【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第6章:静かな失望
朝の空気がまだ硬いまま街に降りてくるころ、篠原紗月は駅の階段を下りた。足元の金属が冷えていて、靴底から体の芯へ薄い緊張が伝わる。冬の入口は、いつもこういう触感で始まる。息を吸い込むと、喉の奥が少しだけ乾く。乾くと、昨日の言葉が砂のようにざらついて思い出される。
一緒にいたい。
言ってしまった言葉は、音が消えたあとも残る。残り方が厄介だ。余韻として美しく残るのではなく、生活の折り目に挟まって、ふとした瞬間に指を切る紙片みたいに残る。紗月はその紙片を指先で拾い上げないようにしていた。拾い上げれば、次にしなければならないことが見える。見えたら、もう知らないふりはできない。
編集部の扉を開けると、暖房の匂いが鼻の奥に触れた。暖かさの中に乾いた埃の匂いが混じり、そこに紙の匂いが重なる。机の上にはゲラ。赤字。付箋。いつもの景色がいつもの角度で待っている。こういう確かさはありがたい。確かさは、紗月が頼れる数少ないものだ。恋は確かさをくれない。くれないのに、心の重さだけは確かに増える。
午前中、作家から届いた修正が、思ったより素直だった。素直な修正は、なぜか怖い。いつも抵抗する人が抵抗しないとき、別の場所で何かが進んでいる気がする。紗月は画面をスクロールしながら、指先が冷たくなっていくのを感じた。冷えは室温のせいではない。気づかないふりをしていたものが、体に先に現れる。
昼休み、紗月はコンビニの前で立ち止まり、缶の温かい飲み物を買った。持った瞬間は熱い。けれど熱さはすぐに手に馴染む。馴染むと、熱は熱でなくなる。恋もそうだろうか。馴染んでしまったものは、失ったときに初めて熱だったと気づく。紗月はそんなことを考え、考える自分に少し疲れた。疲れたと思うと、余計に疲れる。体が素直すぎる。
午後の光が窓の外で薄く傾き始めるころ、宮本から短いメッセージが来た。
今日、打ち合わせが長引く。会えるか分からない。ごめん。
会えるか分からない。ごめん。紗月は画面を見つめたまま動けなかった。会えるか分からないという言い方には、保険がある。会えないと決めるのではなく、会えない可能性を先に置く。置かれた可能性は、心を宙ぶらりんにする。宙ぶらりんの時間は、仕事をするには邪魔だ。でも、宙ぶらりんがあるから、今夜の希望が消えずに済む。希望が消えないほうが苦しいこともあるのに。
紗月は返信欄を開き、言葉を探した。大丈夫と打ち、消す。無理しないでと打ち、消す。会えたら嬉しいと打ちかけ、指が止まる。嬉しいと言ってしまえば、嬉しいと期待していた自分が露呈する。期待は弱さだと紗月は思ってきた。思ってきたから、期待していないふりをする癖がある。癖は簡単に取れない。取れないまま、今夜は進んでいく。
分かった。連絡して。
それだけ送ると、画面が暗くなった。暗くなった画面には、自分の顔がうっすら映る。目の下の影が、いつもより濃い。紗月は画面を伏せ、机に向き直った。向き直っても、文字が目に入らない。仕事の言葉が頭に入ってこないとき、紗月は決まって恋の言葉を飲み込んでいる。飲み込んだ言葉が胃のあたりに沈み、仕事の集中を鈍くする。恋は生活を乱すものだと思っていた。それは正しかった。正しいからこそ、今の自分が滑稽に見える。
夕方の終わりが見え始め、編集部の中の会話が少しずつ減っていくころ、紗月は原稿の束を鞄に入れた。鞄が重い。重さは物理的なものなのに、今日は心の重さまで一緒に入っている気がする。紗月は肩紐をかけ、唇を軽く噛んだ。癖が出るのは、迷っているときだ。帰るべきか、飯田橋へ向かうべきか。向かうべきだとして、会えるのか。会えるとして、何を話すのか。話すと、終わる気がする。終わるのが怖いのに、終わらないまま削れることにも耐えられなくなっている。
