【創作大賞2026応募作品】君の横顔に触れるまで 第8章:居合わせる夜に
数日後の深夜、橋上の気配がゆっくり冷えて街灯の輪が濃くなるころ、部屋の灯りを落として水を一口飲んだ。コップの縁に残る冷たさが唇の端で薄くほどけ、窓の外で細い風がカーテンの裾を持ち上げて、すぐに諦める。あの夜、枕元の画面は終わりまで暗かった。今夜は違う。机の上の黒い面が短く震え、白い部屋の片隅に小さな光がひとつだけ灯る。
「今、駅の外にいる。少し、来られる?」
文末の句点はなく、名乗りもない。なくてもわかる。昼の文面より夜のほうが、彼の癖は輪郭を持つ。私は指先で短い返事を打った。行きます。文字が画面から離れたのを確かめて、上着の袖に腕を通し、鍵を掴んで玄関の扉を静かに引く。廊下の空気は細く冷えて、足音は薄い絨毯にすぐ吸い込まれる。階段を降りる途中、指先が少し震えているのに気づき、息をひとつ長く吐いた。呼吸は、意思より遅れて従う。
外に出ると、夜は乾いていた。雨の記憶は洗い流され、舗装の匂いは硬い。信号が赤に沈んで、横断歩道の白い線が遠心力を失ったように静まっている。私は表通りを避け、右に折れて、人の数が減る裏道に入る。看板の明かりが目の高さに降り、濃い影が足元に四角く置かれる。ブレーキの短い擦れが遠くで鳴り、角のビルの陰では微かな風が紙屑を持ち上げては落とす。歩幅は自然に整い、駅前の白い空気が薄く漂う広場の端に出る。
朝倉先輩は、柱の影と光の境目に立っていた。壁にもたれていないのに、身体の重さの少しをどこかに預けている立ち方。ジャケットの生地は変わらず、結び目は崩れていない。喉の前にだけ静かな張りがあり、目の下の影は浅く広い。視線は流れを避け、遠くの空気に置かれている。
「すみません」
声の高さは抑えられている。もっと低い位置に落ちてしまわないように、自分で支えている声だった。私はうなずく。夜の広場は、うなずきの角度まで拾ってくれる。
「大丈夫では、ない感じですか?」
「大丈夫じゃない、と言うのは過剰かもしれない。けれど、うまく息の形が見つからない」
「形」
「ホームの真ん中に立てなかった。端に寄っても、輪郭が薄くなる感じがして」
「今は外のほうがいいですね」
「うん。少し歩かせて」
私たちは階段から離れた。白い光の溜まりを背にして、路地へ向かう。足裏に伝わる舗装の粗さは均一ではない。小さな欠けが一つ、二つ、靴底の記憶に残る。看板の光が遅れて地面に落ち、影の端だけが柔らかく揺れる。彼は呼吸の位置を探すように、胸の奥で音を確かめるみたいにして、言葉を足した。
「呼ぶべきじゃないと思いながら、呼んだ」
「呼ばれなかったら、私は眠れていません」
「眠れない?」
「眠ろうとして眠っても、薄い場所にしか落ちない夜があります。それは、たぶん今夜でした」
「それは、都合がよかった」
「都合がよくて、よかったです」
角を曲がると、あの小さなカフェの灯りがガラスの内側で静かに揺れているのが見えた。扉の奥に木の色、棚の瓶の口、店主の肩の線。内側の明かりは薄いのに、ほどけない。私は彼の横顔に視線を寄せる。真正面ではない。斜めの位置で呼吸の速度を計る。彼は短くうなずいた。
「入ろう。長くは座らない」
扉のベルが短く鳴る。店主は眼鏡の奥で穏やかな光の反射を保ち、過剰にこちらに近づかない距離の礼儀を崩さない。カウンターの端に二つ空きがあり、私はいつもの端に腰を下ろす。椅子の木が脚の骨の形にしなり、指先はカウンターの肌理を確かめる。
「何になさいますか?」
「温かいもの、ミルクを多めで」
「同じものを」
「かしこまりました」
ミルの低い唸りが夜の静けさに薄く潜り、湯気の線が白く立ち上がる。陶器のカップが木に触れる音は短く乾いて、すぐに空気に溶ける。彼は両手でカップを包む。熱の輪が指の内側に広がり、広がった温度が肩の線を少し柔らかくする。私も口元に熱を寄せ、喉の奥にやさしい厚みを落とした。
「穴埋め、続いていますか?」
「続いている。板をいくつか渡した。薄い板と、重い板。渡しているうちに、足の裏の面積があいまいになってくる」
「立っている場所の質が変わる、という話でしたよね」
「そう。今日、少し無音になった。周りの音が消える瞬間が、何度か続いて。無音は嫌いじゃないはずなのに、そいつは違うやつだった」
「違う無音は、危険です」
「危険だと感じる自分を、まだ信頼できない」
