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【創作大賞2026応募作品】君の横顔に触れるまで 第3章:境目で合う歩幅

朝の白が窓際のブラインドをゆっくり押し上げ、机の上の紙の端を柔らかく光らせるころ、私は進行表の色分けを見直していた。色は淡く、境界ははっきりしていない。はっきりさせてしまうと、昼の時間はすぐに固くなる。固さは必要だが、呼吸を浅くする。キーボードを打つ音は周りの人たちと混じり、電話のベルが一定の間隔で跳ね、コピー機が紙の束を飲み込んで吐き出す。音に規則があると、緊張も秩序のほうへ寄っていく。私は椅子の背に肩を預け、深呼吸を一度。呼吸に合わない仕事は、ないふりをする。画面の端に未読がひとつ増え、誰かの「おはようございます」が流れ、私は短い挨拶を同じ長さで返した。

「小野寺さん、午前の打ち合わせの資料、確認お願いできますか?」

「はい、共有フォルダの最新版でよろしいですか?」

「うん、二枚目の表だけ、色が薄くて見えづらいかも」

「濃くしておきます」

プリンターの手前で表紙を揃え、ホチキスの位置を軽くずらす。紙の角の小さなずれに、今日は敏感だ。人は小さなずれを手がかりに自分の立ち位置を確かめる。会議室のガラス越しに朝倉先輩が誰かと立ち話をしていた。横顔は昼の線で、目の焦点は近く、声は必要な高さでまっすぐだ。こちらに気づいても気づかないふりが一番きれいだと、私たちは学んでいる。私はガラスに映る自分の姿勢を短く整え、資料を腕に抱えて会議室に入る。空調の音が少し強くて、紙がめくれやすい。

「資料、こちらに置きますね」

「ありがとう」

昼の彼は、余分をつけない。言葉の端に丸みをつけるのは夜の担当で、昼は角を隠さないまま運ぶ。私は席に戻ると、チャットの返信を確認し、昼の速度に自分を合わせる。合わせることは不自然ではない。身体は習慣を持っている。習慣は呼吸よりも先に動く。

ビルの谷間で雲が薄く切れ、光が床の傷をやさしく拾うころ、打ち合わせは一段落した。誰かが「戻ります」と声を落とし、扉の閉まる音が連なって消える。私はノートの余白に残したメモを自分の言葉に置き換え、午後に回す仕事を順に並べる。昼の仕事は配列が命で、順番を間違えると時間がこぼれる。こぼれた時間は拾えない。拾えないことは承知のうえで、私はコーヒーを淹れに小さな給湯室へ向かった。廊下は冷えていて、窓の外の空の色が淡く変わりつつある。

給湯室の狭い窓から、同じビルの外壁が近くに見える。電気ポットの湯が小さく沸き続け、紙コップの白が光をはね返す。粉を落とし、湯をかけ、立ち上る匂いに短く目を閉じた。誰かが入ってくる気配がして、戸口に気持ちだけ向ける。朝倉先輩だった。彼は背の高いカップを流しに置き、袖を少しだけまくり、蛇口をひねる。水音は強くならない。強くすれば隣の席まで音が届いてしまうからだろう。

「お疲れさまです」

「お疲れさま。さっきの資料、助かった」

「いえ。二枚目、少し濃くしました」

「見やすかった。……昼は助かるばかり言ってる気がする」

「昼の『助かる』は、仕事の通貨です」

「じゃあ、夜の通貨は何だろうね」

「まだよくわかりません」

会話はそれ以上伸びず、伸ばさないのが正解だった。彼はカップをすすぎ、私は紙コップを手のひらで温める。給湯室の窓の縁に、午後の光が斜めに入り始める。斜めは心地いい。まっすぐより、少しだけ視線を逃がしてくれる。逃がされた視線の先に、昨夜のカフェの木の色が短く浮かび、すぐ消える。

午後は細かい調整と確認で埋まった。メールの文面の語尾を少し引き下げ、表の見出しを整え、担当者の名前の漢字の間違いに気づいた同僚のメッセージに素早く礼を返す。電話は少し減り、椅子の軋みが増える。夕方の手前で、人の集中は似たリズムになる。リズムが重なると、フロア全体の温度がひとつに寄る。寄った温度に、突然の急ぎが投げ入れられる。