外へ出ると、空気が乾いていた。車の音がよく通る。ビルの隙間を抜ける風が冷たく、頬の表面だけを薄く削る。街灯が早めに灯り、白い光が歩道の模様を強く浮かび上がらせる。模様がはっきりすると、自分の影もはっきりする。影がはっきりすると、ひとりであることが露骨になる。
飯田橋へ向かう電車の中で、紗月は何度もスマホを見た。通知は来ない。来ない時間が長いほど、会えるか分からないの意味が重くなる。会えるか分からないは、実は会えないという意味なのかもしれない。そう思った瞬間、胸が少しだけ楽になる。会えないなら、期待しなくて済むからだ。期待しなくて済む代わりに、何かが削れる。削れる痛みは、ゆっくりで、気づきにくい。
飯田橋に着いたころ、空気の冷えが一段深くなっていた。駅前の明かりは明るいのに、光の下にいる人たちの顔はどこか薄い。皆、夜の入り口で別の世界へ切り替わる途中なのだろう。紗月は改札を出て、いつもの場所へ向かった。いつもの場所に立つと、自分の体が自動的に待つ姿勢になる。待つ姿勢は、楽だ。考えなくていい。考えなくていいことが、怖い。
数分が過ぎ、さらに数分が過ぎた。時間を数字で測らないようにしても、体は時間の伸びを知っている。空気が冷たくなり、指先が固くなる。紗月は指を握り込み、ポケットの中でほぐした。寒さのせいにできる。寒さは便利だ。便利な言い訳は、人の本音を遠ざける。
画面が震えた。
ごめん。今夜は無理になった。ほんとにごめん。
無理になった。ほんとにごめん。紗月は返信を打てなかった。指が動かないのではない。言葉が出ない。大丈夫、と返せば今夜は終わる。終わらせたくないわけではない。終わらせ方が、自分の望む形ではない。望む形が何かと問われたら、言えない。言えないから、望む形も曖昧になる。曖昧な望みは、叶えにくい。叶えにくいものにしがみついている自分が、急に恥ずかしくなった。
紗月はスマホを鞄にしまい、駅前の光の中を歩き出した。帰る方向へ。帰ると決めた途端、足取りが少し軽くなる。軽くなるのが、腹立たしい。期待していた自分を捨てたことで楽になるなら、最初から期待しなければよかったのに。けれど期待は、意図して生まれるものではない。相手がいる限り、勝手に育つ。
坂の手前まで来て、紗月は足を止めた。神楽坂へ上がる道を見上げる。店の灯りが並び、笑い声が風に乗る。夜の賑わいは、どこか別の国のもののように感じる。自分は今、そこに混ざれない。混ざれないのは、会えないからではない。会えない夜に、会える夜の影を見てしまったからだ。影は、実体よりしつこい。
ふと、紗月は自分が泣きそうになっていることに気づいた。泣かないと決めていた。決めていたのに、目の奥が熱い。熱さは、我慢してきた言葉の熱だ。熱が溢れそうになり、紗月は唇を噛んだ。噛むと痛い。痛いと、熱が散る。散る熱は、涙になりにくい。紗月はそうやって自分を制御してきた。制御できているうちは大丈夫だと思ってきた。制御が必要な時点で、大丈夫ではなかったのに。
帰宅して部屋の灯りをつけると、白い光が現実を固定した。コートを掛け、靴を脱ぐ。動作が淡々としているほど、心が追いつかない。追いつかない心は、後から遅れて痛む。紗月はキッチンで水を飲み、喉の乾きを誤魔化した。乾きは、涙の前に来る。涙は出ない。出ない代わりに、胃のあたりが重い。重さは食欲ではない。言えない言葉の塊だ。
スマホが震えた。宮本からだった。
ほんとにごめん。明日、少しでも会えるようにする。
少しでも。紗月はその言葉に、静かな疲れを覚えた。少しでも会えるようにする。少しでも、が増えるほど、生活の中の自分の位置が小さくなる気がする。小さくなる位置を、相手は見ているのだろうか。見ていても、どうしようもないのかもしれない。どうしようもない現実に、恋は勝てない。勝てないのに、勝とうとして傷つく。
紗月は返信を打った。
分かった。無理しないで。
打って、送信した。送信した瞬間、自分の言葉が空っぽに感じた。無理しないで。優しい言葉の形をしているのに、実は距離を置く言葉だ。距離を置けば傷つかないと思っている。距離を置くほど、別れが現実になるのに。矛盾の中で、紗月は自分の言葉の薄さに驚いた。薄い言葉は、相手に届かない。届かない言葉で関係を保てるはずがない。
