【讃岐秘話】 阿波・讃岐の境界地域に生きた森家・八田家・永峰家・三谷家のファミリーヒストリー: アインシュタインと穴吹村 三宅家の関係 | 豊臣秀吉、仙石秀久と森権平久村 | 瀬戸内寂聴と讃岐黒羽の関係
はじめに
私のファミリーヒストリーを調査していくと、単一の「森家の歴史」にとどまらない、阿波・讃岐の境界地域に形成された複数の家々の歴史と、婚姻・血縁によって形成された地域社会のネットワークが浮かび上がってくる。
私の父系である森家は、家伝によれば戦国期の阿波水軍に由来し、江戸時代には高松藩の普請方を務めた。
一方、私の父方の高祖母・八田キヨは、徳島藩の碁浦御番所役人を代々務めた八田家の出身であり、その母方には徳島藩城内の御料理方を務め、下助任に居を構えていた生藤家につながる。
さらに、私の父方の曽祖母・永峰チヨは、讃岐黒羽の旧家・永峰家の出身である。永峰家には、室町時代の黒羽城主 永塩因幡守氏継につながる家系図が残されている。
また、戸籍謄本上、森家と黒羽の永峰家、同じく黒羽の十河氏系三谷家との間には、近代に複数の婚姻関係が確認される。
そして、森家の歴史をさらに遡るうえで重要な存在となるのが、香川県東かがわ市三本松にある勝覚寺である。
勝覚寺は、1582年(天正10年)の長宗我部元親軍との中富川の戦いで討死した板西城主・赤沢信濃守の一子・正本が父の菩提を弔うために阿波から讃岐へ移り、小砂(ござれ)に寺を開いたことに始まる。
現在の勝覚寺は三本松に所在する。『日本歴史地名大系』も、1582年の中富川の合戦で討死した板西城主・赤沢信濃守の子・正本が小砂村に小砂坊を建てたことを勝覚寺の起源として記している。 (コトバンク)
そして森家の家伝では、阿波水軍の森権平久村と赤沢氏との血縁関係を背景として、勝覚寺が高松藩森家の菩提寺となったと伝えられている。
※ 森権平久村の母は阿波赤沢一族の赤沢伊賀守の娘。高松藩 森家の先祖は阿波水軍 森家の分家と伝わる。
したがって勝覚寺は、私のファミリーヒストリーにおいて単なる菩提寺ではない。
阿波の戦国武士団、讃岐への移住、森家の東讃への定着、そして後世の高松藩森家を結ぶ重要な接点
なのである。
地理的分布:
・森家: 讃岐馬篠: 1583年、引田の戦いで森権平久村が討ち死にした後、一派の者が逃れてきた地。
・赤沢家: 讃岐小砂: 1582年、中富川の戦いで長宗我部元親軍により討ち死にした赤沢信濃守の一子が勝覚寺を開基した地。
・永峰家: 讃岐黒羽: 永峰家先祖 永塩因幡守氏継の黒羽城があった地。
・三谷家: 讃岐黒羽: 十河氏系三谷家が長宗我部元親軍から逃れてきた地。
・八田家: 阿波国浦 : 徳島藩 八田家が231年間、碁浦御番所役人を務めた地。
・三宅家: 阿波穴吹: 高松藩 森喜平の三女 森ヤスは美馬郡穴吹村の三宅勝家に嫁いだ。


