書に見る実態
御番所役人を務めた村瀬家に残された古文書(村瀬家文書)には、キリシタン取締りの具体的な状況が詳細に記されています。
厳重な監視体制:
文書からは、キリシタン関連の法令や、藩からの宗門改めに関する細かな指示が度々下されていたことがわかります。
邪宗門の発見と処理:
実際にキリシタンと見なされる者が発見された場合の捕縛、報告、尋問といった厳格な手続きについても文書で定められていました。
ディオゴ結城神父の捕縛:
1636年、徳島藩の著名な殉教者であるディオゴ結城神父が、大坂口峠の登り口(御番所の近辺)で捕縛されました。この事例は、この地域が藩のキリシタン取締りにおいて、極めて重要な地点であったことを示しています。
ディオゴ結城神父の生涯と殉教
天正2年(1574年)阿波国で誕生。
天正14年(1586年)、摂津国高槻にあった司祭養成学校(セミナリヨ)に入り、勉学を始めたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の指令でセミナリヨは移転を余儀なくされ、ディオゴは長崎で幽閉された。
その後、幽閉先を脱出したディオゴは文禄4年(1595年)に天草でイエズス会に入会。
河内浦にあった司祭養成の高等機関(コレジオ)で学び、慶長6年(1601年)に伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオに渡り、司祭になるための勉学を続けた。
帰国後は畿内を中心に活動し、慶長12年(1607年)には伏見の教会の仕事を任され、この年徳島藩主・蜂須賀家政、平島公方・足利義種にキリスト教の教えを説いた。
やがて、江戸幕府によってキリスト教が禁制になり、ディオゴは慶長19年(1614年)高山右近らとマニラに追放された。ディオゴはマニラのイエズス会学校で勉学を続け、同地で司祭叙階を受けた。
元和2年(1616年)、禁教下の日本で活動すべく極秘で長崎に渡り、陸路京へと向かった。こうして再び畿内において司祭として信徒たちを尋ね、秘蹟を授け、教え励ます活動を行うようになった。
また、密かに四国や江戸にまで足を延ばしていたと伝わる。
元和5年(1619年)に京で幼児を含めた52名が殉教した「都の大殉教」が起こると、ベント・フェルナンデス神父やミカエル草庵とともに、残った信者らを励ましたり、遺体を葬ったといわれている。
その後、幕府の宣教師捕縛が徹底される中、ディオゴは山中で隠れて暮らしていたが、寛永12年(1635年)、阿波国大坂峠で捕縛された。
寛永13年(1636年)、中央の裁きを受けるため摂津国(大坂)へ送られ、穴吊りの刑を受け、3日後に殉教した。
ディオゴ結城の妹である祐賀の娘と夫が捕らえられ、彼らの命と引き換えにディオゴの居場所が明かされたという話も伝わっています。また、阿波の重臣である荒井門内が、主君の窮状を救うため、潜伏していたディオゴ結城の発見に協力したという説もあります。
ディオゴ結城了雪神父に関する墓碑の発見と考察
1. 墓碑の概要と記載内容
発見時期: 2007年
場所: 徳島県阿波市市場町犬墓(阿波公方の重臣の墓地)
墓碑の刻印:
「寛永十二年 → 1635年」
「大法師不慶」
「亥九月廿九日」
特定された人物: ディオゴ結城了雪 神父
2. 「不慶」と「大法師」に関する考察
「不慶」: ディオゴ結城了雪神父を指すと思われる法名。
「大法師」: 本来は仏僧を指す言葉ですが、ディオゴ結城がカトリックの司祭であったことを指して、特別に「大法師」と刻まれたのではないかと推測されています。
3. 墓碑建立の背景と関連人物
墓地: 阿波公方の重臣であった荒川門内(あらかわもんない)の子孫 荒井家の墓地。
荒川門内との関係:
荒川門内は、ディオゴ結城が匿っていた主君・又八郎(祐賀の息子)の窮状を救うため、結城了雪神父の発見に協力したという説がある人物です。
墓の建立者(推測): 荒川門内の子孫の荒井氏が、結城了雪神父を弔うために建てたのではないかとされています。
4. 現地
住所: 徳島県阿波市市場町犬墓 荒井家墓地


日開谷口番所跡は、かつて徳島藩によって設置された番所の跡地で、現在の徳島県阿波市市場町犬墓字平地の県道246号線が日開谷川を渡る橋の南側に位置しています。
日開谷口番所の歴史
設置と役割
日開谷口番所は、徳島藩の領土への出入りを管理し、通行人や物資の往来を取り締まる目的で設置されました。藩領への出入りは自由ではなかったため、重要な交通の要所に番所が設けられていました。
具体的な設置時期については、慶安4年(1651年)に徳島藩が設けたという碑文がある一方で、参考文献には寛永9年(1632年)には既に番所が置かれ、山口甚左衛門が番人を務めていたと記されています。
番人とその継承
慶安4年(1651年)には、かつて平島公方に仕えていた荒井門内が番人になりました。荒井家の系図によると、荒井門内以降、八左衛門、紋内、丹兵衛、和三郎、崎之丞、九馬助、常太郎と、明治維新まで日開谷口番所の番人の役職が受け継がれたとされています。荒井家の古文書には、日開谷口番所番人としての具体的な任務などが記されており、日開谷口御番所と彫られた公印も存在していました。

大法師 不慶と刻まれた石碑
住所: 徳島県阿波市市場町犬墓 荒井家墓地


・ディオゴ結城と荒川門内
https://school.e-tokushima.or.jp/file/attachment/0ea3c24e/117657.pdf


徳島藩大坂口御番所跡








【徳島藩】碁浦番所の跡地は? 伊能忠敬、久米通賢、松浦武四郎らも立ち寄った番所の記録「八田家文書」が行方不明となった謎を追う!
鳴門市北灘町碁浦にあった碁浦御番所




碁浦御番所 八田家文書の後書きに、歴史研究と言う目的で貸し出されが、再三の返済要求にも応じず行方不明となってしまったとある。


大坂口御番所役人の禄高は?



