『はなざかり』
あらすじ
少年は春が大好きでした。春も少年のことが大好きでした。しかし少年は春のことをよく知りません。桜の魅力に囚われて、少年は危ういその樹に近づいてしまうのです。
本文
少年は黄色い通学帽子一杯に桜の花弁を集めておりました。放課後の裏庭で数人の友人と遊んでおりました。放課後に遊ぶのは毎日恒例のことでした。しかし今日は校庭でドッジボールやサッカーをするわけでもなく、ただひたすらに桜の花弁を集めておりました。
この裏庭が一番綺麗に桜が咲いております。花弁の絨毯に寝転がってみたり、集めたのをふわっとばら撒いてみたり。人はあまり来ませんので秘密基地のような気持ちで密かに遊んでおりました。
ランドセルは皆そのあたりに投げっぱなしです。
夏になると少年たちはここで虫取りをするのです。ですから場所の勝手はよく承知しておりました。今日は春真っ盛りでございますので、無邪気に、児童文庫の冒険物語のつもりではしゃいでおりました。花弁まみれの泥団子を作ったりなんかして、それを投げて制服のポロシャツを真っ茶色にしたり、きっと家に帰るとお母さんに怒られるのでしょうが、遊んでいるうちはそんなことも気になりませんでした。
学内で遊ばない日の放課後は、近くの公園でゲーム機を持ち寄ったり、ベンチでカードゲームをしたりするのですが、なんだか今日はこれが楽しかったのです。
互いに笑い合って、その声に呼応するように風が吹きました。花弁がひらりひらりと少年たちを歓迎するように舞い落ちて、それは少年たちのランドセルに着地しました。
そういえば少年は、今年まだ家族とお花見をしておりませんでした。毎年この時期になると、隣町の大きな桜並木でお花見をするのです。早くしないと散ってしまいます。お父さんのお仕事がお休みの日をまた尋ねなければなりません。
さて、どうして桜はこんなにも美しく咲いているのでしょう。
少年は不思議でなりません。
美しいから、少年は帽子に桜の花弁をたくさん、たくさん、入り切らないぐらい集めたのです。
去年行った家族でのお花見の記憶が蘇ってきます。親戚の叔父さん叔母さん夫婦もいて、特に叔父さんは酔っ払っておりました。今日は車を運転しなくていいからと大酒を飲んでいました。叔父さんは職業柄運転がとても上手なため、一族の頼りになる運転手でした。少年のお父さんやお母さんは忙しく、構ってくれない日も少なくありません。けれども叔父さんに頼めばどこへでも連れて行ってくれる。そんな親戚でした。
去年の桜の様相は思い出せませんが、ぼんやりと、春がやってきて賑やかだったことは覚えております。
叔父さんがなにかひとつ言っておりました。
「なあ、どうして桜がこんなにも美しいか、教えてやろうか。俺は知っているんだ、オマエも気になるだろう?」
うん。と少年が答えて、叔父さんはビールをぐいっと飲みました。
少年は叔父さんのこういった夢の膨らむ空想話が好きでした。少年は面白い妄想をするのが好きなのです。
「何、簡単なことさ。他の樹木とは蓄えている養分が違うんだよ。アンタはまだ子どもだが、大人になるときっとその正体がわかる。……いや、大人にならずともわかるさ。春を好きでいればな」
叔母さんが「何を馬鹿なことを教えようとしてるんだい」と呆れた様子で、これ以上話はしてくれませんでした。再び春に直面している今こそ叔父さんの言う理由が知りたくてたまりません。
他の樹木と蓄えている養分が違う。桜専用の肥料があるのでしょう。それは市販でも売られているのか、或いは妖精さんなどが運んでくるのか少年には区別がつきませんでした。けれども桜専用に肥料が売られていたり使われている様子は見たことがありません。ですがこんなにも桜の美しさに魅了されるからには何か秘密があるに違いありません。
お父さんは春が一番好きな季節だと言っていました。社会人としては大変忙しい季節だそうで、確かに少年も学年が変わると慌ただしいです。新しい教科書や勉強道具すべてに自分の名前も書かなければなりませんし、お母さんも小学校の用意で忙しそう。ですが、やはり日本人。桜予報があるように、ひとひらの薄春色でも心は色づくのです。
下校の音楽が流れました。
放送委員がアナウンスします。
「下校の時刻になりました。教室、廊下、階段、運動場など学校に残っている児童のみなさんはすみやかに下校しましょう」
じゃあそろそろ帰ろうか。
先生に怒られる前に。
また明日。
また明日。とそれぞれ帰りの準備を始めます。
皆は集めていた花弁を捨ててしまいますが、少年は大切に持って帰ることにしました。この帽子の中には神秘が詰まっていて、少年は心躍らせながら大切に抱えました。いつもは登下校の際この黄色い帽子を被らねばなりませんが、今日は特別です。
正門まで駄弁って歩いて、手を振ってそれぞれの帰路につきます。
帰り道の通学路に大量に積もる桜を踏みしめました。足裏の感触がなんだかしっとりしているような気がします。時たま花弁も綺麗に揃って開花している桜が落ちていて、少年はその場でお辞儀するようにして拾いました。
しかしランドセルが閉まっていなかったようで、ランドセルがぺらりと開き、少年の頭にくっついてしまいました。散乱した教科書やプリント、筆箱など。新学期の新しい白さがこれでは汚れてしまいます。
急いで片付けなきゃ。少年はしゃがんで手を動かします。
花弁の絨毯に広がった教科書などを拾い集めます。でも少し桜がついてしまっているのを、少年は一切憎めませんでした。パッパッと土を払って、ランドセルに詰め込み直します。
ふわりと風が吹いてまた花弁がひらり舞い落ちて来て、開けているランドセルの中にも、ひらり。少年はクスッと笑ってしまいました。
さっさと片付けてお家へ帰りましょう。
少年はランドセルを背負い直して、帽子にあつめた桜を再び手に持ちました。
この桜、これをお母さんに見せたらどんな反応をするのでしょう。お母さんも春になると、少年が一年間無事に過ごしたことや成長したことにお祝いをします。その日はうんと少年が好きな料理を作ってくれます。
