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恋愛小説:マシーン・ガン(2)Little Wing #創作大賞2025

1

音楽室には、先ほどのブルースとは異なる、優しく柔らかな音色が響き始めました。

穏やかで、どこか切ないメロディーが、夕暮れの音楽室に満ちていきます。一音一音がアルペジオのように丁寧に紡がれ、誰かの背中にそっと羽織らせるブランケットのような温かさを持っていました。

彼女の指先は、迷いなくギターの弦の上を舞うように滑り、風に乗って踊る羽根のようでした。

アンプからは、かすかにオーバードライブがかかった音が静かに滲み出し、夕陽に溶けるように教室の空気に溶け込んでいきました。

クリーンと歪みの境目を行き来するようなそのサウンドは、どこまでも繊細で、人の心の奥深くに潜む揺れや葛藤をなぞるような響きをしていました。

その音楽は、小鳥が空を自由に飛び回る姿を思わせました。高く舞い上がり、ふわりと風に乗って漂い、そしてまた地上にそっと降り立つような――そんな自由さと静けさが共存する、不思議な音楽でした。

フレーズの一つ一つが、優しい声で「私はここにいるよ」と語りかけてくるようで、僕の胸の奥に染み込んできました。何かを抱え、言葉を使わずにすべてを伝えようとしているような。

僕は気づきました。

この曲も――僕は、知っている。

ジミ・ヘンドリックスの「Little Wing」。

名前を思い出すというより、もともと昔から知っていたように、曲の中にその名前が染み込みました。

どこかで聴いたことがある、そのような曖昧な記憶ではありません。その音色と旋律が、彼女から出された時、眼前のスクリーンに曲名がキャプションとして自然と浮かび上がりました。

柔らかなコードワークが、そっと空気に溶け込むように広がり、彼女の指先から紡ぎ出された一音一音が、教室を優しく揺らめかせました。ガラス窓から差し込む金色の光が、彼女の髪と肩を照らし、演奏そのものが光をまとっていました。

アルペジオとコードが織りなすメロディーは天使の羽ばたきのように繊細で、力強さも秘めていました。

彼女は時折目を閉じ、深く息を吸いました。その度にフレーズは新しい表情を見せます。

彼女がギターを奏でる姿は、まるで現実から静かに距離を置きながら、別の世界へと沈み込むための、前奏のように聞こえました。その音は、ただ耳に届くだけでなく、教室の空気を少しずつ変えていくようでした。彼女の指先が生み出す一音一音が、その世界の扉を開け放ち、僕の視界にも、その向こう側の風景がうっすらと滲むように見えてきました。彼女の奏でる音の波に乗って、僕は知らない場所へと導かれていくような気がしてきました。

演奏を聴きながら、僕の中に、彼女の日常の断片が浮かび上がってきました。それは、まるで彼女の記憶が音楽によって引き出され、僕の中に流れ込んでくるようでした。懐かしい記憶が、断片的に蘇ってくる。しかし、それは本当に僕の記憶なのか。それとも彼女の記憶なのか。境界線が曖昧になっていく感覚がやって来ました。

2

──教室の隅で、一人きり。大きな窓から差し込む午後の光を背に浴びながら、彼女は静かにスケッチブックを開いていました。細い指先で握られた鉛筆は、まるで踊るように紙の上を走り、繊細な線が重なり合い、ひとつの物語を紡いでいくようでした。彼女の表情は真剣そのもので、けれど、どこか満たされたような穏やかさがそこにありました。

昼休み。ざわめく教室の中でも、彼女は窓際の席で静かに過ごしていました。白いイヤホンを耳に差し込み、頬に光を受けながら、ノートのページに何かを書き留めている。音楽の歌詞だと気づいたのは、彼女の筆跡が時折震えていたからでした。まるで心が揺れる瞬間を、そのまま紙に写し取っているかのように、彼女は丁寧に言葉を選びながら、ひと文字ひと文字を刻んでいました。

体育館の裏手。昼の喧騒から離れた、日陰の狭い空間。誰にも見られたくない秘密の練習場所のように、彼女はひとりで楽器の持ち方を真似ていました。まだギターを手に入れる前だったのかもしれません。傘の柄をネックの代わりにして、手元の動きだけを確かめていた姿が、なぜか胸に強く残っていました。目を閉じ、頭の中の音を辿るように、弦もない空中をなぞるその姿は、まるで見えない何かに手を伸ばしているようでした。

