ダイナミックプロ作品における「リョウ(竜馬)の法則」と「ゲッターロボの血脈」
さて、二回に渡り東映版と漫画版の話筋を考察した。
ここまでの時点で「ゲッターロボはリョウ(竜馬)が友を愛した」物語であるというひとつの結論が見えた私は違和感に首を傾げた。
デビルマンとガクエン退屈男(正確にはバイオレンスジャック)に同じ設定を持つ人物がいることを思い出したのである。しかも、愛称か漢字が同じで。
*この記事には様々な石川作品や永井作品のネタバレ、しかも核心部分が含まれる
【最初の違和感の裏付け】
ゲッターロボの企画は73年末、大急ぎで膨らませたものだとは各所のインタビューから読み取れる。漫画版デビルマンの連載が終了、単行本が発売されたのは同年であった。
漫画版デビルマンは後年追加エピソードや続編も描かれていったが、私が読んだ限りの最初の本編(電子書籍版)だけであれば、最後までの内容を踏まえて冒頭を説明するなら
「飛鳥了(リョウ)が無自覚に友を愛していたがために、同じ地獄に引きずり込む」
というように読めた。
流竜馬と神隼人は初期設定における「流竜乃進」と「犬神隼人」の性格などを綺麗に入れ換えて成立したキャラクターである。
これに伴い、「リュウ」であった愛称は「リョウ」となった。
……この時に、同じ愛称である事からデビルマン「飛鳥了」(リョウ)の成分が混入した可能性はないだろうか。
隼人に「明」の要素はないだろうと思っていたのだが、名前の元ネタに疑っているキャラクターの名前にウルフガイシリーズの「犬神明(神明)」というものがある。
設定を膨らませている最中にこれらが繋がり、裏設定として「リョウは友を愛している」とされなかっただろうか。
もしくは、実は最初からそうであった、とか。
「リョウが無自覚に友を愛していたがために、同じ地獄に引きずり込む」
東映版、漫画版共に、隼人をゲッターロボに乗せたのは流竜馬(リョウ)である。
DVDBOXブックレットの初期設定では三人はミチルに好意を持って早乙女家に入り浸り、ゲッターロボとも最初から関わりがある設定であったらしいことも気になる。
学年誌などはこの設定で、私はどうして原典となる二作品の導入はこれでなかったのか不思議だった。こちらの方が自然だろう。「わざわざ変える」とは意図的である。
また、初期のリョウのモミアゲと目が飛鳥了に似ていて、校舎での隼人はお顔が一定していない。良く見れば隼人の特徴的な前髪もこの時点では明確に描かれていない場面があり、サバトでの明の表情に似ているものもある。
ギリギリで入れ替わりが起きたという状況証拠は複数ある。そのために一定しなかった可能性もあるが、リョウだけの時には「リョウ」の、隼人だけの時には「明」の記号を持たせ、二人が揃ってからはその記号を入れ換えることで彼らのモチーフと関係性を示唆していた可能性もあるだろう。
最終的には飛鳥了の外見は隼人へ、リョウは不動明の外見で描かれるようになったのではないだろうか。
*この隼人に移行された記号表現は美形記号として石川作品全体で通して使用されている。同時に
流竜馬記号→重力という理に逆うような髪の毛、もみ上げ。太くギザギザな眉
神隼人記号→理に逆らわない髪の毛、もみ上げ。細い眉。
言えば外はねと内巻きの傾向が基本となっていて、前者は枠や運命に抗う個人を重視するタイプ。後者は枠や運命を受け入れその中で最善を尽くすタイプ。
「エンマさま」というデビルマン冒頭を思い起こさせる言葉をリョウと隼人が作中使っていたことも頭に残っていた。
デビルマンならサバトへの扉を開けた時、ゲッターロボならクラゲに突入する時の台詞が「地獄への案内人はリョウ」と読める。
飛鳥了の愛情は一方通行であった(明は了に深い友情は持っていたが、ミキを愛していた)こと、東映版では隼人のたった一人愛するものは亡き母かミチルと示されていること、漫画版においても隼人には婚約者がいたことから、「リョウの向けた愛情は一方通行であった」という共通項がある可能性もある。(隼人側からも確かに友情やそれ以上のものは描写されており、相思相愛でもあるが釣り合っていない可能性があるというか。リョウからの重さが頭ひとつ抜けているというか)
これらに気付き意識して漫画版を読んで見ると
・そもそも恐竜帝国の元ネタがデーモンである可能性が高い
・飛鳥了→流竜馬、不動明→神隼人でのオマージュが散見される
・というか、漫画版ゲッターロボ自体が一種反転させた「デビルマンの再構成」ではないか
と見えてきた。この「もうひとつのデビルマン」としてのゲッターロボについては別途記事を書いた。
また、ガクエン退屈男での身堂「竜馬」は門土に深い愛情を向けていたとはあまり思えなかったのが、バイオレンスジャックの展開において「友を愛していた」という設定を持つことになる。