四人六石: 村瀬家と久次米家の両家分
四人六石の意味は?
「四人六石」は以下の内訳で構成されていました。
1. 扶持米(扶持方): 「四人」
意味: 家族の人数に応じて支給される給与です。これは主に食費に充てられるものです。
計算: この「四人」とは、藩士本人とその妻、そして子供や奉公人など、藩士が養うべき家族や使用人の人数を指します。
当時の一般的な計算方法では、1人あたり1日5合、年間で1石8斗(約1.8石)程度の米が支給されました。
「四人扶持(よにんぶち)」の場合、4人分の食費として米が支給されたことになります。
目的: 日々の生活、特に食料の確保を目的とした部分です。
2. 現米(禄高本体): 「六石」
意味: 藩士の身分と役職に応じて支給される、本来の俸禄本体です。
計算: この「六石(ろっこく)」は、原則として米の形で支給される年間の総支給量を表します。ただし、実際には米の代わりに金銭(金銭払い)で支給されることも多くありました。
目的: 家計全般、衣服費、雑費、そして武士としての諸経費(道具の維持など)に充てられる部分です。
四人六石とは、村瀬家と久次米家という両家が御番所役を務めるにあたり、藩から年間で「4人分の食費に相当する米(扶持米)」と「6石に相当する本体の給与(現米)」を禄高として与えられていたことを示します。
大坂口御番所の重要性
1. 藍玉の独占と取締り
徳島藩は「阿波藍」の生産で全国市場をほぼ独占し、その財政を支えていました。
藍の原料となる藍玉(あいだま)は、藩にとって極めて価値の高い専売品に準ずるものであり、その不正な持ち出しは厳しく禁じられていました。
大坂口御番所は、阿波国(徳島県)と讃岐国(香川県)を結ぶ国境に位置しており、藍玉を含む重要物資の流通を監視する役割を担っていました。
また、キリシタンの取り締まりも重要な任務の一つでした。これらのことから、大坂口御番所が徳島藩の経済基盤と治安維持において非常に重要な役所であったと言えます。
2. 名家登用の論理
「四人六石」という禄高が、役職の重要性に対して低く見えるものの、村瀬家や久次米家といった地域の名家が世襲で200年以上御番所役人を務めた背景には、当時の藩政の仕組みが関係しています。
地縁・人脈の活用:
地元の名家は地域の事情や人々の動きに精通しており、効果的な物資の取締まりや治安維持に貢献しました。
経済的負担の軽減:
名家は自身の経済基盤を持っていたため、藩は多額の給与を支払う必要がありませんでした。
藩は「四人六石」という名目上の禄高と役人の身分を与えることで、実質的なコストを抑えながら重要な任務を委託できたと考えられます。
身分の安定:
名家にとっては、「四人六石」という禄高は生活費としてだけでなく、藩の役人としての公的な地位と武士の身分を世襲で保証してもらうことにも価値がありました。
「四人六石」の解釈
この「四人六石」という禄高は、役職が低いことを示すものではなく、むしろ藩にとって不可欠な重要ポストを、地域に根差した実務能力と経済的基盤を持つ有力者に委託するための特別な俸禄形態であったと解釈できます。
江戸時代には、扶持米(家族の食費)と禄高(身分に応じた給与)が明確に区別されており、藩は禄高の多寡だけでなく、役職の重要性やそれに伴う権限も考慮して人事を決定していました。
村瀬家旧宅: 現在見られるもの・公開情報

御番所そのものの建物は明治の廃止後に取り壊されたため現存しませんが、番所役人の旧住宅が史跡として保存・公開されています。
場所
大坂口御番所跡(徳島県板野郡板野町大坂字ハリ71-1)
現存する建物
旧村瀬家住宅(板野町指定史跡)
見学できる建物
旧村瀬家住宅(久次米家の住居は別です)
公開日時
日曜日 10:00~16:00(お盆、年末年始を除く)
展示物
キリシタン取締りの様子を示す高札や、手形・踏み絵のレプリカなどが展示されています。
村瀬家旧宅の公開について
2025/11/13の確認時:
偶数月の第1日曜日に公開。次回は2025年12月7日(日)とのことです。訪問される前に一度ご確認された方が良いかと思います。
管理団体: 板野町 文化の館
電話番号: 088-672-5888(板野町 文化の館)
大坂口御番所 村瀬家文書とは?
『大坂口御番所 村瀬家文書』は、代々御番所役人を務めた村瀬家に伝来した古文書群です。