・森権平久村終焉の地: 讃岐伊座: 森権平久村の墓所
・有馬氏 : 讃岐西村: 森喜平の長女 森マサは誉水村西村の有馬丑松と結婚した。

・赤沢家: 徳島県板野町 板西城主 赤沢信濃守宗伝の子孫
・三宅家: 徳島県美馬市穴吹町

高松藩 森家 略図:
菩提寺:海暁閣 勝覚寺(赤沢信濃守宗伝の一子が開基。森権平久村の母は阿波赤沢一族の赤沢伊賀守の娘。


高祖父:森喜平 (高松藩普請方。阿波水軍森家の分家)
高祖母:八田キヨ(徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲。八田家。母方は徳島藩御料理方 生藤家)
↓
長女 森マサ
夫:有馬丑松 → 娘:有馬アサノが讃岐黒羽 三谷伊之八と結婚。息子の三谷猪織の子は引田町会議長を務めた。
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長男:森虎太郎 (曽祖父)
妻:永峰チヨ (讃岐黒羽城主 永塩一族守氏継の末裔。細川京兆家家臣摂津守護代 長塩家一族)
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二女:森トヨ
夫:讃岐黒羽 三谷家 三谷磯八。三谷家は十河氏と同族でこの三谷家の先祖は、瀬戸内寂聴の先祖と同じ先祖で1584年の長宗我部元親軍による虎丸城陥落の後、讃岐黒羽へ落ち延びた三谷景則。
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三女:森ヤス
夫:徳島藩美馬郡穴吹村の三宅勝。同じく穴吹村出身の三宅速(みやけはやり)は医学博士でアインシュタインと交流があった人物)。来日時、アインシュタインは神戸オリエンタルホテルに宿泊した。後に、森ヤスの兄 森虎太郎の娘 森トメノは英語を使って大正時代〜昭和時代にかけて神戸オリエンタルホテルに勤務した。森ヤスが嫁いだ三宅家と三宅速(はやり)家の関係は調査中。


阿波水軍 森権平久村一族
↓
↓
↓
森義右エ門 (高松藩普請方)
↓
森喜平 (高松藩普請方)
八田キヨ (徳島藩碁浦御番所役人家)
↓
森虎太郎
永峰チヨ (讃岐黒羽城主 永塩因幡守氏継の子孫。永峰家東家の系譜)
↓
祖父 森静雄 1937年、日中戦争中に戦没
祖母 辰子
↓
父 西洋料理人。1956年、昭和天皇に料理献上
母
↓
私
戸籍謄本:
・高祖父 森喜平を戸主とする除籍謄本。森喜平の長男 森虎太郎が私の曽祖父にあたる。
森喜平は1864年に徳島藩碁浦御番所役人を231年間世襲せた八田家長女の八田キヨと結婚。その長女 森マサは有馬丑松と結婚、娘の有馬アサノは讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷伊之八に嫁いだ。その息子の三谷猪織の子は引田町会議長を務めた。
・二女 森トヨは同じく讃岐黒羽の三谷磯八へ嫁いだ。この三谷家の先祖 三谷景則は瀬戸内寂聴家の先祖でもある。
ちなみに笠置シヅ子さんも讃岐黒羽の三谷家の出身で生家は製糖業を営んでいた。祖父は三谷栄五郎、父は三谷陳平。分家が今も馬宿で製糖業を続けている。
笠置シヅ子さんの家系略図:
三谷四郎兵衛 (製糖業を営む豪農)
↓
三谷栄五郎(養子) 南原繁に漢文を教えていた。南原繁は後に東京大学総長になり、また笠置シヅ子さんの後援会長をしていた。
↓
三谷陳平(南原繁の幼馴染)、谷口鳴尾
↓
笠置シヅ子 (本名 亀井静子)
・三女 森ヤスは美馬郡穴吹村の三宅勝と結婚。同じ穴吹村出身の三宅速医学博士はアインシュタインと交流があった。


・徳島藩碁浦御番所役人八田家 第九代当主 八田孫平を戸主とする除籍謄本。長女 八田キヨは藩の許しを得て、高松藩 森喜平と結婚。キヨの母方の生藤家は徳島藩城内の御料理方を務めた下助任に住んだ生藤家。1641年、讃岐・阿波国境決定の会議に八田孫兵衛は境目証人として出席し、その活躍により碁浦御番所役人に任命された(鳴門市史)。

・碁浦御番所 八田家文書と阿波水軍 森家の歴史書 木瓜の香り。木瓜は阿波水軍森家の家紋。

・曽祖母の永峰チヨは、細川京兆家家臣で摂津守護代を務めた長塩家一族で、讃岐黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔。歴史書『長塩永塩一族』。永塩家は戦国時代に永峰に改姓した。

・讃岐黒羽 永峰家の西家(庄屋系)の家系図。始祖は、永塩因幡守氏継。曽祖母の永峰チヨは、永峰家東家の系譜で地主家系だった。

・永峰チヨの娘 明治生まれの森トメノは、アインシュタイン来日時に宿泊した神戸オリエンタルホテル英語を使って働き、定年まで務めあげた。

・森トメノは警察官と結婚した。2.26事件時の経験や川島芳子宿泊時の憲兵の見張り、神戸大空襲での自宅焼失の被害にあいながらも激動の大正、昭和時代を生き抜いた。下記記事の武士だった祖父というのが高松藩 森喜平、阿波浄瑠璃が上手かった祖母は八田キヨのこと。八田キヨは風流な人で春になると舟に乗って三味線を弾きながら近くの絹島に遊山にいくような人だった。