お母さんも春が好きに違いありません。お母さんもきっと春を待ちわびていて、ようやく花開いた季節を喜んでいるはずです。少年はお母さんに早く会いたくてたまりませんでした。
近くの公園も桜が満開の様子で、その公園の真ん中には大きな桜の樹がどっしりと根を構えておりました。特等席のブランコは、おそらく低学年の子たちが遊んでおりました。やはりというべきか皆春が楽しくて仕方がない様子で、絶えず笑い声が聞こえてきます。
宿題やった? やってない。昨日のもやってない。音読はやったふりしてる。
などといった会話も聞こえてきました。
しかしその中にスーツ姿の男性がその樹の下にぐったりと倒れ込んでおりました。身なりはかなりきっちりしており、浮浪者とも思えません。この辺りは治安も良い街ですので、そもそも怪しい人影に出会うことは一切ありません。地域の見守りもありますし、その方々の顔ははっきりと覚えております。
この時間、この付近にスーツ姿の男性が歩いていることは普通ありませんので、一体どうしたのでしょうか。力なく樹木に身を任せております。
ただそのぐったりとした顔色が樹の影のせいかひどく悪そうに見えました。スーツから覗かせる肌は枯れたような色で、あまり人間の皮膚の色とも思えません。
少年はそれよりもお母さんに桜を届けたくて仕方がありませんでした。
自宅はこの先の商店街を右に曲がって突き抜けたところです。八百屋さん、魚屋さんなどに軽く挨拶して歩きます。
「今日はえらく良いものを持ってるね」
近所に住んでいるおばあちゃんが通りがかって少年に話しかけてくれました。
「うん。桜」
「綺麗だねえ。今が一番綺麗だ。持って帰るのかい?」
「うん。お母さんに見てもらうの」
「そうかい。喜んでくれるといいねえ」
少年は小走りで家に向かいました。
家の鍵はかかっていないようで、少年は勢いよく扉を開けました。乱暴に靴を脱ぎ捨てて、廊下をドタバタと走り、お母さんのいるキッチンまで向かいました。
「お母さん、見て」
家に帰るとお母さんはお夕飯の準備をしており、茶色いエプロンの後ろ姿でした。
「おかえり。なあに、どうしたの?」
お母さんは野菜をトントンと切っておりました。
少年は大切に抱えて帰ってきた春でいっぱいの帽子をお母さんに渡しました。
お母さんは少しビックリしたようにその帽子を受け取りました。
「まあ、今日はこれもお夕飯に使いましょうか」
お母さんは笑顔でした。
やっぱりお母さんも春が好きなのです。少年はそう思いました。
少年も笑顔で頷きました。
桜で食べられるとすれば桜餅ぐらいしか思いつかない少年ですが、一体どんな料理を作ってくれるのだろうと、今日のお夕飯は一層楽しみです。できれば少年の苦手なニンジンなどは一緒に使ってほしくないのですが、最近は我慢すると食べられるようにもなってきました。少年も大人の階段を少しずつ登っております。
手洗いうがいをして、母親の作る料理の匂いを嗅ぎながら、いとこのお下がりの古い携帯ゲーム機で遊び始めました。宿題はやりたくありません。明日の朝出さなければなりませんので、まあ、お夕飯を食べてからやろうという算段です。漢字ドリル、算数ドリル、音読。あ、今日もらったプリントをお母さんに渡さなきゃと、少年はゲームを置いて、玄関に投げっぱなしにしていたランドセルからプリントを取り出します。
お母さんは料理中ですから、食卓の上に三枚のプリントを置きました。
「あら、ありがとう。でもランドセルは自分の部屋に片付けときなさいね」
少年は気だるげに返事をして、ランドセルとゲーム機を持って二階の自室へ上がりました。制服のブレザーをハンガーにかけて、少年は自分のベッドに飛び込みました。
そこで起動しっぱなしのゲームをまた再開します。
少年が生まれる前のゲームです。その荒いポリゴンは時間を忘れさせてしまいました。今流行りのゲームソフトなんかはあまり買ってもらえませんでした。ですから色んな親戚からのお下がりだったり、友達から貸してもらったりでいつも遊んでおります。最新機器を持っていないわけではないのですが、今は昔のゲームに夢中でした。
こうして少年はいつも宿題をギリギリまでやらずにいるのです。
お母さんが階段を上がってくる音が聞こえます。
「ご飯できたわよ」
部屋に入ってきたお母さんに「もうやめなさい」とゲームを取り上げられてしまいました。「宿題もまだなんでしょう」と痛いところを突かれました。
「セーブだけさせてよ」
「駄目。明日早起きできるなら返してあげるわ」
少年は朝に弱いのです。
少年は渋々承諾して階段を降ります。二人分の食事が食卓に並んでおり、お父さんの分は冷蔵庫です。
いつも通り夕飯の時間にお父さんは帰ってきません。同じ時間にご飯を食べたのはいつが最後でしょうか。せめて春が終わる少年の誕生日には早く帰ってきてほしいものです。
お父さんは少年が眠る頃にようやく帰って来ます。少年は自室のベッドにいても、お父さんが帰ってきたら必ず下まで降りて出迎えます。いつも遅くてすまないねと、毎日の会話はそれぐらいですが、少年はお父さんのことが大好きでした。
ですので「お父さんの帰りを待とうよ」なんて言ってみるのですが「そうね。きっと喜ぶわ」と言った後に「お父さんはその気持ちだけで嬉しいわ。でも今日は帰ってこれないみたいだから、お母さんと一緒に食べましょう」と、お母さんは席に座りました。
やはりお仕事が忙しいのでしょうか。少年は今日の桜を自慢して、今年のお花見の日程を決めたかったのですがこれでは仕方ありません。
今日はお皿の上が薄春色で満開でした。少年は、自分が採ってきた桜を使ってくれたのだと嬉しくなりました。いつもより豪華な料理に少年は心躍らせます。
桜のサラダ、漬物。「でもたくさん採ってきてくれたから、お母さんハンバーグにしちゃったの」とお母さんは言いました。少年がフォークをハンバーグの真ん中にぐいっと差し込み、左右に肉を開いてみると、確かにこれは桜でありました。花弁に肉汁が染み渡りとても美味しそうです。
