夫の沼へいざなわれて
「ねぇ、前から思ってたんだけど、あなたの旦那さんって、まじでこだわりあるよねぇ」
夫の趣味の話をすると、友人から真面目な顔でそう言われる。
確かに結婚する前、夫の持ち物を見て、わたしは目を丸くした。右手と左手につけたら、もう他にどこにつけるの?と思うくらいの腕時計を所有し、「愛車のスポーツカーとこの先もずっと添い遂げたいから」と、エンジンをオーバーホールして生まれ変わらせるほど一途だった。
かと思えば、「深夜アニメを見るのは、僕にとって水と一緒だから。摂取しないと生きていけないんだよねぇ」と、睡眠不足でふらふらになりながらも、必死に録画を消化する。挙げ出したらキリがない。夫はいつだって、自分の「好き」にひたすらにまっすぐで、全くもってぶれがない。
♢
今から10年前。初めて会う夫のご両親に、結婚のご挨拶をする日の前日のこと。夢にも思わなかった、突然すぎるお誘いを受けた。
久しぶりの寒波が押し寄せた。凍った雪で滑らないように、足を踏ん張りながら向かった職場でも、明日のご挨拶のことで頭の中がいっぱいだ。同じ地元なのに、付き合っている間、一度も彼のご両親に会ったことがない。つまり、明日は完全な初対面、わたしの人生の大一番だ。
「『はじめまして〜!』とか、ワントーン高めのボイスで行くべきなのか?」などと、脳内で無駄にシミュレーションを繰り返していたとき、スマホが震えた。夫からだ。
「おはよう。たくさん雪が降ったね!伊吹山にも雪が積もったみたい。せっかくだから明日、うちの両親に会う前だけど、滋賀県の伊吹山に雪山登山へ行かない?」
ええええええぇっ!?
明日はわたしの人生の大一番で、上の空になりながら仕事してるのに、あなたは雪山に想いを馳せてたの!?なにも結婚のご挨拶の朝に、あえて雪山登山をしなくてもよくない!? ヘロヘロの満身創痍でご挨拶に行ったら、それこそご両親に失礼じゃない!?
しかも、わたしは今朝から生理。明日の大一番は生理2日目にぶち当たる。最難関すぎる。すかさず夫に連絡する。
「結婚のご挨拶の直前に雪山登るのって、ご両親に失礼じゃない?」
「大丈夫。うちの親、そういうの気にしないから」
いやいやいやいやーーーっ!わたしが気にするねんっ!
心の声が職場で爆発しそうになるのを必死に抑えながら、クマ柄のナプキンポーチを握りしめてトイレへダッシュした。
結婚のご挨拶直前に雪山登山って、正直どうなんだ?と思いながら便座に座る。でも、待てよ?何かがわたしの中で引っ掛かる。
そういえば、夏山登山の帰り、レバニラ定食をもぐもぐ食べる夫が、静かに熱く語っていた。「今度の冬は、雪山に挑戦してみたい。雪崩や滑落が心配だから、まずは標高の低い伊吹山で、思いっきり雪山を味わいたいんだよねぇ」
季節が冬に変わると、雪が降るのを今か今かと心待ちにしていた。いつでも雪山に登れるように二人でアイゼンやピッケルも買った。わたしの職場からうっすら伊吹山が見えるから、粉雪が舞うたびに、「伊吹山の雪の付き具合はどう?」と、LINEで聞いてくるぐらい、夫は雪山に恋焦がれていた。
冬の間ずうーっと、そんなふうに雪山に恋する夫の横顔を見ていたから、彼が雪山のいただきに着いたら、今まで見たことがないくらい、無邪気な感情を爆発させるんじゃないか!?夫の新たな一面を、この目で見られるかもしれないぞ!見たいぞ!わたしが一番最初に見たいぞぉぉぉおっ!!よし!結婚のご挨拶のことは下山してから考えよう!いざ、雪山へ挑んでやろうじゃないかっ!!!