・来日時,船上で病気になってさたアインシュタインを助けたのが、同じ船に乗っていた三宅速(はやり)医学博士だった。
大正11年(1922年)、欧米視察の帰路にあった三宅速(はやり)博士は、日本に向かう北野丸の船内で、同じく訪日の途中であったアインシュタイン博士と乗り合わせた。この航海中、アインシュタイン博士が激しい腹痛(急性盲腸炎の疑いなど諸説あり)に襲われて重症に陥った。船医の手におえない中、乗り合わせていた内臓外科の権威である三宅速がただちに適切な治療と看病を行い、博士は奇跡的に一命を取り留めた。

・アインシュタインは三宅速博士の治療と看病の結果、命を取り留め、無事に神戸港に降り立った。
1922年11月17日の午後4時ごろに神戸港第3突堤から上陸した。このとき、宿泊したのが後に昭和天皇も泊まった神戸オリエンタルホテル。

・徳島県美馬市穴吹町の光泉寺にある三宅速とアインシュタイン友情の碑



・讃岐黒羽の十河氏系三谷家の三谷景則を先祖とする瀬戸内寂聴さん。

戦国時代、三谷家の本拠地は高松市三谷町にあった三谷城、王佐山城だった。

瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんの先祖 三谷景則は、1584年 (天正12年)に長宗我部元親軍により虎丸城 (東かがわ市)が陥落した後、東かがわ市黒羽(くれは)に逃れ、帰農した。
このとき行動を共にしていた十河存保(そごうまさやす)は虎丸城陥落後、豊臣秀吉を頼って大坂へ逃れた。
三谷家も十河家も元は讃岐国造の血統である植田家の分家となる。三谷家の元の拠点は高松市三谷町の三谷城だった。

三谷景則が1584年に讃岐黒羽へ落ち延び、定着した。

瀬戸内寂聴さんの家系は、屋号を甚六といい、讃岐和三盆の製糖業で財をなした家系だったが、瀬戸内寂聴さんの祖父の三谷峰八さんの代にあることがあり、工場は番頭の手に渡った。


【写真】右端: 瀬戸内寂聴さんの母 コハルと1才の晴美(瀬戸内寂聴さん)、姉の艶(つや)(真ん中)、瀬戸内いと(左端)。コハルさんは戦時中に空襲で亡くなられた。
いとの夫 傳(つたえ)は、坂出の塩田を開いた久米通賢の次男で、瀬戸内家の女婿になった。傳がクリスチャンになり、いとがそれにならった。久米通賢は代々、黒羽の隣りの馬宿に住んでいたが、通賢の生家は屋島の四国村に移転され大切に保管されている。
瀬戸内いとがクリスチャンだった為、引田の菩提寺にある瀬戸内家の墓石には十字架が彫られた下に、ヨハネ黙示録十四章十三節の「今より後、主にありて死ぬる人は幸ひなり」という言葉が刻まれている。
瀬戸内家はクリスチャンだったが、徳島市の眉山前で神仏具店を営んでいた。現在は、瀬戸内寂聴さんの姉の子孫が受け継いでいる。


1.森家――阿波水軍から讃岐へ
私の父系は森家である。
高祖父・森喜平は、高松藩の普請方を務めた人物として家に伝わっている。
森家には、さらに古い起源として「阿波水軍森家」の伝承が残る。
家伝によれば、森家は仙石秀久の家臣であった森権平久村につながる。
1583年(天正11年)の引田の戦いにおいて、森権平久村は長宗我部元親軍との戦闘で討死した。
その後、一族の者が讃岐の大内郡馬篠の山深い地域に落ち延びた。
そこでは柏の木が生い茂る山を開拓し、治水を行い、ため池を築造するなどして土地を開発し、一帯を所有した。
この伝承が示すのは、戦国期に軍事・海上活動に関係した家が、戦乱後には讃岐東部へ移住し、土地開発や治水を通じて地域社会に定着していったという歴史である。
その後の森家は高松藩の普請方を務めることになる。
つまり森家には、
阿波水軍
↓
戦国期の戦死
↓
阿波から讃岐への移住
↓
開拓・治水
↓
高松藩普請方
という大きな流れが存在する。
・高松藩森家の家紋瓦:丸に木瓜。阿波水軍森家の本家は木瓜紋、分家の高松藩森家は丸に木瓜紋。