このバイオレンスジャックの展開、調べたところ74年以降の疑いがある。
飛鳥了→流竜馬で「竜馬(リョウ)は友を愛していた」となった設定が、同じ名前という繋がりで更に身堂竜馬に影響してしまった可能性はないか。
(「後の門土は竜馬が作り出した理想の姿だった」も「流竜馬の写し身、半身が愛する友」からの影響がないか)
これであるならばその設定が追加された後の漫画版號で、隼人の髪が伸び、黒スーツ(黒は明の色なので元から使われていたが)であったのも「三泥虎の助」の外見を取り込んだからではなかろうか。
【「リョウ(竜馬)の法則」成立の時系列推測】
ガクエン退屈男:1970年2/17号~9/22号
魔王ダンテ:1971年~(掲載誌休刊)
デビルマン:1972年25号~1973年27号
マジンガーZ:1972年~1974年
バイオレンスジャック(週刊マガジン):1973年~1974年(東京滅亡、関東スラム街、黄金都市)
ゲッターロボ~G:1974年~1976年
(石川先生が入ったのは73年末、4月開始)
魔獣戦線:1975年~1976年
グレートマジンガー:1974年~1975年
バイオレンスジャック(月刊マガジン):1977年~1978年(門土編、鬼相撲、地獄の風、疾風ドラゴン)
バイオレンスジャック(週刊ゴラク):1983年~1990年(スラムキング以降)
真・魔王ダンテ:1994年(作画は風我明)
デビルマンVSゲッターロボ:2010年
魔王ダンテVSゲッターロボG:2011年~2012年

さて、何故そうなってしまったかの推測には1970年まで遡る。
この年、石川先生はダイナミックプロから一度離れるのだがその直前まで連載し、主要アシスタントとして関わった作品のひとつが「ガクエン退屈男」であった。
この作品における石川先生の比重は高かったようで、石川先生の離脱に伴い連載は終了とされたらしい。
「ガクエン退屈男(70年)」は当時全盛期であった学生運動を背景に、武力と暴力でもって抑圧する権力者と、それに反抗すると言う大義名分を掲げて好き勝手に暴れたいだけの大衆を真っ向から痛烈に批判した「最初から最後まで理性の無い世界」の物語である。
(これはこの後の「魔王ダンテ」に続く一種の「善悪の反転」「既存概念の破壊」でもあろう。終盤になって美醜についての話が展開されるが、理性の働きには真偽や善悪の他、美醜の判断が含まれることがあるとも踏まえて読んでみてほしい話である)
この中で、門土には「ケダモノ」という言葉が使われるが、一方の竜馬は「ニセモノ」であった。
身堂「竜馬」は三泥虎の助そっくりに作られた人造人間である、という設定が存在した。
石川先生が離れ、永井先生の初めての連載ストーリー漫画となった「魔王ダンテ(71年)」では「善悪の反転」を描き、道半ばで打ちきりとなったが、神と現人類こそが悪であったという結末までの中に、既に「強大な力を制御するのは人間の意思である」「理不尽に一方的に弱者を蹂躙するものへの怒り」という描写がみられる。
この最終的に神と人類に反旗を翻した主人公の名前は宇津木椋(リョウ)。
この「魔王ダンテ」をベースのひとつとして描かれたのが「デビルマン(72年)」である。
(これに関しては永井先生が当時を思い出して描かれた「激マン! デビルマン編」でもデビルマンが連載するまでの経緯で触れられている)
おそらく同時に連載していた「マジンガーZ」もこの流れにあった。「強大な力を制御するのは人間の意思である」他、頭脳=パイロットであり、ロボットが拡張された巨大な身体であることなどが共通する。
ここで「魔王ダンテ」から「デビルマン」と「マジンガー」の二軸に分化したのではないか。
「デビルマン」の中では主人公不動明と、その親友であり神に反旗を翻した魔王サタンである飛鳥了(リョウ)が描かれた。
飛鳥了は両性を持つために不動明を愛してしまった。彼をデビルマンにしたのは、この物語の全ては、明を愛してしまったことが始まりだったと後半になって読み取れるようになる。
(永井先生にすらも予定外だったのだろう)飛鳥了の愛ゆえに始まった物語は「途中から理性が失われた世界」となり、「世界は滅び、愛した明が死に、リョウ一人しか残らなかった」。
力がすべての世界は一番強いものしか残らない。そしてその最後に残った一人もまたさらに強いもの(神)によって滅ぼされるだろう、そう暗示して本は閉じる。
デビルマンは72年から73年にかけて連載された。
この73年、ダイナミックプロには既に「ゲッターロボ」の企画が持ち上がっていた。
石川先生が永井先生に呼ばれこの企画に参加するのは73年末のことであり、その時には既に初期案や主要スタッフは揃っていた様子がゲッターロボ大全のインタビューなどに言及がある。