「危険を言葉にしてここに置けたから、もう少し信じていいです」
「信じる、か」
彼は不意に笑いかけてやめた。やめた笑いは、ここでは正しい。代わりに息が長く落ちて、湯気が一度だけ濃く混ざる。私はカップの側面に指を置いて、布巾の水の跡が光を拾っているのを目で追う。
「今日の午後、会議の後で誰かに『大丈夫ですか』と聞かれた。大丈夫だと答えた。身体が勝手にそうする」
「昼の口は、夜のことを話せないようにできています」
「話さないでいると、夜が固くなる」
「固い夜は、息が鋭くなる」
「鋭さに助けられるときもあるけれど、今日は違った」
「だから呼んだ、ですね」
「そう。呼ばないほうがいい、と思いながら」
「呼ばれなかったら、私は別の夜に同じ場所まで歩いてくることになっていたと思います。たぶん余計に遠回りして」
「それは、助かる」
「助ける、ではなく、居合わせるです」
「居合わせる」
彼の目の焦点が一度だけ手前に戻る。戻った場所の浅さが、今夜の正確さに近い。店主がスプーンを布で拭う音が遠くで続き、ラジオの声が気温について淡々と話している。時計の位置は見えない。時間は、湯気の密度と会話の止まり方で測る。
「もうひとつ、話しておく」
「聞きます」
「昔、駅で倒れた話はしたかな」
「少し」
「列の真ん中で人に囲まれて、視界が狭くなって、体の輪郭が浮かないまま落ちた。誰かの手首に持ち上げられて、ベンチまで運ばれた。そのときの靴の音と、手首の温度だけを覚えている」
「覚えていることが、今に繋がっています」
「繋がって、今日のこの呼び出しに繋いだのは、紗月さんだ」
「偶然を、選び直しただけです」
「選び直す、か」
「夜は、やり直しのやり方が柔らかい」
「昼にそれをやると、浮く」
「夜にやると、沈む前に形になる」
「形に」
彼はカップを半分まで空にし、指の関節の白さがゆっくりと肌色に戻る。戻る速度が、今夜の彼の速度なのだとわかる。私は鞄の口を開け、白いハンカチの角に指を触れ、もう一度閉じる。広げない。今は場所の問題ではない。存在の問題だ。
「我慢していることは何ですか?」
「我慢は、していないつもりだ」
「なら、調整していることは」
「たくさんある。昼の俺は、誰の前に出しても安全な形を保っている。夜の俺は、たぶん安全ではない。安全ではないほうが、生きている感じがする」
「その感じは、たぶん正しいです」
「正しい?」
「生きている感じを持ち帰ると、朝に半分だけ消える。それでちょうどいい」
「半分だけ、か」
「全部持っていくと、昼が壊れます」
「昼は壊さないほうがいい」
「はい。だから半分だけ」
彼は短く笑って、今度は笑いをやめなかった。やめないかわりに音を立てない。音のない笑いは、湯気の白に薄く混ざるだけだ。混ざった場所に、言葉が落ちた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「ありがとうを、もう少し言ってもいい?」
「何度でも」
「ありがとう」
カップの底が見える。私は少し残して、木の面に置く。残った一口は、帰り道に意味を持つのを知っている。店主に会釈し、伝票に指を添え、彼と目だけで相談する。支払いは今夜も分ける。硬貨の触れ合う音は短く透明で、引き出しの中に沈む。
外に出ると、夜の冷たさが頬に乗った。駅の白い入口に向かう流れを避け、裏通りのさらに一本奥へ折れる。人影は少ない。閉まりきらないシャッターの前に椅子が置かれ、座る人の不在が座面の凹みでわかる。自販機の白い光が舗装に縞を作り、その前を猫が低く歩く。ビルの隙間から細い風が出てきて、すぐ引っ込む。
「逆方向に歩きたい」
「いいと思います」
「足の裏を別の地図に載せ換える時間が必要だ」
「地図の更新ですね」
「紗月さんは、地図をいっぱい持っている」
「付箋の数が多いのかもしれません」
「机の端の色」
「見られていたのは、恥ずかしいです」
「恥ずかしさは夜の燃料だ」
「昼に燃やすと煙が出ます」
「それは困る」
笑いが小さく行き交い、すぐに消える。消えたあとの空気は平らで、歩く音がよく通る。遠くで救急車の音が伸び、街灯の輪が少し濃くなった。輪の縁に彼の頬の色が薄く載り、呼吸の高さがようやくひとつ定まる。
「放っておけない、という言葉を使ってもいいですか?」
「紗月さんの言葉は、たいてい正しい」
「正しさが嫌いな夜もあります」
