【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第5章:踏み出しかけて
窓の外の空が、まだ昼の名残りを抱えたままほどけていくころ、ひかりは机の端に指を置いて、動かない自分を確かめていた。
仕事は終わった。終わったのに、立ち上がる理由が見つからない。理由はある。帰る。夕飯。洗濯。明日の準備。そういうものは日々の骨格として揃っているはずなのに、今日はそこに余白があった。余白は、便利でもあり厄介でもある。便利なのは、そこに息ができるから。厄介なのは、そこに考えが入り込むからだ。
画面には、直哉からの短い連絡が残っていた。
今日は少し遅くなるかも。帰り道、先に。
昨日も似た言葉を見た。先に。行ってて。あの言葉は、仕事みたいに整っているのに、読んだ瞬間だけ胸の奥を掴む。掴まれると、手放し方が分からなくなる。だから、分かったふりをしてやり過ごす。
ひかりはチャットを閉じ、バッグを持った。持つと、ようやく身体が動き出す。動き出した途端、むしろ静かになる。頭の中の騒がしさが、歩く音に吸われていく感じがする。そういう瞬間は嫌いじゃない。
エレベーターの中は、仕事終わりの匂いがする。誰かの香水の薄い尾。紙の乾いた匂い。疲れた呼吸が混ざった空気。鏡に映る自分の顔は、整っている。整っているから、何も起きていないみたいに見える。何も起きていない顔は、安心だ。安心なのに、今はそれが少し悲しい。
外へ出ると、風が一枚、頬を撫でた。
今日は湿り気が強い。雨が降る前の空気は、いつも少しだけ匂いが濃い。アスファルトの熱がゆっくり抜けていく匂い。遠くの車の排気の薄さ。建物の壁が溜め込んだ昼の温度が、夜へ渡される途中の匂い。東京の空気は混ざりものばかりで、その混ざりものが、妙に生活に合っている。
駅へ向かう道の途中で、同僚から声をかけられた。
「篠原さん、今から時間ある? ちょっとだけ顔出さない」
飲み会の誘いではない。誰かの送別でもない。ただ、別の部署の人と軽く話す場があるらしい。断っても問題ない。断る理由もある。帰り道がある日なら、たぶん迷わず断っていた。けれど今日は、帰り道がない。そう思った瞬間、自分の中で何かが軽く揺れた。
「少しだけなら」
自分でも驚くほど自然に言っていた。自然に言ったことが、少し怖い。怖いのに、今夜はその怖さに乗ってみたい気もした。いつも同じ選択ばかりしていると、息が浅くなる。浅い息は、誰にも気づかれないまま自分だけを削る。
店は駅の反対側の、明るい通りにあった。ガラス越しに人の輪が見え、笑い声が薄い膜みたいに外へ漏れている。扉を開けると、空気が変わる。油と香辛料の匂い。焼けた匂い。人の熱。グラスの触れ合う音。高架下の音の層とは違う、生活の賑やかさが、ひかりの身体の内側を少しだけくすぐった。
席に着き、軽く飲み物を頼んで、話を聞く。会社の話。新しい案件の話。誰がどの部署へ移るらしいという話。話はいつも同じような輪郭をしているのに、今夜はその輪郭が少しだけ遠い。自分が輪の外にいるわけではない。ただ、視線の焦点が合わないだけだ。
笑う。頷く。相槌を打つ。
そういう動作は身体に染みている。染みているから、心が別の場所へ行っても成立してしまう。成立してしまうのが、また怖い。
ふと、店内の音が一瞬だけ割れた。
扉が開く音。外気が流れ込む音。入り口のあたりが少しざわめく気配。ひかりは無意識に視線を上げて、そこに立つ姿を見つけた。
直哉だった。
ここにいるはずがない場所にいる。いるはずがないのに、いる。現実は時々こういうふうに人の心を揺らす。揺らすのが得意だ。ひかりは、胸の奥が一度だけ強く鳴るのを感じた。鳴ったのに、顔はすぐに整えられてしまう。整える癖が、こんなときまで働く。
直哉は一人ではない。仕事関係の人たちが後ろに続いている。スーツの雰囲気。名刺の気配。仕事終わりの段取りが、彼の肩にまだ残っている。
