【歴史小説】淝水の悪夢 前秦苻堅の大軍が大敗す。
淝水(ひすい)の悪夢
夜明け前の空気は、凍えるほどに澄み渡っていた。遠くに見える淝水は、まだ夜の闇を抱き込み、その流れは音もなく黒々と横たわっている。前秦の皇帝、苻堅(ふけん)は、本陣の丘の上から、眼下に広がる百万の兵を見下ろした。旗が林立し、篝火の炎が闇夜を照らし出す。その規模は、まさに「草木も全て兵に見える」という言葉が示す通り、圧倒的だった。
「陛下、今こそ天下統一の大業を成し遂げられます!」
隣に立つ側近の慕容垂(ぼようすい)が、高揚した声で進言する。前秦は、異民族である氐(てい)族の国でありながら、苻堅の卓越した統治能力によって華北を統一し、一大帝国を築き上げてきた。残るは、長江を境に南北に分かれた江南の東晋のみ。この戦いに勝利すれば、中国大陸は再び一つの王朝の下に統合される。その栄光が、もう手の届くところにあった。
苻堅の胸には、揺るぎない自信が満ちていた。彼は、東晋軍を侮っていたわけではない。しかし、自軍の規模と精鋭ぶりを考えれば、勝利は確実だと信じていた。その自信が、彼の目を曇らせていたのかもしれない。
「よし、総攻撃の準備をせよ。東晋の小勢など、一蹴してくれるわ!」
その号令と共に、百万の大軍は重々しい足音を立てて動き出した。地響きが起き、兵士たちの鬨の声が夜空に響き渡る。
しかし、対岸の東晋軍は、わずか八万。しかし、彼らは単なる烏合の衆ではなかった。謝玄(しゃげん)や謝石(しゃせき)といった名将を擁し、背水の陣で祖国を守る覚悟を決めていた。彼らは、前秦軍の膨大な数に臆することなく、巧妙な策を練っていたのだ。
前秦軍が淝水に差し掛かった時、東晋軍は動いた。
「我らは少し後退する。そちらが渡河しやすいように、陣を空けようではないか!」
対岸から聞こえる東晋軍の呼びかけに、前秦軍の中では混乱が生じた。「敵が逃げ出したぞ!」「今こそ追い詰めろ!」兵士たちの間で動揺が広がる。
この機を逃すまいと、苻堅は判断した。
「よし、渡河せよ!追撃あるのみ!」
しかし、これが致命的な判断となる。大軍が狭い淝水を一斉に渡ろうとすれば、たちまち混乱が生じる。先鋒が対岸に到達し、陣形を整える前に、東晋軍は猛攻を仕掛けてきた。
「前秦軍が退却を始めたぞ!」
混乱に乗じて、東晋軍は「前秦軍は逃げている」と叫びながら攻撃を仕掛ける。さらに、前秦軍にいた一部の兵士が、東晋側の呼応に乗じて逃げ出すという事態が発生した。
「退却だ!退却!」
一度「退却」の声が響き渡ると、百万の大軍は統率を失い、完全に崩壊した。兵士たちは前へ進むどころか、後ろへ、後ろへと我先にと逃げ惑い始めた。後ろから押される兵と、前から逃げてくる兵がぶつかり合い、同士討ちが起こる。淝水の濁流には、武器を捨てて逃げる兵や、馬から落ちて溺れる兵が続出した。
苻堅は、丘の上からその惨状を呆然と見下ろしていた。自らの号令によって、百戦錬磨の精鋭部隊が、まるで雪崩のように崩れていく。彼の自信は、粉々に打ち砕かれた。
「なぜだ!なぜこんなことに…!」
彼は、目に映る全ての「草木」が、本当に東晋の追手に見えてくる錯覚に陥った。
「風声鶴唳(ふうせいかくれい)」――風の音や鶴の鳴き声さえも敵の声に聞こえるほどの恐怖と錯乱が、苻堅の心を襲った。
苻堅自身もまた、混乱の中で馬を走らせ、敗走を続けた。彼の天下統一の夢は、淝水の冷たい水底に沈み、二度と浮上することはなかった。この大敗を機に、前秦は支配下の民族の離反が相次ぎ、急速に瓦解していく。
淝水の戦いは、中国史上、少数の軍が大軍を破った「逆転の戦い」として語り継がれることになる。そして、苻堅の「草木皆兵」という言葉は、極度の恐怖や疑心暗鬼から、幻覚に襲われる様子を表す故事成語として、後世に伝えられていくのだった。