内容:
江戸時代の番所業務に関する公的な文書や、当時の村瀬家の生活をうかがわせる文書などが含まれており、当時の徳島藩の関所制度や地域の歴史を知る上で貴重な一次史料です。
滝よし子氏の著書:
『大坂口御番所 : 村瀬家文書』(滝よし子 編著、2002年): 村瀬家文書を解読・編纂した書籍です。
滝よし子氏は、地元で「板野町古文書を読む会」を発足させ、長年、村瀬家文書の解読作業に取り組み、その成果をまとめたものです。
特に、襖の下張りから文書を剥がすなど、地道な作業を通じて、自治体史にも記載されていなかった番所役人の日常や、お遍路さんの通行実態など、当時の人々の生活の様子を明らかにしたことで知られています。
滝よし子さんは、『碁浦御番所 八田家文書』も書かれています。
大坂口御番所 村瀬家文書の著者 滝よし子さんの手記
https://museum.bunmori.tokushima.jp/tomo/news/tomonewsNo21.pdf



徳島県立博物館友の会会報 アワーミュージアム
第 21 号 2003年2月10日発行
「大坂口御番所村瀬家文書」を解読して
滝 よし子(友の会会員)
平成8年10月、福田憲■先生の「古文書学習について」と題した講演が、板野町図書館で開催されました。
これを機会に地元の古文書を読んでみたい、ただそれだけの思いで、翌日「板野町古文書を読む会」を発足させました。
私のような初歩の者にとって、まとまった地方文書を手に入れることは容易ではありませんでしたが、案ずるより生むが易しのたとえどおり、まもなく大坂口御番所であった村瀬家文書に出会えたことは幸いでした。
藩政時代、徳島藩には阿波と淡路に7カ所の番所(関所)がありました。
中でも大坂口御番所は阿波五街道の一つ讃岐街道上の国境にあって最も重要な番所でした。
正保元年(1644)に設置され、明治5年(1872)に廃止されるまで約230年間、村瀬家と久次米家の両家が、代々番所役人として勤めました。
村瀬家住宅は板野町の史跡に指定され、植物道具の樽や桶が幾つか残されています。
古文書は年代順にきちんと整理されすべて保存されているのではなく、かなり散逸してしまったのは惜しまれます。現在残っている文書も裏側を下書きに利用したもの、襖の下張りにしていたものがほとんどです。
ことに長年、襖の下張りで張っていた文書の一枚一枚を剥がす作業は、未知の資料との出会いとなり、その時代に生活していた人々の生の声を聞く思いが致しました。
たとえ文書に宛名・差出人・年号の記載はなくても、文書の一点一点を線で結ぶと星座のような型が浮かび上がり、歴史の大きな流れの中で、地元の最も身近な歴史を知るきっかけとなりました。
従来自治体史にも記載されていない番所役人さんの仕事の一端を垣間見ることができます。
まさに襖の下張りから江戸時代が見えてきたといえます。
たとえば讃岐街道は、今ではあまり考えられませんが、講中時代は大勢のお遍路さんが阿波から讃岐へ、讃岐から阿波へと大坂越えで四国八十八カ所を巡拝しました。
北は青森、南は九州からと記録に残っているだけでも33府県に及び、年間約24,000人のお遍路さんが大坂峠に足跡を残してゆきました。
お遍路さんが阿波国を巡拝するためには、通行手形(切手)が必要でした。
大坂口御番所では切手を発行する紙も、相当使ったと思われます。
当時の紙は中折帳といって現在のB4程度の大きさの半裁和紙でした。
御物見は勿論のこと、墨や筆の事務用品も不足し、漸次に度々支給してくれるよう増加願いを提出したが、なしのつぶて、というとう番所役人さんは願い書きを取り下げています。
碁浦番所(鳴門市北灘町北浦)も同様でした。
佐野口番所(池田町佐野)の切手は中折紙を4つ切りにしたものが残されています。
紙の大きさというより、藩の窮乏ぶりが窺え、番所役人さんの苦慮した様子を彷彿とさせてくれる資料といえます。
また讃岐街道では、香川県の三本松や引田から鯛・鰆・かいなどの鮮魚が、一荷二荷と人の背で徳島市の魚問屋さんに搬送されました。
庶民の食卓にのぼったかどうか、興味はつきないものです。
「鷹放し見届け報告」では、殿様が鷹狩りで愛用していた大鷹を、大坂山で放し野性に返すこともあったことが分かります。
大坂口御番所役人さんの大切なお目見えで、「私共立会い見届け」、と、間違いないく遂行がしてありましたという内容の報告書を、御蔵奉行に提供しています。
当時の大坂山はうっそうと樹木が茂り、野鳥の宝庫だったと思われます。
以上はほんの一部にすぎませんが、そうした資料を読んでできた成果をまとめ、『大坂口御番所村瀬家文書』として、平成14年9月に出版しました(B5変型判、362頁、3,000円)。
本書の構成は、「往来手形」、「大坂口御番所実記」、「商品送り状」、「手紙・俳句・その他」の4章に分け、巻末に「村瀬家文書の語る近世」として、若干の私見を述べさせていただきました。
ぜひ一度手にとって、豊かな歴史の世界を楽しみでみいただければ幸いです。
滝よし子編著『大坂口御番所村瀬家文書』
徳島県立博物館友の会会報『アワーミュージアム』(第21号、2003年2月10日発行)に掲載された記事
「大坂口御番所村瀬家文書」の解読について
記事の主な内容
1. 「大坂口御番所村瀬家文書」の解説
著者: 滝 よし子(友の会会員)
経緯: 著者は1996年(平成8年)に古文書学習の講演を聞いたことをきっかけに、地元(板野町)の古文書を探し始め、「大坂口御番所村瀬家文書」に出会った。
2. 大坂口御番所の概要
設置: 正保元年(1644年)に設置された。
廃止: 明治5年(1872年)に廃止されるまで、約230年間存続した。
役人: 村瀬家と久米家の両家が代々番所役人を務めた。
