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満ちることのない月 【第15章 眠らない女】

 毎日陽菜の病室に通い、毎日陽菜の身体を拭いてやり、陽菜の着るもの使うものは常に清潔なものに取り替えた。

 

 陽菜の病室に置く、新しいタオル。 


 乾燥しやすい唇に塗る保湿クリーム。


 少しでも肌あたりのいいパジャマ。


 美月の頭の中は、常に陽菜のことと生活資金のことでいっぱいだった。


 病院に通うための交通費。

 家賃。

 光熱費。

 食費。


 通帳の残高は、数字でしかないのに、見ているだけで息が苦しくなった。


 直樹の給与は、もう振り込まれない。


 それでも、時間は止まらない。


 請求書は、ちゃんと届く。


 美月は、泣く時間を削った。


 夜、陽菜の病室から帰る。


 冷えた部屋の電気をつける。


 コートも脱がず、ダイニングテーブルに座る。


 スマホを開く。


 パソコンを開く。


 作業を始める。


 最初に売ったのは、小さなハンドメイドのアクセサリーだった。

 小さなリボン。

 ピアス。

 イヤリング。

 ヘアクリップ。


 ひとつ売れて、数千円。


 送料と材料費を引けば、手元に残るのはわずかだった。


 それでも、ゼロよりはいい。


 美月は、眠る前に商品写真を撮った。


 朝方まで説明文を書いた。


 SNSに投稿した。


 パート勤務のあと病院へ行き、陽菜の手を握った。


 夜に帰宅して梱包し、また投稿した。


 同じことを、毎日繰り返した。


 何曜日か、わからなくなっていった。


 ある日、フォロワーが少しだけ増えた。


 ある日、知らない会社からDMが届い

た。


 「商品のご紹介をお願いできませんか?」


 美月は、その文面を三回読んだ。


 案件。


 たった数万円の報酬でも、目の前が少しだけ明るく見えた。


 やれる。


 もっとやれる。


 やらなきゃ。


 病室の窓際で、陽菜は今日も眠ったままだった。


 小さな胸が、規則正しく上下している。


 その横で、美月はスマホを見ていた。


 投稿時間。

 再生数。

 保存数。

 クリック率。


 モニターの数値みたいに、頭の中で並んでいく。


「美月」


 柔らかい声がして、顔を上げる。


 沙耶が、花を抱えて立っていた。


 白い百合だった。


「また来てくれたの……?」


「うん。ひとりじゃしんどいでしょ」


 沙耶は、当然のような顔で病室に入ってきた。


 花瓶の水を替えて、枕元に花を挿す。


 看護師に軽く会釈する。


 陽菜の顔を見て、少しだけ眉を下げる。


「ちゃんと食べてる?」


 そう言いながら、紙袋をテーブルに置く。


 栄養補助のゼリー。

 スープ。

 個包装のおにぎり。


 美月は、喉が詰まるような気持ちでそれを見た。


「……ありがとう」


「お礼なんていいよ。私、できることしたいだけ」


 沙耶は、いつものやさしい笑みを浮かべた。


 あの日から、彼女はずっとそばにいた。


 役所の手続き。

 保険会社への連絡。

 病院への付き添い。

 荷物の買い出し。

 SNSの相談にまで乗ってくれた。


「この投稿、もっとこうしたら伸びると思う。」


「ブランドっぽく見せるなら、色味そろえた方がいいかも。」


「ロゴ、簡単でも作った方がいいよ。」


 その助言は、どれも正しかった。


 美月は、夜中の二時にラッピング資材を切りながら、ふと手を止めた。


 指先に小さな切り傷ができていた。


 いつ切ったのかも覚えていない。


 スマホには、未読の通知がいくつも並んでいる。


 購入連絡。

 コメント。

 問い合わせ。

 企業からのDM。


 嬉しいはずだった。


 少し前の自分なら、飛び上がるほど。


 でも今は、違う。


 もっと。


 まだ足りない。


 もっと売らなきゃ。


 陽菜のために。


 その言葉だけが、身体を動かしていた。


 リビングの隅には、発送待ちの箱が積まれていた。


 床には資材。


 ソファにはサンプル。


 ダイニングにはノートパソコンと領収書。


 家が、家じゃなくなっていく。


 それでも美月は、片づけようと思わなかった。


 暮らしより先に、守らなければいけないものがある。


 ある夜、沙耶が部屋を見回して、静かに言った。


「すごいね」


 美月は、画面から目を離さずに答える。


「全然、すごくないよ」


「ううん。普通、ここまでできない」


 沙耶は、発送用の箱をひとつ持ち上げた。


「もう“趣味”じゃないね」


 美月の指が、キーボードの上で止まる。


「……そうかも」


「ブランドにしたら?」


 さらりと、沙耶は言った。


「え?」


「ちゃんと名前つけて。世界観つくって。


商品を増やして。美月ならいけるよ」


 その声は、甘かった。


 優しいのに、どこか背中を押しすぎる声。


「今は、そんな……」


「今だからだよ」


 沙耶は、美月の隣にしゃがみこんだ。


 画面の売上一覧を見つめる。


「お金、必要なんでしょ」


 その一言に、美月は何も返せなかった。


 必要だった。


 きれいごとではどうにもならないくらい。


 必要だった。


「陽菜ちゃんのためにも」


 沙耶は、やわらかく言う。


「止まってる暇、ないよね」


 美月は、ゆっくりと息を飲んだ。


 その瞬間、胸の奥の何かが、静かに決まった気がした。


 守る。


 絶対に守る。


 何を削っても。


 何を失っても。


 それから、美月は本当に眠らなくなった。


 朝、病院。

 昼、仕事。

 夕方、病院。

 夜、投稿。

 深夜、制作、撮影。

 明け方、返信。


 数時間だけソファで目を閉じる。


 目覚ましが鳴る前に、目が覚める。


 夢の中でも、数字が流れていた。


 売上。

 フォロワー。

 在庫。

 クリック率。

 入金予定日。


 陽菜の心拍モニターの音と、スマホの通知音が、頭の中で同じように鳴るようになっていた。


 ある日、病室で看護師に言われた。


「お母さん、少し休んでくださいね」


 美月は笑った。


「大丈夫です」


 その笑顔が、自分でも知らない顔をしていた。


 病室の窓に映った自分は、頬がこけていた。


 目の下に、濃い影がある。


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 やっている。


 戦っている。


 そう思える顔だった。


 美月は、眠る陽菜の額にそっと触れた。


「待っててね」


 返事はない。


 機械の規則正しい音だけが、静かに続く。


「ママ、絶対に守るから」


 その言葉は、祈りではなかった。


 誓いでもない。


 もっと冷たくて、もっと強いものだった。


 病室を出ると、廊下の向こうで沙耶が手を振っていた。


「お疲れさま」


 やわらかな笑顔。

 きれいな髪。

 完璧な声。


 そのときの美月には、まだわからなかった。


 自分が必死で駆け上がろうとしている階段のすぐ下に、彼女が静かに立っていることを。




#創作大賞2026

#ミステリー小説部門



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Rei ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。 この記録が、誰かの不安を少しでも軽くできたり、「自分だけじゃない」と思えるきっかけになれたら嬉しいです。 もし応援したいと思っていただけたら、 今後の執筆活動の励みになります☺️