永井先生は最初から「バイオレンスジャック(73年~)」をスターシステム、厳密には「自作の主人公を並列させる形式」を取り入れた作品にするつもりだったのではないだろうか。
既に存在していた、しかし企画段階にある「ゲッターロボ」初期案における「流竜之進」を翻案し、この主人公に据えた可能性がある。
これについては上記リンクの入れ替わり考察記事にまとめている。
*これに関しては調べ考えるうちに「ゲッターロボ初期案を元にした、翻案したものがバイオレンスジャックだった」のではないか、という疑いも持っている
そして73年末、石川先生が合流し、翌年4月から放映となる「ゲッターロボ」の企画の詰めが行われた。
そして、ここのどのタイミングかで「サッカー選手で描けないから、空手にしていいか」という打診が石川先生から行われた。この事は大全のインタビューなど複数媒体に記載がある。
時期としてはこの前後に流竜馬と神隼人の設定も入れ替わったのではなかろうか。
元々恐竜帝国はデーモンをベースとして設定が考えられていた。
そして、この入れ替わりを機に最初に書いた連鎖が起こり主要人物の二人にも色濃く「デビルマン」の要素が混入した。
もしくは、実は最初から「反転デビルマン」として飛鳥了を主人公に、不動明をその友人に据える形でイメージしていたものを、性格を入れ換え表面上は元の形(不動明が主人公で飛鳥了がその親友)に近く戻ってしまった。
そして、流竜馬に「飛鳥了」の一番重要な核であった「友を愛している」という設定は残ったか、追加されたか。
流竜馬→飛鳥了の核+不動明の性格╱思考と外見特徴
神隼人→不動明の核+飛鳥了の性格╱思考と外見特徴
*おそらく飛鳥了が所持していた両性と美少年設定は外見特徴と共に隼人に行った。後年隼人が三泥虎の助も取り込んでの女性紛いの美形になっていくのはそのためであろうし、けして人物像が女性的ではなかった事もあり設定が反転して無性に近くなったのでもないだろうか。
同時に、流竜馬は自認識が完全に男性のまま、友を愛する設定ともなり、これが恋愛感情ではない愛情に繋がったかもしれない。
*不動明の核は以下の台詞にあったのではないだろうか。
「デーモンの意識をおさえる強い意思」「善良で純粋な心を持ち!」「正義を愛する若者」
経緯はともあれ、結果的にこのようになった。同時に名前が変わったことで
「ガクエン退屈男」の身堂「竜馬」=三泥虎の助も混入した。
身堂竜馬→流竜馬「竜」=「虎」神隼人←三泥虎の助
という構図もここで生まれた。
ガクエン退屈男は「最初から理性が存在しなかった世界」である。
デビルマンは「途中から理性が失われた世界」である。
ならば、「最初から最後まで理性がある世界」は?
これが「ゲッターロボ」となったのではないだろうか。
「理性、他者を思う心、その極致である真の愛情を持ったリョウ」の物語として。
話は永井先生に戻る。
「バイオレンスジャック」は続いていた。しかしこれら諸事情で完成した「流竜馬」の要素の中に重要でありながら「逞馬竜」に入れられない要素が生まれてしまった。
「リョウ(竜馬)は友を愛している」という設定である。
そこで永井先生はもう一人の「竜馬」、身堂竜馬にこの設定を持たせることとした。そしてその愛する対象を早乙女門土とした。
(恐らくこの際二人ともを、ゲッターロボの流竜馬と神隼人の反転存在として構成し直したために彼らの過去設定や人格が変わっているのではないだろうか)
こうしてバイオレンスジャックにおける名コンビが生まれた。
ただし、彼らは「真の愛」を知らない。
(原作となる「ガクエン退屈男」でも「愛されることを当然とし、欲するだけ欲して真の意味では誰も愛さなかったから愛されなかった」と竜馬と三泥との過去などから解釈できる)
これが終盤における悲劇的な展開に繋がったのではなかろうか。
*この辺りは調べていくと後年の逞馬竜の描写に友を愛していたと取れるものがある事も調べるうちに聞いていて、そもそもバイオレンスジャックという作品自体が永井作品でのゲッターロボ位置だったか、最終的にそうなったのでは? とも思っていたりもする。
先に、調べ考えるうちに「ゲッターロボ初期案を元にした、翻案したものがバイオレンスジャックだった」のではないか、と記載したがそうであるならば尚更でもある。
その場合、「個人」を重視する協調性のゲッターロボとは相補関係になる「枠」を重視する協調性と言えそうでもある。
ただ、半分ほどとその結末を読んだ現状、気になっているのは「最後まできちんと人の手で終わらせることができなかった」そこに生きる人々を置いて神の戦いで決着がついてしまったように感じる点である。
余談:石川作品内や石川作品と永井作品における「相補関係」
この「相補関係」(最終的な着地点や結論、思想としては同じだがアプローチの方向性が逆みたいな。通常、別側面からの主題の強化として使用される)は石川作品と永井作品ではそこかしこに見られる。