場所: 徳島藩の関所の一つで、阿波五街道(四国五街道の一つ)である讃岐街道上の国境にあり、阿波(徳島)と讃岐(香川)を結ぶ重要な要所であった。
3. 村瀬家文書の状況
村瀬家住宅は板野町の史跡に指定されており、御番所役人として使われた植物道具などの樽や桶が残されている。
古文書は、年々代々整理されずに保存されていたため、読むのが難しく、ほとんどが摩耗(すり減って)したり、何重にも折り畳まれたりした状態で残されていた。
著者は、これらの文書の一片(断片)からでも、史料には残らない当時の人々の生の声や暮らしぶりを知ることができ、貴重であると述べています。
番所役人の具体的な職務、讃岐街道の利用状況、古文書の研究成果
1. 讃岐街道(お遍路)の利用状況
讃岐街道の変遷: 讃岐街道は、江戸時代にはあまり使われていなかったが、講中時代(江戸時代中期以降、庶民の信仰が高まった時期)には、お遍路(四国遍路)の道として多く利用されたと考えられている。
お遍路の利用: 義経の時代(源平合戦)に九州や南州から上陸し、四国八十八カ所巡礼をしていた記録があり、年間約24,000人ものお遍路さんが大坂峠を越えていたことが記録に残されている。
2. 番所役人の職務(通行手形と文書)
通行手形(切手・切手紙): お遍路さんが阿波国を巡拝するために必要な通行手形の発行・確認も番所の重要な職務だった。
文書の様式: 当時の通行手形は、現代のB4程度の大きさの和紙を二つ折りにして使用され、朱印や墨書による「御物見は勿論のこと、墨や筆の事務用品も不足し、漸次に度々支給してくれるよう増加願いを提出した」という記述から、番所役人が文書や物資の不足に苦労していた様子がうかがえる。
姉妹番所: 同様の文書は、阿波淡路路の関所であった碁浦御番所(鳴門市北灘町北浦)にも残されていた。佐野口番所(池田町佐野)の切手紙の様式が四つ折りであったことも記されている。
3. 文書研究の成果
古文書集の刊行: 著者が古文書解読活動を続けた結果、その資料的価値をまとめた成果として、『大坂口御番所村瀬家文書』(B5変型判、362頁、3,000部)が平成14年9月に刊行された。
内容の構成: この古文書集は、「往来手形」「大坂口御番所実記」「商品送り状」「手紙・俳句・その他」の4章に分けて巻末に「村瀬家文書の語る近世」という論考を掲載している。
阿波大宮駅周辺
義経の屋島移動と大坂峠の伝承
源義経が屋島の戦い(1185年)で屋島(現在の香川県高松市)へ向かう際、大坂峠(徳島県と香川県の県境)を越えたという話は、伝承として広く知られています。
義経の移動ルート
上陸地:
義経は摂津(大阪湾岸)から船団を出し、通常は難航する航路を強行して阿波国(徳島県)の勝浦または小松島に上陸したと伝えられています。
大坂峠越え:
その後、彼は平家本陣のある屋島へ向かうため、大坂峠(大坂越え)を越えて讃岐国へ入ったとされます。
これは、平家が海からの攻撃のみを警戒していたため、陸路からの奇襲を成功させるための重要なルートでした。
一夜の進軍:
義経は、大軍に見せかけるために周辺の民家に火を放ちながら、この難路を一夜のうちに進軍し、平家を大いに動揺させたという伝説があります。
このルートは現在、「義経街道」や「義経ドリームロード」として、特に徳島県小松島市を中心に歴史的な観光ルートとなっています。
阿波大宮駅周辺: 「弁慶の石」(弁慶の力石)
阿波大宮駅(徳島県板野町)の周辺には、弁慶の力石(べんけいのちからいし)と呼ばれる石の伝承が残されています。
所在地と伝承
場所:
弁慶の力石は、阿波大宮駅の南に位置する四国霊場一番札所 竺和山(じくわざん) 霊山寺(りょうぜんじ)から二番札所の金泉寺(きんせんじ)へ向かう途中の、金泉寺の本坊前の庭園にあります。
伝承:
源義経が屋島攻めの途中でこの金泉寺に立ち寄り、戦勝開運を祈願して休息した際、家来の武蔵坊弁慶が力自慢として持ち上げたと伝えられています。
この力石は、義経と弁慶が四国を駆け抜けたという伝説を今に伝える、貴重な史跡の一つです。
徳島藩(阿波国)の隠れキリシタン
徳島藩(阿波国)におけるキリシタンの信仰は、藩祖である蜂須賀家政が豊臣秀吉の時代に洗礼を受けていた(後に棄教)ことに始まり、初期の段階で家臣団の中に多くの信者が存在しました。
初期の浸透:
文禄・慶長年間(16世紀末~17世紀初頭)には、家政の家臣団を中心にキリシタンが100名以上いた記録があり、信仰は比較的早くに広まりました。
藩による禁教:
幕府の禁教令を受け、徳島藩も厳しく取締りを強化しました。
1644年(寛永20年)には、家老から家中に対し禁教の徹底が命じられています。
1648年(慶安元年)には、密告者への褒賞制度を設けるなど、藩内における禁教の徹底が図られました。
殉教者: 徳島出身の有名な殉教者としては、ディオゴ結城神父がいます。彼は国外追放された後、秘密裏に日本へ戻り、1636年に大坂口峠の登り口(板野町)で捕らえられ、翌年殉教しました。この事件は、阿波国における禁教の厳しさを示す事例となっています。
殉教者(じゅんきょうしゃ)とは?
殉教者(Martyr)とは、自分の信じる宗教的信仰や大義を捨てることを拒否し、その結果として迫害され、命を落とした人のことです。
「殉教」という言葉は、「殉じる」(捧げる・尽くす)と「教え」(宗教的信仰)を組み合わせたもので、「教えのために命を捧げる」という意味を持ちます。
1. 殉教者の核心的な定義
信仰の拒否を拒否: 拷問、死の脅迫、または迫害に直面しても、自分の信仰を放棄したり、偽ったりすることを断固として拒絶します。
死の受容: 信仰を貫いた結果として、自らの意思ではなく、外部の権力者や迫害者によって殺されるなど、暴力的な死を遂げます。