・東かがわ市伊座にある森権平久村の墓。森権平久村は豊臣秀吉の重臣 仙石秀久の家臣として1583年、引田の戦いに参戦し討ち死にした。森権平久村の父は森村春の弟 森村吉、母は阿波赤沢一族の赤沢伊賀守の娘、兄は森村重(森甚五兵衛)。


2.勝覚寺――森家の戦国史を考える重要な寺
森家の歴史を考えるうえで、特に注目すべきなのが勝覚寺である。
現在の勝覚寺は香川県東かがわ市三本松426番地に所在する真宗興正派の寺院である。 (Geoshapeリポジトリ - 地理形状データ共有サイト)
寺伝によれば、その起源は1582年の中富川の戦いにまで遡る。
中富川の戦いでは、阿波の戦国勢力と長宗我部元親軍が戦い、板西城主の赤沢信濃守が討死したとされる。
その一子・正本は阿波から讃岐へ落ち延び、父の菩提を弔うために出家し、讃岐小砂に寺を開いた。
勝覚寺公式サイトも、赤沢信濃守が中富川の合戦で討死した後、その一子・正本法師が父の菩提を弔うため得度し、勝覚寺を開いたという寺伝を紹介している。 (真宗興正派 勝覚寺 | 香川県東かがわ市三本松)
『日本歴史地名大系』では、正本が小砂村に「小砂坊」を建てたことが勝覚寺の始まりであり、1684年(貞享元年)に三本松村へ移転して勝覚寺と称したと説明されている。 (コトバンク)
つまり勝覚寺そのものが、
阿波の戦国動乱
→ 武士の戦死
→ 遺族の出家
→ 阿波から讃岐への移住
→ 寺院の開基
→ 東讃への定着
という歴史を物語っている。
これは、戦国期に阿波から讃岐へ移住したと伝えられる私の森家の歴史と、非常に興味深い時間的・地理的な重なりを持っている。
・1582年、阿波 板野の板西城から讃岐小砂へ逃れ、父の赤沢信濃守宗伝の菩提を弔う為に大坂天満で得度し、勝覚寺を開基した。

・1583年、引田の戦いに敗れた森権平久村の一派が讃岐馬篠へ落ち延び、後に高松藩普請方として松平家に仕えた。

3.森権平久村と赤沢氏――森家と勝覚寺を結ぶ家伝
さらに興味深いのが、森権平久村と赤沢氏との血縁関係である。
森家に伝わる家系資料では、森権平久村の母は阿波の赤沢一族、赤沢伊賀守の娘であった。
一方、勝覚寺の寺伝は、1582年の中富川の戦いで討死した板西城主・赤沢信濃守の一子が、父の菩提を弔うため勝覚寺の前身を開いたと伝える。 (コトバンク)
この二つの伝承を重ね合わせると、森家に伝わる歴史像では、
阿波赤沢氏
↓
赤沢氏の女性が森家に嫁ぐ (森村吉と赤沢伊賀守の娘が結婚)
↓
次男:森権平久村
↓
1583年・引田の戦いで戦死
↓
森家一族が讃岐東部へ移住
↓
勝覚寺との関係が形成される
という系譜的・地域的なつながりが浮かび上がる。
そして森家では、これが後世の高松藩森家の菩提寺が勝覚寺となった理由として伝えられている。
ここはファミリーヒストリーとして非常に重要である。
・阿波水軍森家の歴史書『木瓜の香り』