翌日、編集部は忙しかった。忙しいという言葉では足りない種類の騒がしさだ。校了が重なり、電話が鳴り、プリンタが唸る。誰かの机の上で紙が崩れ、誰かがそれを慌てて拾う。拾った紙が風で揺れ、落ち着かない。落ち着かない空気の中で、紗月の心は妙に冷静だった。冷静さは、諦めの手前にあることがある。諦めは感情を守る。守りすぎると、何も残らない。
昼過ぎ、宮本からまたメッセージが来た。
今日、終わり次第行く。飯田橋。遅くなるけど。
紗月は画面を見た。心が跳ねない。跳ねないことに驚く。昨日まで、通知が来るだけで胸が反応した。今日は反応が遅い。遅い反応は、信頼の欠けた証拠だ。信頼が欠けると、期待が育たない。期待が育たないと、傷つきにくい。傷つきにくい代わりに、嬉しさも薄い。薄い嬉しさは、ただの習慣になる。紗月は自分がそこへ滑っているのを感じた。滑るのは、痛みを避けるためだ。避けた痛みは、別の形で戻る。
分かった。
それだけ返信し、スマホを伏せた。伏せた画面が、黒い鏡になる。黒い鏡に映る自分の顔は、どこか遠い。自分の顔が自分に見えないとき、人は何を頼りに生きるのだろう。紗月は机の上のゲラを頼りにした。文字は嘘をつかない。嘘をつくのは、文字ではなく人間だ。人間が書く文字も嘘をつく。だから編集が必要になる。恋にも編集が必要なのだろうか。編集できるのは、自分だけだろうか。相手にも編集してほしい。相手に編集を求めるのは、傲慢だろうか。そんなことを考えている時点で、もう余裕がない。
夜、編集部を出るころ、空気が冷えていた。昼間の騒がしさが嘘のように、街は静かに硬くなっている。飯田橋へ向かう途中、紗月は何度も足を止めそうになった。昨日のことが胸に刺さっている。刺さったままのものは抜けない。抜けないまま、また会う。会えば、刺さり方が変わるかもしれない。変わるのが怖い。変わらないのも怖い。
飯田橋の改札を出ると、宮本はもういた。今日はいつもの場所ではなく、少し奥まったところに立っている。人の流れから半歩外れた場所。外れた場所は、話しやすい。話しやすい場所を選ぶのは、何かを話すつもりがあるからだろうか。紗月はその期待を押し殺した。押し殺すことに慣れすぎると、心の声が小さくなる。
「ごめん」と宮本が言った。言い方が昨日より低い。「待った?」
「待ってない」
紗月はそう答えた。嘘ではない。待っていたのは昨日だ。今日は待っていないふりが上手くなった。上手くなることが嬉しくない。
宮本は紗月の顔を見て、何か言いかけてやめた。言いかけてやめる癖は、彼の中で言葉が重い証拠だ。重い言葉を持っている人は、重い沈黙も持っている。その沈黙の横で、紗月は息が苦しくなる。
二人は神楽坂へ向かった。坂を上がらず、路地へ入る。路地の石畳が乾いていて、靴音が少しだけ高い。音が高いと、心が薄くなる気がする。薄くなった心は、痛みを感じにくい。感じにくいのに、刺さっているものは刺さったままだ。
店に入ると、暖気が頬を包んだ。紗月は温かい飲み物を頼み、手のひらに熱を取り戻す。宮本は水だけを頼んだ。水を頼む夜は、彼が疲れている夜だ。紗月はそれを知っている。知っていることが、親密だと思っていた。今日は、ただのデータに感じた。人の癖を知っているのに、心の行き先が分からない。そのことが、冷たい。
沈黙が落ちた。いつもなら、沈黙は居心地がいい。今夜は沈黙が硬い。硬い沈黙は、触れると痛い。
「昨日」と宮本が言った。「ほんとにごめん」
「うん」
紗月は頷いた。頷いたのに、胸の奥が動かない。動かないのは、許したからではない。許すかどうかの前に、何を許すのかが分からない。会えなかったことか。優先順位か。少しでも、という言葉の積み重ねか。自分が小さくなっていく感覚か。どれも一つではない。混ざったものは、言葉になりにくい。言葉になりにくいものは、相手に渡せない。渡せないから、ひとりで持つ。ひとりで持つと重い。重さが失望になる。
「紗月、怒ってる?」
