【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第2章:見なかったふり
目を開けたとき、カーテンの向こうの光は、真っ白ではなく少しだけ灰色を含んでいた。雲の膜を一枚通して届いてくるみたいな、輪郭の甘い光だった。天井の模様をぼんやり見ながら、今日は何曜日だったかをすぐには思い出せない。枕元のスマートフォンに手を伸ばす前に、昨夜の川沿いの空気が先に戻ってくる。金属の欄干の冷たさと、水の匂いと、隣に座っていた人の体温の気配。
胸の奥で、時間が少し逆流する感覚がして、思わず目を閉じ直した。もう一度深く眠れるわけでもないのに、朝の光をすぐには受け止めきれなかった。昨夜、帰り道の電車の中で何度も川面の揺れを思い出し、布団に入ってからは天井の薄暗さの中で久遠さんの声をなぞり続けた。その反芻を、完全に止めたタイミングがどこなのか、自分でも分からない。
スマートフォンの画面を点けると、通知のアイコンがいくつか並んでいる。ニュース、通販サイト、友人のグループトーク。その中で、昨夜のメッセージアプリには新しい吹き出しが増えていないことに、少しだけ肩の力が抜ける。がっかりした自分と、ほっとした自分が同時に顔を出して、その二人が狭い胸の中で押し合いをしていた。
布団から出ると、床の冷たさが足裏を通して身体に這い上がってくる。キッチンで電気ケトルのスイッチを入れる。静かな部屋の中で、湯が温まり始める音だけが大きく聞こえる。コーヒーの粉をマグカップに落としながら、私は自分の手の甲をじっと見つめる。昨夜、欄干にかけていたときと同じ手。そこに誰かの手が触れたわけでもないのに、触れられたあとみたいにざわざわしている。
湯気の立つマグカップを片手に、窓辺に立つ。建物と建物の隙間から覗く空は、まだ一日の色を決めかねているみたいで、青とも白とも言い切れない。遠くを走る電車の音が、壁越しにわずかに伝わってくる。その音に、昨夜、中目黒の橋の上を渡っていった車のライトを重ねてしまう。都会の音はみんな似ているのだと、強引に思い込もうとしても、なかなかうまくいかない。
シャワーを浴びて服を選び、化粧をしているあいだも、頭のどこかでは同じ質問がぐるぐるしていた。あの川沿いのベンチで、私はどこまで踏み込んでしまったのだろう。少しだけ話す、そのはずの時間の内側に、何を置いてしまったのか。鏡の中の自分の顔は、特別なことがあった翌日の顔というより、寝不足を隠そうとしていつもより丁寧にベースメイクをした会社員の顔をしている。
家を出ると、廊下の空気にはまだ夜の冷たさが薄く残っていた。エレベーターの鏡に映る自分の姿を、できるだけ長く見ないようにして、一階へ降りる。外に出ると、通りには既に通勤の人の列ができ始めていた。誰もが同じ方向へ急ぎながらも、それぞれの速度で歩いている。私はいつもの位置に並んで、駅までの道を足音で数える。
電車の中は、いつもの朝より少し静かに感じた。イヤホンから漏れる小さな音や、ページをめくる紙の擦れる気配や、誰かの咳払い。そういった細々した音が、車体の揺れと一緒に身体に伝わってくる。窓ガラスに映る自分の横顔を見ないように、外の景色に視線を向ける。高架を走る線路の下で、別の路線の電車がすれ違っていく。その光景に、中目黒の川面の光の筋をなぞりたくなるが、ぐっと堪える。
会社のビルの前に着いたとき、風の冷たさは少し和らいでいた。人の出入りで自動ドアがひっきりなしに開閉し、そのたびに室内の空気が薄く外へ漏れてくる。その温度の差が、今日という一日に境界線を引いているように思えて、私は深呼吸を一つしてから中に入った。
フロアに着いたのは、まだ机の半分にしか人がいない時間帯だった。蛍光灯は全部点いているけれど、椅子が空のままの島には薄い影が残っている。自分の席まで歩きながら、私は意識的に視線を散らした。入口に近いところにある久遠さんの席に、目を向けてしまわないように。
机の上には、昨日のままの資料とゲラが積み上がっていた。その横に、封を切っていない小さな箱が一つ。クライアント名の入った送り状が貼られている。中身を確認しなければと思いながらも、手はすぐには伸びなかった。段ボールの角を指先で軽く押して、その硬さに昨夜のベンチの木の感触を重ねてしまい、自分で自分に苦笑する。