「小野寺さん、すみません。先方の差し替え、急ぎで来ました」

「どの案件ですか?」

「朝の企画の三面。色の調整をもう一度」

「色……承知しました。原稿は最終ですか?」

「最終のはず。データ、送ります」

私は画面の色を慎重に変える。変えすぎると別の印象になる。昼の色は夜の色より言い訳が効かない。数値での説明が求められる。数値は冷たいが、冷たさで救われる場面もある。私はキャリブレーションの数値を控え、変更履歴を残し、データを戻す。戻した旨を短く告げ、返信の青い文字が自分の画面の端で増えるのを見届ける。増えるものが数字ではなくて文字であることに、少し安心した。

夕刻が近づくにつれて、窓の外の光は鈍っていく。ビルの反射は色を失い、車の列の白い点が連なり始める。退社の時間が近づくと、人の動きは軽くなる。軽くなりきらない身体もある。私は机の上を整え、キーボードの埃を拭き、画面を閉じた。肩の骨を上げて下ろす。深くはしない。深くすると、昼が終わってしまう。昼の終わりは夜の始まりで、切れ目はいつも少し曖昧だ。

「先に上がります」

「うん。今日は冷えるから」

「気をつけます」

昼の声で交わして、私は席を離れた。エレベーターの鏡に昼の顔が映る。疲れは最小限の表情筋にだけ現れるよう、長年の癖でまとめてある。鏡に向かってそれを解除することはない。鏡は昼の味方だと思っている。ロビーは人がまばらで、自動ドアの向こうの空気が既に夜の方角へ傾いていた。排気と何か甘い匂いと、湿度の薄い層が重なって、鼻の奥にゆっくり残る。

表通りに出かけた足が、角で自然に右に折れる。昨日と同じ道を選んだのかもしれないし、選ばされたのかもしれない。看板の光が目線の高さに降り、地面に薄い四角い明るさをいくつも作っている。歩幅は無理なく早すぎず、自分の速度だけを確かめるように進む。角のカフェのガラスは、昨日より少し暗く見えた。中は人影が二つ。今日は入らない。その判断は体の表面で決まった。決まってから、理由を探す。理由が見つからない夜はある。

路地の先に駅の方向を示す看板があり、その矢印は正確に向きを指すが、歩く速度までは指示してこない。私は矢印に従いながら、少しだけ脇の道に視線を遊ばせる。細い道の入口に、タイルが少し欠けている。欠けを避ける足運びは、自然だった。避けようと決めたわけではないのに、避ける筋肉が先に動く。

「間に合いますかね」

背中に届く低い声。振り向く必要はなかった。聞き間違えようのない声だ。角度だけを少し変えると、朝倉先輩が半歩後ろにいて、私に並ぶ速度に調整しているのがわかる。昼の距離と違うのは、肩ではなく足元の方で揃えること。足の運びは意図が見えにくい。

「間に合います。今日は混んでないみたいです」

「よかった」

「寄りますか?」

「寄らないほうがいい気がする」

「私もそう思いました」

言葉の前に意見が揃っている。理由は明確ではない。明確にしないほうがよい夜もある。同じ速度で歩くと、靴の音が少しだけ重なる。重なりはきっちりではなく、たまにずれて、また戻る。戻る位置が誰の足音に合わせているのか、判断できないくらいのずれ方がいい。

「昼、進行表の色、助かった」

「ありがとうございます。数字に直せるところは直しました」

「色の話を数字に直すのは、器用で残酷だ」

「残酷?」

「良い意味で言ってる。仕事に必要な残酷さがある」

「それを言われるのは、少し変な気持ちです」

「変な気持ち?」

「褒められているのに、褒められた気がしない。でも、嫌ではない」

「わかる」

彼は笑う。笑いは声にならない。頬の筋肉が緩み、目の端に浅い線が寄るだけだ。夜の明るさはそれを拾い、線の先に見えない温度を足してくれる。昼の光では見えなかったものが、夜の光では見えることがある。見えたからといって、触れられるわけではない。

信号のない横断歩道で車が一台止まってくれる。私たちは少し早めに渡る。渡り切ってから、彼が小さく息を吐く。疲れの音ではなく、切り替えの音。昼から夜への切り替え。彼の切り替えはいつも静かだ。静かさの内側は、たぶん騒がしい。私はそこまで踏み込まない。踏み込まない位置に立つことでしか、近づけないことがある。