図書室の一番奥、誰も寄りつかない窓際の席。そこに彼女はいました。周囲の時間が止まったかのように、音楽理論の本を開き、ページをめくるたびに眉を寄せ、メモを取りながら読み込んでいました。譜面、コード、スケール、構成…。分厚い専門書を何冊も積み重ねては、ひとつひとつを自分の言葉でノートに書き写していくその姿は、まるで誰よりも真剣に、音楽に恋をしているようでした。

雨の午後。薄暗い校舎の玄関先。濡れた前髪を無造作に掻き上げながら、彼女は立ち止まってスマートフォンを見つめていました。画面にはコード進行表。指でスクロールしながら、眉間にしわを寄せて、何かを必死に確かめるようにしていました。周囲の生徒たちの笑い声や足音に目もくれず、まるでそれが、今この瞬間のすべてであるかのようでした。

文化祭の準備が始まる教室。みんなが装飾の相談をしたり、笑い声が飛び交ったりするなかで、彼女はひとり窓際の席に座っていました。目を閉じ、リズムを確かめるように机を軽くタップしている。指先がトン、トン…と一定のリズムを刻み、肩がわずかに揺れる。目を閉じたまま、彼女の表情はとても穏やかで、けれどその奥には、誰にも見せない強い意志のようなものが感じられました。誰よりも遠くにいて、誰よりも音楽の近くにいる人。そんな印象がありました。

──そんな彼女の情景すべてが、彼女のギターの音に重なって聞こえてきました。過去の時間が、音になって僕の中に流れ込んでくる。それは、彼女の「ダイジェスト」でした。

そして、それらの記憶には共通点がありました。──彼女は、いつも一人でした。

3

それは偶然ではなく、あまりにも自然な彼女の日常としてありました。

朝の教室。始業前のざわつきの中でも、彼女の席だけがぽつんと静かで、周囲と時間の流れが少し違っているように見えました。友達とふざけ合う姿も、誰かに話しかけられて笑顔を見せる場面はありませんでした。

誰かと連れ立って登校したり、一緒に帰る姿もない。授業中のグループワークや班活動でも、彼女は控えめにうなずくだけで、会話の輪に積極的に加わることはありませんでした。何かを避けているというよりは、最初からそこに居場所がないかのような佇まいでした。

彼女のスケッチブックに描かれた絵は、静かな線で構成された世界で、そこには誰の姿もなく、風景や空や、抽象的な模様ばかりが描かれていました。まるで、心の奥底からこぼれ出るものを、そのまま紙に写し取ったような線でした。

ノートに書き込まれた歌詞もまた、誰かに向けられたものではなく、彼女自身の心に語りかけるような、閉じた世界の言葉でした。孤独と静けさの中から生まれたそれらの創作物は、決して寂しさを嘆くものではなく、むしろ孤独と共にあることを選び取った者の強さを感じさせました。

放課後になると、彼女は図書室へ向かっていました。窓際の一番奥の席。人の気配が届かないその場所で、彼女は分厚い音楽理論の本や詩集を広げ、指でページをなぞりながら、黙々と読みふけっていました。視線の動きも、ページをめくる指の速さも、一切の無駄がなく、誰にも邪魔されたくないという意志が伝わってくるようでした。

雨の日の夕方、下駄箱の前で彼女は立ち尽くしていました。制服の肩に雨粒を乗せ、濡れた髪を無造作に手でかき上げながら、片耳だけにイヤホンを差し込んでいました。静かに流れる音楽に身を預けるように、彼女は目を閉じて立っていました。誰かを待っている様子もなく、ただそこに、自分だけの時間を持っているように見えました。

休み時間。クラスメイトたちが笑い声を上げてゲームをしたり、恋の話で盛り上がったりしている間も、彼女は教室の隅に静かに座っていました。スケッチブックを広げて絵を描いたり、イヤホンをして音楽に集中したり、ときにはただ窓の外の空を、じっと眺めていたりしました。その横顔には、どこか夢を見ているような、でも同時に強く現実を見つめているような、不思議な静けさがありました。