・阿波水軍森家の家系図

・森権平久村の母は赤沢伊賀守の娘



4.「阿波から讃岐へ」という共通する歴史
ここで注目すべきなのは、森家と勝覚寺の双方に「阿波から讃岐へ」という移動の歴史が存在することである。
勝覚寺の起源は、寺伝によれば、阿波の板西城主・赤沢信濃守の子・正本が讃岐小砂へ移住したことに始まる。 (コトバンク)
森家についても、1583年の引田の戦いの後、森権平久村の一族が阿波から讃岐の大内郡馬篠へ移住したと家伝に伝えられている。
したがって、両者は、
1582年
赤沢信濃守の戦死
↓
一子・正本が阿波から讃岐小砂へ
↓
勝覚寺の起源
そして、
1583年
森権平久村の戦死
↓
森一族が阿波から讃岐馬篠へ
↓
森家の讃岐定着
という、ほぼ同時期の歴史を持つ。
1580年代の阿波・讃岐では、長宗我部氏による侵攻や戦国大名間の抗争によって、武士やその一族が居住地を変える状況が生じていた。
この意味で、勝覚寺の成立と森家の讃岐定着は、戦国期の阿波・讃岐間の人々の移動という地域史の文脈の中で理解することができる。
先に讃岐小砂に逃れていた赤沢家の存在、情報により森権平久村一派が未開であった馬篠の山奥への移住に繋がった可能性もある。当時、東讃の周辺には長宗我部元親軍の兵士が徘徊・行軍・駐留していた。
・讃岐小砂と馬篠の位置関係

5.八田家――私の父方高祖母の実家
私のファミリーヒストリーにおいて、八田家も重要な位置を占める。
八田キヨは、私の父方の高祖母であり、高祖父・森喜平の妻である。
八田キヨの父は八田孫平であり、八田家は徳島藩の碁浦御番所役人を代々、231年間、務めた家系である。
碁浦御番所は阿波・讃岐国境に位置し、通行人や物資の管理などを担った。
徳島藩には1641年の阿波・讃岐国境確定に活躍した八田孫兵衛の記録が残っており、さらに『碁浦御番所 八田家文書』という重要な史料群が残されている。
また、この碁浦御番所には測量中の伊能忠敬や久米通賢、四国遍路途中の北海道の名付け親である松浦武四郎らも訪れた。

ここでも、
阿波側の国境管理を担った八田家
×
讃岐側で高松藩普請を担った森家
という婚姻関係が形成されている。

・第九代当主 八田孫平を戸主とする除籍謄本。1641年の初代 八田孫兵衛から231年間、讃岐と阿波の国境に位置する番所で役人を代々務めた。

6.生藤家――八田キヨの母方
八田キヨの母方には生藤家がつながる。
高祖母 八田キヨの母は生藤タケ、祖父は生藤辨蔵となる。
生藤辨蔵
↓
妻: 生藤タケ
夫:八田孫平
↓
長女: 八田キヨ
夫:森喜平
という系図になる。
生藤家については、徳島藩の御料理方を務めた生藤家の一族で江戸時代、下助任に住んでいた記録が当時描かれた複数の地図に記録されている。
現在のところ、下助任に住んだ生藤辨蔵と同じく下助任の近隣に住んだ御料理方 生藤万之丞家との具体的な血縁関係については、現段階ではさらなる一次史料による検証が必要である。
・生藤辨蔵、生藤タケの記載

7.永峰家――私の父方曽祖母である黒羽の旧家
私の父方曽祖母・永峰チヨは、讃岐黒羽の永峰家の出身である。
永峰家の家系図・家伝では、黒羽城主であった細川京兆家家臣の永塩因幡守氏継が祖先となる。
さらに永峰宅本以降の系譜が伝えられ、永峰家は近世以降、黒羽地域の地主・庄屋などとして地域社会に定着したとされる。
近世以降の永峰家については家系図や地域史料が存在しており、私の父系の歴史を考えるうえで重要な家である。
・引田町人物史:
永峰家の家系図。始祖は永塩因幡守氏継から始まり、摂津守護代一族の長塩備前守又四郎元親、長塩又四郎を経て永峰宅本へと繋がる。

・永峰家は東家が地主、西家が庄屋の家系となる。
黒羽村庄屋、南野村庄屋、そして安戸村へも勢力を拡大した。

・曽祖母 永峰チヨの先祖 永峰杢左衛門。

・曽祖母 永峰チヨは永峰市次郎の長女であった。

・永峰チヨが馬篠の森家に嫁いで来ると、毎朝、引田港から新鮮な魚介類が馬篠へ舟で届けられた。


・永峰チヨと森虎太郎の娘の森ミヤコは、チヨの実家に嫁ぎ、永峰修一と結婚した。

・長塩永塩一族の歴史書


・讃岐黒羽 永峰家の系譜

8.三谷家――森家と黒羽を結ぶ婚姻関係
森喜平の二女・森トヨは、讃岐黒羽の三谷磯八に嫁いでいる。
また、森喜平の長女・森マサの娘である有馬アサノも黒羽の三谷家に嫁いでいる。
このため、森家と黒羽の三谷家との間には複数の婚姻関係が存在する。
三谷家は家伝・地域史料では十河氏系の旧武家系統として説明され、戦国期に黒羽へ移住した三谷景則につながる系譜が伝えられている。
さらに黒羽の三谷家は、瀬戸内寂聴の父系につながる家として知られている。
したがって、私の家系と瀬戸内寂聴との関係は、直接の直系血縁というより、黒羽の三谷家を介した婚姻・親族ネットワークとして理解するのが適切である。
・森喜平の二女 森トヨは黒羽三谷家の三谷磯八と結婚。

