満ちることのない月 【エピローグ】
海の見える朝
二年後。
朝の光が、やわらかくカーテンの隙間から差し込んでいた。
波の音がする。
美月は、コーヒーの香りで目を覚ました。
東京ではない。
高層ビルでもない。
海の見える、小さな家。
白い壁。
木の床。
窓を開ければ、潮の匂いがふわりと入ってくる。
庭のほうから、元気な笑い声が聞こえていた。
「ママー! 見てー!」
美月は、マグカップを手にしたまま、窓辺に立つ。
庭では、陽菜が、雑種で保護犬のレオと一緒に走り回っていた。
十歳になった陽菜は、背も少し伸びて、笑うと昔のまま目が細くなる。
時々、こうして、朝のコーヒーをいれてくれる。
髪をひとつに結んで、朝から全力で走っている。
レオが先に走る。
陽菜が追いかける。
転びそうになって、でも笑っている。
「ずるいー! 待ってー!」
その声に、美月は思わず笑った。
「転ばないでよー」
「だいじょうぶー!」
空へ放るみたいな、明るい声だった。
その声を、もう二度と聞けないかもしれないと思っていた時期がある。
事件のあとも、陽菜は長いあいだ眠ったままだった。
白い病室。
規則正しく鳴る機械音。
動かない小さな手。
呼びかけても返らない、まぶた。
医師は、慎重に言葉を選んだ。
希望を捨てろとは言わない。
でも、常に覚悟はしておいてください。
美月は、毎日病室に通った。
朝も。
夜も。
眠ったままの陽菜の髪を撫で、小さな手を握り、何度も話しかけた。
今日の空の色。
直樹のこと。
庭の花のこと。
昔、三人で行ったスーパーの話。
陽菜が好きだった絵本の話。
返事はない。
それでも、美月は話し続けた。
もう聞こえていないのかもしれない。
そう思った夜もあった。
それでも、やめられなかった。
陽菜は、ここにいる。
まだ、ここにいる。
そう信じるしかなかった。
季節がひとつ変わる頃。
ある朝、陽菜の指先が、ほんのわずかに動いた。
最初は、見間違いだと思った。
けれど、もう一度。
小さく。
本当に、小さく。
「……陽菜?」
美月が名前を呼ぶ。
まぶたが、かすかに震えた。
その瞬間のことを、美月は一生忘れない。
長い夢の底から、光を探すみたいに。
ゆっくりと、ゆっくりと。
陽菜は目を開けた。
かすれた視線が、美月を見つける。
そして、乾いた唇が、わずかに動いた。
「……ママ」
それだけだった。
たった、それだけ。
けれど、それだけで十分だった。
泣きながら笑った。
声にならなかった。
ありがとうも、ごめんねも、何ひとつうまく言えなかった。
ただ、陽菜の手を握っていた。
失ったと思っていた時間が、静かに、もう一度動き出した。
もちろん、すべてが元通りになったわけではない。
長いリハビリもあった。
陽菜が怖がる夜もあった。
ふいに黙り込む日もあった。
それでも、陽菜は少しずつ笑うようになった。
少しずつ走れるようになった。
少しずつ、また季節の中へ戻ってきた。
美月は、静かに息を吐いた。
会社は、今も続けている。
女性向けブランドは順調だった。
以前のように数字だけを追いかけることは、もうしない。
必要な人に任せることを覚え、手放すことも覚えた。
その代わりに、もうひとつ、自分で立ち上げたものがある。
小さなNPO法人。
ひとり親家庭。
経済的に厳しい家庭。
頼れる場所の少ない親たち。
子どもを抱えながら、息をするだけで精一杯の人たち。
かつての自分が、もし別の形で追い詰められていたら。
もし、少しでも支えてくれる場所があったなら。
そんな思いから始めた活動は、まだ小さい。
でも、たしかに誰かの灯りにはなっていた。
豪華じゃなくていい。
大きくなくていい。
誰かが、今日を越えられるなら。
「ママー! 朝ごはんまだー?」
陽菜が窓の外から叫ぶ。
「もうちょっとー!」
「おなかすいたー!」
「さっきクッキー食べたでしょ」
「一枚だけー!」
陽菜の笑い声が、朝の庭いっぱいに広がった。
美月は、コーヒーをひとくち飲む。
少し苦い。
でも、その苦みさえ、今は好きだ。
ふと、窓の向こうに広がる海を見る。
まぶしい朝の光が、水面の上で揺れている。
昔の自分なら、こんな場所を“何もない”と思ったかもしれない。
不便で、地味で、退屈だと。
けれど今は違う。
ここには、ちゃんとある。
風の匂い。
朝の光。
温かいマグカップ。
犬の足音。
娘の笑い声。
遠くで輝くものを、もう数えなくていい。
見上げた先にあるものを、手に入れなくてもいい。
月は、満ちなくても夜を照らす。
欠けたままの光でも、帰る場所くらいはちゃんと見つけられる。
満ちすぎた光は、ときに眩しすぎて、足もとのぬくもりを見失う。
だからきっと、このくらいがいい。
誰かの声が、ちゃんと届くくらいの明るさで。
「ママー! はやくー!」
「はいはい、今行くー!」
美月はマグカップを置き、窓から離れた。
その背中に、朝の光がやさしく落ちる。
波の音。
犬の鳴き声。
陽菜の笑い声。
もう、上を見上げることはない。
玄関の扉を開ける。
潮風が、ふわりと頬を撫でた。
そして美月は、
空よりもまぶしいその声のほうへ、
静かに歩いていった。
了
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ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この記録が、誰かの不安を少しでも軽くできたり、「自分だけじゃない」と思えるきっかけになれたら嬉しいです。
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