竜馬↔隼人
(個人の権利や尊厳を守るために社会という枠が必要という結論は二人とも持っているが、個人を重視するのが前者、社会や世界を重視するのが後者)
ゲッターロボ↔虚無戦記(同上)
ゲッターロボ↔バイオレンスジャック(逞馬竜の話を中心に考えるなら多分同上。ただし、きちんと人の手で終わることができなかった点を含み、古典的聖書構造の話であるとして、善なる独裁を前提にする相反関係とも解釈はできると思う)
ゲッターロボ筋↔マジンガー筋
(前者は個人の自己選択から始まって世界や社会の存続になるが、後者は血縁などの言いつけを守る=正義とか世界を守るとかの枠から始まり、最後にその絶対の存在を失って自立する)
ゲッターロボ↔ガクエン退屈男、漫画版デビルマン、極道兵器(これらは「心を失った必然として食いあって滅んだ」場合において相補関係になる。「心を失っても悪くなかった、滅ぶはずがない」というと相反関係になり完全対立する)
など様々な形で見られるようにも思う。
この相補関係としての対存在、その関係性を前提に換骨奪胎した作品はダイナミックプロに限らず数多いし、ゲッターロボのダイナミックプロ未監修派生作品群というのは恐らくこれら(+後述する石川作品内の関係性)を前提にしている。
大問題なのがやりきらなかった(また人物や作品の核となる部分も存在しない)ことで相補関係ではなく相反関係と読み取れてしまうことである。
着地点、結論、核の部分が同じであるなら「ゲッターロボ」と言えたものが、よりにもよって「例え外見は同じでも中身が違うものはその人物ではない」と再三しつこいほどに描かれ続けた石川賢作品代表格である「ゲッターロボ」という作品でやってしまったことで、原典と未監修派生作品群の両方に誠実に向き合おうとすればするほど「着地点、結論、核が違うのだからゲッターロボではない」と私は言うしかなくなってしまっている。
こうして「ゲッターロボ」をブリッジとしてダイナミック作品複数にまたがって「リョウ(竜馬)」という名前を持つ人物に「リョウ(竜馬)は友を愛している」(おそらくこれには「その愛した友とは何らかの形で半ば同一人物である」も含まれた)という設定が付加されることとなり、後年にまで継続したのではないだろうか。
そうなると気になるのは「はじまりのリョウ」である「魔王ダンテ」の「宇津木椋」であっただろう。
こちらも後年のリメイク作品「真・魔王ダンテ」でBLっぽい要素が付加されていたらしいと情報提供があった。
調べてみるとリョウの名前こそ変更されているものの、「ダンテと同じ容貌を持つ神の子」が存在している。もしかしたらそういった形で本筋からは異なる別作品内に取り込まれていたのかもしれない。
また、私には気になっていることがある。
石川先生の没後、永井先生がゲッターロボとデビルマン、魔王ダンテとのVS作品を描かれている。
デビルマンはゲッターロボのベースとなった作品である。
魔王ダンテの方では「リョウの入れ替わり」という話が展開されているとも目にした。
これらは、永井先生から読者へのヒントではなかっただろうか。
*マジンガー筋とゲッターロボの関係性はこちらに少し別でまとめている。
宇宙円盤大戦争を通してグレンダイザーとなったゲッターロボの子がマジンガー筋に養子として入ったのではないかという話。
また最後に少し触れているが、では本来のマジンガー筋はどうなったかというとグレンダイザーと対存在となっている鋼鉄ジーグに行っていたのではないかとも思う。
なので派生作品でゲッターロボ筋が本来の内容ではない同調性と社会進化論に乗っ取られ、本来の多様性と協調性、ダーウィンの進化論の筋はマジンガー筋と鋼鉄ジーグに移動→マジンカイザーSKLと鋼鉄神ジーグになっているのではないかと。
この考察はあくまで一個人の推測、仮説にすぎない。我がことながら好き勝手言ってるだけである。
50年にも及ぶあまりに膨大な関連作品や資料を全て自分で読んだわけではなく信憑性も薄く、こうして筋道立てて説明することだけで現状は手一杯で、これに説得力を持たせるためには膨大な永井作品と石川作品からまずはリョウ(竜馬)という名前を持つ人物がこの4人以外に存在したのかどうかから調べる必要がある。
確証もないままにあまり好き勝手言うのは私の望むところではないし、これらの根になるのは土足で踏み込んでいい話でもないのではないかとも感じる。
そのため、明確な誤情報の指摘などがあればそれは訂正をしたいし、情報があれば個人的に考察をしてみたいとは思うが、今川監督作品(チェンゲやGガン)、川越監督のダイナミックプロ派生映像作品全般の考察にも大雑把にはここまでで十分であろうし、この全体での関係性についてはこれ以上きちんとまとめることは無いだろう。