少年はパクっと大きな口で食べて、ほっぺたが落ちそうでした。次から次にフォークをハンバーグに刺して、珍しくサラダもたくさん頬張りました。こんなにも美味しい食事は初めてです。やはりこれが桜が特別である所以でしょうか。少年は病みつきになってしまいました。
あんまりたくさん食べようとするものですから、お母さんは自分の分も半分あげたのでした。
点けていた楽しいテレビ番組は終わり、ニュースが始まりました。水色を背景にして男性キャスターが淡々と最新ニュースを読み上げます。お花見シーズンで街が賑わっている様子は先ほどのバラエティで放映されておりました。今度は何やら不穏なニュースのようです
変死体。
殺人とも自殺とも見分けがつかない変死体が発見されたニュースでした。
少年は驚いて箸が止まりました。お母さんは「気味が悪いわね」と別のチャンネルに変えました。次はクイズ番組でした。まだ小学生の少年にはクイズ番組の問題にはわからないことが多くて、あまり真剣に見ることはありませんでした。それよりも録画のアニメがいいとせがんで、少年は昨日習い事に行っていて見られなかったアニメを視聴し始めました。
「ほら、よそ見してこぼさないの」
お母さんはティッシュを取って少年の食べこぼしを拭き取りました。少年は視線をテレビに移したまま、美味しいご飯を食べ続けました。そして今日学校であったことをお母さんに喋るのです。いつものように。
たくさん食べてたくさん遊んで、この子は良く育ってくれるでしょうと、お母さんは笑みをこぼしました。少年はお母さんが笑っているから、何故か自分も嬉しくなりました。
アニメは流行りのスポーツアニメの新シリーズでした。そのアニメの中でも新学期が始まり、少年と同じ季節を歩んでいました。
ご飯を食べ終わると食器を流し台まで運んで、アニメの続きを見終わるとお風呂に入って寝る準備……いえ、宿題の時間でした。
「今日は本当にお父さん帰ってこないの?」
少年は訊きました。
「ええ。なんだか忙しいみたいよ。……ほら、音読済ませちゃいなさい」
少年は国語の教科書を開きました。
まだ折り目も書き込みもないその教科書の、最初のページ、最初の物語を音読し始めました。
夢を、見たのです。
日中うんと走り回って遊んでいた少年は、自分の思うより早く眠りました。うとうとする間もなく深い眠りに、沈むように眠りました。起きて毛布の感触がいつもより過敏に感じられて気色が悪く、さっさと起き上がりました。
いつも夢の内容なんて起きれば忘れてしまうのです。大抵何も覚えてなんかいません。覚えていたとして、精々学校に行くまでにはもう記憶から無くなってしまいます。
少年が朝起きて、それもお母さんに起こしてもらうこともなく目覚めて。朝のアラームも、鳴る随分前に止めて。冷や汗がビッショリ。こんな目覚めは初めてでございました。
寝起きの少年はひどく恐ろしい気持ちに支配されてしまっていたのです。
なんだか心にべっとりと張り付く感じがするのです。少年は背中を壁にぴったりとくっつけていないと安心できません。
寝坊でお母さんに急かされない朝は本当に久しぶりでした。叩き起こされて、遅刻するよ、ゲーム取り上げるよと言われるのが常でした。渋々起きて寝ぼけ眼で朝ごはんを食べ、時たまカットフルーツが小皿に盛られているのにお母さんの愛情を感じていたのでした。
今日はそんなお母さんの声ひとつすらも聞こえないのです。
静まり返る家。
普段ならあり得ません。
少年は呼吸を整えて、パジャマから制服に着替えます。上を脱いで、下を脱いで、肌着を脱いで。足首に、痣。やはり。
少年は夢の中で足を掴まれました。
何かの手によって。手の指の痕が、起きて尚その足にあるのでした。
足ばかりではありません。腕にもその痕が伺えます。赤紫の痣となって少年の肉体を蝕みます。まだ体毛も生えていない柔らかな肌に明らかなる異変が訪れました。
少年は夢の中で暗闇を歩いていました。
小学校の黄色い通学帽子を逆さにして何か器のようにして、歩いていました。
帽子の中身は空っぽでした。
枯れた樹々の間を歩いていました。
遠足のような心持ちで誰かと歩いていたはずでしたが、はぐれてしまったのか、そこには誰もいませんでした。誰と歩いていたのかはわかりません。いつの間にか目の前には誰もいなくなってしまいました。少年はぬかるんだ足元も気にせず歩き続けます。ずるっと滑って転びそうになりますが、着地した左足で何とかまた足を動かします。
樹々はざわざわと少年を噂しているようです。そして少年が前に進み続けるのをじっと、よそ者を見張るように監視します。少年は迷子になって知らない街に来てしまったかのような感覚でした。
少年は目の前の一点をずっと見つめて、樹々に誘われるがままずっと進むのです。持っている帽子の中に灰色の枯葉がひらりひらり舞い込んで来ます。溜まったそれを少年は捨てるでもなく、むしろ大切にして持っておりました。
すると辿り着くのです。少し開けた場所でした。少年はほっと一息ついて、大きな岩があったので少年はそこに腰を下ろしました。ここはどこかの知らない墓場のようでした。
墓場は黒ぐろとした朧がかかっていて、鮮明な景色ではございませんでした。
少年は目を擦りますがむしろより一層視界が悪くなってしまいました。
昨日公園で見た、ぐったりとした男性もそこにいたような気がします。男性は墓石を背にして、頭から肩までが真っ黒に侵されてしまっておりました。やはり顔は伺えず、スーツの袖から覗かせている時計のみが光り、皮膚はやはり人間の色をしておりませんでした。
なんだか、見たことがあるような。
少年は、この男性は確かに昨日見た方に違いありませんでしょうが、もっと身近な誰か、知っている人のように思われました。
ただこちらも夢の中、肝心なところが思い出せないのです。
少年は帽子を常に手に抱えていたはずでしたがもう見当たりません。通学帽子を失くしてしまってはもう誰に見つけてもらえるやら。もしこの黄色い帽子があるならば先生に見つけてもらえる可能性だってあったことでしょう。はぐれてしまった友達も、もしかしたら。少年は身に覚えのない友達を思い、その別れを心から悲しみました。
皆どこにいるのでしょう。
