見出し画像

【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第10章:名づけない約束

朝の色が窓の縁に滲み始めるころ、ひかりは目を覚ました。

眠ったはずなのに、胸の奥がまだ温かい。温かいままの部分が、昨夜の言葉を抱えている。会いたい。待ってる。指先が触れた熱。音が隠さなくなった裏通りの沈黙。

その沈黙が、今朝は薄い光の中にも残っていた。

洗面台の水は冷たく、指の腹に透明な痛みをくれる。顔を上げると鏡の中の自分は整っている。整っているのに、目だけが落ち着かない。落ち着かない目は、誰にも見られたくない。

会社へ向かう道で、風が一度だけ強く吹いた。ビルの谷間を抜ける風は乾いていて、髪の毛の細いところを撫でる。撫でられると、昨夜の触れ方がよみがえる。思い出さなくていいのに、思い出してしまう。

フロアに入ると、音が戻る。打鍵。紙を揃える音。短い笑い。廊下で開くドアの音。日常が堅い輪郭で動き出す。その輪郭の中に、ひかりは自分を収める。収めるのは得意だ。得意だから、苦しくなる。

午前の会議で、別部署の人が軽く冗談を言った。笑いが広がる。ひかりも口元だけ動かした。笑ったつもりの自分に、少し腹が立つ。ここではいつも通りでいられるのに、帰り道の前ではいつも通りでいられない。

昼の休憩、ひかりは自席で小さなパンを齧った。袋を開ける音が妙に大きい。口の中に甘さが広がると、胃のあたりが落ち着く。落ち着いてしまうと、逆に夜が怖くなる。

直哉は今、どんな顔で働いているのだろう。忙しさの中で、息を整える一拍の遅れが増えていないだろうか。ひかりはそんなことを考えてしまい、慌てて画面に視線を戻す。

午後、窓の外の光が白から薄い灰色へ移るころ、スマホが震えた。

直哉からだ。

今日、遅くなる。でも、会いたい。終わったら連絡する。

会いたい。その四文字の硬さが、胸の奥を叩いた。叩かれて、息が少し深くなる。深くなると怖い。気持ちが外へ出てきてしまう。

ひかりはすぐ返せなかった。返す言葉を探す前に、相手の反応を想像してしまう癖が出る。重いと思われたくない。負担にしたくない。けれど、軽くしたくもない。

ひかりは短く打った。

うん。待ってる。無理はしないで。

送信して、画面を伏せた。伏せた黒に、自分の指がかすかに映る。指先が落ち着かない。落ち着かないのは、もう隠せない。

定時が過ぎ、フロアの人が少しずつ減るころ、ひかりは机の上を整えた。整えれば終われる気がする。終わらせたら、夜が始まる。夜は怖い。怖いのに、待っている。

駅へ向かう道で、空気が少し湿っていた。雨が降る前の匂い。舗装の下に溜まった冷えが、靴底から伝わる。大井町へ着くころには、街灯の輪が濃くなっていた。人の流れは速く、帰りを急ぐ足音が重なる。

改札を抜けると、電車の音が頭上を走った。金属の振動が胸の奥まで届く。以前は助けだった音が、今日は合図になる。合図の音は、嘘を許さない。

ひかりはいつもの柱の近くで立ち止まった。待つという行為が、今は言葉より強い。強いから怖い。怖いのに、動けない。

しばらくして、スマホが震えた。

出た。今、改札。

短い文。短いのに、胸が一度跳ねる。跳ねたことを誰にも見られたくなくて、ひかりは視線を前に固定した。固定した視線の先に、直哉が現れた。

コートの襟を少し立て、肩の力が抜けていない。目の奥に疲れがある。でも歩き方はいつも通りで、ひかりの半歩前に出ない速度を覚えている。

目が合う前に、直哉の呼吸が一拍遅れる。遅れたあとに視線が上がる。その癖が、今日は痛いほど愛しい。

「おつかれ」

「おつかれさま」

声が掠れている。疲れのせいだと分かる。分かるのに、胸が痛む。痛むのは心配だけではない。自分がこの人の疲れに触れられる距離にいることが、嬉しくて怖い。

二人は歩き出した。高架下の白い光が、顔の陰影を薄くする。電車の音が通るたび、会話が途切れて、すぐ戻る。戻る会話が、今日はどこか慎重だ。

裏通りに入ると、匂いが濃くなる。湿ったコンクリート。遠くの店の湯気。油の甘さ。静けさが増して、足音がはっきりする。足音が揃うと、心が揃いそうになる。揃いそうになるのが怖い。