「昼は昼の顔があるけど、夜になると、昼の顔が邪魔になることってありますか」

「ある。あるけど、邪魔を邪魔だと認めることに躊躇する」

「躊躇」

「昼の顔は、守ってくれたものでもあるから」

「わかります」

「紗月さんは、夜の顔がすぐに出る」

「褒め言葉ですか?」

「褒めてる」

「昼には出ていないですか?」

「昼は、出そうとしても出さないでいるように見える」

「出さないほうを選んでいるのかもしれません」

「選べるのは強い」

「強さ、ではないです。逃げてるだけかも」

「逃げ足が速いのは、生き延びるための技術だ」

会話の速度は歩幅の速度に似てくる。早くなりすぎず、遅くなりすぎず、言葉が疲れない範囲で進む。角の先で自販機が白く光り、ペットボトルの影が上下に並んでいる。コインの投入音が遠くから聞こえて、見知らぬ人の喉の渇きが一瞬だけ他人事ではなくなる。夜は他人の事情が自分の体温に近づきやすい。

「眠れましたか。昨日」

「眠れたような、眠れなかったような」

「曖昧」

「曖昧は、夜の正直さだ」

「私は眠りました。薄く」

「薄く眠るのは、いい眠り方だ」

「朝起きたら、白いハンカチが鞄のいちばん浅いポケットに移動していました」

「自分で?」

「たぶん、自分で。覚えていない」

「覚えていないのに、動いている」

「そういうことが、夜には起きます」

駅の気配が近づく。金属の匂いが強くなり、階段の上の白い光が空気を温める。私たちは横に行儀よく並ばず、斜めにずれて降りる。降りるあいだ、足の親指が靴の中で段差を数える。段差の数は毎日同じなのに、数え方は日によって違う。今日は速く数える。速く、だけれど焦ってはいない。

改札の手前で流れが分かれ、私の路線と彼の路線の入り口が少し離れて口を開けている。人の列は真っ直ぐで、誰もが自分の行く先にだけ視線を投げる。投げられていない視線が宙に残るのなら、夜はそれを拾うのだろう。

「今日は、ここまで」

「はい」

「昼の顔で別れて、夜の空気を少しだけ持ち帰る」

「持ち帰ります」

「持ち帰ったものは、朝には形を変えているかもしれない」

「そのときは、その形のまま、またここに来ます」

「また」

「また」

二人の声は互いに重ならず、少しずれて着地した。同じ言葉の輪郭が、わずかに違う温度を持つ。彼は右へ、私は左へ。背中を見せない角度で離れていく。私たちの影は床の光に短く浮かんで、すぐに他の影に紛れた。紛れた影の中で、自分の足音だけが自分のものとして確かに残る。改札を抜けると、空気は編まれた布のように均一で、誰の温度も混じる場所に変わる。ここでは呼吸は他人と同じ高さに揃う。

その夜は、電車の窓に映る自分の輪郭を見なかった。見ると、昼と夜の顔の違いを自分に説明し始めてしまう。説明を避けるために、私は外の暗さのほうを見た。トンネルの口が近づいては離れ、ホームの白い線が滑る。車内のアナウンスは耳を滑っていき、誰かの咳払いが一度だけ空気を割る。私は扉の近くに立ち、ポケットの中で指を重ねる。重ねた指の間に薄く温度が残り、それが揺れのリズムを整えた。

翌日、昼はまた昼だった。朝の会議で、私は要点だけを読み上げ、質問に簡潔に答え、議事録の欄を埋める。筆圧は均一で、行間は一定。昼の手の動きに迷いはない。昼の手の確かさは、夜の揺れを否定しない。否定しないことと、認めることは別物だ。私は別物を並べて置くことを覚えた。

「午後の三時に先方とオンラインで軽く確認をします。入りますか?」

「入ります。私からは共有事項を二点だけ」

「了解。リンク送ります」

リンクはすぐに届く。届いた文字列は無機質で、だから信頼できる。時間になれば扉が開く仕組み。扉の向こうに人がいて、言葉が飛ぶ。ビデオ越しの相手の部屋の白い壁にシミがひとつ見える。シミの位置は私には関係がないが、目が拾ってしまう。昼の注意は必要な箇所に向かうよう訓練されているのに、ときどき逸れる。逸れた注意は、戻す手間がかかる。手間をかけるうちに、昼が少し伸びる。

夕方の気配が腰のあたりに触れるころ、私は資料を閉じ、席を立った。今日は定時で上がる。上がると決めた。決めたことで、体の重さが変わる。ロビーの空気は昨日より乾き、街路樹の葉が硬く揺れる。ビルの間の風の通り道が一段はっきりして、足首に細い冷たさが絡みつく。表の通りを避け、右へ折れる。看板の光がすこし少なく、代わりに店じまいの気配が早い。カフェのガラスは灯りを落としかけている。店主の姿がガラス越しにほんの短く見え、すぐ消えた。今日は扉が閉まるのを外から見るだけでいい。