ここからどうやって家に帰ればいいのでしょうか。道もわからなければここがどこかすらもわかりません。わからないということだけが鮮明で、無暗にまた樹々に飛び込もうにも樹々の緊張が少年をそうさせません。墓石は何も語りません。頑固なまでに沈黙を貫き、その無機質さが更に少年を恐れさせます。
もう一度右を向くと、例の男性もいなくなっておりました。
ざわめき、それは一層音を加速させます。段々大きく、少年の耳をつんざくほどの声量に。いつしか絶叫に変わります。少年の耳に届くのです。何かの、叫び声が。
声はどうしてこんなにも苦しみ、少年に助けを求めるというのでしょう。少年は憐れみながらも孤独と恐怖に泣き喘いでおりました。
お父さん! お母さん! 一体僕はどこにいて、どこに帰ればいいのでしょう。……少年は頭を抱えひどく苦しみながら両親を想います。頭がズキズキと痛み、少年は頭の血管が破裂してしまいそうでした。聞こえてくる絶叫に合わせて少年もまた喉を忘れて叫びます。
少年は気がつきました。声は墓の下から聞こえてくるのではございません。樹の根本が揺れていておかしいのです。この下から、何やら這い出ております。
少年は樹のその、人間の腕が伸びているような、根、それから目を逸らせないのです。
少年は逃げようとします。座っていた大きな岩からお尻を浮かせて、気づかれぬように。そっと少年は動き出します。
さっきまで騒がしかったのが嘘のようにピタッと止まってしまいました。
気付かれた。
騒音が原因だった少年の頭痛も突然治り、少年は脱力してしまって黒々とした土の上に倒れ込みました。全ては掌の上です。
目の前に人の手が見えます。根から這い出てきた手。少年に近づこうとしている、手が。
逃げなきゃ。
そう思って少年はばっと立ち上がり、どこへ向かうかもわからぬ足を動かします。
手が! 少年を。何か、少年を追い求めて。這い出して。
駆け出した少年の足首を掴みます。少年はまた後ろに引き摺られてしまって、身体も操れずに頭から地面に叩きつけられます。うつ伏せになって胴は土まみれ。口の中にも更に土が入り、少年は呼吸ができません
されど少年は抵抗します。抵抗して。腕を運んで匍匐前進して、助けてと叫びます。
樹々はまたその声に反応して絶叫を始めます。少年の声はかき消されてしまいました。ああ、なんて無力な。死にたくない、死にたくないと少年は泣き叫びます。
手が! 少年を。後ろから襲いかかります。
樹の根元まで連れてこられた少年は、また別のところから現れた手によって口を封じられてしまいます。
必死になって手を跳ね除けようとしますが、樹々の力は強く、とても少年では敵いませんでした。
誰も少年を助けに来られず、しかもこれを夢とも知らず、目が覚めない。
どうしようもなく、少年はこれが現実となってしまっているのです。
まさに、絶望。
樹々の腕達は少年を死に物狂いで追い求めて、更に奥から新しい腕が増えて。服を引っ張ったり、それを払った腕を掴まれたり。少年の涙も樹々の隙間に消えてしまいます。
やめてと蹴ったその足を掴まれ、引きずり込まれ。聞こえる声は歓声に近づき、少年を迎え入れることを心から祝福しているようでございました。
恍惚とは程遠い少年の恐怖心はこれまでの人生で一度だって経験したことがありません。
少年はその執念に纏わりつかれて懇願いたしました。
僕は一体どこに? 助けてください。お父さん、お母さん。もう悪いことはしません。どうして、どうして。テストの点数が悪かったのでしょうか。これからはちゃんと勉強もいたします。言うこともちゃんと聞きます。おもちゃもゲームもねだりません。門限だって必ず守ります。お願いします。助けてください。これは罰でしょうか。僕が一体何をしたというのです。ごめんなさい。ごめんなさい……。
少年は泣き喚こうにもやはり封じられた口からは何も発せられません。
手足を動かそうにも引きちぎれそうな力で掴まれてしまっています。
強烈な腐敗臭が少年の耳元で囁きます。昔から親しい友達のように。一体誰でしょう。少年がそう考えてしまったその隙間を奴等は狙うのです。
少年はまたさらに強く羽交い締めにされてしまいました。もう少年の抵抗は一切無駄です。親しい声は今度はお母さんのように優しく包み込んでくるのでした。それが真っ赤な嘘だなんて、わかり切っていることにございます。お母さんがここにいないだなんて。いるとすればどうして少年はこんなにも心細いのでしょうか。どうして誰も少年に見向きもせず、助けてくれないのでしょうか。
樹々の声は盛大な歓迎だといわんばかりに少年がやってきてくれたことを大喜びいたします。
少年は親しい声に騙されたのではありません。成す術が無いのです。少年は全てを諦めました。四肢も脱力して。叫ぶことももうやめてしまって。少年の短い人生では、もう誰にも会うことすら叶わないのでしょうか。明日の約束も、これではもう守れません。
暗い暗い泥の底に背中からじっくりと沈んでゆきます。土と同化してしまうようです。次第に身体は泥により一切の自由を奪われ、呼吸すらも怪しくなって、溺れるようにして全身が泥に覆われてしまいます。
次第に少年の意識は遠のいてゆきます。
ただ最後に見えたのは目の前でひとひら舞い落ちる桜でした。…………
少年は制服に着替え終わりました。
なんという夢を見てしまったのでしょうか。少年は夢の内容のひとつだって思い出したくもありませんが、その全てが脳裏に焼き付いているのです。
ひどく胸焼けがするようで、眩暈がして体調も悪いですが、少年はようやく現実に戻ってきたことに心の底から安堵します。
ようやく今日を迎えられて、夢の中から抜け出せたのです。
家の中はやはり静かなままでした。いつもはお母さんの声や、キッチンの音、テレビの音も聞こえてくるはずですが、今日は耳鳴りがする程何も聞こえませんでした。階段を下りて様子を伺いますが、誰もいませんし、やはり物音を立てるのは少年しかいませんでした。