直哉が視線を動かす。店内を確認するように一度だけ見渡して、それからひかりを見つける。見つけた瞬間、彼の呼吸が一拍遅れるのが分かった。分かってしまう。分かってしまうことが、今夜は少しだけ嬉しい。
直哉は声を出さないまま、軽く会釈した。
ひかりも会釈を返した。返しただけで、胸の内側が温まる。温まるのが怖いのに、温まる。
同僚がひかりの視線の先を見て言った。
「あ、佐伯さん知り合い?」
「同じ会社。部署違うけど」
「やっぱり。顔広いよね」
顔広い。直哉はそういう評価をされる人だ。穏やかで、対人対応が上手くて、どの輪にも馴染む。馴染むからこそ、輪の中心にいなくても中心みたいに見える。ひかりは、そういう彼の姿を会社で何度も見てきた。けれど、今夜見る直哉は少し違う。彼は輪の中にいるのに、どこか外側に立っている気がした。
目が合うと、直哉はまた一拍置く。
その一拍が、こちらへ投げてくるものを抱えている。言葉にできないもの。言葉にしないまま守っているもの。守っているのに、溢れそうなもの。
ひかりは席の位置を変えなかった。変えたら、何かが始まってしまう気がした。始まってしまったら戻れない。戻れないことは怖い。怖いのに、始まってほしい気もある。矛盾は、今日も簡単にはほどけない。
時間はゆっくり過ぎる。
グラスが空き、追加を勧められる。ひかりは断った。断る理由はないのに、断った。今夜は酔いたくなかった。酔うと余白が減る。余白が減ると、言葉が勝手に出る。勝手に出る言葉は、関係に名前をつけてしまう。
名前をつけた瞬間、距離が失われる。
その怖さを、今日は忘れたくなかった。忘れたくないというのも変だけれど、怖さを忘れると、次の朝に自分が自分でいられなくなる気がする。
少しして、直哉が席を立った。同行者に何かを言い、会計の方へ向かう。歩き方は急いでいないのに、迷いがない。けれど、その迷いのなさの中に、小さな揺れがあるように見える。ひかりはそれを追うように、視線を一度だけ動かしてしまった。
直哉がこちらへ近づいてくる。
近づくのに、まっすぐではない。テーブルの間を縫いながら、自然な距離で。周りの目がある。周りの耳がある。そういう場で人は、余計なことを言わない。言わないのに、言いたいことが溜まる。
直哉はひかりの席の横で止まった。
止まる前に、呼吸が一拍遅れる。
「……篠原」
名前を呼ぶ声が小さい。小さいのに、店内の音が一瞬だけ遠くなる。ひかりは笑って、あえて軽く返した。
「佐伯くん、ここ来るんだ」
「今日だけ。仕事の流れで」
直哉の目が、ひかりの手元のグラスを見る。見る視線が優しい。優しい視線は、余計な意味を持ちやすい。
「飲んでた?」
「少しだけ。先輩に誘われて」
「そっか」
直哉はそれ以上聞かない。聞かないでくれるのが、助かる。助かるのに、聞いてほしい気もある。自分が面倒くさい。
直哉の後ろでは、同行者が出口の方へ向かっている。誰かが直哉の名前を呼ぶ。直哉は一瞬だけそちらへ視線をやり、それからまたひかりを見る。視線が戻るまでに、一拍。
「遅くなるって言ったけど」
直哉が言いかけて止まる。止まったところに、周囲の笑い声がかぶる。音の膜が二人の間に入る。その膜が、今日は邪魔であり、守りでもある。
ひかりが小さく言う。
「帰り道、先にって見た」
直哉は頷く。頷いて、喉の奥で言葉を探すような顔をする。探している顔は、仕事の顔とは違う。違う顔が見えるのが、胸に刺さる。
「……今から帰る」
「うん」
「もし、まだ」
直哉はそこでまた止まる。止まるのは躊躇だ。躊躇の中に、誰かの目がある。職場の目。社会の目。自分たちの決めごとの目。
ひかりは、先に言葉を置いた。
「私も、そろそろ出る」
直哉の目が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなるのが怖い。怖いのに、柔らかさを見たくて、ひかりは視線を逸らさなかった。
「外で待つ」
直哉が短く言った。
「……待たなくていい」