(庵野監督作品もそうなのだけど、エヴァとかRe:ハニーとかシンシリーズの全体像とかにも関係する部分含めるともっと複雑に他作品の説明が必要になる)
この記事自体の信憑性なども含めて、読んだ方々に自分で考えていただきたいと思う。
この設定がダイナミック作品全体に存在しているのならば、絶対に動かしてはいけなかったのだろう核も見えてくる。
何せたったひとつの愛称からここまでその核は変わらず広がってしまったのだ。
飛鳥了から「友を愛している」という設定はオミットしてはいけなかった のではないだろうか。
流竜馬はこれをオミットしても「ゲッターロボの核は三つの心である」ので、こちらが揃っていれば「ゲッターロボ」足りうる(のだが、しかしなぜかこれすら公式監修が入らないとまともに描けていない)だろうし、身堂竜馬もこの設定が追加されたのは「バイオレンスジャック」以降の話なので「ガクエン退屈男」の軸でやればいい。
しかし、飛鳥了のこの設定は「デビルマン」という作品の動機から最終的な結論にまで繋がる設定である。
これをオミットするくらいならば「リョウ(飛鳥了)」の名前などつけるべきではないというくらいの重要設定ではないだろうか。
また、この「名前」が設定に深く関与したであろう推測からは、「名前とは個を定義するものである」という考え方からすればダイナミック作品(特に石川先生の作品の流れ)全体が「外見ではなく、その本質」を重要視したのではないかとも考えられる。
*この辺永井作品を読んでいくと、明確な核、魂のようなものがが「飛鳥了にしか存在しない」感覚もあり、彼以外は「名前(と状況)でそれと規定される」のかもしれないという疑いも持ってきた。
魂+肉体=個(名前)として、石川先生は魂に、永井先生は名前に比重があるというか。
だから石川作品はなんだか魂が別人として転生を繰り返してる雰囲気があり、永井作品は名前同じだけど全部別人みたいな。
少なくとも永井先生と石川先生は文章で考えるタイプだったというか。
正直、両先生はデザインや彩色がいつどの作品においてもどうも一定しない。「言いたいことが伝わるのが優先」タイプであったらしく、石川先生などは髪型や髪色までも示唆のために頻繁に変えて描いている。
あくまでも両先生方(特に石川先生)にとって外見は「記号」でしかなかったのかもしれない。
……それにしても得意な話筋も反対だし、不思議なほどに正反対な先生方である。
【その後のゲッターロボの血脈について】
ガクエン退屈男、魔王ダンテ、マジンガーZ、デビルマン、バイオレンスジャック、そしてゲッターロボ。
イメージの連鎖を繰り返し、石川先生の元で完成した「ゲッターロボ」はアニメと同時進行であった事もあるだろう石川先生の代表作となった。
そして、石川先生はこの「ゲッターロボ」で成立した記号、並びに人物の核と関係性を後年まで使い続けた。
わかりやすいところだと「魔界転生」や「柳生十兵衛死す」の主人公「柳生十兵衛」は大体流竜馬(一部神隼人や巴武蔵混じり)の転生体のようなものと思っていいだろう。外見や性格が相当似ている。(流竜馬の血筋は時代物の主人公に多く、現代に生きるには向いていない人物と石川先生は考えられていたかもしれない)
そしてリョウと隼人の関係性とゲッターロボを素地に翻案して違う作品を作ってもいたのだろう。
そのひとつがゲッターロボ連載開始翌年に始まった「魔獣戦線(75~76年)」。
デーモンは十三使徒、新人類として再構成され、それと人間の間となる「魔獣」がデビルマンであっただろう。
「流竜馬は神隼人を愛している」「この二人は正反対の半ば同一人物である」この設定を翻案し
流竜馬→赤い竜→黙示録の獣╱新約聖書におけるサタン
飛鳥了=サタンをベースとしているなら最初から意識されていただろう過程を辿って「慎一」となり、
神隼人→神(より正確に言えば神の子)→聖母マリア
と、性別を変えて「真理阿」となった。
そして三人目が「富三郎」。
これの裏付けとしては慎一の宿す動物が鷹・ライオン・クマとゲットマシンの名前を想起させるもの、「三人」を強調される天涯のおじいちゃんの台詞などがある。
慎一の服装の顔に巻かれた布や指先までの包帯、「獣」という言葉から慎一のモデルは「記憶喪失時の流竜馬」であり、「記憶=理性╱愛を失ったリョウ╱慎一が隼人╱真理阿と出会いそれを取り戻す話」という解釈もできよう。
同時に、そのラスト「神の一族が死んで悪魔が残り、神に向かう」に分かりやすいが、ゲッターロボと同じ「もうひとつの反転漫画版デビルマン」でもあろう。
*この辺は少し気になることがあって、なんだか幼少期の境遇・裕福な家の息子や、母親への思慕など、リョウよりも隼人の要素に思える。
どうもこれ
流竜馬→飛鳥了の核+不動明の性格╱思考と外見特徴
神隼人→不動明の核+飛鳥了の性格╱思考と外見特徴
から