コートをハンガーに掛け、スマートフォンをマナーモードにしたまま引き出しにしまう。一度だけ、画面を点ける。新しいメッセージは来ていない。何も動いていないことを確認して、ほんの少し安心したふりをする。動いてほしくないはずなのに、動かなかったことに落ち着ききれない自分がいる。その矛盾を、まだ言葉にしてしまう勇気はなかった。
いつものように、まずはコーヒーを淹れに行くことにした。マグカップを手に、給湯スペースへの細い通路を歩く。カーペットの上を歩く足音が、まだまばらだ。窓の外のビルの壁には、朝の光が斜めに差し始めていて、凹凸に沿って淡い陰影ができている。電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。静かな場所で、湯が沸き始める音は、川の音よりもずっと具体的で事務的だ。
背後の通路を誰かが通り過ぎる気配がした。肩にかかる気配の重さで、誰なのかだいたい分かるようになってしまった自分が少し嫌になる。振り返るのを少し遅らせてから、何事もないように顔を上げる。
「おはようございます」
後輩のライターが、半分眠たそうな顔でマグカップを持って立っていた。私はマグを軽く持ち上げて挨拶を返す。彼女は電子レンジに弁当箱を入れながら、今日の取材の段取りについて簡単に話してくる。そのやり取りをしているあいだだけ、頭の中のざわつきは一時的に薄まる。
給湯スペースを出て席に戻ると、フロアの奥からエレベーターのドアが開く音がした。その音を聞いて、私はマグカップを置くタイミングを少しだけ遅らせる。視線を動かさなくても、誰かの革靴がカーペットを踏む音が近づいてくるのが分かる。その歩幅と、呼吸のリズムに、もう身体が慣れてしまっている。
「おはようございます」
入口近くで何人かに向けた挨拶の声がして、その声の主が誰なのかを確認するまでもなく、胸の内側が一瞬固くなる。資料の束をめくるふりをしながら、私はパソコンの画面に視線を固定した。画面の明るさが、頬の温度をごまかしてくれるような気がした。
「相沢さん」
名前を呼ばれたとき、私はわざと一拍置いてから顔を上げた。机越しに見えた久遠さんは、いつものスーツを着て、いつものように肩からバッグを下げていた。ネクタイの結び目も、シャツの襟も、昨日までと何も変わらないはずなのに、視界の中で彼の輪郭だけが少し濃く見える。
「昨日、あのあと大丈夫だった?」
周りの人にも聞こえるくらいの声量で、しかし中身だけは私にだけ向けられたような言葉だった。川という単語も、ベンチという単語も使わずに、昨夜のことを指している。その曖昧な指し方が、かえって具体的だ。
「ちゃんと帰りました。ちゃんと寝ました」
自分でも驚くくらい、口が自然に動いた。余計なことを足さないように、言葉の形を四角く揃える。睡眠の質まで正直に報告する必要はない。どれくらい天井を眺めていたかなんて、知らなくていいはずだ。
「それならよかった」
そう言って、彼は少しだけ表情を緩めた。その変化を見た瞬間、胸の中の何かがじわりと溶け出す感覚がした。何に対して安堵しているのかを考え始めると、答えのない問いが増えてしまう。私はマグカップを指先で回し、コーヒーの表面にできる小さな波を見つめるふりをした。
「午前中の打ち合わせ、一緒に出てもらっていい?」
仕事の話に切り替わると、空気の密度が少し変わる。私は画面のカレンダーを一瞥してから頷いた。
「はい。資料、あとで共有します」
こういうやり取りは、身体が覚えてしまっている。必要な言葉だけを取り出し、必要な場所に置いていく作業。会議室での役割分担も、クライアントとの距離の取り方も、何度も繰り返してきた動きだ。その中に、昨夜のベンチの距離感を混ぜなければいいだけのはずなのに、その「だけ」が一番難しい。
久遠さんが自分の席に向かうあいだ、私はパソコンを立ち上げ、社内チャットを開いた。通知の一覧には、プロジェクトのスレッドがいくつか新しく動いている。そこには、中目黒の水面も、川沿いのベンチも、一切映り込まない。オフィスという箱の中での彼と私の関係を、きちんとオフィス用の形に戻すための場でもある。