ひかりは反射で言ってしまった。言ってしまってから、すぐに後悔する。待たなくていいと言いながら、待ってほしい。待ってほしいと言いながら、待ってほしくない。どっちも本当で、どっちも自分だ。
直哉は小さく息を吐いた。
「待ちたい」
その言葉は、店の音の中ではっきりしすぎる。ひかりは胸が熱くなるのを感じて、慌てて笑った。
「変なこと言わないで」
「変じゃない」
直哉の言い切りが、今夜の空気に少しだけ穴を開ける。その穴から、外の湿り気が入り込むみたいに、ひかりの呼吸が深くなる。深くなると怖い。怖いのに、深い息が好きだ。
直哉は同行者に呼ばれ、最後に軽く会釈して去っていった。
ひかりは同僚に「先に出るね」と告げて席を立つ。引き止められない程度の自然なタイミング。自然を装うのが得意だ。得意だから、余計に自分の気持ちが見えにくい。
店の外へ出ると、雨が降り始めていた。
降り始めは、空気の粒が変わるだけで音がしない。コートの肩に落ちる水滴が、ほんの小さく冷たい。街灯の光が濡れた路面で伸びて、足元が少しだけ明るい。明るいのに、空は低い。低い空は、息をするたびに胸を押す。
ひかりが傘を開く前に、直哉がそこにいた。
店の軒下。白い光と暖色が混ざる境目に、彼は立っている。傘は持っているのに、まだ開いていない。開くタイミングを探しているみたいに、手元で柄を握っている。指先が落ち着かない。ポケットに手を入れていないのに、癖が見える。
「早かった」
直哉が言う。
「そんなに待ってない」
待ってない。ひかりはその言葉を飲み込みながら、傘を開く。開く音が雨の薄い音に混ざる。直哉も傘を開く。二つの傘が並ぶと、距離ができる。傘の布が二人の間に空間を作って、顔の見え方を少し変える。傘は便利だ。便利だから、気持ちが隠れる。
「帰り道じゃないところで会うの、変だね」
ひかりが言うと、直哉は小さく頷いた。
「変。……でも、会えた」
会えた。直哉の言葉が、雨の匂いに混ざって胸に入る。濡れたアスファルトの匂い。コンクリートの冷え。雨が作る街の匂いは、いつも少しだけ本音に近い気がする。なぜだろう。雨の日は逃げ道が減るからかもしれない。
二人は駅の方へ歩き出す。高架下へ向かう線ではない。店のある通りは明るくて、音が多い。車の走行音が近い。人の声も途切れない。こういう場所では、沈黙が成立しにくい。そのかわり、沈黙が成立した瞬間だけ目立つ。
「さっき」
直哉が言った。
言い出す前に一拍。雨粒が傘を叩く音が、その一拍を少しだけごまかす。ごまかしてくれるのが、助かる。
「待ちたいって言ったの、まずかった?」
まずかった。そう聞かれると、ひかりは困る。まずかったと言えば、直哉は引くかもしれない。まずくなかったと言えば、何かが始まるかもしれない。どちらも怖い。怖いから、ひかりは少しだけ笑った。
「まずいっていうか、恥ずかしい」
「恥ずかしいのは、俺だろ」
直哉の声が少しだけ柔らかい。柔らかい声は、傘の内側で響きやすい。響くと、近い。
「直哉くん、そういうこと言うんだ」
「言う。たぶん、言うようになった」
言うようになった。いつから。ひかりは、その問いを口にしない。口にしたら、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、受け取らなければならない。受け取る準備が、まだ整っていない。
雨が少し強くなる。傘の布に当たる音が増え、路面の光が揺れる。揺れる光が足元に落ちて、歩くたび色が変わる。変わるのに、進む方向は同じだ。そういう感覚が、今の二人みたいだと思ってしまう。比喩にした瞬間、また自分が大げさになる。大げさなのに、止められない。
駅前に近づくと、人の流れが濃くなる。傘がぶつからないように、二人は無意識に距離を調整する。直哉は半歩前に出ない。ひかりは歩幅が小さくなる。互いの癖が雨の中でよりはっきり出る。
「高架下、行く?」
直哉が聞いた。
ひかりは少しだけ迷う。雨の日の高架下は、音が増える。電車の音に、雨の打つ音が重なる。重なる音は、沈黙の輪郭を曖昧にする。曖昧にしてくれるなら、助かる。でも、今日は曖昧に逃げたくない気もあった。
