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第9章:見られるということ、試されるということ

 六月初旬。
 白石凛の短編小説『声なき告白』が、文芸誌「季刊 遠雷」に掲載された。

 編集者・風間瞬が“個人的に強く推した原稿”として、彼女の原稿は異例のスピードで通過し、
 内容に一切の加筆指示が出なかった。
 そして発売後、読者からの感想がSNS上で爆発的に広がり、
 数日で数万件を超えるツイートが飛び交った。



「こんなに静かで痛い恋愛小説、初めて読んだ」
「“あなたにしか読まれたくなかった言葉”って、まるで私の心そのもの」
「編集者との関係がそのまま物語になってるのでは? 実在感が怖いほどある」



 読者は、その物語の中に“作家本人の私生活”を見ようとした。
 いや、見ようとしてしまったのだ。

 月曜の朝。
 風間が編集部に出社すると、文芸部の副編集長・藤井が声をかけてきた。

「風間くん、凛さんの原稿あれ、君がほぼノータッチで通したらしいね?」

「ああ。完成原稿だったから」

「うん、でもね……社外のPR担当から、ちょっと心配の声が上がってる。
 “担当編集者との関係性が作品に影響してるのでは”って。
 SNSでも噂されてるし。
 要するに、“近すぎるんじゃないか”って」

 風間はしばらく黙った。
 そして静かに答えた。

「近すぎるかどうかは……僕自身も、まだ判断がつきません。
 でも、彼女の言葉を“誰の手も加えずにそのまま出す”ことが、いま最も誠実な選択だと思ったんです」

 藤井はため息をついた。

「気持ちは分かるよ。でも、“編集部の判断”としては冷静でなきゃいけない。
 いま、君が彼女に感情的に傾いてるように見えると、他の作家も、“扱いが不公平だ”って言い出す可能性がある」

 その夜、風間のスマートフォンに、非通知の番号から電話がかかってきた。
 出てみると、聞き慣れた声が静かに響いた。

「風間さん、あの作品……凛さんの新作、読ませてもらいました」

「奈緒……」

「あなたの“声”が混じってた。
 つまり、彼女の文章の中に、あなたの存在が確実に“輪郭”として残っていた。
 読者は、そういうものをちゃんと見抜くのよ」

「……それがいけないことだと思うか?」

「問題は“いけない”かどうかじゃないわ。
 その状態が、“彼女の表現を縛ってしまう可能性がある”ってこと。
 あなたの存在が、彼女の創作を守っているならいい。
 でももし、“自分を見てくれる人がいる前提でしか書けない状態”に彼女が傾いたらそれは、あなたが筆を折らせたのと同じ構造になるのよ」

 風間は、何も言えなかった。
 佐伯奈緒は、静かにこう続けた。

「あなた、いま彼女を“好き”になってるでしょう?
 それは止められない。
 でも……“その愛情を通して彼女を見る”ようになったら、もう“作品を守る目”じゃなくなるのよ」