トイレの便座に座るわたしの頭の中で、鼻息荒い思いが、ぶわっと湧き上がってきた。「あなたの興奮する顔が見たいから」なんて言ったら、変態すぎて夫に引かれるかもしれない。わたしはスンッとした顔で自席に戻ると、「いいね。面白そうだから、行くよ」と、夫に二つ返事をした。生理だということを伏せたままで。
迎えた翌朝4時の自宅のトイレ。ナプキン1枚で受け止めきれるか心もとなくて、「ナプキン2枚横重ね作戦」で雪山に挑む。
朝の伊吹山は、憎いほどの快晴だった。わたしは、いざ厳冬期雪山を目の前にして、怯えた。思ったよりも真っ白。山ほぼ真っ白。こんな雪山に、生理2日目かつ雪山初心者の自分が登れるのか?と心が焦り出す。一方、夫は登山靴に履き替える最中も、行きの車内で聴いたアニソンを口ずさんでいる。
登るにつれて雪が深くなる。ふわふわの新雪に向かって「ラッセルー!」とピッケルを振り上げ、ずんずん頂上を目指して進んで行く夫。最高潮のテンションじゃないか。
わたしは痛み止めを飲んできたとはいえ、生理2日目の重みが下半身を襲う。夫のピュアな興奮と裏腹に、わたしは一人「頂上着いたらトイレ行けましゅからね〜あと少しの辛抱でしゅよ〜」と、自分の下半身を赤子のようにあやしていた。
そうして4時間歩き、やっとの思いで着いた頂上は、別世界だった。山頂を示す看板には、雪と氷が斜めに張り付いている。

夫は持参した水筒のお湯をすすりながら、「すげー。まじで綺麗すぎる。今日にしてよかったね!」と、これ以上ないほど幸せそうに笑っていた。ほわほわ立ち上がる湯気に包まれる夫の横顔。その横顔を見ていると、結婚のご挨拶の日に、あえて一緒に登ってきた甲斐があったと、自分で自分を褒めちぎりたくなる。
ーーと、謎の達成感に浸っていたのも束の間、頂上の売店は、全身真っ白い雪に覆われ、唯一の希望だったトイレは使えない、という事態が判明する。
終わった。絶体絶命のピンチ。どうしよう。わたしは脳みそをフル回転させた。こんな頂上でナプキンを替える場所なんてない。トイレに行くには下山するしかない。ああ、もうバカバカバカ!圧倒的にリサーチ不足だった。わたしは腹を決めた。
「頼むから、なんとかもってぇぇ!」と、ナプキンに全集中しながらひぃひぃ下山し、ようやく山の麓にトイレを見つけたわたしは、「ちょっとトイレ」と一言だけ夫に告げ、競歩並みのすり足で駆け込んだ。厳冬期のトイレは誰もいない。「いったい自分は、こんな雪山で何をやっているんだろう」と、泥まみれの登山靴をしばらく見つめた後、綺麗な黒いパンツと黒いズボンに穿き替える。見た目は汚れる前と変わってない。これなら夫に生理漏らしたとは悟られまい。
結局、30分近くもトイレに立てこもっていたと思う。ようやく外へ生還すると、「長かったけど、大丈夫?」と心配顔の夫に、無表情で答えていた。
「ふぅー。うん、まぁヤバかったけど、大丈夫」
下半身を全てお色直ししておいて、何が大丈夫なのか甚だ疑問だが、せっかくの雪山の感動をぶち壊しては、何のために汗と血を流しながら登ってきたのか分からない。夫の前では、至って平静を装うしかない。彼の前で全てをさらけ出す勇気が、まだわたしにはなかった。
昼過ぎに登山を終えた後、汗を流せるようにと、夫が車で自宅まで送ってくれた。そういうところが、妙に気が利く。
一方、車内でぐったりなわたしは、文字通りの満身創痍。鉛のように重いふくらはぎ、ズキズキ痛む足の裏。ピッケルで雪山を突きまくったせいで手も上がらず、おまけに生理痛も暴れ出す。お腹も腰もどんどこ太鼓祭りだ。「雪山、楽しかったねえ」と話しかけてくれる夫の横で、わたしは「最高だったね……(白目)」と、うなりながら、全身をさすることしかできなかった。
家でシャワーを浴び、わたしは痛み止めを飲み込む。足と腕に無臭の湿布をこっそり忍ばせて、夫のご両親が待つ夜の洋食屋さんへと向かう。
洋食屋さんに着くと、すでに夫がお店の前で待っていた。「いや、ちょっと待って。わたし5分前行動したはずなんだけど、着くの早くない?」と思いながら足を引きずり、亀の歩みで向かうわたしの方へ、スタスタ歩み寄ってくる夫。体力お化けか。「ご両親は?」と尋ねると、すでに店内にいるらしい。何でもお父さんは「10分前行動」が基本のようだ。しまった、15分前行動しとけばよかった。
どんなご両親だろう、と心臓をバクバクさせながら店内に入ると、お二人が「こっち、こっち」と手を振ってくれた。あぁ、優しそうな雰囲気がする。
「あ、ありがとうございます。こんばんは。はじめましてぇ……!」と挨拶する声は裏返る。ワントーン高めのボイスどころではない。
しかも、全身の痛みで椅子に腰掛けるのも「よっこらしょ」と声が出てしまう。思わず口から出た瞬間、「なんか変な女が来た」と思われていないか。もう、生きた心地がしない。頼むから誰一人、おでこから流れる汗と脇汗に気付かないでくれ。人って極限まで緊張すると変な汗が出る。
お互いにメニューを決めた直後、お母さんが突然、先手を打ってきた。「いきなりで申し訳ないんだけど、どうしても気になることがあって。うちの息子、小さい頃から変にこだわりがあるんだけど、大丈夫かしら?」
えええええええぇっ!いきなり直球来たぁっ!!