玄関に革靴がありません。お父さんはもう仕事へ行ったようです。……いえ、昨日お父さんは家に帰らないとのことでしたし、事実少年も寝る前にお父さんにおかえりなさいと伝えてありません。お父さんが朝ご飯を食べた形跡もありませんでした。
しかしお母さんはどうやら起きておりません。お母さんがいなくなってしまった可能性は低いでしょう。リビングにはお母さんの荷物が昨日のまま残っておりますし、少し覗いた洗面所にも洗顔や化粧水などありますし、玄関にも靴がそのままです。
お母さんは昨日の夜もいつも通りのお母さんでした。
少年はお母さんを心配して二階へ戻りました。
二階にはお父さんとお母さんの寝室と少年の子ども部屋、そして物置がありました。一階はキッチン、リビングにお風呂とトイレとシンプルなものです。二階の子ども部屋の隣は物置で、それを隔てて両親の寝室でございました。
少年は足を踏み入れるはずのないその部屋に向かいました。
扉はほんの少しだけ開いていて、少年はその隙間から中を伺おうとしました。
中から少し溢れております。薄春色の、花弁。
もう少しだけ、数センチメートル扉を開けると、室内もやはり花弁だらけ。何か茶色い腐敗が目に飛び込んできました。
少年は咄嗟に口を押さえてそっと中を覗きます。お母さんはどうやら中にいるようです。ただ、一人ではございませんでした。お父さんは帰ってこなかったはずなのに。
人のような影がベッドの上のお母さんに覆いかぶさるようにしてそこにおります。
しかしながら人間であると疑わしい状態で、少年はまだ夢を見ているのかと思いました。
それは枯れた樹のようでした。
少年は夢の内容をまた思い出させられてしまいました。お母さんもこの可笑しな夢に侵されてしまっているのだと思いました。
少年はその影に正体を悟られてはなりませんから、じっと息をひそめておりました。隙間から伺うには限界がございますがそれでも少年は部屋の中が気になって仕方がありませんでした。
お母さん、お母さん。
話しかけたくとも影がそうさせません。
影の隙間からお母さんが見えます。お母さんはパジャマを着ておりませんでした。黒々とした霞の中にお母さんの白い肌が露出しており、裸体のままベッドに横たわっております。影はお母さんから離れる様子はありません。
影は執拗にお母さんを撫でまわし、お母さんは一切無反応でした。
影はお母さんの腰から臀部にかけてを特に覆いつくします。影は揺れ、興奮した吐息と軋むベッドの音が微かに少年の耳にも届きます。
少年は中で何が行われてるのかわかりませんでした。お母さんはちっとも動いておりません。少年にすら気づいておりません。しかし様子が可笑しいことだけは明瞭にございます。
影はお母さんの陰部に何か擦りつけているようでした。お母さんはぴくりとも動きません。ただ影がお母さんにそれを擦り、その度にお母さんの肌は変色してゆきます。
お母さんがお母さんでなくなってしまう。やはりこれはまだ夢の続きなのでしょう。どうして少年はこんな悪夢を見続ける必要があるのでしょうか。それが少年の運命であり運の尽き。とでも言ってしまえばそれまでです。だらしなくベッドから垂れ下がっているお母さんの腕はもう枯れてしまっていて、影に触れている太腿はもう影と同化してしまっているようです。
少年は目の前の何も信じられません。
ですがこれは夢、悪い夢に違いありません。けれども少年の身体に残る感触も、痣も、現実。夜の夢が現実を、少年を全て掌握しているのです。これが現実でないならば、少年はいつから夢を見続けているのでしょうか。
お母さんは相変わらず生きていないかのように動くことはありません。影の思うがまま、お母さんは弄ばれてしまっております。お母さんを助けなければなりません。しかし少年は怖くてここから動けずにいるのです。
少年は影から目が離せません。少年は全体像の掴めないその霞を。樹を、見て。やはり逆らえません。
少年も夢の中で泥に沈められてしまったのですから。
影は突然ぴたりと行動を止めました。
影が、扉に近寄ってきます。
少年の心臓の音すらもバレてしまいそうです。
またしも。
影は少年の存在に気付いてしまいました。
細く開くその隙間から少年は影と目を合わせてしまいました。
影は更に少年に近づき、しっかりと少年を捉えて。少年はそっと見上げました。
影は笑っています。その口角からは黒々とした泥。泥が落ちてべっとり少年の制服に付着してしまいます。
そして、降ってきたのです。
桜。
花弁が、舞い落ちる。
少年は身体に違和感があり、自身の両手を見ました。
大量の、花弁。
溢れ出る大量の、花弁。
少年は我慢ならず大声で叫んでしまいました。
「どうしたのよ。朝から大声出して」
振り返るとお母さんがいました。
お母さんです。エプロン姿のお母さんがそこにいるのです。
少年はお母さんに泣いて抱きつきました。
「もう、どうしたのよ」
お母さんは少年の背中をさすり、困ったように「朝ごはんできてるわよ」と言いました。
さっきまでの光景が嘘のように家の中は元通り。花弁も泥も、影の姿も、いませんでした。少年の制服だって汚れておりませんし、手だって綺麗なままです。
お母さんだって昨日のままです。
ただ、汗がびっしょり。それだけは隠せませんでした。
お母さんがそこにいること、これが現実であることを確認した少年は呼吸を整えて、涙を拭いました。
朝から様子のおかしい少年をお母さんは心配します。
少年はお腹が空いていませんでしたが、学校へは行かなければなりませんので、用意されていたトーストを半分だけ食べました。ぼんやりと朝のテレビを眺めて。学校へは遅刻する心配もなさそうです。あれはほんの一瞬の出来事だったのでしょうか。
お母さんは早起きをした少年に約束通りゲームを返しますが、少年は、ああ、うん、と放心したままそれを受け取ります。そのまま腕をだらんと。力無く。ゲームを床に落としてしまいました。
何かの声が足元から聞こえたような気がしました。
少年はゲームの誤作動かと思ってあまり気にしませんでした。