慎一→流竜馬+神隼人の境遇・元来の性格の繊細さ
真理阿→神隼人+流竜馬の境遇・芯の強さやタフさ
みたいな感じでまた部分的に入れ替わっている印象を受ける。
結果的に、慎一さんは「友を愛している」核を持った不動明、真理阿は「世界のために身を犠牲にする」飛鳥了(反転女性版)という趣というのが一番近いのかもしれない。
また、慎一さんの容姿が「バイオレンスジャック」のジャックと印象も被った。
ジャックの正体が明かされるのはこの随分と後になるのだが。
*余談になるのだが自分用のメモとして。
グレンダイザーのグレース・マリア・フリードの元ネタはこの真理阿ではなかっただろうか。
初登場が76年9月、この回の脚本家はゲッターロボも手掛けた田村氏であり、名前、「おじいちゃん」、予知能力といった共通項が存在する。またパイロットスーツのデザインやバイクは隼人からであったかもしれない。
そもそもグレンダイザーという作品自体にアニメ製作主要スタッフが同じであったゲッターロボの影響が強い可能性も高い。
普通に自分で描く分には隼人位置は女性の方が描きやすかったのかもしれない。
しかし同時に、隼人位置を女性変換すると「半ば同一人物→かつて同じ╱ひとつだった女性」「主人公がこの対象に抱くのは恋愛感情ではない」という点から宿命╱運命的な繋がりを持つ相手というよりは「母親」によってしまうのかもしれない。
なんにせよ結果、隼人とは似ていない人物像となったが元にした本質の部分は同じであろう。
また、この核は同じはずなのに似ていない理由として、彼らの元となる不動明の描写から「彼らがデビルマンとなるには『死(の恐怖)』をスイッチとする」と解釈するならば、死を目前にする前の彼らはデビルマンとなる前の元来の性格ということになり、魔獣戦線本編での真理阿の性格などはそれを前提にしたものだったのではなかろうかという仮説を持っている。
真説で真理阿の人物像が隼人や後述の禍の楓などに近く変化していればこれの裏付けとならないだろうかなどと考えているが、未入手であるため憶測の域を出ない。
この真理阿に強く出ている「隼人の本質を持つ人物を女性変換すると変質してしまう」というのは、リョウの血筋は他作品に多く見かけるのに、隼人顔はいても立ち位置や人物像が似通った人物があまり見当たらない要因でもあっただろう。
(この辺は双方の血筋で要素が混在していることが多いこともあろうが╱十兵衛なんかも割りと混在している)
真理阿の系譜ならば多く、魔界転生のお品、魔空八犬伝の伏姫など実質的に主人公と同じ存在である女性が該当する。
隼人顔は石川作品における知的美形の記号の塊であり、それだけならよく使われるが、先の核となる設定の他「味方側」「男性」「最後までいないといけない」といった要素を全て満たすような人物を「描く必要のある」物語を石川先生は描かなかったので、必然的に見かけないのではないか。
(隼人の「外見だけ」を持つ人物は裏切り、憎悪対象となり、最後には死にがちであるのも本来の逆の特徴であり少々気になる。分割された「虎の助」存在だろうか)
そして、この「魔獣戦線」の続編を求められて石川先生が描いたのが「5000光年の虎(81年~82年)」となる。
ここでは主人公の「虎」は「竜の息子」とある。お顔立ちとその一文からして、流竜馬の系譜であることをそうして示している。彼らの系譜は「命や権利を踏みにじられることに怒りをもって抗う」などの共通した特徴を持つ。
(先に隼人の記号が「虎」であった可能性を書いたが、リョウと隼人は半ば同一人物であるため彼らの記号要素は混合や入れ換えで使用することも多かったことを踏まえればここに「虎」を使うことも不思議ではない)
「虎」があるのならば「竜」もあるべきだろう。
これが「虚無戦史MIROKU(88年~90年)」ではないだろうか。ベースにしたものはゲッターロボよりも山田風太郎先生の作品の方が強いと思うが。
「5000光年の虎」から始まり、後に「虚無戦記」と纏められる作品群は、結局描いていることがゲッターロボと同じであることに気づいた読者はどれ程いるのだろうか。恐らく石川先生はゲッターロボの再構成として魔獣戦線を描き、更に再構成として「5000光年の虎」をそしてそれ以外のSF的な作品を描き、この三つの筋は「似通った内容を持つ」「別個で成立した」物語となった。
こうして石川先生の代表作である「ゲッターロボ」「魔獣戦線」「虚無戦記」が出揃う。
この三つの世界はゲッターロボを起点に生まれたパラレル世界であったのではなかろうか。
そして、99年から刊行された双葉社コミックスでの編集作業を経て、最終的には「デビルマン」の「神」を
意思を持つ生命エネルギーの総体「ゲッター線」(科学ベース)→ゲッターロボ
キリスト教的な「神」→魔獣戦線
仏教的な「仏」→虚無戦記