それでも、画面の端に小さく表示された久遠蓮のアイコンを見るたびに、昨夜の川沿いで聞いた声の温度が、うっすらと背中をなぞる。仕事のやり取りの中で、「ずるい人だなって思いました」と言ったあとの沈黙を思い出しそうになって、慌ててメモ帳アプリに視線を移した。
午前の打ち合わせ用のメモを整理しながら、自分にとっての「少しだけ」の範囲を考える。メッセージに返信すること。川沿いのベンチに座ること。あの夜の話を忘れていないと口にしてしまうこと。どこからどこまでが、まだ戻れる場所の内側に含まれているのだろう。線を引こうとすればするほど、その線は水の上に描いたように揺れてしまう。
会議室に向かう時間が近づいてきて、私はノートとペンとパソコンを抱えて席を立った。通路の向こうで、久遠さんもほぼ同じタイミングで椅子から立ち上がる。互いに自然な距離を保ちながら、同じ方向へ歩き出す。足音のリズムが、少しずつ揃っていく。そのわずかな同期に、昨夜の川沿いの静けさを重ねてしまいそうになって、私は意識的に視線を前だけに向けた。
会議室のドアの前で一瞬だけ並んだとき、彼の指がドアノブに触れるのが見えた。その手の甲に落ちた蛍光灯の光が、妙に鮮明に目に焼きつく。あの夜、欄干にかけていた手と同じ形。そこに触れたいと思ったことは一度もないのに、触れたら何かが決定的に変わってしまうだろうという確信だけが、静かに胸の奥に沈んでいる。
会議室のドアが閉まる音が、外のざわめきとこちら側の空気をきれいに分けた。壁に埋め込まれた空調の吹き出し口から、冷たい風が一定のリズムで降りてくる。長方形のテーブルの真ん中に置かれたスピーカーフォンのランプが、接続待ちの色で点いたり消えたりしている。その小さな明滅を見ていると、自分の呼吸までそのテンポに合わされていく気がした。
私はテーブルの端にノートとパソコンを広げ、いつもの位置に座る。向かい側には久遠さん。彼は資料を数枚重ねて持ち、画面に向ける顔を少しだけ上げている。さっき通路を歩いてきたときと同じ人なのに、会議室の椅子に腰を下ろした瞬間から、輪郭の線がはっきりした気がした。夜の川沿いでゆるんでいた何かが、ここではきちんと締め直されている。
画面がつながり、クライアントの顔がいくつか並ぶ。モニターの光が、彼の頬に薄く反射する。その明かりを見ていると、昨夜、街灯の光の下で見た横顔がふいに重なってしまう。あのときの彼は自分の過去の話をしていて、今の彼はクライアントの未来の話をしている。その違いが分かっているのに、声の質の奥に同じ疲れの層を見つけてしまう。
「本日はお時間いただきありがとうございます。前回のご提案を踏まえて、今日は企画案の方向性をもう少し具体化してお話しできればと思っています」
冒頭の定型的な挨拶を、彼は滑らかに口にする。画面の向こうでうなずく人たち。私はテーブルの下でペンを握り直し、メモのページを新しく開いた。彼の言葉のどこにクライアントの表情が動くか、その細かな揺れを逃さないように目を凝らす。
途中で、彼が一度こちらを見る。次に話す役目をこちらに渡す合図だと分かる、短い視線。私はうなずき、画面に映る資料のページを切り替えた。
「今お話しした全体像を、実際にユーザーが触れる場面に落とすと、こういった流れになります」
自分の声が、会議室の狭い空気の中で、思ったよりよく響く。夜の川沿いで話したときより、少し高いトーン。仕事用の抑揚を保ちながら、言葉の端だけ柔らかくしていく。そのバランスを取ることは、もう癖になっていた。
「先ほどご指摘いただいた、生活に近い表現という点で言うと……」
クライアントの言葉を受けて、私は例を出しながら言い回しを変えてみる。画面の向こうで、相手の肩が少しだけ落ちて、口元が緩む。その変化を確認してから、最後の一文を付け足す。自分の声の隣で、久遠さんの声が重なる。その重なり方は、夜の川沿いでは決して聞くことのなかった種類のものだ。
会議が終盤にさしかかるころには、私のノートのページはひととおり埋まっていた。図で描いた矢印の間に、相手の反応の印。その隙間に、余計な言葉が書き込まれそうになるたび、私はペン先を別の方向へ向けた。昨夜のことを、このページに混ぜてはいけない。そう思うほど、頭の片隅であの質問が浮かび上がってくる。
俺のこと、どう思ってる?