直哉が先に言った。

「待たせた」

「待ってた」

ひかりは言ってしまってから、胸が熱くなるのを感じた。待ってたという言葉は、もう隠しようがない。隠さなくていいのかもしれない。そう思ってしまう自分が、まだ怖い。

直哉は小さく頷いて、目を逸らさずに言う。

「ありがとう」

「ううん」

「ううんって言われると、困る」

直哉の声が少しだけ笑いを含む。笑いが含まれているのに、目は真剣だ。真剣な目のまま冗談みたいなことを言うのは、直哉の癖だ。

「困らせたいわけじゃない」

ひかりが言うと、直哉は息を吐く。吐く前に一拍遅れる。遅れが、今夜は言葉の代わりみたいに見えた。

「困るっていうか」

直哉は言い直す。

「嬉しいのに、嬉しいって言うのが、まだ慣れてない」

慣れてない。ひかりの胸の奥がきゅっと縮む。慣れなくていい。慣れてしまったら、特別が薄くなる気がする。薄くなる気がするのに、慣れたい気持ちもある。慣れたら、怖さが減るかもしれないからだ。

直哉が歩く速度を少し落とした。

「今日、話したいって言った」

「うん」

「来週から、外に出る日が増える」

「うん」

分かっているのに、言葉にされると痛い。痛いのに、聞かなければならない。聞かないでいたら、また空白が増える。

直哉が続ける。

「帰り道が減る。たぶん、急に減る」

「うん」

ひかりは返事をしながら、喉の奥が詰まるのを感じた。詰まるのは悲しさより先に恐れが来るからだ。慣れそうだったことが怖かった夜を思い出す。部屋が静かなのにうるさかった夜を思い出す。

直哉が言った。

「減るってことは」

「うん」

「なくなるかもしれないってことだよな」

なくなる。言葉が重い。重い言葉を出すのは、直哉にとっても怖いはずだ。怖いのに出した。そのことが、ひかりの胸を少しだけ救う。逃げていない。逃げていないから、まだ間に合う気がする。

ひかりは前を見たまま言った。

「なくならないようにするかどうかを、選ぶしかない」

直哉が一拍遅れて頷いた。

「そう」

裏通りの奥で、換気扇が低く唸っている。生活の音が、二人の会話を支える。支えるのに、今夜は音が隠してくれない。隠してくれないから、言葉が裸になる。

直哉が言う。

「ひかり、俺」

そこで止まる。呼吸が遅れる。その遅れが怖い。遅れの間に、ひかりは悪い想像をしてしまう。忙しいから、もう会えない。ここで終わりにしたい。そういう言葉が来る気がして、胸の奥が冷える。

でも直哉は、違う言葉を選んだ。

「選びたい」

ひかりは息を止めそうになって、止めなかった。

「何を」

「帰り道を」

直哉は言って、少しだけ言葉を探す。

「帰り道だけじゃなくて」

ひかりの胸が熱くなる。熱くなるのに、怖い。

「ひかりのことを」

直哉が続けた。

「減らしたくない」

減らしたくない。直哉の言い方は、恋と言わずに恋を言う。その言い方が、ひかりにはちょうど痛い。痛いのに、ちょうどいい。

ひかりは小さく笑ってしまった。笑いは乾いていない。泣く手前の笑いだ。

「減らすって何?」

「わかんない」

直哉は正直に言う。言葉の不器用さが、逆に本気を見せる。

「忙しいって言い訳にして、ひかりのこと、後回しにするのが嫌」

後回し。ひかりの胸が痛む。痛むのは、自分も同じことをしてきたからだ。恋に名前をつけないことで、後回しにしてきた。失う可能性を数えて、確かめるのを後回しにしてきた。