誰かに話しかけられることは、ほとんどありませんでしたし、彼女自身もまた、誰かに声をかけることはありませんでした。

廊下ですれ違っても、彼女の表情が変わることはなく、目が合っても、その視線はすぐにどこか遠くへと移っていきました。

彼女のその孤独は、果たして彼女自身が望んで選び取ったものなのか。それとも、周囲の無関心や、無言の境界線によって与えられてしまったものなのか。僕にはわかりませんでした。

ただ、彼女が過ごしていたその静かな時間の奥に、目には見えない痛みや、声にならない願いが、確かに息づいているような気がしました。彼女の佇まいは、誰にも触れさせないように、そして誰かに気づいてほしいように――どこか矛盾をはらんでいて、なんというか――僕には美しく、切なく感じられました。

彼女の奏でる「Little Wing」の音色は、記憶の扉を開き、僕に提示する力を持っていました。優しく揺らめくメロディーは、封印されていた過去の断片を、粒子が形を作り出すように呼び覚ましていました。

それは、誰かが古いアルバムをめくるように、一枚一枚の写真を見せてくれる感覚でした。しかし、その「誰か」が誰なのか、はっきりとはわかりません。僕なのか、彼女なのか、それとも別の誰かなのか。記憶の主体が曖昧なまま、映像だけが次々と明確に、彼女のギター演奏の横に、背後に、眼前に、浮かび上がってきます。

そしてそこに、違うシーンがでてきました。


それは彼女を見つめる僕の姿でした。

4

教室の隅で絵を描く彼女を見つめるとき、僕は廊下から覗き込むようにして立っていました。他の生徒たちが賑やかに過ごす中、僕だけがその場所に佇んでいるような感覚。窓からの午後の光が、彼女の姿を透明な膜で包むように照らしています。

図書室では、本棚の影に隠れるようにして彼女を観察していました。誰にも気づかれることなく、音楽の専門書に没頭する彼女の横顔を見守り続けます。夕暮れの図書室は静寂に包まれ、僕の存在さえも空気の一部のように溶け込んでいきました。

雨の日、下駄箱の前の彼女を見るときは、僕は階段の陰にいました。濡れた髪を掻き上げる仕草に目を奪われながら、スマートフォンの画面に映るコード進行を真剣に確認する彼女の姿を、誰にも気づかれないように見つめていました。

桜の木陰で歌詞を書く彼女を見るとき、僕は古びた倉庫の影に寄り添うように立っていました。微風に揺れる髪、ペンを走らせる指先、深い思考に沈む表情—それらすべてを、存在を消すように静かに見守り続けていました。

文化祭準備の教室では、僕は後ろの席から彼女を見ていました。騒がしい空間の中で、窓際で静かに指先を動かす彼女の姿は、まるで異次元の存在のように見えました。そして不思議なことに、僕の存在に気づく生徒は誰一人としていませんでした。

そんなシーンの再生を見ながら、僕はふと気がつきました。

僕は彼女と一度も言葉を交わしたことがありませんでした。

僕は彼女と一度も目を合わせたことがありませんでした。

教室の隅で、図書室で、下駄箱の前で、桜の木陰で、文化祭準備の教室で──いつも僕は彼女を見ているだけでした。話しかけようとしたこともなければ、彼女から話しかけられたこともありません。

まるで影のような存在として、僕はただ彼女の日常を見守り続けていただけなのです。

いや、それは「見守る」というよりも、「見ている」という表現の方が正確かもしれません。

──ふと、不思議な感情が湧き上がってきました。

僕は、彼女のことをどう思っていたのか?

この記憶は本当なのか?

今、僕は彼女に何を感じているのか?

そして──僕は、彼女が好きなのか?

