諸法無我とは何ぞやー仏教の基本理念その2ー
1.「私」とは?
朝目を覚まして、スマホを手に取り、「ああ、今日も仕事か」とため息をつく。
その「ため息をついている私」は、本当にどこにいるのでしょうか。
名前、顔、職業、性格――私たちはいろいろなラベルを組み合わせて「これが私だ」と感じています。でも、一つひとつ分解していくと、固定された「私」という核のようなものは見つかりません。
仏教の「諸法無我(しょほうむが)」は、まさにこの点を突きます。
すべてのものごと(諸法)には、独立して変わらない「自分(我)」など存在しない、という教えです。
この一見冷たい宣言の裏には、「世界をどう見るか」を根底から揺さぶる視点があります。
それでは、自分探しの旅ではなく、自分を捨てる旅に出てみましょう。
2.「確固たる自分」は見つからない
「無我」と聞くと、「自分なんていない」と言われたようで、少し怖く感じるかもしれません。でも仏教が言いたいのは「貴方は存在しない。消えてもいい。」ということではありません。
「固定された、自分の意思だけで成り立っている主体は存在しない」ということです。
身体は、食べたもの・空気・水でできている。食べるために体を動かすためにも食べたものからのエネルギーを用いる。
心は、過去の経験・言葉・人間関係・文化の影響で形づくられる。
感情も、脳の状態・ホルモン・睡眠不足・天気など、いろんな条件の組み合わせで生じる。また、感情やホルモン分泌等を司るDNAはご先祖様から受け継いだもので、自分自身で作り上げたものではない。
このように、「私」を構成する要素は全て「私の外」からいただいた物に過ぎません。「私」とは常に他の条件との関係の中で、たまたま今こう現れているプロセスの呼び名に過ぎないのです。
川を指さして「あれが一つの固まった水だ」とは言えないように、「私」も流れ続ける現象の仮の名前なのだ、という訳です。
3.「私」とは宇宙の流れの一部
現代物理学の視点から世界を見ると、宇宙は物理法則によって支配されている「素粒子や場の相互作用のつながり」として記述されます。まさに縁起ですね。私たちの身体も脳も、その法則から逃れることは出来ません。
原子や分子レベルでは、私の体と空気や食べ物は連続的に出入りしている。
脳の働きも、電気信号と化学反応のネットワークとして記述できる。
それらは、重力や電磁気力などの物理法則に従って動いている。
宇宙は無数の粒子や場が物理法則に従って相互作用を続ける巨大な縁起の流れであり、私たちの身体や脳も、その一部として一時的に形を成しているだけ、とも言えます。
こうして見てみると、「ここからここまで絶対に『私』で、ここから外は『外の世界』だ」と線を引くのは、かなり人間目線の都合の良い線引きだとわかってきます。
仏教の無我は、「この線引きはあくまで概念上のもので、実体ではない」という洞察とも言えます。物理学が見せてくれる「つながった宇宙の姿」と、無我の世界観は、意外なところで手を取り合っているのです。
4.我々に自由意志はあるのか?
ここで、やや刺激的な問いが出てきます。
もしも全てが条件と法則の結果なら、「私の自由意志」って、本当にあるのでしょうか。
「生まれた環境」「遺伝的な傾向」「今までの経験や学んできた価値観」「今の体調やストレス今いる場所、状況、時間」
これらが複雑に絡まり合って、「今この瞬間の選択」が生まれます。
そう考えると、私が何かを選ぶとき、「完全に自分だけの力で」選んでいるとは言いにくくなってきます。
例えば、貴方が今バナナを食べたとしましょう。それは自分の意志で食べたと思っているかもしれませんが、その選択に至るまでのプロセスに自由意志が入り込む余地はあるでしょうか。
バナナを食べるためにはバナナが食べられるものであるという知識が必要です。バナナが食べられることを知らなければ、中々バナナを食べるという選択には至りません。
バナナを食べるためにはバナナが手元にあることが必要です。手元にバナナが無いのにバナナを食べるという選択には至りません。
バナナを食べるためにはバナナを食べてもいい状況である必要があります。普通、仕事の大事な商談中におもむろにバナナを食べるという選択には至りません。
バナナを食べるためには通常ある程度空腹である必要があります。満腹であれば普通はバナナを食べるという選択には至りません。
このように、バナナを食べるという選択を選ぶにしても、場所、時間、状況、経験等が左右するため、自分が自由に選択している訳ではないとも考えられる訳です。
自分という存在が少しづつ曖昧になってきたのではないでしょうか。
しかしながら、「明確な自由意志の有無」については色々と語弊が生じるといけませんので、ここで明言するのは避けておきましょう。
5.無我がひらく、本当の「自由」とやさしさ
ここまで聞いていると、「自分というものが無いのであれば、何をやっても意味が無いのでは?」と思ってしまう方もいるかと思います。
しかしながら仏教はそのような虚無主義(ニヒリズム)を明確に否定します。
確固たる固定化された実体としての「自分」はいない。しかしながら、「我思う故に我あり」。縁起の流れとしての「私」は、確かにここにあり、その行いは次の瞬間の世界と自分を形作るのです。
「無我」と「我思う故に我あり」、この二つの矛盾を受け入れるところに、仏教の神髄があるといっても過言ではないでしょう。
無我とは「自分を否定して消す」ことではありません。
「これは私のものだ」「こうでなければならない」「こうあるべきだ」という自分で自分を縛り付けている心の力を緩めることで、より自由な視点を持つことができ、他者にもやさしくなれるのです。
自分も、相手も、条件によって変わり続ける存在だとわかる。そしてそれは、自由自在にコントロールすることはできないと知る。(この部分は仏教のもう一つの基本理念「一切皆苦」にも通じますね。)
過去の失敗やレッテルに、少しずつ縛られなくなる。
「あの人にも、あの人なりの事情(条件)があったのだ」と想像できるようになり、責める気持ちが和らぐ。
つまり、無我は「何もない」という虚無ではなく、「どんな自分も、どんな他人も確固たる実体を持たずに変わりうる」という、しなやかな余白を与えてくれる教えです。
物理法則に従って変化し続ける宇宙の中で、「私」という現象もまた、刻々と生まれ変わっています。「私」も大きな縁起の流れの一部なのです。
その事実を正面から見つめ、「確固たる自分」にしがみつくのを手放した時、人は「本当の自由」と「やさしさ」を手に入れられるのかもしれません。
諸法無我は、「自分がない」と否定するための言葉ではなく、「自分も世界も、もっと柔らかく見ても良い」という、静かな許しの言葉なのだと思います。
いかがでしたでしょうか。
なかなか腑に落ちない所も多いかと思いますが、これが私の仏教です。
ありがとうございました。