 凛は、新作の反響を目にするたび、複雑な感情に押し潰されそうになっていた。

「これって、恋愛小説なの?」
「“あなたにだけ読まれたい”って、絶対リアルな相手がいるでしょ」
「この編集者との関係がまんま書かれてるじゃん」

 読者の言葉は、ある意味で彼女の核心を突いていた。
 だが、それを“暴かれた”と感じる時点で、彼女はすでに誰かに“言葉を明け渡していた”のだ。

 風間の存在があって、初めて書けた作品。
 その事実を、自分自身が受け入れきれていなかった。

 ある日、風間宛に、封書で一通の手紙が届いた。
 メールではない。LINEでもない。
 彼女が“ことばとして、距離を置いて伝えたかった”内容だった。



瞬さんへ

 私は、あなたに読まれることで、初めて“私の声”が存在していいと感じられました。
 でも、その感覚に、私はいま、少し甘えていたのかもしれません。

 あなたに読んでもらうことが前提になったとき、
 私はまた、“理解されることを期待する私”になってしまう。
 それが、怖いです。

 だから、少しだけ時間をください。
 あなたを遠ざけるのではなく、“私自身で書く”ということを、もう一度確認したいんです。

 もし、それでも私がまた書き続けるなら、
 そのときに改めて、“あなたに読んでほしい”と伝えさせてください。

 白石 凛



 風間は、手紙を読んだあと、深く長く目を閉じた。

 これは拒絶ではない。
 だが、たしかに“関係が変化した証拠”だった。
 この関係が、いま試されているのだ。

 読者に見られること。
 世間に囁かれること。
 距離を置くこと。
 作品と感情を分けること。

 それらすべてが、ふたりに問いを投げかけていた。

「あなたがそばにいるから、書けたのではなく、
あなたがいなくても書けると証明して、それでも読んでほしいと願えるか?」

 封書の文面を読んだあと、風間瞬はそれを封筒ごとデスクの引き出しにしまった。
 既読のメッセージを返信せずにアーカイブするような感覚で、けれど彼は、それを「しまった」のではなく、「保管した」つもりだった。

 手紙の言葉には、明確な距離があった。
 けれどその距離には、拒絶ではなく、“揺れの余白”が残されていた。

 風間に手紙を送った日から、凛は毎朝自分にひとつの問いを立てることにした。
 それは単純で、けれどとても重い問いだった。

「今日、私は自分のために書けるか?」

 誰にも見せるためでなく、
 誰かに読んでもらうことを期待せずに、
 ただ“書く”という行為そのものを、自分の内部に問い直すために。

 彼女は、これまで書いてきたすべての短編、ノート、スケッチを並べ直し、何が「読まれる前提の言葉」で、何が「心の中にしか存在しない言葉」だったのかを、一つひとつ見直していた。



メモに残された走り書き:
• 愛とは、“誰かに理解される”ことではない。
 → むしろ、“理解されなくても、消されないこと”かもしれない。
• 作品が他人の目に触れることで壊れるなら、
 私のなかの言葉は“公共性”に耐えられない、ということ?
 → でもそれでも、書く。
• 書かなくても風間さんが隣にいると感じたとき、
 私はやっと、“言葉以外の居場所”を知った。



 書くことは、彼女にとって“生存の手段”だった。
 だがいま、彼女はその“生存”と“共に在ること”を、同時に成立させたいと願っている。

 凛が連絡を絶ってから十日。
 風間は、他の作家との打ち合わせを淡々とこなしていたが、その姿を見ている編集部の人々は、どこか気まずそうだった。

 なにより、佐伯奈緒の過去の投稿がある匿名掲示板で再浮上し、 「風間瞬は女性作家と“私的なつながり”を持ちやすい」という憶測が飛び交い始めていた。

 藤井副編集長は一度、風間にこう忠告した。

「正直なところ、今の状況で君が凛さんの次の原稿を受け取ったら、“また彼女の私的な感情を商業化してる”って言われかねない。
 彼女の次の作品は、他の編集者に一度見せる体制を取ったほうがいいかもしれない」

 風間は、少しだけ黙ってからこう言った。

「彼女がそれを望むなら、僕は降ります。
 でも、彼女が“僕に読んでほしい”と願った言葉なら、どれだけ叩かれても、僕は手放しません」

 十一日目の夜。
 凛は、風間への手紙のコピーを改めて読み直していた。
 そしてその隣に、小さくこう書き足した。



〈それでも、私の声を拾ってくれたあなたに、
 もう一度“ことば”を渡したいと思う。〉



 彼女は、ひとつの短編を書き上げた。
 それは、十七歳の少女が、誰にも読まれない手紙を、“ただ置いて去る”という物語だった。

 その少女には名前がなかった。
 だが、読めば誰もが“これは彼女自身だ”と感じ取れる物語だった。



ふたたびの沈黙を破るメール

 深夜一時十三分。
 風間のもとにメールが届いた。



件名:ご無沙汰しております
本文:
 あの手紙を書いたあと、
 私は少しだけ、“自分で自分の言葉を選び直す”作業をしていました。
 ようやく、あなたに読んでほしい文章ができました。
 添付します。

