パステルピンクの外側で
溺れるような恋ができたなら、今の自分と少しは違う人生があっただろうか。
昔から、恋愛の類にのめり込んだことがない。素敵だなと思う人が現れても、その人とどうなりたいとか、何がしたいとか、そういう想像が及ばないのだ。せいぜい、仲良くなれたら良いな、くらい。
物語の登場人物のことならいくらでも妄想できるのに、生身の人間になると途端にそれができなくなる。恋愛に関するトラウマだとか、立ち直れないほどの失恋を経験したことがあるわけでもないのに。
だから、「どうして恋愛しないの?」と聞かれるたびに言葉に詰まる。私がいるのは、その質問のもっとずっと手前だ。
学生の頃、古い友人に言われた言葉が妙に刺さった。
「社会人になっても、仕事も恋愛も両方頑張りたいの」
そんなドラマの主人公みたいな台詞を、彼女はさらりと言ってのける。何事にも真剣で、すべてを手に入れるための努力を惜しまない。自分にはないその熱量が、まぶしい。
「すごいな。私は仕事だけで精一杯になりそう」とこぼす私に、「両方充実している女性の方が、魅力的でしょ?」と、当たり前のように言った。仕事も恋愛も満たされた生活を、フィクションなんかじゃなく自分がそうなるものとして思い描く彼女。その背景には、少女漫画よろしく淡いピンク色が見える。
同時に、夢見ることすらできない自分は、何かが決定的に欠けているのだと思った。それが何なのかは、いまだによく分からない。
「どうして恋愛しないの?」という問いにしっくりくる理由を見つけることができない私は、次第に「優先順位が低いから」と答えるようになった。これはとりあえずの答えとしてはかなり優秀で、大抵の人は私自身よりもすんなりと納得してくれる。
嘘をついているわけではないけれど、本当のことを言っているわけでもない。罪悪感にも満たない灰色の感情は、いつだって私につきまとっている。
気になる人に彼女ができた時、悲しいとか悔しいとか、そういう感情は抱かなかった。ほんの少しザラついた気もするけれど、兄弟に恋人ができたらこういう感覚なんだろう。それを友人に言ったら、不思議そうな顔で「それって好きだったんじゃないの?」と言われた。 確かに好きだったと思うけれど、たぶん私の「好き」は友人の感覚よりもよほど浅い。
でも、友人が言うような「好き」だったんだとしたら。私は深入りして傷つくのを怖がっているだけなんじゃないか。だから「兄弟に恋人ができたら」なんて架空の前提まで持ち出してごまかしているんじゃないか。もしそうなら、自分はなんて情けない人間なんだろう。
そうして私は、“モテないキャラ”を通すようになった。一体何に対して見栄を張っているのだろう。けれど、最初から宣言しておくと土俵に上がらずに済むから楽だった。誰の一番にもならないし、一番を選ぶこともしない。この実に自己都合的な博愛主義は、私を正当化してくれた。
“モテない女”のボヤきをつぶやくだけのTwitterアカウントを運用していたこともある。改札前のカップルが邪魔だとか、彼氏がいたら勝ち組って何なんだとか。それはもうネガティブな言葉で濁りきったアカウントだった。
大喜利のようなことをしたり、お題を出されて短歌を詠んだこともある。
重いもの持てるだろうと手渡され 可愛い子には持つよと言うのね
重たい荷物をつい1人で運んでしまう自分への「なんだかなぁ」という気持ちを込めたつもりだったのだけれど、これは嫉妬深い一首として反響を得た。みんな面白がってくれているし、こういうのは弁解すればするほど分が悪い。なにより私自身が“キャラ”を楽しめるようになっていたから、放っておくことにした。
すっかり“キャラ”が定着しても、「どうして恋愛しないの?」という問いが止むことはなかった。そんなの、私が知りたいのに。どうしてみんな、恋愛をする前提で話をするんだろう。