と解釈してまとめられた三つの世界ではなかっただろうか。
もしこうであったなら虚無戦記の「虚無」とは「なにもない」「空虚」「無意味」の意味だけではなく
③ (何もないの意から) はてしなく広がる大空。空中。虚空(こくう)。
④ 中国で、老子の説いた説。天地万物の本体は認識を超えた形状のないものであるとする、有無相対を超越した境地。
これら特に④の「天地万物の本体」をも指した言葉であったかもしれない。
この三つのパラレルワールドとでも言うべき世界達は、(私は未読なので断片的情報からの推測にすぎないが)後年の「真説・魔獣戦線(02年~04年)」によって、「この三つの世界の先にあるものは同じ(時天空)」として、更に大きな枠組みで纏められることとなったのだろう。
なので、虚無戦記とゲッターロボ世界は同じではないというゲッターロボ大全での石川先生の言葉はその通りだし、どれかの読解に際しても基本的に他のものは全く必要がないということになる。
*そもそも虚無戦記やゲッターロボサーガという括りは90年代末期の双葉社全集で唐突にわいたものであって、そこでわざわざ括っているものを以前から繋がりのある世界のつもりで描いてたとか言うのは少々難しい話でもあろう
オマージュ作品であるデモンベインを知っているなら各世界がループのないクラインの壺と思えば近いだろう。ただし、おそらく本来はどれも「厳密に言えば誰かによって意図的に進化先を操作されている世界ではなかった」。
虚無戦記世界観に関して言うなら、そもそもあれは個人で帰結した「ゲッターロボサーガ」とは相補関係にある対の話筋で、大目的を世界の存続において枠を重視する話であったのだろう。
いずれすべてを滅ぼす事しか知らない自称神に対抗するため、その力を手にする手段として「進化」(多様性からの変化と分化)に全てを賭けた。
少なくともMIROKUを読む分には、種を蒔いたら後は信じて見守るのみくらいの本当に本気の大博打。
そのため、大枠で見たところで「踏みにじられたものたちの闘争」の物語となるのではないか。
(ただどうも引っ掛かっているところはあって、人類はやがて「征服する」という単語を終盤弥勒が使っている。彼らは最後まで大義名分に頼らず、自立した理性を、他者を尊重する心を保てていたのだろうかと不安になっている部分はあり、私個人の判断としては全容も読めていない現状色々と鵜呑みにして問題はないとは言い切ることができない)
どうもアーク世界(「ゲッターロボサーガ」ではなく、チェンゲ、ネオゲから続く未監修派生作品筋にあるパラレル世界と思われる)は「進化」を「進歩」と勘違いして単一先鋭化に走り、結果「大いなる意思」という創造主による壺毒となっているようなそんな印象もある。
目的は手段を正当化するわけではなく、命を道具として扱うことは許されない。悪は悪でしかないのだが、大目的(大義名分)のために他者を蹂躙することを厭わなくもなっている……むしろそれは虚無戦記における絶対悪、「神の軍団」に近いのではないだろうか。
「ゲッターロボサーガ」には虚無戦記と関係のありそうな描写はなかった。精々、このアークにおける「アーク・キリク・カーン」という機体の名前程度であったはず。
それらの要素が強く付加されているのは漫画版「アーク」の後となる、OVA「新ゲッターロボ」とアニメ版「ゲッターロボアーク」となる。
重ねて言うが、「ゲッターロボサーガ」と「虚無戦記」は別の世界の話であり本来は関係がなかったのである。
関係があるのは、未監修派生作品筋世界観だけではないだろうか。
また、ゲッターロボ號の終盤におけるゲッター線と人類の関係性を翻案したものが「フリーダーバグ(98年~99年)」(そのため、アークにおいて逆輸入されたと考えられる)
おそらく「バトルホーク(76年~77年)」も原型はゲッターロボの三人。
この作品では次女に思いを寄せる敵という、後の號の翔とシュワルツの原型のような存在も描かれている。
反転ゲッターロボ號が「極道兵器(96年~99年)」。
岩鬼はお顔を見る限りベースが號であるがその内面は反転しており、「鬼」という悪を表す名前を持ち、その目の描き方は理性がない状態が多く、あるのは稀である。
この岩鬼に「地獄を見せる」のが「赤」尾「虎」彦でこれが隼人、岩鬼が思いを寄せるなよ子は翔の翻案であろう、名前に三がつく手下を信じて命をかける際には正気の目をしている辺りにここは譲れなかったんだなと微笑ましくもなった。
病院で襲撃を受けるなどのシチュエーションも漫画版號の展開の逆転だろう。
そしてそうであるなら岩鬼は「理性の無いケダモノ」であるがために、最終的に周囲全て食って唯一の存在に至るゲッペラー相当存在であろうことも容易く想像はつく。
(ネオゲの號はとてもこれに近い)
魔獣戦線の翻案が「禍(00年)」。