・森喜平の長女 森マサは有馬氏の有馬丑松と結婚。その娘は黒羽の三谷伊之八と結婚。その子の三谷猪織の子は引田町会議長を務めた。
森喜平 八田キヨ
↓
森マサ 有馬丑松
↓
有馬アサノ 三谷伊之八(二女の森トヨが結婚した三谷磯八の隣り)
↓
三谷猪織 ナツエ
↓
次男 引田町会議長


9.森家・勝覚寺・八田家・永峰家・三谷家の関係
ここまでをまとめると、私の父系には次のような歴史的ネットワークが浮かび上がる。

10.阿波・讃岐の境界地域に形成された家系ネットワーク
このファミリーヒストリーを全体として見ると、一つの特徴が浮かび上がる。
それは、登場する家々が阿波・讃岐の国境周辺に集中していることである。
森家は東讃の馬篠に定着した。
八田家は阿波・讃岐国境の碁浦御番所を担った。
生藤家は徳島城下の藩士社会につながる。
永峰家と三谷家は讃岐黒羽に定着した。
そして勝覚寺は、阿波の戦国武士であった赤沢信濃守宗伝の子が阿波から讃岐へ移住して開いた寺である。
したがって、これらの家々を単に「武家の末裔」と捉えるよりも、
戦国期の阿波・讃岐間の移住
↓
近世の藩領・国境社会
↓
番所・普請・専門職などの藩役
↓
地主・庄屋などの地域有力層
↓
婚姻による家同士の結合
という地域社会の形成過程として捉える方が、より歴史学的に意味がある。
結論
私のファミリーヒストリーの核心は、単に「先祖に武士がいた」ということではない。
むしろ重要なのは、阿波・讃岐の境界地域で、戦国期から近世・近代にかけて異なる役割を担った家々が、移住・血縁・婚姻によって結び付いてきたことである。
その中でも、勝覚寺は森家の歴史を考えるうえで重要な位置を占める。
勝覚寺は、寺伝によれば1582年の中富川の戦いで討死した板西城主・赤沢信濃守の一子・正本が、父の菩提を弔うため阿波から讃岐小砂へ移住して開いた寺に始まる。後に三本松へ移転した。 (コトバンク)
一方、森家の家伝では、1583年の引田の戦いで森権平久村が討死し、その一派が阿波から讃岐の馬篠へ落ち延びたとされる。
さらに森家では、森権平久村の母が阿波 赤沢伊賀守の娘であったことから、赤沢氏の子孫が開いた勝覚寺との関係が生じ、後世の高松藩森家の菩提寺となったと伝えられている。
この伝承を史料によってさらに検証することが、今後のファミリーヒストリー研究における重要な課題となる。
また、森マサと結婚した有馬氏と摂津との関係、森ヤスが嫁いだ穴吹の三宅家と三宅速(はやり)家の関係、生藤辨蔵家と御料理方 生藤万之丞家の具体的な血液関係を一次資料で解き明かしていくことが課題となる。
現時点で最も慎重かつ適切な結論は、
私の父系森家は、阿波水軍の伝承を持ち、戦国期に阿波から讃岐東部へ移住したと伝えられる。その歴史の周辺には、阿波の赤沢氏、讃岐小砂の勝覚寺が位置しており、さらに江戸時代には高松藩普請方森家と徳島藩碁浦御番所役人八田家との婚姻が成立した。そこから永峰家、三谷家、生藤家などへと家系が広がっていく。
というものである。
すなわち私のファミリーヒストリーは、
「阿波から讃岐へ移住した戦国武士・一族の歴史」
から始まり、
「藩政期の国境管理・土木・専門職・地域経営を担った家々の歴史」
へと続き、
さらに、
「婚姻によって結ばれた東讃・阿波の旧家ネットワーク」
へと発展していく。
勝覚寺は、この歴史の中で、阿波の戦国武士社会と讃岐東部を結ぶ象徴的な寺院として位置づけることができる。
そして、この寺院を森家の菩提寺として捉えることで、森家の歴史は単独の家系史ではなく、赤沢氏、三好・十河系勢力、東讃の森家、そして阿波・讃岐国境社会を結ぶ、より大きな地域史の中に位置づけられるのである。
主な史料・参考資料
1.勝覚寺・赤沢氏関係
『日本歴史地名大系 香川県の地名』「勝覚寺」
勝覚寺の起源について、1582年の中富川の合戦で討死した板西城主・赤沢信濃守の一子・正本が小砂村に小砂坊を建てたことを記載している。1684年に三本松へ移転したとする。 (コトバンク)
『日本歴史地名大系』の施設データでは、現在の勝覚寺所在地を香川県東かがわ市三本松426番地としている。 (Geoshapeリポジトリ - 地理形状データ共有サイト)
勝覚寺公式サイト
赤沢信濃守と、その一子・正本法師による勝覚寺開基の寺伝を掲載している。 (真宗興正派 勝覚寺 | 香川県東かがわ市三本松)
本山興正寺「東讃教区」
勝覚寺が真宗興正派の寺院として現在も東讃教区に属することを確認できる。 (興正寺)
2.森家関係
森喜平の除籍謄本
森虎太郎の除籍謄本
森家過去帳
高松藩森家関係資料
森家に伝わる森権平久村・阿波水軍に関する家伝
阿波水軍森家の家系図
阿波水軍森家の歴史書『木瓜の香り』
3.八田家関係
『碁浦御番所 八田家文書』
『鳴門市史 上巻』
八田家の除籍謄本
徳島藩碁浦御番所関係資料
4.永峰家・三谷家関係
『引田町人物史』
『引田町史』
永峰家伝来家系図 (永峰家 西家の子孫 永峰千歳氏が東かがわ市文化財保護協会に寄贈した家系図)
三谷家系図・家伝
『全讃史』
『増補三代物語』
『角川日本地名大辞典 香川県』
『長塩永塩一族』
5.史料批判について
本稿では、
①公刊史料・寺院資料によって確認できる事項
②家系図・過去帳・古文書によって確認できる事項
③森家・永峰家などに伝わる家伝
④現在の調査から導かれる仮説
を区別した。
プロフィール

