第三章|引き受けるということ
思考には、
必ず行き先がある。
それが言葉になる前でも、
結論が出る前でも、
どこかに、
置かれている。
AIと一緒に考えるとき、
その行き先は
とても分かりやすい。
対話のログとして残り、
整理された形で提示され、
「ここまで考えました」と
示される。
そこに不安は少ない。
けれど、
AIがいない場所に戻ったとき、
その思考は
どこにあるのだろう。
画面を閉じたあと、
誰がそれを
抱えているのだろう。
引き受ける、という言葉は、
少し重たく聞こえる。
責任、という言葉も、
構えてしまう。
でもここで言う引き受けは、
正しさを保証することでも、
失敗を避けることでもない。
ただ、
その考えが 自分の中に残っているかどうか。
それだけ。
AIは、
考えを助けてくれる。
整理し、
言葉にし、
形にしてくれる。
けれど、
その考えを
自分のものとして
保持することまでは
引き受けてくれない。
それは、
AIが冷たいからではなく
役割が、
そこにないだけだ。
責任は、
誰かに叱られるために
生まれるものではない。
後から説明できるように
するためでもない。
責任とは、
抜かれたあとに 残る場所のことだと、 わたしは思う。
AIがいなくなっても、
その考えを
もう一度辿れるか。
言葉がなくても、
感触として
思い出せるか。
もし、
何も残っていなかったとしても、
それを恥じるのではなく
ただ、
その思考は
まだ引き受けられて
いなかった、
というだけ
引き受ける覚悟、
という言い方。
ここで言う覚悟は、
強く決意することではなく
抜かれる前提で
考えること。
抜かれたあとも、
もう一度
立ち上がれるように
構造を感じておくこと。
それが、
人が引き受けられる唯一の部分だと感じる。
AIと考えること
委ねることを
そして、
どこまでを 自分の場所として 残すのか。
その線を
自分で引くこと。
それが、
責任の正体なのだと
わたしは感じています。