「今日は、行かなくていいかも」
ひかりが言うと、直哉は一拍置いて頷いた。
「うん。……俺も、今日は、違うほうがいい気がする」
違うほうがいい。そう言われると、胸の奥が少しだけ落ち着く。自分だけがわがままを言っているわけではない。そう思えると、息がしやすい。
二人は駅の脇を抜け、少し広い歩道へ出た。雨が作る水面が、縁石のところに薄く溜まっている。街灯の光がそこに落ちて、揺れている。揺れは風に押されて形を変える。形は変わるのに、光は消えない。
「さっきの店」
直哉が言う。
「誰といたの」
聞くつもりはなかった質問みたいに、声が少しだけ硬い。硬さは嫉妬なのか、単なる確認なのか。ひかりは決めつけない。決めつけると、関係に名前がつく。
「会社の人。別の部署」
「男?」
短い。短いから刺さる。ひかりは思わず笑いそうになって、笑わない。笑うと、直哉の問いを軽くしてしまう気がした。軽くしたくない。今夜は、軽くしたくない。
「混ざってたよ。何人か」
「そう」
直哉はそれ以上聞かない。聞かないのに、肩の力がほんの少し抜けるのが分かる。その変化が見えるのが、嬉しい。嬉しいと認めるのが怖い。
ひかりは逆に聞いてしまう。
「直哉くんは、誰といたの」
「仕事関係。外の人」
外の人。仕事の輪は、見えないところで広がっている。直哉の生活の大半は、その輪に支えられている。支えられている輪があるのに、ひかりはその輪に入れない。入れないほうが安全だ。安全なのに、少しだけ寂しい。
「疲れてる顔だった」
ひかりが言うと、直哉は小さく息を吐いた。
「疲れてた。今日、ずっと」
「ちゃんと食べてないから」
「それもある」
直哉は一瞬だけ笑って、すぐ真面目な顔に戻る。その切り替えが、今夜は少しだけ切ない。笑いで流せないものが、二人の間に増えている。
雨が少し弱まった。傘の音が減ると、街の音が戻ってくる。車のタイヤが水を切る音。遠くの信号の電子音。誰かの足音が水面を踏む小さな音。音が戻ると、沈黙がさらに目立つ。目立つ沈黙の中で、直哉が口を開いた。
「今日、会えてよかった」
直球すぎて、ひかりは一瞬、返事が遅れた。返事が遅れるのは、直哉の癖だったのに。今夜は自分の方が遅れてしまう。
「……よかったって、言っちゃうんだ」
「言う。今日は言う」
直哉の目が、傘の影の中でもはっきりこちらを見ている。見られると、ひかりは視線を逸らしたくなる。逸らしたら、また逃げる。逃げたくないのに、逃げたい。身体が矛盾する。
ひかりは視線を前に固定したまま、言った。
「私も、よかった」
言ってしまった。言ってしまうと、胸が軽くなる。軽くなると同時に、怖くなる。軽くなったものは、簡単に飛んでいく気がするからだ。
直哉は歩く速度を少し落とした。ひかりの歩幅に合わせる。合わせる癖が戻る。戻る癖が、今日は少しだけ重い。重いのは、癖に意味が乗っているからだ。意味が乗ってしまった癖は、もうただの習慣ではない。
「名前をつけないまま、しんどいって言う」
直哉がぽつりと言う。
第4章で置いた言葉が、雨の夜にまた出てくる。出てくるだけで、胸の奥がじくりと痛む。痛いのに、どこか安心する。言葉が共有されているからだ。
「うん」
ひかりは短く返した。
直哉が続ける。
「今日、俺、店に入る前、ひかりがいるって思ってなかった」
「当たり前だよ」
「当たり前なのにさ」
直哉は言いかけて止める。止めたところに、傘を叩く雨粒が一つだけ強く当たった。音が、言えない部分を代わりに示す。
ひかりは待った。待つ沈黙を、今日は逃げないで抱えた。抱えると、胸が少し苦しい。苦しいのに、抱えたい。
直哉が言う。
「当たり前じゃない場所で、当たり前みたいに見つけた瞬間、……なんか、怖かった」
怖かった。直哉がその言葉を使うのが、ひかりには刺さった。刺さって、でも理解できる。怖いのは、当たり前が増えていることだ。当たり前が増えると、失うものも増える。
