昭和の習い事は無駄だったのか――不惑を過ぎてわかった本当の価値
最近、「子どもに習い事をさせる意味はあるのか」という議論をよく目にする。
英会話は意味がない。
ピアノは将来役に立たない。
書道は時代遅れ。
そろばんなんて電卓がある。
確かに、費用対効果だけで考えればそうなのかもしれない。
だが、不惑を過ぎた今の私は断言できる。

昭和の習い事は、私の人生に大いに役立った。
そして何より、様々な経験をさせてくれた両親に感謝している。
私が子どもの頃に通った習い事は実に多かった。
学習塾では英語、数学、理科を学んだ。
特に理系科目が苦手だったため、親は補強の意味で通わせてくれたのだろう。
そろばんも習った。
英会話にも通った。
母が保育士だったこともあり、自宅にあるピアノも習った。
父は書道家だったため、自然と書道にも親しんだ。
ボーイスカウトにも参加し、空手も経験した。
今振り返ると、当時は忙しかった。
友達と遊びたい日もあったし、面倒に感じることもあった。
しかし、それらは決して無駄ではなかった。
学校では部活動にも熱中した。
陸上。
剣道。
軟式テニス。
硬式テニス。
美術。
漫画研究。
合唱。
そして演劇部。
高校時代には演劇部で全国大会優勝という忘れられない経験もさせてもらった。
当時は、それぞれが別々の経験に思えた。
ところが人生とは不思議なものである。
大人になってから、それらが一本の線でつながっていった。
営業の仕事を始めると、演劇や合唱で鍛えた発声や表現力が役立った。
電話営業では全国トップの成績を収め、最優秀セールスマン賞を受賞した。
人前で話すことにも緊張しなかった。
おそらく演劇部で舞台に立っていた経験が生きていたのだろう。
起業してからはボーイスカウトや空手で学んだ協調性や礼節が役立った。
取引先との信頼関係を築く上で、礼儀は想像以上に重要だった。
現在はnoteを書いているが、美術や漫画の経験は構成力や表現力につながっているように感じる。
父から教わった書道もそうだ。
美しい文字を書く機会は減ったが、文章を書く際の集中力や言葉への敬意は確実に残っている。
英会話や英語の学習も無駄ではなかった。
海外のニュースや文化に触れる際の土台になっている。
そろばんも同じだ。
暗算力や数字への抵抗感のなさは、経営者としての仕事に役立った。
若い頃は「何の役に立つのだろう」と思ったこともあった。
しかし人生は、学校の試験のように答えがすぐ出るものではない。
子どもの頃の経験が、何十年も経ってから突然役立つことがある。
むしろ人生とは、その連続なのかもしれない。
だから私は、昭和の習い事を否定する気にはなれない。
もちろん、すべての人が同じ道を歩む必要はない。
だが、様々な世界に触れた経験そのものが財産になる。
とうの昔に不惑を過ぎた今、私はそう実感している。
そして何より思う。
あれだけ多くの習い事をさせるのは、決して簡単なことではなかったはずだ。
送り迎えもあっただろう。
月謝もかかっただろう。
それでも子どもの可能性を信じて投資してくれた。
父と母には感謝しかない。
人生の土台は、あの頃に作られていたのだと思う。