会議室の壁に掛かった時計は見ないようにしているのに、時間の厚みは空気の重さで感じ取れる。画面の向こうのクライアントが締めの言葉を述べ、こちらも定型の挨拶で応じる。接続が切れると、スピーカーフォンのランプがぱたりと消えた。その瞬間、会議室の中の静けさの色が変わる。
「お疲れさま」
彼が椅子の背に体を預けながらそう言った。会議中の顔より、ほんの少しだけ力の抜けた横顔。私はノートを閉じ、パソコンをスリープにしながら軽く笑う。
「お疲れさまでした」
「最後のあの言い回し、助かった。あれでだいぶ向こうの温度が下がったと思う」
「そうだといいんですけど」
ありがとう、と言われるより、その「助かった」という言葉の方が心に残る。昨夜もどこかで似たようなことを言われた気がして、記憶の引き出しが静かに開きかける。彼はそれに気づいているのかいないのか、ペンを指の間でくるりと回しながら天井を見上げた。
「やっぱり相沢さんは、相手の顔色見ながら言葉置くのうまいな」
「それ、褒めてるんですか?」
「もちろん」
即答だった。その即答ぶりが、かえって照れ隠しに見えた。私は視線をテーブルに落とし、ノートの端に書き残した矢印を指でなぞる。そこに、昨夜の川沿いの欄干の冷たさが一瞬戻ってきて、自分で自分に苦笑した。
会議室を出ると、フロアは昼の匂いを纏い始めていた。レンジで温められた弁当のソースの匂いと、紙コップのスープの湯気と、コピー紙のインクの匂いが、薄く混ざり合っている。窓際の席には、外の光が斜めに差し込んで、キーボードの列を明るく照らしていた。その光を横目に見ながら、自分の席に戻る。
午前中のメールをいくつか返し、メモを整理していると、隣の島から声がかかった。
「相沢さん、お昼、一緒に行きません?」
後輩のライターが、弁当を持ってこちらを覗いている。私は画面の端に表示されたタスク一覧を一瞥し、少しだけ考えるふりをしてから頷いた。
「行こうか。今日は外に出たい気分です」
オフィスの空気から一度離れたかった。頭の中のざわつきを、外の風の中に紛れ込ませたかった。エレベーターで一階まで降りると、ビルの外には昼の光が広がっていた。雲は薄くほどけ、建物の壁に貼りついていた影がじわじわと短くなっている。
近くの店で軽く食事を済ませるあいだ、後輩は取材の話や、最近読んだ本のことを楽しそうに話していた。私は相槌を打ちながら、頭のどこかでフロアの様子を想像してしまう。今、彼はどこの席にいるだろう。パソコンの画面に向かっているのか、誰かと打ち合わせをしているのか。そんなことを考えても意味がないと分かっているのに、思考は勝手に同じ場所をぐるぐる回る。
オフィスに戻ると、昼のざわめきは少し落ち着いていた。席に戻る途中、コピー機のそばで久遠さんの背中が見えた。誰かと資料を確認しているらしく、声のトーンがいつもの仕事モードになっている。その背中を見ただけで、昨夜の川沿いで少し俯いていた姿が蘇る。心の中で、二つの映像が重なり、すぐに離れていく。
午後は作業に追われた。構成案に赤を入れ、ラフのテキストを組み直し、いくつかの案件の進行をチャットで調整する。指先がキーボードの上を行ったり来たりするあいだ、頭の奥では昨夜の川沿いの会話が薄いノイズのように流れ続けていた。自分でも驚くくらい、仕事の手は止まらないのに、心の一部だけ別の場所に置きっぱなしになっている。
夕方が近づくころ、窓の外の光が少しだけ柔らかくなった。街の輪郭から色が抜け始める手前の時間帯。フロアのあちこちで、椅子の背にもたれかかる人の姿が目につくようになる。私も一度手を止めて、肩を回した。そのとき、チャットの通知が一件だけ新しく届いた。
久遠蓮から、個別のスレッド。
社内ツールの小さな吹き出しの中に、簡潔な一行があった。
さっきの会議のまとめ、相沢さんの言葉をそのまま使わせてもらっていい?