恋愛のことはよく分からないままだったが、心から好きになれる“推し”はできた。CDを聴き、ライブ映像を見て、その魅力にずぶずぶと沼り、気付けば懸命に追いかけていた。初めて友人に連れられてライブに行った時は、“推し”がリアルに存在する事実に呆然とした。目の前のステージに立ち、その身体から声が発せられている。今までに味わったことのない高揚感だった。人を好きになるってこういう感覚なのかもしれないと、初めて感じることができた。
もっと推しに会いたい。その一心で、怖いと思っていたライブハウスにも足を運んだ。一人で遠征に行ったこともある。行く先々で私は、黄色い歓声を上げた。推しが存在する景色を目に焼き付け、推しと同じ空間の空気を吸いたかった。たった1人の存在で、人の行動はここまで変わるのか。我ながら呆れるほどの心酔ぶりである。
ある日、“推し”の結婚が発表された。
芸能人が結婚すると、相当数の嘆きを目にする。私はそれを「ファンなら推しの幸せを祝うものなんじゃないの?」と思っていた。
しかし、いざ自分がその立場になると、上手く呼吸ができない。こんなはずじゃなかった。私なら、さらりと祝福の言葉が言えると思っていたのに。「お幸せに」とフリック入力した親指は、震えが止まらなかった。入力した文字列の鮮やかさとは裏腹に、私の視界はじわじわと色褪せていく。手の届かない存在であるはずの“推し”に夢を見てしまっていたことにようやく気付き、愕然とした。こんなにも、のめり込んでいたなんて。
それから日を空けずに友人たちが開いてくれた飲み会で、私は久しぶりに終電を逃した。
その後、“推し”から離れたかというと、そうではない。むしろ逆だ。どれだけ推しのことを好きになろうと、私は推しの“外側”にいられる。もう推しとの“何か”に夢を見なくて済む。これでようやく純粋なファンになれた、そんな気がした。
社会人になると、恋愛のことなんて考える余裕がないほど日々の仕事に忙殺された。考えなくて良いうえに、学生時代と比べて詮索されることも随分減った。誰かの結婚報告があると「次はあなたかな?」なんて言われたりもするけれど、「この仕事していたら、そんな余裕ないじゃないですか」と、もっともらしい返しができるのも良い。
前に勤めていた職場を辞める時、「“彼”と結婚して寿退社するのかと思った」と言われた。それも一人ではなく、複数人から。
“彼”というのは、同じ部署にいた先輩社員のことだ。しかし、私と先輩は付き合ってすらいない。確かに先輩とは仲が良い方だったと思うけれど、ただそれだけ。先輩から下心を感じたこともない。それがとても楽だったし、安心して頼ることができた。社内恋愛の末に結婚している人を何組も見てきたけれど、まさか自分がそう見られていたなんて。
確かにこれがドラマだったなら、王道な展開が待っていることだろう。私だって、一視聴者として期待する。クールな先輩と熱血な後輩が、時にぶつかり時に助け合ううちにいつの間にか……みたいなやつ。そういうストーリーは大好きだけれど、ここは現実。先輩はあくまで先輩だし、私はただの後輩だ。聞こえてくるのはラブソングじゃなくて電話のコール音の合唱。背景は築年数を感じる無骨な白い壁で、甘いパステルピンクからはほど遠い。
周囲から浴びせられる好奇の目に戸惑い、頭の中は「?」でいっぱいになったが、その答えはどこにも見つからなかったし、誰も教えてくれなかった。
唯一の救いは、周りからそういう風に思われていたことに気付いたのが、退職の直前だったこと。もっと早く知っていたら、おそらく私は先輩を遠ざけてしまったに違いない。おかげで先輩とぎくしゃくすることもなく、きわめて穏便に会社を辞めた。
物事にははっきりさせなくて良いことだって、ある。そのはずだ。そうじゃないのなら、この気持ちは一体、どう説明すればいいのだろう。
優しくされれば人並みにときめくし、楽しく話せる人も、ごはんをおいしそうに食べる人も、笑わせてくれる人もみんな好きだ。
けれど、もっと深く好きになることができたなら、その先には何が見えるのか。
私はまだ、その景色の外側しか知らない。
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