宮本の声は穏やかだった。穏やかさが、今夜は少しだけ刺さる。怒りがあれば、ぶつけられる。怒りがないから、ぶつける相手がいない。いないのに痛い。
「怒ってない」
「じゃあ」
宮本は言葉を止め、視線を外した。考えると視線を外す癖。今日はその外し方が、長い。長い外し方は、答えが怖いときだ。
「失望してる」と紗月は言った。
言った瞬間、胸の中に空気が入った気がした。空気が入ると、痛みが少しだけ形になる。形になると、扱いやすい。扱いやすい痛みは、深い。
宮本が紗月を見た。目が揺れる。揺れは痛みと罪悪感の混ざった揺れだ。紗月はその揺れを見て、少しだけ心が動いた。動いたのは愛しさではない。疲れだ。疲れは人を柔らかくする。柔らかくなったとき、今まで堪えていたものが出やすくなる。
「何に」と宮本が訊く。
「私が、どこにいるのか分からない」
言いながら、紗月は自分の声が小さく震えているのに気づいた。震えを止めようとして唇を噛み、噛むのをやめた。癖が忙しい。癖が忙しいとき、心は追いついていない。
「ここにいる」と宮本は言った。
「今夜、じゃなくて」
紗月は続けた。自分でも少し意地が悪い言い方だと思う。けれど意地が悪いのは、余裕がないからだ。余裕がないのに、余裕があるふりをしてきた。ふりが剥がれ始めている。
「関西の話、決まったんだよね」
宮本が頷く。
「半年くらいって」
「うん」
「延びるかもしれないって」
「うん」
うん、が続く。うん、は肯定だ。肯定が続くほど、紗月の中で否定が育つ。否定は自分の存在の否定だ。そこに自分は含まれていない気がする。気がするだけなのに、気がすることが現実より苦しい。
「私は」と紗月は言った。「その話の中に、入ってない」
宮本はすぐに否定しなかった。否定しない沈黙が、紗月の言葉を現実にする。現実になった途端、胸の奥で何かが静かに折れた。折れたのは恋ではない。期待の骨だ。期待の骨が折れると、立ち方が変わる。
「入ってないわけじゃない」と宮本は言った。第5章と同じ言葉を使わないようにしようとしているのが分かる。分かるのに、意味は似ている。「ただ、紗月を軽く扱いたくない」
軽く扱いたくない。言葉は丁寧だ。丁寧な言葉が、実際の行動を変えるわけではない。紗月はそこに、静かな失望を感じた。丁寧さは、手触りを良くする。手触りが良いほど、刃は見えにくい。見えにくい刃は、深く刺さる。
「軽く扱いたくないなら」と紗月は言った。「重く扱ってほしい」
言ってしまってから、紗月は自分の言葉の乱暴さに驚いた。重く扱ってほしい。そんなことを言う自分が嫌だ。嫌なのに、言ってしまった。言ってしまったのは、重く扱われていないと感じているからだ。
宮本の目が少しだけ見開かれ、それからすぐに視線が落ちる。考えると視線を外す癖。今日の視線は、逃げ道を探している。
「重く扱うって」と宮本が言った。「どうすればいい」
どうすればいい。紗月はそこで、初めて宮本の無力さをはっきり見た気がした。聞き上手で、穏やかで、決断を急がない。そういう人は、時々、決断の場面で無防備になる。無防備さは可愛いとも言える。でも今夜は、可愛いでは済まない。無防備は頼りなさになる。頼りなさは、未来の薄さになる。
「分からないの」と紗月は言った。「分からないから、苦しい」
宮本は黙った。黙ることで守る。守っているのは、紗月を傷つけないことかもしれない。けれど黙ることが、別の傷になることもある。傷の形が違うだけで、痛みの量は変わらない。
「紗月」と宮本が言った。「俺、逃げたいわけじゃない」
逃げたいわけじゃない。否定形は、肯定より弱い。弱い言葉ほど、頼りなく響く。頼りない響きを、紗月は聞きたくなかった。
「逃げたいわけじゃないって言うのは」と紗月は言った。「逃げ道があるってことだよ」
言い切ると、胸の奥が少し痛んだ。刺したのは自分だ。刺すつもりはなかった。刺さなければ届かない気がした。届かないと、消える。消えるのが怖い。怖さが、言葉を鋭くする。