動機: 自分の命よりも、その信仰が真実であること、あるいはその大義が重要であるという信念に動機づけられています。
2. キリスト教における殉教者
キリスト教において「殉教者」という概念は特に重要です。
日本における殉教者:
26聖人(豊臣秀吉の時代に長崎で処刑された26名の信者)。
アントニオ石原孫右衛門父子(高松藩で殉教)。
ディオゴ結城神父(徳島藩と関連)。
高山右近(国外追放先のマニラで殉教し、福者に列せられる)など、江戸時代の禁教政策下で命を落とした人々が多くいます。
カトリック教会では、殉教者は聖人や福者として列せられる(認められる)重要な対象となります。
伊東マンショ
中浦ジュリアン
千々石ミゲル
千々石ミゲル墓所調査プロジェクト
徳島藩の大坂口御番所と碁浦御番所
徳島藩と隠れキリシタンの関係において、大坂口御番所と碁浦御番所は重要な役割を果たしました。これらは藩境に設けられた関所です。
大坂口御番所(おおさかぐちごばんしょ)
場所: 阿波国と讃岐国を結ぶ讃岐街道の大坂峠(徳島県板野町)の登り口。
役割: 阿波と讃岐間の人や物資の出入りを監視し、特に「入邪宗門(いりじゃしゅうもん)」、すなわちキリシタンの出入りを厳重に取り締まることが主要な任務の一つでした。
史料: 御番所役人を務めた村瀬家に伝わる「村瀬家文書」には、キリシタン禁制に関する当時の状況や取り締まりの様子が記録されています。
碁浦御番所(ごのうらごばんしょ)
場所: 阿波国と讃岐国を結ぶ海岸沿いの道にあった、海岸線側の藩境(鳴門市北灘町碁浦付近)。
役割: 大坂口御番所が山側の街道を監視したのに対し、碁浦御番所は海路や海岸線の監視を担当しました。
キリシタン対策: 徳島藩は海上からの密入国や、海を越えたキリシタンの移動・潜伏を警戒しており、碁浦御番所もまた、キリシタン禁制の徹底を図るための重要なチェックポイントとして機能しました。
両番所とも、キリシタンの取り締まり(宗門改め)や、無許可の国境越えを防ぐ「防人(ぼうにん)の役」を担っていました。
高松藩(讃岐国)の隠れキリシタン
高松藩(讃岐国、現在の香川県)の隠れキリシタンについては、島原の乱(1637年)以降のキリシタン禁制の強化に伴い、密かに信仰を続ける人々が存在しました。
小豆島(しょうどしま)
特徴:
小豆島は、瀬戸内海の海上交通の要衝であり、海を介して信仰が伝播・維持された可能性があります。
信仰の名残:
島内には、仏像や観音像の台座などに、十字紋や魚(イクトゥス)を思わせる模様が刻まれたマリア観音や変形大師像など、潜伏キリシタンの信仰の名残と見られる石仏や祠が点在しています。
特に、子安観音を聖母マリアに見立てたマリア観音の信仰が潜伏キリシタンの形態として知られています。
背景:
藩の目が届きにくい離島や山間部が潜伏の地となる傾向は、全国の事例と共通しています。
高松市
高松藩全体として、藩境での宗門改めや、檀家制度の徹底によるキリシタンの摘発は行われていました。
高松藩祖の生駒親正も、かつてキリシタンの有力大名であった高山右近と親交がありましたが、禁教令には従っています。
四国地方の隠れキリシタンは、長崎や天草地方に比べると規模は小さかったものの、地域に根差した形で仏教や神道の儀礼の中にキリスト教的な要素を融合させるという、「潜伏信仰」の形態をとって信仰が受け継がれたと考えられています。
徳島藩(阿波国)の隠れキリシタン
徳島藩におけるキリシタン信仰は、藩祖である蜂須賀家政の周囲から広がり、比較的初期に浸透した歴史を持ちますが、幕府の禁教令後は厳しく弾圧されました。
1. 初期信仰と弾圧
初期の浸透:
藩祖・蜂須賀家政が豊臣秀吉の時代に洗礼を受けていた(後に棄教)という背景もあり、家臣団を中心にキリシタン信者が多く存在しました。
禁教の強化:
幕府の禁教令を受け、徳島藩は厳重な取締りを開始しました。特に慶安元年(1648年)には、密告者への褒賞制度を設けるなど、藩全体で禁教の徹底が図られました。
殉教者:
徳島藩出身の著名な殉教者としては、ディオゴ結城神父がいます。彼は国外追放後に日本へ秘密裏に帰国しましたが、1636年に阿波国境の大坂口峠の登り口(板野町)で捕縛され、翌年殉教しました。
2. 国境の関所による取締り
徳島藩は、讃岐国との国境にある大坂口御番所や碁浦御番所といった関所を通じて、キリシタン(邪宗門)の出入りを厳しく監視しました。これらの関所は、藩境を越えて信仰が伝播することを防ぐ重要な役割を果たしていました。
高松藩(讃岐国)の隠れキリシタン
高松藩におけるキリシタン信仰は、小豆島を拠点とした歴史が特に重要です。信仰は小規模ながらも潜伏し、独自の形態で維持されました。
1. 小豆島の歴史的背景
キリシタン大名の影響:
小豆島はかつてキリシタン大名の小西行長の所領でした。行長が布教を奨励した結果、短期間で多くの島民がキリスト教に改宗しました。
高山右近の潜伏:
豊臣秀吉の追放令後、キリシタン大名である高山右近が小西行長の庇護のもと、小豆島の山中に潜伏しました。
右近の存在は、禁教後の島民の信仰維持に大きな影響を与えました。
2. 潜伏と信仰形態
マリア観音:
禁教が強化されると、讃岐の信徒は信仰を捨てることなく、仏教や神道の儀礼の中にキリスト教の要素を隠しました。その代表的な例が、仏像や観音像の姿を借りて聖母マリアを拝むマリア観音の信仰です。
小豆島などには、十字紋や魚の模様を秘めた石仏などが現在も残されています 。
高松市桜町周辺の殉教者:
高松藩内では、アントニオ石原孫右衛門が1617年に幼い子どもと共に高松の刑場で殉教しました。
この父子の壮絶な最期は、高松のキリシタンの歴史を示す重要な出来事として、現在のカトリック桜町教会などで語り継がれています。
アントニオ石原孫右衛門父子像 (カトリック桜町教会)