森啓成(Yoshinari Mori)
Bizconsul Office代表
⸻
企業・自治体のインバウンド支援と、個人の語学×キャリア支援を行う専門家。
⸻
■事業領域
・TOEIC × キャリア戦略コーチング
・直島・瀬戸内 富裕層向け通訳ガイド
(全国通訳案内士〈英語・中国語〉)
・インバウンド戦略コンサルタント
(観光庁インバウンド研修認定講師)
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■経歴
米国大学経営学部でマーケティングを専攻。
大手エレクトロニクス企業で20年間、海外営業職に従事し、中国・北京オフィス所長を務める。
その後、外資系商社の設立に参画し、副社長を経て顧問に就任。
米国・シンガポール・中国で計16年間勤務・滞在し、海外ビジネスと異文化コミュニケーションの経験を積む。
現在は、これまでの海外ビジネス経験と語学力を生かし、TOEIC × キャリア戦略コーチ、企業・自治体へのインバウンド戦略コンサルタント、直島・豊島での富裕層向け通訳ガイドとして活動している。
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■ 資格
語学・教育
・全国通訳案内士(英語・中国語)
・英検1級
・TOEIC 970点(Listening満点)
・国連英検A級
・TESOL(英語教授法)
・HSK6級
・香川せとうち地域通訳案内士(中国語)
観光
・観光庁インバウンド研修認定講師
・総合旅行業務取扱管理者
・国内旅行業務取扱管理者
・国内旅程管理主任者
・せとうち島旅ガイド認定
(瀬戸内国際芸術祭2019公式ガイド)
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■ 所属
四国遍路通訳ガイド協会
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■ 登録
香川県登録通訳案内士サイト
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■座右の銘
雨垂れ石を穿つ
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■公式LINE
今、公式ラインにご登録頂いた方は特典としてTOEICのスコアアップに役立つ教材が無料で受け取れます。
以上