「嫌なら」

ひかりは言った。

「どうするの」

直哉は一拍遅れて、目を逸らさずに言った。

「会う」

「帰り道がなくても?」

「なくても」

直哉の言い切りが、裏通りの空気を少しだけ変える。変わった空気の中で、ひかりは自分の言えない言葉の核心が喉まで上がってくるのを感じた。

この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。

その言葉は、今夜はもう成り立たない。なくなるなら、恋じゃなくていいでは守れない。守りたいのは時間だけではない。時間の中にいる人だ。

ひかりは言った。

「会うって言うの、怖い」

直哉が頷く。

「怖い」

「でも言うの?」

「言う」

直哉の声が低い。低い声は本気だ。ひかりはその声を聞くだけで、少し泣きそうになる。

「ひかり」

直哉が名前を呼ぶ。名前は近い。近い言葉は、距離を縮める。

「名前をつけたい」

ひかりの胸が冷える。冷えて、すぐ熱くなる。名前をつけた瞬間、いまの距離が失われる気がする。失われるのが怖い。怖いのに、名前をつけないままだと勝手に失われるのも分かっている。

ひかりは言葉にできない間を抱えた。

……。

直哉は急かさない。急かさない沈黙が、ひかりの背中を押す。

「恋って言うのが怖いって言った」

直哉が静かに続ける。

「今も怖い。でも」

「でも」

ひかりは小さく繰り返した。繰り返しただけで、胸が痛い。

直哉が言った。

「怖いまま、選びたい」

選ぶ。二人が何度も口にしてきた言葉が、今夜は刃のように鋭い。刃は怖い。怖いのに、必要だ。

ひかりは足を止めた。直哉も止まる。

街灯の輪が二人の影を地面に落とす。影は触れそうで触れない。触れない影が、今までの二人だった。今夜、その影が少しだけ重なる。偶然ではない。立ち位置を、二人が選んだからだ。

