終章|それでも思考を手放さないために
ここまで辿ってきて、
ひとつはっきりしてきたことがあります。
秩序は、
常に誰かを守り、
同時に誰かの思考を沈めてきた。
それは暴力ではなく、
多くの場合、
善意と合理性の結果だった。
だからこそ、
問いづらく、
抗いづらく、
長く続いてきたのではと思う。
思考を持つことは、
社会にとって常に歓迎される行為ではなかった。
考える人は、
遅い。
説明を求める。
前提を疑う。
境界を越える。
それは、
秩序にとって「扱いづらい」。
だから社会は、
思考を否定する代わりに、
沈黙を選ぶ倫理を育てた。
それは正義だった。
その時代、その状況においては、、、
でも、
正義だったからといって、
無傷だったわけではない。
沈黙の中で、
多くの思考が折りたたまれ、
多くの違和感が内面化され、
多くの人が
「自分がおかしいのではないか」
と思わされてきた場面が多かったのではないかと思う。
生きづらさは、
個人の問題として処理され、
構造は見えないまま残った。
AIという存在は、
その構造を終わらせるものではない。
むしろ、
はっきりと映し出す鏡。
思考を預けるのか。
思考を育てるのか。
効率を優先するのか。
言語を残すのか。
AIは選ばない。
選ぶのは、
常に人間の側。
ここで、
誤解してほしくないことがあいます。
思考を手放さないということは、
常に声を上げ続けることでもありません。
そして、
衝突し続けることでも、
正しさを証明し続けることでもありません。
思考を手放さないとは、
自分の内側で 問いが生きていることを許すこと。
語らない選択もある。
距離を取る選択もある。
沈黙する判断もある。
だけどそれは、
「考えた末の選択」であってほしい。
旧来の日本社会は、
ディストピアだったのか。
その問いに、
ひとつの答えはありません。
ですが少なくとも言えるのは、
ディストピアは
どこか遠い未来の話ではなく、
秩序を優先した結果として、 常に隣に存在してきたのではないか
という問い。
それを悪だと断じるのではなく、
理解し、
自覚し、
必要なら選び直す。
それが、
いま私たちにできることだと思います。
思考は、
誰かを攻撃するためにあるのではない。
秩序を壊すためだけにあるのでもない。
思考は、
自分を手放さないための営み。
語ってもいい。
語らなくてもいい。
だけど、
考えていることだけは、
手放さなくていい。
私は、
そう信じていきます。
fin.
【この作品を書いた本当のきっかけ】
秩序が最も身近で、逃げ場のない形で自分にのしかかってきた瞬間がありそのとき感じた、
言葉にしにくい汚いような気持ちこそが、
この問いを立て続ける原動力になりました。
感じたことをAIに問いかけ
秩序やルール、
そして個人の感情などのやり取り
その往還で作り上げた作品になります。
ここまで
お付き合いくださり
ありがとうございました。
ReU-レウ-