讃岐の隠れキリシタンは、長崎や天草地方に比べ集団としての規模は小さかったものの、瀬戸内海の海上交通を利用しながら、密かに信仰を継承していきました。

アントニオ石原孫右衛門父子の殉教地: 花園ふれあい公園


アントニオ石原孫右衛門(アントニオ いしはら まごえもん)
江戸時代初期に讃岐国(現在の香川県)で信仰のために殉教したキリシタン(殉教者)です。
彼は、高松地方のキリシタン史における重要な人物として、特にカトリック教会で記憶され、尊ばれています。
アントニオ石原孫右衛門の概要
出身地: 讃岐国(現在の香川県)
洗礼名: アントニオ (Antonio)
殉教年: 慶長22年 1617年 7月16日(※)
信仰を棄てることを拒み、幼い子どもと共に処刑された。
殉教地: 讃岐国高松の御坊川沿いの刑場。現在地は花園駅近くの公園。
※日本の元号が慶長から元和に変わる時期にあたります。

殉教の背景と詳細
1614年(慶長19年)、徳川家康がキリスト教禁止令を全国に発した後、讃岐国でもキリシタンの厳しい取り締まりが始まりました。
信仰の告白: アントニオ石原孫右衛門は、捕らえられた後、信仰を棄てるよう何度も強要されましたが、これを頑なに拒否しました。
幼子との殉教: 彼は、まだ幼い子どもを抱いたまま刑場に連行されました。これは、父子の姿を見せつけることで他の信徒を威嚇し、棄教を促す意図があったとされます。
壮絶な最期:
まず孫右衛門が斬首されました。
次に、幼い子どもが処刑される番になりましたが、斬首役人があまりの幼さに心を痛め、刀を置きました。
しかし、別の役人(異教徒)が懐剣で幼子の胸を何度も突き刺し、惨殺するという悲劇的な最期を遂げました。
この壮絶な殉教は、江戸時代初期におけるキリシタン禁制の厳しさを象徴する出来事として記録されています。彼らは、キリスト教の信仰を貫いた殉教者として、特に地元のカトリック桜町教会などで深く追悼され、記念されています。
彼らが殉教した場所は、現在、カトリック桜町教会からほど近い御坊川沿い刑場でした。
アントニオ石原孫右衛門の経歴
高松市のカトリック桜町教会の史料などに、彼の経歴に関する以下の情報が示されています。
元の身分: 彼は元々、武士の身分でした。
関ヶ原の戦い後: 1600年の関ヶ原の戦いを経て、彼は武士の身分を捨て、商人となりました。
高松への移住: 商人となった後、彼は讃岐国の高松に落ち着き、生活を営むようになりました。
信仰と殉教
商人となった後も、アントニオ石原孫右衛門は熱心なキリシタンであり続けました。
信仰活動: 彼は自宅にキリシタンたちを集め、霊的な書物を読んで聞かせるなど、潜伏キリシタンの信仰共同体を励ます活動に熱意を燃やしていました。
殉教: その信仰が理由で捕縛され、1617年に高松の御坊川沿いの刑場にて、幼い子どもと共に殉教しました。
元武士でありながら商人となり、最終的に信仰のために命を捧げたという彼の生涯は、江戸時代初期の讃岐国におけるキリシタンの厳しい状況を物語っています。
幼子の殉教
カトリック桜町教会のウェブサイトにある記述(引用文献に基づく)には、幼子の殉教に関する痛ましい記録が残されています。
「(前略)軽卒は,この子を静かに地べたにおいた。斬手は,酷たらしい役を果たす支度にかかっていた。ところがどうしてもその気になれず,彼は眼にいっぱい涙をためて逃げ出した。もう一人の異教徒が懐剣をとり,子供の胸を続け様に3度刺した。」
・カトリック桜町教会サイト
カトリック桜町教会では、このアントニオ石原孫右衛門父子の殉教日を殉教記念日と定めて、彼らの信仰と勇気を後世に伝える活動を行っています。
小豆島の隠れキリシタンと、高山右近、小西行長、天草との関係
小豆島と高山右近・小西行長
小豆島のキリシタン信仰の初期の発展と、後の隠れキリシタンの土壌形成には、キリシタン大名であった小西行長と高山右近の存在が深く関わっています。
1. 小西行長とキリスト教の伝播
小豆島の領主: 小西行長は、豊臣秀吉の家臣で、和泉堺の薬種商・小西隆佐の養子でした。彼は熱心なキリシタン大名であり、天正13年(1585年)頃に秀吉から小豆島の管理権を与えられました。
信仰の拡大: 行長が小豆島を支配していた期間(1585年頃~1588年)、宣教師による布教活動が活発に行われました。天正14年(1586年)には、イエズス会の神父らが小豆島に渡り、わずか1か月の間に1,400人もの島民が洗礼を受け、島にキリスト教信仰が急速に浸透しました。
2. 高山右近の潜伏
信仰の貫徹: 天正15年(1587年)、豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、キリシタン大名たちに棄教を迫りました。高山右近(ユスト)は、明石城主の地位を捨てて信仰を貫き、流浪の身となりました。
小豆島での庇護: この右近を匿ったのが、小豆島の領主であった小西行長でした。
右近は、宣教師のオルガンティノ神父らと共に小豆島に入り、中山地区の山奥に1年近く潜伏し、秘密裏に信仰を続けました。