ひかりは息を吸って言った。

「私、ずっと」

そこで声が詰まった。詰まったのに、逃げない。逃げないと決める。

「この時間がなくなるなら、恋じゃなくていいって思ってた」

直哉は黙って聞く。否定しない。否定しないことで、ひかりの言葉は続く。

「恋って言ったら、壊れる気がした」

「うん」

直哉が小さく答える。その一言が、ひかりの胸を少しだけ楽にする。

「でも、壊れるのって」

ひかりは言葉を探す。

「名前をつけたせいじゃなくて、何もしないせいかもしれないって、最近思った」

直哉の呼吸が遅れる。遅れて、深くなる。

「うん」

「だから」

ひかりは言った。

「名前を怖がるのは、やめたい」

やめたいと言った瞬間、胸が痛い。痛いのに、背中が少し軽い。言葉にしたことで、もう戻れない。戻れないのに、戻りたくない。

直哉が言う。

「ひかり」

「うん」

「俺さ」

直哉は一拍遅れて、言葉を選ぶ。

「付き合おうって言うの、なんか」

直哉は少しだけ眉を寄せた。言葉の形が合っていないみたいに。

「俺らに似合わない気がする」

ひかりは小さく笑ってしまった。笑いは柔らかい。柔らかい笑いが出ると、涙が近づく。

「わかる」

「でも」

直哉は続ける。

「言葉がないと、また逃げる」

逃げる。第6章で言った言葉。仕事に逃げる。沈黙に逃げる。踏み込まないことで守っているふりをして逃げる。

「逃げたくない」

直哉の声が少しだけ揺れる。揺れは弱さではない。踏み込む前の揺れだ。

「ひかりと、これからも」

直哉はそこで止まった。止まったまま、ひかりの手の近くに手を伸ばす。触れない。触れないまま待つ。

ひかりは、その手に自分の指をそっと置いた。指先だけ。絡めない。握らない。けれど、触れる。

触れた瞬間、直哉の呼吸が一拍遅れる。遅れが、ひかりの胸を叩く。

直哉はその指を、やさしく包む。包む強さは弱い。弱いのに、離さない。

「これからも」

直哉が言った。

「一緒に帰りたい」

告白みたいな言葉ではない。けれど、日常を選ぶ言葉は告白より重い。ひかりはそれを知っている。だから怖い。怖いのに、嬉しい。

「一緒に帰るって」

ひかりは喉の奥が震えるのを感じながら言った。

「約束みたいで怖い」

直哉が頷く。

「怖い」

「でも言うの?」

「言う」

また言う。直哉が逃げない。逃げない直哉に、ひかりは自分の恐れを預けたくなる。預けたくなるのが怖い。怖いのに、預けたい。

ひかりは言った。

「私も、帰りたい」

直哉の目が少しだけ柔らかくなる。柔らかさが、ひかりの目の奥を熱くする。

直哉は言葉を選ぶみたいに、短く言った。

「じゃあ」

「うん」

「これからも」

直哉は一拍遅れて言う。

「一緒に帰ろう」

その言葉が落ちた瞬間、ひかりの胸の奥で何かが静かに折れた。折れたのは怖さではない。怖さを盾にして守ってきた距離だ。盾が折れると、寒いはずなのに、手の温度がそれを防ぐ。

ひかりは涙が一粒だけ頬を滑るのを感じた。拭かなかった。拭いたら、今夜の熱が消える気がしたからだ。

直哉は見て、見ていないふりをしなかった。けれど言葉にはしなかった。言葉にしないことが、今夜の優しさだとひかりは思った。

電車が頭上を通った。音が大きい。音の中で、二人の手は繋がったまま。音が隠すのではなく、ただ通り過ぎていく。隠れなくてもいい夜だと、街が言っているみたいだった。

歩き出す。いつもの角が近づく。いつもの別れ道。ここで別れること自体は変わらない。変わらないのに、意味が変わってしまった。

角の手前で、直哉が足を止めた。ひかりも止まる。

「言うの、これでいいのかな?」

直哉が小さく言った。

ひかりは首を振るでも頷くでもなく、少しだけ息を吐いた。

「いいと思う」

「ちゃんとした言葉じゃない」

「ちゃんとしてるよ」

ひかりは言った。

「私たちが、選んだ言葉だから」

選んだ言葉。選んだ日常。選んだ帰り道。

直哉が小さく笑った。笑いは短い。短いのに、胸がほどける。

「おやすみ」

「おやすみ」

手を離す。離した瞬間、指先に冷えが来る。冷えは寂しさの形だ。寂しいのに、寂しさが怖くない。寂しさは、戻ってくる場所があるときの寂しさになっていた。

ひかりは角を曲がって、数歩進んでから振り返った。

直哉はまだそこに立っていた。立っていて、こちらを見ている。見ているのに、追ってこない。追ってこない距離が、二人のやさしさだ。やさしさが、今夜は痛くない。

ひかりは小さく手を上げた。直哉も手を上げた。

そのまま、ひかりは振り返り直して歩いた。歩きながら思う。帰り道には名前がない。恋という言葉も、約束という言葉も、今夜は少し遠い。それでも、言葉はひとつ置けた。

一緒に帰ろう。

部屋に戻ると、静けさが迎えた。冷蔵庫の低い音。遠くの車。遠くの電車。いつもと同じ音が、今日は違って聞こえる。違うのは音ではなく、自分の耳の使い方だ。孤独を拾うためではなく、余韻を拾うために開いている。

スマホが震えた。

直哉からだ。

帰れた。今日、ありがとう。明日も一緒に帰ろう。

ひかりは画面を見て、短く息を吐いた。笑いが喉の奥でほどける。返信は短くていい。短くても、今夜は嘘にならない。

うん。明日も。

送信して、スマホを伏せた。黒い画面に映る自分の目が、やわらかい。やわらかい目は怖いはずなのに、今夜はその怖さが少しだけ遠い。

布団に入る。目を閉じる。

高架下の白い光が、まぶたの裏に残る。電車の音が遠くで鳴る。裏通りの湿った匂いが、呼吸の奥に残る。直哉の一拍遅れの呼吸が、耳の裏で静かに揺れる。

帰り道の名前は、まだはっきりしていない。

けれど、名前をつけなくても分かることがある。

明日も帰る。そう選んだ夜が、今日だった。

-完-

いいなと思ったら応援しよう!

reika1021 🎈 宜しければサポートお願い致します。頂いたサポートはITの勉強の為に利用させて頂きます。