お母さんは熱があるのかと、少年に体温計を渡して計らせますが、三十六度二分の平熱でした。どうにも顔色が悪いのが心配ですが、もう準備をしてしまっているのでとりあえず学校へは行かせることにいたしました。少年は無言のまま二階にランドセルを取りに行きました。
そして一階に降り、玄関でランドセルを背負い、泥で汚れたスニーカーを履きました。お母さんに見送られて。少年は家を出ました。
「これ以上しんどくなったら、保健室に行って早退しなさいね」
「うん」
少年はこれ以上何も発することができませんでした。
少年はなんとか学校まで辿り着きましたが、手足の違和感が拭えずにいました。登校中すれ違う友達にも顔色を心配されました。少年は大丈夫だと言い返すも、ひどいクマができていることを隠せませんでした。
担任の先生からも顔が青ざめているとの指摘がありました。
授業に参加しようにも音読で何度も読み間違えてしまったり、簡単な算数すら解けなくなってしまったり。少年は学内で優秀な部類ですから、その異変は明らかなものでした。
宿題でやったはずの問題が解けないのですから、少年自身も焦りを覚えます。
休み時間のドッヂボールや鬼ごっこなんかにも参加できず、教室にある本を読んでいました。文字を追おうにもなんだか滑ってしまってしんどいほどです。
とりあえず、内容も理解していない本の次のページを捲ります。
すると、桜がありました。
少年はギョッとしましたが、これは誰かクラスメイトが押し花をして、忘れてしまっただけでしょう。女子が季節ごとに押し花をしている話はぼんやりと知っていました。でも少年はうんざりして、本を閉じました。
少年は春が好きなはずですが、もうお腹いっぱいで、確かに好物であることに変わりないのですが、今日ばかりはもう何も見たくありません。新学期早々嫌なこと続きです。
足元から再び声が聞こえたような気がしましたが、チャイムで掻き消されてしまいました。
この授業も魂の抜けたように過ごしているともう給食の時間です。少年は給食係で、少し黄ばんだプラスチックのお皿にご飯をよそいました。並んでいるクラスメイトのお皿に次々と白米を盛ってゆきます。
他のクラスメイトはアレが嫌いだから抜いてくれだとか、お腹が空いているから少し多くしてくれだとか、喋りながら給食の配膳を進めるのですが、やはり少年は何も発する気になれませんでした。
朝からあまり食べておりませんし、事実少年の胃袋は空腹を訴えておりますが、依然として食欲が湧いてこないのです。
今日の給食は皆が大好きなカレーでした。
少年もカレーは好きですが、今日という今日は匂いだけで鼻も胃も重たくなってしまいます。要らないなら寄越せと友達に言われて、少年は自分の給食の半分を友達のお皿に移しました。
エプロンを脱いで、給食係は席に着きます。日直が今日の給食の内容を読み上げます。そして読み終えたら言うのです。
いただきます。
いただきます。
少年の耳元で誰かが笑ったような気がしましたが、教室内がざわめき始めたので正体は掴めませんでした。
少年は今日の朝……いえ、昨日の夜中の夢からどうにも調子が悪く、何か精神異常を訴えているのかもしれないと不安になります。少年は普通の元気な少年です。家庭環境に問題だってありませんし、成績も態度も先生からは何も叱られることはありませんでした。
元気に友達と毎日遊んでいますよと家庭訪問の際言われていました。
給食の班、隣に座っている女子にヨーグルトを意地悪で取り上げられてしまいました。しかしながら少年は無気力に、ああ、うん、と頷くことしか出来ず、その女子ですらも今日の少年を不審に思う始末です。
その女子は手を挙げて先生を呼びました。
先生が少年の元へ来ました。体調が悪いなら帰っても良いとのことでした。
「今家にお父さんかお母さんはいる?」
少年は答えられませんでした。お父さんは恐らくいないでしょうから、お母さんが迎えに来てくれるのでしょうか。しかしお母さんも少年を送り出したら毎日スーパーでパートをしているのですぐ来てくれるかはわかりません。少年はお父さんとお母さんに会いたくて堪りませんでした。
少年は手を付けてなかった給食の、その少量のカレーにスプーンを差し込んで、掬い上げます。
そして一口。
すると今度は鮮明に聞こえてきたのです!
さくら、さくら。
少年はその一口を飲み込めませんでした。
そして聞いたことがあるのです。その、声を。
今まで微かに聞こえた声達も、何の幻聴でもございませんでした。
少年はその正体をよく知っております。樹。樹の根元から聞こえゆる、あの。声。まだ少年は夢に侵されてしまっていたのでした。
少年を恐怖のどん底に叩き落としたその正体。
少年は給食を残したままトイレへ駆け込み全て吐き出しました。がたっと立ち上がり椅子が倒れてしまったようですが気にしている場合ではございません。教室を出てすぐそこの男子トイレの洋式。引き戸を開けっ放しにして、少年は苦しい喉を通り越して嘔吐しました。
朝ごはんも、何もかも。吐いてしまったのです。
桜、桜、桜が。
喉から、胃から、吐瀉物から、桜、桜。
昨日の晩御飯も。そこに。
先生やクラスメイトが心配して様子を見に来てくれております。少年は過呼吸に埋もれそうになりながらも嘔吐を繰り返しました。
担任の先生が背中をさすってくれます。それでも少年の胃は落ち着くことなく上下に運動して少年を苦しめます。
乱れた息の中、先生の手を見て、叫び出しそうになったところをまた胃酸が襲い掛かってきました。
どうして僕は春に追われなければならないのですか。少年はわかりませんでした。いつもは楽しい季節のはずなのに。少年はどうしようもなく薄春色の妄想に支配されてしまって、ああ、やはりまだここは夢の中に違いないのでした。
出して! ここから出して! 僕を夢から覚めさせてください。
少年の悲痛な叫びは誰にも届きません。だって、今まさに少年を支えているその先生の腕。それは夢にまで見た、桜の枯れ樹にございます。少年は逆らえません。
「大丈夫?」
そんな先生の心配も少年の耳には届きません。