どうする!?わたし。なんて答える!?「今朝まさに、彼のこだわりの雪山、堪能してきましたよ!」なんて口が裂けても言えない。空気を読む女なら「そんなことないですよ。おほほ」と否定する場面かもしれない。しかし、満身創痍のわたしには、よそ行きの言葉をこねくり回す余裕がなかった。
「……確かにクセはありますけど、そういうところがいいと思います」
あぁ、やっちまった……。清楚系を装うシミュレーション計画は、完全に無となった。前日までの特訓が台無しじゃないか。後から聞いたが、この発言で「気が強い子で、ある意味、頼もしい」とご両親に思われたらしい。
雪山登山で、脳みそも体もポンコツになったわたしだが、なんとか結婚のご挨拶は終わった。そして、雪山で夫の興奮する横顔を拝めたから、わたしのミッションは大成功だったけれど、さすがに今回は無茶が過ぎた。今後は、大事な予定の直前に山登りするのはやめておこうと心に誓う。
♢
結婚してからも夫の沼について行っては、未知の世界でピンチに陥り続けた。
夫婦でしまなみ海道をロードバイクで完走したけれど、わたしだけ急性胃腸炎になって、楽しみにしていた尾道のタイ料理を前に、ひたすら吐き気防止のツボを押し続けることになった。残雪期の北アルプスでテント泊をしたら寒すぎて一睡もできず、下山中に派手にずっこけてお尻を泥まみれにした。
挙げ出したら、本当にキリがない。
なのに、なんで懲りずに一緒に行くんだろう。それは夫の沼が、猛烈にうらやましいから。めちゃくちゃ、まぶしいのだ。
振り返れば、子どものころから、趣味や熱狂できるものがなかった。大人になり「趣味はなに?」と聞かれても、「読書かなぁ」とか、当たり障りのない返事しかできない。昔から誰に言われることもなく、クソ真面目に生きてきた結果が、この脳内愛情ストレージの少なさなんだと開き直っていた。夫と出会う前までは。
でも、夫と出会い、なぜか夫が夢中になってるものに対しては、わたしも一緒に飛び込みたくなってしまう。わたしは夫の沼へいざなわれるとき、こう思っている。「あぁ、またあの人だけに発動する、おもろいホイホイ装置が作動してしまったよ。やれやれ」と。
世間で言うような推し活はしていないと思ったけれど、実はずっと夫を推していたのかもしれない。彼の見る景色を、わたしも一緒に見ていたい。そして、わたしの脳内愛情ストレージは空っぽじゃない。ちゃんと夫の沼で埋まっているぞと。
「まじでこだわりあるよねぇ」と心配そうに言った友人の顔が、ふと頭をよぎる。「噛めば噛むほど味が出るスルメみたいで、最高だよ」と、わたしは心の中でにやける。
今年で42歳になるわたしと、1つ年下の夫。結婚して9年を迎える。この9年の間に、二人の息子が生まれた。日々の子育てで手一杯で、夫は思うように自分の沼を泳げていないように見える。
かつて、結婚の挨拶直前に雪山をラッセルしていた夫。今は少しぽっちゃりしたお腹を抱え、クッションに寝っ転がって、6歳と3歳の息子たちと川の字になりながら真剣に戦隊アニメを見ている。その姿に、夫とともに二人で歩んできた年月と、この上ない愛おしさが込み上げてくる。
けれど、夫のこだわりは完全に消滅したわけではない。昨日もいきなり「今度、家族で山奥にある秘境ジェラート屋さんに行かない?」と、わたしを誘ってきたのだ。
やれやれ、しょうがない。行ってやることにする。