仕事の内容だけを問うメッセージ。それなのに、その「そのまま」という言葉が妙に引っかかる。昨夜の川沿いでの会話も、あのときの沈黙も、そのまま彼の中に残っているのかどうか。その問いが、メッセージの行間に勝手に浮かび上がってくる。
了解です、と打ちかけて、私は少しだけ指を止めた。
削ってもいいところがあれば調整してください、と付け足す。送信ボタンを押す前に、一瞬だけ躊躇して、それから勢いをつけるように指を動かした。
すぐに返信が来た。
いや、削りたくない感じなんだよね
画面の前で、思わず小さく息を飲む。
どこまでが仕事の話で、どこからがそれ以外の何かなのか。境界線がまた少し曖昧になっていく。私は椅子の背にもたれ、天井の白をしばらく見つめた。
日が落ちかけるころ、フロアの空気はゆっくりと夜の方へ傾き始めた。窓の外のビルの窓にひとつ、またひとつと光が点いていく。社内チャットのタイムラインにも、「お先に失礼します」というメッセージが増え始める。私は区切りのよさそうなところで作業を保存し、パソコンをシャットダウンした。
コートを羽織り、椅子の背にかけていたバッグを肩にかける。ふと視線を上げると、少し離れた席で久遠さんも片付けをしているところだった。彼の机の上には、まだ開きっぱなしのノートと、半分ほど飲み残された紙コップがある。その光景に、小さな déjà vu が走る。あの夜も、こんなふうにほぼ同じタイミングでビルを出たのだと、思い出してしまう。
エレベーターの前で待っていると、遅れてくる足音が一つ、近づいてきた。
「帰る?」
振り向かなくても分かる声だった。私はゆっくりと体ごと彼の方を向く。
「はい。きりがいいところまでやったので」
「今日は、まっすぐ?」
まっすぐ、という言葉が、頭の中で川沿いかどうかを問う合図に変換される。私は一瞬だけ言葉を選びかけてから、少しだけ笑った。
「まだ決めてないです」
「決めてないの、相沢さんらしいな」
そう言って彼も笑う。その笑い方が、会社の人たちといるときより少し柔らかいことに気づきながら、私はエレベーターが来るのを待った。ドアが開き、二人で乗り込む。鏡張りの壁に、少し離れて並んだ二つの姿が映る。そこには、ただの先輩と後輩が立っているようにしか見えない。昨夜の川沿いも、あの秘密も、この狭い箱の中には持ち込まれていないように見える。
一階に着き、ビルの外に出ると、街の光が少しにじんでいた。雨が降りそうな気配はないのに、空気の中に水分が増えている。歩道を行き交う人の流れに紛れながら、私たちは自然と同じ方向に歩き出した。
駅へ続く道と、川へ向かう道が分かれる角まで来て、私は少しだけ足を緩める。昨夜と同じ場所。ここでどちらを選ぶかで、今夜の温度が決まる気がする。
「今日は、駅の方にします」
自分でも驚くくらい、はっきりとそう言った。
彼は、少しだけ目を丸くして、それからうなずいた。
「えらい」
「子どもみたいな褒め方しないでください」
「でも、ちゃんと寝る方を選ぶのは、大人だと思う」
その言い方が、少しずるい。褒めているのか釘を刺しているのか、どちらとも取れる。その曖昧さに、私は救われたような、置いていかれたような気持ちになる。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
駅へ向かう人の流れに紛れながら、私は一度だけ振り返る。彼はまだその場に立っていて、川の方角をちらりと見てから、自分も駅と反対側へ歩き出した。背中が人混みに飲み込まれて見えなくなるまでの数秒間、胸の奥で何かが静かに揺れる。
電車に揺られながら、窓の外に流れていく街の灯りを眺める。川沿いの水面は見えない。代わりに、高架下の暗がりや、ビルの隙間の向こうに小さく光る信号が、視界の端で入れ替わっていく。今日はまっすぐ帰ると決めたはずなのに、頭の中では川沿いの欄干の冷たさと、水の匂いが消えない。
家に着いて、鍵を回し、暗い部屋の照明をつける。靴を脱ぎ、バッグをソファに置くと、静けさが一度に押し寄せてきた。テレビもラジオもつけずに、キッチンでコップに水を注ぐ。その水を一口飲んだとき、喉を通る冷たさに、川沿いの夜風が重なる。
ベッドに横になり、天井を見つめる。スマートフォンは、テーブルの上で画面を伏せたままにしておく。通知が鳴っても、今夜はすぐには見ないと決める。そう決めることでしか、自分の中の「少しだけ」の範囲を守れない気がした。
まぶたを閉じると、川沿いのベンチに座る自分と、オフィスの会議室でノートを取る自分が、交互に浮かんでは消えていく。どちらも私で、どちらも彼と向き合っている。職場の先輩と後輩でいられる時間と、秘密を共有してしまった二人でいる時間。その境目を、今夜もまた、うまく引けないまま眠りに落ちていく。
いいなと思ったら応援しよう!
宜しければサポートお願い致します。頂いたサポートはITの勉強の為に利用させて頂きます。