ただお母さんに会わなきゃ、急いで帰らなきゃと必死に思いました。それがきっと自分を救うのだと少年は信じました。そしてお父さんにおかえりなさいと言ってあげなきゃ。昨日お父さんは帰ってきませんでした。ですからこれはきっと悪い夢なのです。そうでなければ、この状況は本当に現実として少年と対峙することになってしまいます。少年は認めたくありません。
春は良い季節なのです。
本当に良い季節なのです。
皆が笑いあって、新しい春を祝福するのです。花見をして、少年も学年が上がって。
お父さんも春が大好きで。お父さんは寡黙な人でいつも淡々としておりますが、桜が咲いたその日だけは頬も緩んでしまうのです。
これはきっと夢に、悪夢に違いないのです。
少年はそう思い込むしか逃げる術がございませんでした。
先生は少年を支えて保健室に連れていきたいのですが、少年は一層青ざめたまま動きません。
少年の目にはその人影が樹に、桜の樹に見えてしまっております。そのために少年は全く動けずにいるのです。今度は何をされてしまうのか。少年はもう何も考えたくありませんでした。
少年はもう吐ききれないものを胃から出そうとして、まともに息ができませんでした。
先生はトイレの水を流しました。便座やタイルまで吐瀉物まみれでした。先生は持ってきていた消毒液と雑巾で清掃を済ませようとします。先生は汚れておりませんが、少年の制服のポロシャツはもう黄色く茶色く白く、嘔吐で汚れてしまっており、もうこのまま破棄した方がいいかもしれません。
先生はある程度片付いたところで少年の顔を覗きます。
ひどく顔色の悪い少年は先生の目を見て叫び、トイレから逃げ出してしまいました。
ですが少年はトイレの前の手洗い場で転んでしまいました。
驚いた先生は少年を心配してトイレから出て様子を伺います。
少年の目に先生はいつもの先生として映っておりません。樹。樹。
先生は根を張り、それは少年の足元まで。
少年には恐ろしい樹木がやはり襲いかかっているようにしか見えないのです。
少年の上履きまで根が這い。その樹木の下からまた、手が。
また足を狙われた少年は、何も拭わぬまま走り出しました。
走って、走って、逃げました。階段を急ぎ駆け下りて、少年は自分がどこに向かっているのか一切わかっておりませんでした。先生は少年を追いかけますが、少年にとってそれはかの夢の恐怖の再現でしかありませんでした。
いえ、それ以上でしょうか。
ですが聞こえてくるのです! 叫び声が! 人の! 叫び声が!
さくら、さくら、のやまもさとも。
みわたすかぎり、かすみかくもか。
あさひに、におう。
何もかも、何もかもが少年を追います。帰りの準備などしているわけがありません。少年は声から逃げます。誰も彼もお構いなしです。ザワつく廊下を押し退けて、急いで正門の脇の小さな門の鍵を開けて学校を出ました。そして少年はいつもの通学路を走ります。
しかしどこまでもついてくるのです。叫び声が! ああ、声が!
一体彼等は何をこんなにも叫んでいるというのでしょうか。
少年を追いかけて、少年は声に追いかけられて、追いかけられ続けて。
少年はどこに行けばいいのでしょうか。
とにかく走って、走って逃げました。いつもと違う細道を抜けても尚、背後の樹は少年を見逃すことなくどこまでも追い詰めます。
走って疲れて、道端で、もう一度無いものを吐き出しました。無いはずでした。
吐き出したそれには目がついておりました。命でしょうか。少年を睨むのです。その命は少年にしがみつこうとします。桜の芽のようでした。昨日なら収拾していたところでしょうが、今日は凄まじい嫌悪感と共に在ります。
少年はまた走りました。走ったところで進んでいる気が全くしません。どこを走っているのかも、何を目的としているかもわかりません。
ただ早くこの夢から覚めないと、何かに飲み込まれてしまう。少年はそう思いました。
先程吐いた桜とまだ目が合っているような気がします。
少年は叫びました。
お母さん!
やはりと言うべきか、誰にもそんな声は聞こえていないようでした。
少年の足はくたくたでもう走れません。
少年は倒れてしまいました。
ここは見覚えがあります。
ここは学校の近くの公園でした。公園の真ん中に大きな桜の樹がある、この公園でした。少年はこれを背にし、呼吸も整えられず。少年は目の前が舞い散る桜で真っ白に、次第に茶色く泥塗れになりました。
昨日のサラリーマンもこんな風にぐったりとしていたのでしょう。少年はようやく理解しました。悪夢は地続きだったのです。春の幸福の全ては夜の悪夢から成り立っていたのです。
聞こえてくるのです。笑い声が。
それは大変楽しそうな声でした。昨日の少年と友達の声でしょうか。昨日の様子が少年の頭を駆け巡ります。何も知らない少年は桜を集めて楽しそうにしています。これがどんなに幸せなことだったか。
最初から逃げることなんて出来なかったのです。少年はなんて愚かな事をしてしまったのかと自分の行動を悔いました。
単純な鬼ごっこではございません。ごっこ遊びだったのなら、どれだけ良かったことか。鬼にタッチされて鬼になって、タッチをした人はまた逃げたり、あるいは鬼が連続的に増えていったり。でもそれはただの日常茶飯事で、休憩時間や放課後に行われるだけのお遊びに過ぎません。
これを春のために、そのためだけにこんなにも恐れ慄く必要があるのでしょうか。
少年は理解しました。
このようにして犠牲者を出して、毎年新たなる犠牲者が少年のように選ばれるのです。そうして世界は循環してゆくのです。そのようにして日本の秩序は保たれて、冬眠の末に花開くのです。
去年の叔父さんの言葉を思い出します。
少年は春が好きでした。
だからこそ、あの言葉のように理解してしまったのです。
桜がこんなにも美しいその理由を。
少年の命運は初めから決まっていたというのです。
なんと不条理な世界なのでしょう。少年がこのようにして桜の犠牲になってしまうのを、声達は涙を流して喜ぶのです。その声の正体もまた、少年のような犠牲者。声は少年と同化したいのです。同化したくて堪らないのです。
声達は少年を驚かせたいわけではございません。恐ろしい力でねじ伏せたいわけでも。ただ、春が大好きな少年とここで一生過ごしたい。それだけなのです。この声達は一生懸命春を喜んで、それにむしろ少年が近づいてしまっただけなのです。