禍と楓の関係性が慎一と真理阿に通じる。
なお、「流竜馬」の血筋でもゲッターロボと魔獣戦線が強い存在はなぜか巨体になる傾向がある。
記憶喪失のリョウ≒慎一が持つ「明確な理性を後から獲得する」文脈はムサシが持つものともなる。1≒3。
そのため、三号機乗りの存在が薄かったりいない場合(漫画版號の再登場時のリョウも該当する)に、ゴリラ(猿╱大雪山での台詞)か熊(ベアー号)でムサシの記号を取り込んで巨体と化していたかもしれない。
もしくは機体=3と解釈(ムサシはゲッターロボを愛していて「ドラゴンを残した」。この解釈はトップをねらえ!のガンバスターとかデモンベインにも似ている)して、すべて繋がるから巨体となるし「胸に2血筋を入れる」とか。
ゲッターロボアーク(01年~03年)と真説・魔獣戦線(02年~04年)の二作品についてはチェンゲ(98年~99年)や魔獣戦線OVA(90年)がベースのひとつと思われる。
と、まあ、意識して読んでみればやたらに翻案というかゲッターロボとその直系である魔獣戦線を要素のひとつにして再構成しているものが多いのである。(そしてその二作品は元がデビルマンでもある)(他にも幻魔大戦とか山田風太郎作品とか西遊記とか諸々が各作品ごとに入り交じっている)
一度設定や話筋、シーンを文字情報に落として、描かれた記号などを見れば、何をベースにしているのかはわかりやすくなるかと思う。
この翻案、再構成(=換骨奪胎)が多いというのは石川先生が多作であった由縁のひとつかもしれない。別作品として通用するレベルで再構成した自作のパラレル二次創作と言えばわかりやすいだろうか。
その二次創作のさらに二次創作などの形でも続けていたのだから始点と終点を見れば全く別物にもなるであろう。
しかし複数作品で微妙な同一性を感じたり、奇妙な統一感を覚えた方が私以外にもいるのならそれはこれらに起因していると思われる。
石川作品にはなにを書いても最終的に同じような結末になる、デビルマンから逃れられていないなどという評価も見受けられるが、そもそもにして最初からデビルマンやゲッターロボを翻案したものを描いていたのだから必然でもあろう。
(作家としての石川先生が空恐ろしいのはそうして描いたものが全て独立した別作品としてきちんと成立するほどの構成力や発想を持っておられたことでもあろう。脳内にあるそういったイメージを人物の表情やポーズ付け、コマ割、台詞などの漫画という媒体が持つ構成要素全て使って示唆し続けることもだが)
同時にこういった事は実は「本人も意識せずに起こることも多々ある」。正直「結果的にそうなっているっぽい」という話であることはご注意願いたい。
石川先生はなにを描き続けていたのか、というひとつの答えもここにある気がしてならない。
最後に、私がとても気になっている恐らくは「リョウと隼人の直系」であった二人が存在する作品の話をしよう。
前述の通り、神隼人の存在は真理阿となってその核、魂を受け継がれていった。そのため、彼の外見を持っていても、その魂まで揃って受け継がれる存在は非常に少なかった。
しかし、珍しいことに、外見が明らかにリョウと隼人の系譜であり、少なくともセット運用を前提とされていただろう人物達が出ている作品があるのだ。
それが「戦国忍法秘録 五右衛門(06年)」
五右衛門→やること目茶苦茶なゴリラだが、お顔や性格は明らかにリョウの血筋
半蔵→外見と性格が隼人血筋
石川先生の逝去により絶筆となってしまった作品である。
この二人をセット運用前提で描いていたのだろう。五右衛門と半蔵は本人達が知っているかいないかは別として特殊な関係性にあるという示唆が作中に存在している。
半蔵は五右衛門と二人で行動し始めると一人称と口調が変わっているようだし、ぱっと読んだだけでは気付かないが、五右衛門は半蔵を大事に思っているような描写もある。
扉絵で五右衛門の背中にアークが描かれていたり、気に入らないものは「喰っちまう」気に入ったものは「懐にいれる」傾向があるのも気になる。
まあ漫画版のリョウと隼人が好きなら読んで損はしないだろう。
作者様ご本人執筆リョウと隼人の時代劇パロ感覚で読める作品がなんと電子書籍440円(ただし絶筆)(あとリョウ位置の五右衛門が半蔵と頭ひとつ分くらい違う巨漢)。
もしも石川先生が本当にそのつもりであったのなら、この物語の最後はどうなっていただろうか。分類するなれば恐らく虚無戦記の軸に入っていただろう、しかしその主人公達は大元のゲッターロボの血が色濃い作品。
「時天空」という大枠を見せた後の作品でもある。石川作品世界の全てを包括して全容を見せてくれていたのかもしれない。
などと妄想は広がる一方ではあるが、そんなことは華麗にぶん投げてなにも考えずに読んでも気軽に楽しめる血みどろ活劇なので、この記事を読んだ方には是非お読みいただきたい。