影響: 右近は島を去った後も、彼らが潜伏した場所は島民の信仰のよりどころとなり、禁教時代に信仰を継続する隠れキリシタンの精神的な土壌となりました。
高山右近の潜伏地
潜伏地の詳細
右近が身を潜めたのは、島の中心部からやや奥まった、人目の少ない山間地域(中山地区、肥土山地区)です。
中山地区: 小豆島のほぼ中央に位置する山あいの地域です。棚田(中山千枚田)が有名であり、当時は隠れるのに適した場所でした。
肥土山(ひとやま)地区: 中山地区の近くにある集落で、こちらも山間部に位置します。
右近は、宣教師のオルガンティノ神父らと共に小豆島に入り、この地で約1年近くにわたり信仰生活を続けました。
小豆島では、右近が潜伏する以前から小西行長の統治下でキリスト教が急速に広まっており、右近の滞在は、その後の厳しい禁教時代に島民が信仰を密かに守り続ける精神的な支柱の一つとなりました。
小豆島とフィリピンと高山右近
小豆島とフィリピン(マニラ)の関係は、キリシタン大名であり福者(カトリック教会の聖人に次ぐ位)となった高山右近(ジュスト)の足跡を通じて結びついています。
1. 高山右近の潜伏地
背景: 1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出した後、右近は信仰を捨てることを拒み、領地(明石)を追われました。
小豆島への潜伏: その後、右近は同じキリシタン大名であった小西行長の所領であった小豆島に隠れ住みました。右近が身を寄せたのは、中山地区などの奥深い山中です。
初期の信仰: 高山右近が小豆島に滞在する以前にも、1586年にはイエズス会の宣教師が小豆島を訪れ、わずか1か月の間に1,400人もの島民が洗礼を受けたと記録されており、信仰が急速に浸透した土壌がありました。
2. フィリピンへの渡航
国外追放: 1614年、徳川家康が全国に禁教令を発布すると、高山右近は再び国外追放を命じられました。
マニラへの渡航: 右近は信仰を守るため、多くの信者と共に長崎からフィリピンのマニラへ渡りました。
殉教: マニラ到着後、右近は病に倒れ、わずか40日後に亡くなりました。カトリック教会では、迫害を受けながら信仰を貫き、追放先で亡くなったとして、2017年に福者として列福されています。
カトリック小豆島教会
カトリック小豆島教会の住所とURLは以下の通りです。
住所
郵便番号: 761-4121
香川県小豆郡土庄町渕崎甲1430番地3
電話
0879-62-0847 (通常は教区本部事務局が連絡先となります)
Webサイト
小豆島の高山右近像

小豆島にある高山右近の像は、カトリック小豆島教会の入り口に設置されています。

場所: 香川県小豆郡土庄町渕崎(土庄中央病院の隣付近)
詳細: 教会入口に設置されたこの像は、2007年に大阪教区から移設されたものです。
また、右近が実際に潜伏したとされる山間部には、潜伏の地を示す石碑が建てられています。
高山右近潜伏の地
潜伏地を示す石碑: 小豆島の中山地区(肥土山地区に近い山中)に「高山右近潜伏の地」の石碑があります。これは、右近が領地を追われた後、小西行長の庇護のもとで約1年間身を隠した場所と伝えられています。
高山右近潜伏の地への行き方
所在地: 香川県小豆郡小豆島町中山(付近)
目標地点: 別格本山 弘法の滝 護国寺へ向かう道中
アクセス目安: 草壁港より車で約30分(山道)