「今は?」
「今夜は、正しいほうがいい」
「放っておけない」
「放っておけない、です」
彼は立ち止まり、指をポケットの中で組む。その姿勢のまま、視線を少しだけ下げる。下げた先に、舗装の小さな傷が三つ続いていて、そこに雨の名残りが薄く溜まっていた。濡れていないと思っていた夜の底に、まだ水がある。それを見て安心することが、ある。
「頼る、という言葉を今夜のうちに置いておきたい」
「置いてください」
「頼る」
「受け取ります」
「受け取る側のほうが難しい」
「受け取り過ぎないで持って歩くのが今夜のやり方です」
「持って歩ける?」
「持ち方は、たぶん知っています」
「たぶん、がいい」
「私も、たぶん、のほうが本当らしく思えます」
ほどけない沈黙が一度だけ通り過ぎ、空気は少し温かく戻る。駅の入口が近づいて、白い光がまた見え始める。階段の手前で彼は足を止め、白い輪郭の下を見やる。視線は先ほどより揺れない。揺れないのが良いわけではない。ただ、今夜の彼の視線として自然だ。
「行けそうですか?」
「うん。端を選んで、数える」
「ここで待つと、今夜は違ってしまいます」
「送らなくていい」
「はい」
「また」
「また」
二文字は階段の縁に小さく落ちて、音も立てずに吸い込まれた。彼は一段目の手前で息を整え、視線を下げたまま足を運ぶ。白い光の中へ吸い込まれていく背中が角度を崩さず、小さな群れの中にやわらかく混ざる。その混ざり方を見届けてから、私は踵を返す。
逆向きに歩くと、街の色はさっきより柔らかく見えた。カフェのガラスは灯りを落とし、カウンターの上の布の拭き跡が斜めの線で残っている。扉の前を通りすぎるとき、私は一度だけ手を上げる仕草をして、やめた。やめた手は鞄の中の白い布の角に触れて、また離れる。広げない。この布の居場所は、今夜はここだ。
部屋に帰り着くと、鍵の音が白い壁に吸い込まれ、靴の底に付いた砂の数粒が玄関のタイルでかすかに転がる。コップに水を入れて、ひと口飲む。冷えが喉を落ちて、胸の手前で静かに散る。鞄からハンカチを取り出し、畳み目をなぞってまた戻す。灯りを落として、横になる。まぶたの裏にさっきの横顔の斜めの線が現れて、言葉にしない安堵が少しずつ広がる。広がる速度は遅い。遅いのに、行き渡る。遅さに守られる夜が、少しだけ続く。
翌日、朝の色が窓際の白に薄く混じるころ、フロアの空気は乾き気味で、コピー機の音は機嫌を取り戻していた。私は前日のメモを清書し、文末の角を整え、進行表の色の濃淡を半段だけ調整する。昼の手つきは確かだ。確かさが夜を否定しないように、意識して息の幅を保つ。彼は会議室から戻る途中で私の席の横を通り、視線を落としたまま短く言った。
「昨日、ありがとう」
「こちらこそ」
「階段、大丈夫だった」
「よかったです」
「よかった、を夜にも連れていく」
「連れて行けます」
昼はそこまででいい。必要な分だけ置き、余白は手前で止める。午後の空気は均一で、電話は一定の高さで鳴り、数字は淡々と並ぶ。夕方、ビルの谷間で風の層が薄く入れ替わるころ、私はコートの袖を通し、廊下に出た。エレベーターの鏡の端に、背の線が一瞬重なり、重なるだけで別れる。ロビーを抜け、右に折れる。裏道の光は控えめで、舗装に落ちた四角が長方形に伸び、靴の先が一瞬だけ明るく染まる。
角のカフェの前を過ぎる手前で、背中に近づく足音がある。高さで誰かわかる。振り向かない。
「今夜は」
「歩きます」
「どっちへ」
「駅と反対へ。少しだけ」
「うん」
私たちは同じ速度で、街の静かなほうへ歩く。看板の切れ端が地面に影を薄く置き、猫が角を曲がる。どこかの窓から笑い声が短く漏れて、すぐに消える。消えたあとに、言葉ではない温度だけが残る。
「昨日の二文字、よかったです」
「うん」
「二文字で十分な夜がある」
「そうだね」
「足音が、昨日より軽い」
「紗月さんのせいだ」
「責任を取ります」
「取らせる」
笑いがもう一度行き交い、街の輪郭は濃くも薄くもならない。均一な夜の平らさに、二人分の呼吸だけが淡く浮いている。私は胸の内側で言葉の形を確かめ、声に出さない。出さないまま、隣の温度へ渡す。渡したことを誰も知らない。知られないことの確かさが、今夜は頼もしかった。
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