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短編シリーズ〜行政書士の拳〜


第一話 「荒野の行政書士」

この世は、申請の荒野だった。

一枚の紙で人生は変わる。

許可は希望。

不許可は絶望。

その境界線を歩く男がいた。

「所長、お客さんです。」

返事がない。

ミノコは事務所の奥を覗いた。

四郎次はコピー用紙の角を、定規でぴたりと揃えていた。

一枚。

二枚。

三枚。

「……よし。」

「そこですか。」

ミノコはため息をついた。

「困っている人が来てるんですよ。」

四郎次は顔を上げない。

「書類が曲がっている。」

「それは今じゃなくてもいいでしょう!」

そのとき、入口のドアが静かに開いた。

一人の外国人青年が立っていた。

痩せている。

服は汚れている。

靴も擦り切れていた。

「……先生。」

青年は日本語で言った。

「助けてください。」

応接室。

青年は名乗った。

「グエン・ヴァン・アン。」

ミノコが慌ててお茶を出す。

「大丈夫ですか?」

グエンは震える手で湯のみを持った。

四郎次は一言も話さない。

ただ見ている。

目。

指先。

靴。

袖口。

沈黙。

ミノコが耐えきれず言う。

「所長、何か聞いてください。」

四郎次は静かに口を開いた。

「今日は眠れたか。」

グエンの手が止まった。

目から涙が落ちる。

「……三日。」

「三日、寝てません。」

ミノコは驚いた。

「どうして分かったんです?」

四郎次は短く答えた。

「介護。」

それだけだった。

グエンは話し始めた。

「仕事、なくなった。」

「在留資格、もうすぐ切れる。」

「お金ない。」

「でも帰れない。」

四郎次は聞いている。

一度もメモを取らない。

「住所。」

グエンが紙を差し出す。

四郎次は立ち上がった。

「行く。」

ミノコが慌てる。

「えっ?相談は?」

「現場だ。」

「え?」

「書類は嘘をつく。」

少し間を置いて、

「現場は嘘をつかない。」

古いアパートだった。

狭い部屋。

二段ベッドが並ぶ。

床にも布団。

炊飯器が二台。

洗濯物。

異国の香辛料の匂い。

十人近い外国人が一つの部屋で暮らしていた。

ミノコは息をのむ。

「こんな所で……。」

奥から男が現れた。

笑顔だった。

「先生ですか。」

流暢な日本語。

ブランド物の腕時計。

人懐っこい笑顔。

「私はハイ。」

「みんなの世話をしています。」

外国人たちが口々に言う。

「ハイさん!」

「助かった!」

「仕事くれた!」

ミノコは安心した。

「いい人みたいですね。」

四郎次は部屋を見回している。

炊飯器。

靴。

冷蔵庫。

壁。

送金票。

そして机の上の封筒。

「紹介料」

そう書かれていた。

四郎次が初めてハイを見る。

「いくらだ。」

「え?」

「この人から、いくら受け取った。」

笑顔が一瞬だけ消えた。

「先生、何のことです?」

「行政書士の報酬は十万円前後だ。」

「残りは誰の金だ。」

部屋の空気が止まる。

ミノコは四郎次を見た。

(所長……。)

ハイはまた笑った。

「先生。」

「世の中、法律だけじゃ飯は食えません。」

四郎次は静かに答えた。

「そうかもしれない。」

一歩前へ出る。

「だが。」

「人の夢で飯を食うな。」

笑顔が消えた。

初めてハイの目が冷たくなる。

「先生。」

「この件から手を引いた方がいい。」

四郎次は何も答えない。

床に落ちていた一枚の給与明細を拾う。

銀行振込額と合わない。

勤務先も違う。

印字された会社名に、小さく目を細めた。

「……見つけた。」

ミノコが聞く。

「何をです?」

四郎次は書類を静かに封筒へ戻した。

「在留資格のツボだ。」

風が吹いた。

荒野の風だった。

四郎次は振り返り、グエンに言う。

「安心しろ。」

少しだけ口元が動く。

「お前は、すでに許可されている。」

グエンは意味が分からず目を丸くする。

ミノコも首をかしげた。

「所長……まだ申請もしてませんよ。」

四郎次は歩き出す。

「だからだ。」

「これから証明する。」

その背中を見ながら、ハイは静かにスマートフォンを取り出した。

「……先生が来た。」

電話の向こうで、誰かが笑う。

「例の行政書士か。」

「面白い。」

闇の入管ブローカーたちが、ゆっくりと動き始めていた。

―続く―

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