「何が怖いの」
ひかりは聞いてしまう。聞いてしまってから、また選択肢が浮かぶ。聞かなければよかった。聞きたかった。どっちも本当だ。
直哉は一拍置いて言った。
「当たり前になってるって、認めるのが」
認める。名前をつけるのと同じ種類の行為だ。認めると、戻れない。戻れないのが怖い。怖いのに、認めてほしい。矛盾が、雨の匂いみたいにまとわりつく。
ひかりは小さく笑ってしまった。笑いは逃げではない。たぶん、降参だ。
「直哉くん、ほんとにめんどくさいね」
「ひかりに言われたくない」
「私もめんどくさい」
「知ってる」
知ってる。言われると、胸が温まる。知っているという言葉は、優しい。優しいのに、危ない。知っているということは、深く入り込んでいるということだから。
二人は、いつもの分かれ道とは違う角に差しかかった。雨の日は遠回りを選びやすい。水たまりを避けるため、という名目が立つ。名目があると、選択が正当化される。正当化されると、罪悪感が減る。減ると、余計に進めてしまう。
「こっち、滑りやすい」
直哉が言って、ひかりの少し前に立つように位置を変えた。半歩前に出ない彼が、今日は一瞬だけ前に出る。出たのは、守るためだ。守るための動きは許される。許される動きの中に、優しさが混ざる。混ざる優しさは、触れない距離のまま胸に入る。
ひかりは足元を見た。水面に街灯が映っている。映っている光は揺れて、形を変える。変えるのに、同じ場所に留まる。留まっているのに、止まってはいない。そういうものが、この街には多い。
「手」
直哉が言った。
ひかりは顔を上げた。直哉がこちらへ手を差し出しているわけではない。ただ、言葉だけが出た。言葉だけが出て、止まる。止まった言葉が、雨の音に溶けない。
「……手、どうした」
ひかりが聞くと、直哉は自分の手元を見て、すぐに引っ込めた。引っ込める動きが早い。早すぎて、何をしようとしたのか分からないふりができてしまう。できてしまうのが、余計に痛い。
「滑りそうだから」
直哉は短く言った。短いのに、言い訳みたいに聞こえる。言い訳があるということは、別の理由があるということだ。別の理由を、二人とも知ってしまっている。
ひかりは胸の奥が熱くなるのを感じて、あえて足元を見たまま言った。
「私、そんなに危なっかしくないよ」
「知ってる。でも」
でも。直哉はそこで止めた。止めたことで、言葉の続きを二人とも想像してしまう。想像するのが怖い。怖いのに、想像してしまう。
雨がまた少し強くなる。傘の布が音を増やす。増えた音が、二人の沈黙を少しだけ隠す。隠してくれるのが、助かる。助かるのに、隠れたままでは進めない気もする。
ひかりは、ため息のように言った。
「触るなら、触ればいいのに」
言ってしまった。言ってしまってから、自分の心臓の音がうるさい。うるさい音を、雨がかき消してくれない。雨は外の音だけを増やして、内側の音はむしろ目立たせる。
直哉は動かなかった。
動かないまま、呼吸が一拍遅れる。それが耳に入る。入ってしまう。入ってしまうと、こちらも息が遅れる。
「触って、いいの」
直哉の声が小さい。小さいのに、言葉の端が震えている気がした。震えを感じた自分が、また怖い。怖いのに、その震えを嫌いになれない。
ひかりは答えられなかった。
答えれば、何かが決まる。決まるのが怖い。怖いのに、決めてほしい気もある。決めてほしいのに、自分で決めるのは嫌だ。ずるい。自分がずるい。
ひかりは、ただ頷いた。
頷きは小さい。小さい頷きは、言葉にならない。言葉にならないものは、まだ逃げ道がある。逃げ道があるのに、手は震える。
直哉が一歩近づく。傘の縁が触れそうになって、彼は少しだけ傘を傾けた。雨が彼の肩に少し当たる。濡れるのに構わないみたいに。
直哉の指先が、ひかりの手袋の端に触れる。
触れたのはほんの一瞬。確認するみたいに、軽く。軽すぎて、すぐに離れてしまう。離れてしまった瞬間、ひかりは胸の奥が痛むのを感じた。痛むのに、触れたという事実が熱い。熱いのに、現実は薄い。