 読んでもらえたら嬉しいです。
 でも、感想はいりません。
 ただ、“受け取った”ということだけ、教えてください。

 白石凛



 風間は、その短編を開いた。

 読み進めるにつれ、何度も目を閉じ、
 手を止め、またページを戻った。

 そして最後の一行を読み終えた瞬間、彼の胸に静かに浮かんだ言葉は、“彼女は、ちゃんと自分の足で言葉を歩かせてきた”という確信だった。

メールの返信



件名:受け取りました
本文:
 凛さん、
 この物語の最後の行に、あなたの現在がありました。

 その言葉が生まれてよかったと、心から思います。
 あなたが“書けたこと”がすべてです。

 読ませてくれて、ありがとうございました。
 
 風間



 再会はしていない。
 触れ合いもしていない。
 けれど、“ふたりはもう一度、言葉でつながった”。

 それは告白ではない。
 再出発でもない。
 ただ、“その人にしか渡せない言葉を、手渡した”という行為だった。

そして、それこそが、ふたりにとって最も強い「愛の証明」だったのかもしれない。

 風間瞬は、凛から送られてきた短編を、夜明けまで何度も読み返していた。

 物語は、名もなき少女が、夜の駅のベンチに封筒を置いて立ち去るだけの話だった。
 その手紙には何も書かれていない。
 けれど、彼女は「書かない」という選択そのものを“声”として残そうとする。
 沈黙を贈り物にして、相手に「受け取ってくれること」を信じている。

 それは、凛の“今の心そのもの”だった。



〈私が言葉を差し出すことよりも、それを誰かが黙って受け取ってくれることのほうが、
私にとっては遥かに勇気を必要とするのです。〉



 “読む”という行為の背後にある、“受け止める勇気”。
 風間は、凛にとって自分が「読者以上の誰か」になっていたことを、
 その一文でようやく理解した。

 そして同時に、彼女にとって自分が重荷になっていないかその問いが静かに、心の底に沈んでいった。

 日曜日の午後。
 カーテンを少し開けて、初夏の光を部屋に入れると、
 凛は久しぶりに紅茶を淹れた。
 コップの中で葉がゆっくりと開き、香りが部屋を満たす。

 彼女は机に向かい、封筒を取り出した。
 差出人は、風間瞬。
 中には、ほんの一枚の紙が入っていた。



〈この言葉に、返事は要りません。
 ただ、“あなたの沈黙”を、僕はちゃんと読みました。
 そして、それを大事にしたいと思いました。
 だから、次の物語も、あなたがそうしたいと思えたときに僕に読ませてください。〉



 その文章に、凛は思わず声を漏らしそうになった。

 “返事は要らない”と書かれていたのに、
 彼女の中には、すでに“返したい”という気持ちが生まれていた。

 かつて佐伯奈緒が凛に言ったことを、ふと彼女は思い出していた。

「言葉に頼らない人に惹かれるっていうのは、
自分の“書くこと”に疲れている証拠よ。
でもね、本当に寄り添ってくれる人って、
あなたの言葉を読んでも、あなたを“理解した気”にならない人なの。」

 風間瞬は、まさにそういう人だった。
 彼は、彼女の言葉を読んでもなお、
 “これは彼女の全部ではない”という敬意を手放さなかった。

 数日後。
 凛は下北沢の古本屋で、小さな文庫本を手にしていた。
 それは、以前風間が貸してくれた村上春樹の短編集だった。

 パラパラとめくっていると、レジに並ぶ男が目に入る。
 シャツの袖をまくり、背中を少し丸めて本を抱えている。
 彼女は一瞬、息をのんだ。

 風間瞬だった。

 彼もまた、こちらに気づき、驚いた表情を見せた。
 けれど、無理に笑わない。
 慌てて言葉を探さない。
 ただ、ごく自然に会釈をして、ゆっくりと近づいてきた。

「久しぶりですね」
「……はい」

「お元気でしたか?」

「……少しずつ、自分の声と仲直りしようとしてました」

「それは、とてもいいことですね」

 ふたりの会話は、それだけだった。
 それだけで、十分だった。

 その夜、凛は日記にこう書いた。



〈あの人は、私の“声にならない声”を読んでくれた。
 私は、まだ“名前”をつけられないこの関係を、
 “ことばではない愛”として、静かに信じ始めている。〉



 そして、机に向かって書き始めた。
 タイトルはまだ決まっていない。
 でも、それは明らかに“いまの私が、誰かと生きること”を綴った物語だった。




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