「もう閉めるみたいですね」

背中からの声に驚かなくなっている自分に気づく。振り返ると、朝倉先輩が両手をポケットに入れて立っていた。彼の肩の線は昼のままではなく、夜のほうへ少し傾いている。傾きはわずかで、意識しなければ見逃す程度だ。

「はい。今日は寄らない日なんだと思います」

「寄らない日」

「寄らないことが、続けることに繋がるときもあるから」

「昨日の話に似ている」

「似ていても、今日は別の日です」

味方のような言い方を自分がしているのが少し可笑しかった。可笑しさを見せないで言う。見せないことで、言葉には残らない情報が増える。増えたものは、夜の中で正しく消化される。

「駅まで、歩きますか?」

「歩きましょう」

歩くことで、昼の顔は背中に貼りついたまま少しずつ薄くなる。薄くなるのを見張らない。見張らないほうが自然だ。歩幅はすぐに揃う。揃える努力は要らない。舗装の微かな凹凸が靴底から伝わり、足の指がそれを数える。私は昨日避けた欠けたタイルの位置を、今日も避ける。避けるのは癖になりそうで、癖はいつか理由に変わる。

「今日、昼の打ち合わせで、『雰囲気』という言葉を使いかけてやめました」

「やめたのは正解だろうね」

「昼は、雰囲気が嫌われる」

「夜は、雰囲気が土台になる」

「土台」

「言葉が立つ場所」

「立てる言葉を、夜は少し選び直せる」

「選び直す余裕は、夜のほうがある」

「それを日中に持ち込むと、浮く」

「浮きますね」

どちらからともなく笑う。笑いは音にならず、歩幅の中に吸い込まれる。路地を抜ける風の音が弱くなる。近くの店のシャッターが半分だけ下り、金属のこすれる短い音が魚の骨みたいに鋭く響く。私はその音を、好きとも嫌いとも決めない。決めないまま持ち歩く。持ち歩くあいだに、音は意味を見つける。

「明日も、昼は昼で」

「はい」

「夜は夜で」

「はい」

「境界線は、ぼんやりしてる」

「ぼんやりしているから、踏み越えたことに気づかない」

「気づかないうちに、こちら側にいる」

「それで困ることもある」

「困ったら、戻ればいい」

「戻れますか?」

「戻れるように、言葉を手前で止める」

「止める」

「止めながら、歩幅は合わせる」

「合わせる」

互いの言葉は鏡ではなく、薄い膜になって間に張られた。膜は破れやすく、破れない。触れたら、少しだけたわむ。たわむ感触が、今夜の手触りのすべてのように思えた。

駅の階段が見えてくる。地下から上がってくる暖かい空気が、膝のあたりで層になっている。層の上に乗ると、足取りが軽くなる。軽くなった感覚は、心の中にまで伝わる。改札の前に小さな行列ができている。行列の間に、二人分の沈黙が置ける分だけの隙間がある。隙間は埋めない。埋めないで持ち帰る。持ち帰れば、次の夜の入口の形になる。

「じゃあ、また」

「また」

今日はそれ以上何も言わない。言わないことを選ぶ。選んだことに責任があるなら、その責任は重さではなく、方向に近い。互いに別の方向へ進む。背中の温度が少しだけ残り、すぐに混ざって消える。消えたあとに、ほんの少しの熱が胸の内側に留まる。留まった熱が、昼と夜の間に細い線を引く。線は見えない。見えない線をなぞる手つきだけが、確かに残る。

家のドアを閉め、灯りをつけたとき、私の中の昼はすでに息を潜めていた。机の上に鞄を置き、白いハンカチに触れて、また戻す。戻した布の角が小さくずれ、指先にそれが伝わる。窓の外では風が向きを変え、遠くの信号の赤が少し濃く見えた。私は水を一口飲み、口の中の温度を薄める。薄めた温度が胃に落ち、落ちた位置からじわりと広がる。その広がりの中で、昼の言葉は沈み、夜の言葉は浮く。浮いた言葉は拾わない。拾わない言葉が、いちばん長く残ることを、いつか知った。

昼の顔と夜の顔の境界線は、線ではないのかもしれない。広がって、縮んで、時々消えて、また現れる。現れたときだけ見える、その瞬間に、私たちは少しだけ近づく。近づいたことを誰にも説明しないで、次の昼に戻る。戻った昼の顔に、夜の薄い影が差していても、気づかないふりをする。ふりをする技術を持ちながら、ふりをやめる瞬間を待つ。待つことが、今の私の仕事のひとつになっていると気づき、少し笑う。笑いは夜には小さく、朝には消えるだろう。

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