少年に聞こえていた声達は、少年がこちら側に来てくれたことを心の底から感謝しているのです。
また次の春のために桜を拵えねばなりませんから。そのために純粋無垢な少年が必要不可欠だったというのです。ああ、数奇な、運命。
どうしようもございません。
少年のぼやける視界に見覚えのある柄がひらり舞い落ちて来ました。これが何であるか識別するのに少しかかりましたが、どうやらこれはネクタイのようです。
去年の父の日に少年が渡したネクタイにそっくりです。これは少年が貯めたお小遣いも使って、お母さんと注文したものでした。
お父さんは毎年お花見を楽しみにしておりましたので、特注で刺繍をしてもらったのです。薄春色に、遠目では気付かないぐらいの、桜の花びらが五枚とも綺麗に揃った刺繍。お父さんはこれを気に入って使ってくれていたはずでした。
じゃあどうしてこんなところにあるのでしょうか。……いえ、そんなくどいことは言わなくたって、少年はもうわかっておりました。
昨日、家に帰ってこなかったのも。
ニュース番組で気味の悪いニュースが流れてしまったのも。
そして昨日この樹に倒れ込んでいたサラリーマン、彼こそが。
少年はもう、うんざりするほどわかってしまいました。
ああ! お父さん! 僕はここにいます! お父さんと同じ場所に! そしてこれからも、僕とお父さんはずっと一緒です。今年はもうお花見が出来ませんが、また来年の春を楽しみにしましょう。きっと皆喜んでくれるに違いありません。お父さん、お父さん。僕はここにいるのです。お母さんも、もうじきやって来ることでしょう。お父さん、ようやく僕のお話を聞いてくださるのですね。…………
少年は身体が重くて耐えられませんでした。泥に沈みゆくまま、侵されるがまま、身を任せてしまいました。ずっしり重くて抵抗できるはずもございません。
夢の中なんかよりよっぽど現実的です。
痛く、苦しく、しかし声なんて出せるわけがありませんでした。背中の樹は少年を優しく包み込んでくれます。
それはまるでお母さんのように、優しく、少年を思って。背中をトントンとして赤子を寝かしつけるように。
樹々は少年の憎むべき敵では無かったのです。
少年はお母さんの最期に会えなかったことを後悔いたしました。今どこにいるのでしょうか。もしかしてこの抱擁は本当にお母さんなのでしょうか。お母さんも少年と共にこの先も一緒にいてくれるのでしょうか。
少年は安心して眠るようにして樹に身を任せます。
昨晩はあまりよく眠れませんでしたので、少年は目を閉じると今にも意識を失ってしまいそうです。うとうと、ゆっくり、眠ってしまって。それでいいのだと少年は思いました。
もう何も恐れる必要はありません。
今日はこんなにも暖かい春なのですから。
ですが今日の夕飯の匂い。それがわからなかったのがひとつ心残りでしょうか。少年はいつも夕飯を楽しみにしておりましたから。
樹は少年を覆い尽くします。
少年は身体の全てに根を張られてしまいます。指先や足先に至るまで、血管のように根が張り付いております。
ぐったりとした少年の細い身体は、その中でもうんと太い根に貫かれてしまいました。腹部の中心が赤黒く血がどろりとし、だらだらと温かい血が流れ出します。
痛いのです。少年は夢の何倍も痛みを感じております。
目の前を誰か知っている大人がキョロキョロしながら歩いておりました。
薄目を開いた少年はすぐに誰だかわかりました。担任の先生です。
先生は少年を探し回っているのでしょう。ですが道路にいる先生は、公園の樹に目をやって、少年と目が合ったかと思いきや、また先生は視線を外してよそに歩いて行ってしまいます。先生はかなり焦っているように思われましたが、こんな姿になってしまった少年に気づくことさえ出来ませんでした。
少年は無視されて、取りこぼされてしまって。
ですが無理もありません。
昨日まさに少年はここでお父さんに気付くことが出来なかったのですから。
少しすると先生はまた走って戻ってきて、また少しだけ桜の樹を見て、それからすぐに学校に帰るようでした。
少年の皮膚はもう人間の色をしておらず、それは枯れた樹も同然でした。
僕はどうなってしまうのでしょうか。僕は生きています。まだ生きています。
少年は先生にそう伝えたかったのですが、もう目の前の道路から先生は消えております。
じわじわと、全身に這う根は少年の皮膚を貫いてゆきます。少年はもうとっくに苦痛に喘ぐ力すらありません。
蝕まれた身体は熱烈な血液の温度を通り過ぎて、どろどろ、ぽたり、ぽたり。ああ、血が、生きた命の赤い証が、少年の身体から溢れ出てしまっているではありませんか。
少年はお父さんのネクタイをずっと手に握りしめておりました。これを持っているとお父さんがそばにいてくれるようで、安心するのです。少年はお父さんに会いたくて堪りませんでした。
次第に全身の力が抜け、このネクタイを手放してしまいました。薄い色合いのこのネクタイも、もう少年と同じ、真っ赤な血潮に染まってしまいました。
笑い声が聞こえてきました。
どこから聞こえてきたのか判別がつきません。
樹の根元からなのか、帰りの小学生なのか。
少年が樹に飲み込まれている間に、もうランドセルを背負った少年少女がチラホラと伺えるようになってしまいました。
誰が笑っているのでしょうか。でもなんだかとても楽しそうで、少年も少し笑いました。もう助かりそうにありません。それでも少し、笑いました。昨日の自分の姿を思い出しました。
そして少年は自覚しました。もう少年は桜と同化してしまっていること。追いかけられた声達と同化してしまっていること。同じ道を歩んでいること。これから先、少年はこの声の一部として生きること。
桜の樹の下でこの先誰かが、この少年のように近付いてきてくれることを待つことになるのです。
ですが決して辛くはないのです! 少年を迎え入れてくれた皆がここにいるから。
さくら、さくら、はなざかり。
少年は春に囚われてしまいました。
