隣の芝は青いから、私は赤い芝を育てることにした
私は、noteにおける自己表現を、実は我ながらそこそこ気に入っている。気に入り始めている、とも言う。
決して上手いとは言えないだろうけど、先日参加させていただいた企画では、覆面でも彩野リィだと分かる作品だったと言ってくださる方もいた。
いつか、推しへの愛を努めて冷静に書こうとして、どうしたって堅い印象のある「である調」を使ってみたら、友人がそれを「面白い」と言ってくれたことがある。だから私はずっと、この作風とも言えないスタイルを貫いている。
ただ、色んなものに触れていると、こういうのに憧れるんだよなぁ……という文章に度々出会う。
柔らかい語り口や、美しい言葉。読めばたちまち穏やかな気持ちになれる話。
そういう文章がとても好きなのだけれど、私にはそれが書けない。こういう繊細な表現をするには、もっとこうしなきゃ、あぁしなきゃ……と考えると、気が滅入ってしまう。私がいる場所は、そこからあまりにも遠いし、器も小さい。
あるいは、自分の感じた痛みをさらけ出すような、苦しみを昇華するような表現に触れるのも好きだ。その人の命を削った渾身の一作に、心が揺れないはずがない。
でも、やっぱり私には書けない。それらを書くには、私は鈍感すぎる。
私にはきっとこれからも、自分が好きな文章を書くことは出来ないだろうなぁと漠然と考える。
私が書くのは、煌びやかなジュエリーでも、精巧なガラス細工でもなく、その辺の砂場で作った泥団子だ。
手を真っ黒に汚しながら固めて、固めて、ツルッツルのまんまるにして、最後は地面に投げつけてぶっ壊す。
跡形もなくなってしまうけれど、思い出だけが頭の片隅にひっそり残る。これが様式美というものである。
綺麗なものに憧れると言いながら、結局私は「泥団子」を書いていたいわけだ。
……なんてことを、最近色んな方の記事を拝読して思うなどした。
あの人の文章は素敵だな。たくさん反響があって羨ましいな。そんなことを思っていたらキリがない。そりゃあもちろん努力は必要だけれど、どう足掻いたって、いつだって、隣の芝は青いものなのだ。
だから私は、青い芝を横目に見ながら、今日もせっせと赤い芝に水をやる。
ちなみに筆者は泥団子を作ったことがない。
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