高山右近潜伏の地は土庄港から弘法の滝 護国寺へいく途中にある

小豆島の隠れキリシタンの痕跡写真
小豆島と天草の隠れキリシタンの関係
小豆島と天草の隠れキリシタンは、直接的な信仰共同体ではありませんが、初期のキリシタン大名である小西行長を通じて、歴史的に深いつながりを持っています。
1. 小西行長による人的な繋がり
行長の転封: 1588年、小西行長は肥後国(現在の熊本県)の宇土城主に転封となり、この際に天草諸島も行長の所領に含まれることになりました。
信徒の移動: 小西行長と共に多くの家臣やキリシタン信徒が小豆島から肥後国・天草地方へ移動しました。この移動は、小豆島の初期キリシタン信仰が天草地方へ持ち込まれる一因となったと考えられます。
2. 島原・天草一揆(島原の乱)
乱の背景: 1637年に起こった島原・天草一揆は、過酷な年貢や支配への不満が背景にありましたが、一揆に参加した農民たちのほとんどは、密かに信仰を継承していたキリシタンでした。
総大将の関連: この一揆の総大将とされた天草四郎時貞は、小西行長の重臣の遺児(子息)であったとする説が有力であり、ここにも小西氏と天草キリシタンとの関わりが見られます。
小豆島からの影響: 一揆鎮圧後、幕府の禁教政策は一層厳しくなり、特にキリシタン人口が多かった天草・島原地方の信徒は、厳しい弾圧の下で「潜伏」の道を選びました。
3. 歴史上の相互作用
禁教後の隠れキリシタン信仰の形態自体は、長崎や天草地方で独自に発展したものと、小豆島などで残った信仰とは異なります。しかし、小豆島も天草も、同じキリシタン大名(小西行長)の領地であった時期があり、その影響下で信仰が広まったという共通の初期キリシタン史を共有しています。
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(日本語版)
この動画は、世界遺産にも登録された長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産について解説しており、小豆島との歴史的な繋がりを理解する上での背景情報として役立ちます。
1637年の島原の乱後の小豆島からの移住と素麺
1. 島原の乱による死亡者数と復興政策
島原・天草一揆(1637年~1638年)は、幕府による徹底的な鎮圧によって終結しました。
死亡者数(犠牲者): 原城に籠城していた一揆勢約37,000人が、幕府軍によって全滅に近い形で討ち取られたとされています。乱の結果、島原半島と天草地方の人口は激減し、地域は荒廃しました。
復興政策: 幕府は、無人となった天草地域の復興のため、全国(特に四国、中国地方など)から農民や職人を対象とした大規模な移住(移民)政策を実施しました。
2. 小豆島からの移住者数と素麺技術の伝播
この移民政策において、小豆島(讃岐国)からの移住者は特に重要な役割を果たしました。
移住者数: 正確な小豆島出身者の統計は困難ですが、天草地方への移民は数千人規模で行われたと推定されています。このうち小豆島を含む讃岐国からの移住者が、主要な構成員の一つでした。
技術の伝播: 移住した人々は、小豆島で約400年前から続いていた手延べ素麺の製造技術(特にゴマ油を使用する製法)を天草へ持ち込みました。
素麺産業の確立: これが天草地方(現在の熊本県上天草市、長崎県島原市など)で素麺づくりが盛んになるきっかけとなり、現在の天草素麺や島原素麺のルーツの一つとなりました。
3. 姉妹都市提携(現代の交流)
歴史的な移住と素麺を縁として、現在、小豆島と天草地方の自治体は交流を深め、姉妹都市提携を結んでいます。
提携自治体:
香川県小豆島町(小豆島)
熊本県上天草市(天草地方)
提携時期: 2007年(平成19年)4月1日
交流内容: 提携の背景には、約370年前に小豆島から天草へ渡った「そうめん移民」の歴史があります。両市町は「そうめん」を共通の文化として、観光、物産、教育など多岐にわたる分野で交流を続けています。
このように、島原の乱後の悲劇的な状況が、小豆島の素麺技術を天草へ伝え、後の地方産業の礎となり、現代の姉妹都市提携という形で結実しています。
著者のプロフィール
森啓成 (モリヨシナリ)
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部マーケティング専攻。
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事(北京オフィス所長)。
その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
アメリカ、シンガポール、中国、ベルギーなど、海外滞在歴は計16年以上。
現在はBizconsul Office代表として、ビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動中。
観光庁インバウンド研修認定講師、四国遍路通訳ガイド協会会員、トリリンガル讃岐PRオフィサーも務める。
【保有資格】
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
【メディア・研修実績】
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載。
瀬戸内海放送 (KSB) 及び 岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント。
観光庁インバウンド研修認定講師として地方自治体や宿泊施設で登壇。
四国運輸局事業コンサルタント、 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド、香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験面接官を務める。
・香川県登録通訳案内士サイト
・座右の銘は「雨垂れ石を穿つ

・全国通訳案内士登録証 英語

・全国通訳案内士登録証 中国語

・香川せとうち地域通訳案内士登録証 中国語

・四国遍路通訳ガイド協会会員証

・観光庁インバウンド研修認定講師

以上