僕が見ているものは、自分自身の一部を見つめているような不思議な光景でした。彼女の一挙一動を把握し、その内面までも理解できるのは、同時に自分の心を覗き込んでいるからかもしれない。彼女の存在は、僕の内なる何かを映し出す鏡のようでした。

僕は彼女のことを常に見つめ、その行動を把握しています。しかし、それは恋愛感情とは異なる、もっと根源的な何かのような気がしました。

僕の彼女への「執着」。彼女の孤独に共感し、その痛みを理解できるのは、それが自分自身の感情であるからかもしれない。彼女の孤独な姿を見つめることは、どこか自分自身を見つめることに似ていたのです。

その違和感は、徐々に大きな疑問となって僕の中で膨らんでいきました。

──なぜ僕は彼女と話すことができないのか?彼女はなぜ僕を見ないのか?

なぜ彼女は僕の存在に気づかないのか。

そして何より、なぜ僕は彼女のことをこれほどまでに詳しく「見ること」ができるのか。

ギターの音色が部屋に満ちるたびに、再生映像はより鮮明に、より深く、僕の意識の中に沈み込んでいきました。まるで音楽そのものが、失われた時間を紡ぎ直しているかのようでした。

やがて、記憶は変化していきました。これまで見てきた学校での風景から、まったく違う場面が浮かび上がってきました。

それは僕が見ているはずのない光景でした。

5

下校途中の彼女が、中古レコード店に立ち寄る姿。棚の間をゆっくりと歩きながら、ジミ・ヘンドリックスのアルバムを手に取り、ジャケットを食い入るように見つめています。

自宅の部屋で、ヘッドフォンを付けながらギターの練習をする彼女。指先が弦を掠める度に、小さな痛みに顔をしかめながらも、諦めることなく同じフレーズを繰り返しています。壁には数枚のギタリストのポスターが貼られ、机の上には楽譜が散らばっています。

休日の午後、近所の公園のベンチで、スケッチブックに風景を描く彼女。時々空を見上げては、また絵に向かう。誰にも見せることのない、自分だけの作品を生み出すその時間が、彼女にとっての安らぎだったのかもしれません。

これらのシーンは、さらなる疑問を生みました。

なぜ僕は、見ていなかったはずの彼女の生活が見えるのか。

この映像は、主観的すぎるのです。

そう、それは「僕」の目を通して見た、彼女の見る俯瞰のようでした。

でも、もしそうだとすれば、彼女はそれをなぜ僕に見せようとしているのでしょうか。

その疑問が、ギターの音と共に混沌と流れていきました。

6

「Little Wing」が終わり、彼女の指先が静かにギターの弦から離れると、音楽室はふたたび深い静寂に包まれました。

風のように軽やかだった旋律の余韻が、まだ空気のどこかに漂っているような感覚がありました。アンプからは、ごくわずかなノイズが、教室の中の静けさをかすかにかき乱すように鳴り続けています。

窓から差し込む夕陽はすでに傾きはじめ、僕たちの影を長く引き伸ばしながら、壁に映し出していました。影の中で、彼女はしばらく動かず、静かにギターを抱いたまま、膝の上に視線を落としていました。

そして、ゆっくりと顔を上げると、彼女はまた一瞬だけ、こちらを見ました。

その視線はまるで、僕の存在だけでなく、部屋の空気そのもの――時間や温度や、目には見えない感情までも見通しているような眼差しでした。

彼女は、自分自身の感情は読み取らせないように、すっと視線を外しました。

そして彼女は静かに立ち上がりました。

ギターを改めて抱えなおし、アンプのつまみを調整します。その手の動きにはためらいがありませんでした。

そして、一瞬──

教室の空気が無音になり、凍りついたように感じました。

「リトル・ウィング」は、ジミ・ヘンドリックスの代表作の一つです。1966年、グリニッジ・ヴィレッジでの演奏中に最初のアイデアが生まれ、カーティス・メイフィールドの影響を受けたギタースタイルで制作されました。1967年のモントレー・ポップ・フェスティバルでの体験が大きなインスピレーションとなり、同年10月に完成。アルバム『アクシス:ボールド・アズ・ラブ』に収録され、12月にイギリスでリリースされました。ヘンドリックスは、モントレーでの周囲の光景―人々の様子、雰囲気、警察官たちの親切な態度など―を一つの音楽作品へと昇華させました。彼は「すべてを小さなマッチ箱に詰め込んで、女の子の形にして再現した」と語っています。

Little Wing - Wikipedia

Edited by REI / with support from ChatGPT , Image generated with Canva

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