直哉が小さく言う。
「……ごめん」
「謝らないで」
「困らせた?」
「困ってない」
困ってない。ひかりは言い切った。言い切ってしまってから、嘘みたいに聞こえるのが怖い。困っていないわけがない。困っている。でも、困っていると言ったら、直哉は引くかもしれない。引かれたくない。引かれたくないから、困ってないと言う。そういう自分が嫌だ。
直哉は視線を逸らした。考えているときの癖。逸らして、すぐ戻す。
「……帰り道じゃないと、こうなるんだな」
こうなる。ひかりはその言葉に苦笑した。帰り道の高架下は、音が守ってくれる。沈黙が隠れて、距離が保てる。今夜は守りがない。守りがないから、触れてしまう。触れてしまったのに、触れきれない。
「帰り道だと、言い訳があるから」
ひかりが言うと、直哉は小さく頷いた。
「音のせいにできる」
「そう」
二人は、しばらく歩いた。雨は続く。続く雨の中で、触れた指先だけがいつまでも残る。残るのは皮膚の感触ではなく、そこに乗った気配だ。触れたくて触れたのか、滑りそうだから触れたのか。どちらでもあり、どちらでもない。
ひかりの家へ続く角が見えてきた。いつもの角ではない。いつもより少し手前の角。ここで別れるのが自然だ。自然という言葉は便利だ。便利だから、別れが簡単になる。簡単になるのが、今夜は嫌だった。
直哉が足を止めた。ひかりも止まる。
雨が傘を叩く音が、急に大きくなる。大きくなると、言葉がいらなくなる。いらなくなるのに、言いたいことがある。
直哉が言った。
「明日」
それだけ。明日、と言っただけで、ひかりの胸が少しだけ楽になる。続くという予感が、息を作る。
「明日、同じくらい?」
ひかりは頷いた。頷いてから、言い足したくなる。言い足したいのに、言葉が見つからない。
直哉が先に言い足す。
「今日のこと、忘れない」
またその言葉。忘れないと言われるたび、嬉しさと怖さが同時に来る。忘れないのは、蓄積だ。蓄積はいつか溢れる。溢れたとき、受け止められるのか分からない。
「忘れなくていい」
ひかりはそう言った。言ってから、自分でも少し驚いた。許可を出したみたいだ。許可を出すと、関係が動く。動くのが怖いのに、動いてほしい。
直哉は小さく息を吐いた。雨の匂いがその息に混ざる。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がって、数歩進んでから立ち止まりそうになった。立ち止まったら、振り返ってしまう。振り返ったら、今夜の触れ方に答えがついてしまう気がした。答えをつけたくない。答えをつけたくないのに、答えが欲しい。
ひかりは振り返らないまま歩いた。
玄関の灯りが見えるころ、雨が少し弱まった。弱まると、傘の内側が急に広くなる。広くなると、さっきの指先の熱がよく思い出せる。思い出せると、胸が痛い。痛いのに、その痛みが現実みたいで安心する。
鍵を回し、ドアを開ける。
室内の乾いた空気が頬に触れ、外の湿り気が少しずつ消える。消える前に、雨の匂いと、直哉の声と、触れた瞬間の迷いが、鼻の奥に残る。
この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。
言えない言葉はまだ胸の底にある。底にあるから安全なはずなのに、今日の指先は、底を軽く叩いた。叩かれると、水面が揺れる。揺れが止まらない。
ひかりは濡れたコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。水滴が小さく落ちる音が、部屋の静けさに吸われていく。吸われていく音を聞きながら、ひかりは自分の手袋を外した。指先が少し冷えている。冷えているのに、そこだけ熱い気がする。
熱いのは、触れたからではない。
触れたことを覚えているからだ。
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