宮本は小さく息を吐いた。吐いた息の長さが、疲れの長さに見える。仕事が彼を削り、その削れた部分で恋を支えている。支えの材が細い。細い材は、重いものを支えられない。紗月はその現実を見てしまった。
「俺」と宮本は言った。「今の仕事、ここでしかできないこともあって」
ここで、という言葉が紗月の胸に落ちる。ここで。東京で。東京の外へ行くのに、ここで、という言い方をする。ここでしかできない。つまり、行くことは必要だ。必要があるなら、恋は後回しになる。後回しにされるのは仕方ない。仕方ないと分かっているのに、仕方ないで片付けたくない。
「じゃあ」と紗月は言った。「私は何」
質問が幼い。幼い質問だと分かっているのに、他の言い方が見つからない。編集者としての自分なら、もっと綺麗に言えるはずだ。でも恋の中では、綺麗な言葉は役に立たない。綺麗な言葉は、相手を傷つけない代わりに、自分を救わない。
宮本が顔を上げ、紗月を見る。目の温度が揺れる。揺れは嘘ではない。嘘ではないのに、答えにならない。
「大事だよ」と宮本は言った。
大事。大事は便利な言葉だ。大事と言えば、相手を傷つけない。けれど大事と言われるだけでは、生活の中の位置が決まらない。位置が決まらないものは、失うときに手が空を掴む。空を掴む痛みを、紗月はもう想像できてしまう。
「大事なら」と紗月は言った。「どうして、私のことを、予定に入れないの」
言いながら、これは責めだと思った。責めると相手は防御する。防御すると、距離ができる。距離ができると、余計に孤独になる。孤独が怖いのに、孤独へ向かう言葉を選んでしまう自分が嫌だった。でも、止められない。
宮本は視線を外した。歩幅を合わせる癖と同じように、言葉でも相手に合わせようとする人だ。合わせようとするほど、自分の言葉が遅れる。遅れた言葉は間に合わない。
「入れたら」と宮本は言った。「約束になるから」
約束。紗月の胸が少しだけ跳ねた。ここで約束という言葉が出る。約束を避ける人だと分かっていたのに、約束を口にする。口にした時点で、約束の影が二人の間に落ちる。
「約束が、怖い?」
紗月が訊くと、宮本は頷いた。
「怖い」と宮本は言った。「怖いって言うと、情けないけど」
情けないと思っているのは彼自身だ。紗月は情けないとは思わなかった。怖いのは分かる。言葉にした瞬間に戻れなくなる怖さ。紗月も同じだ。だからこそ、同じ怖さを持つ二人は、同じ場所で立ち尽くす。立ち尽くす間に、現実だけが進む。
「私」と紗月は言った。「約束が欲しいわけじゃない」
本当だろうか。紗月は自分の言葉の裏側を自分で疑った。約束が欲しいのではなく、形が欲しい。形が欲しいというのは、約束が欲しいのと似ている。似ているのに、少し違う。形は、期限がなくてもいい。名前がなくてもいい。ただ、生活のどこかに自分の場所が欲しい。終電後の隙間ではなく、昼の光の中にも置ける場所が。
「じゃあ」と宮本が言った。「何が欲しい?」
その問いは、静かで、でも容赦がなかった。紗月は答えを持っている。一緒にいたい。期限や形まで含めて。けれど言う勇気がない。勇気がないから、今だけを延ばす。今だけを延ばすことが、もう苦しい。苦しさを言葉にすると、結局、同じ核心に触れる。
「分からない」と紗月は言った。
分からないと言った瞬間、胸の奥で何かが沈んだ。分からないは逃げだ。逃げを責められない。自分も同じ逃げをしてきたからだ。紗月は自分が静かに負けていくのを感じた。負けとは、相手に対してではない。自分の望みに対してだ。望みを持つことを諦める方向へ、心が傾いていく。
店を出たとき、夜気が頬を刺した。冷たさが鋭い。鋭い冷たさは、涙を乾かす。乾くと、泣けない。泣けないと、感情が固まる。固まった感情は、静かな失望になる。失望は、怒りのように派手ではない。だから相手にも伝わりにくい。伝わりにくいものほど、長く残る。
二人は歩いた。神楽坂の路地。石畳。店の灯り。笑い声。遠くの車の音。どれも同じ景色なのに、今夜は別の角度で見える。光の輪郭が少し硬い。匂いが少し冷たい。足音が少し寂しい。寂しさは、音の少なさではなく、言葉の欠落で生まれる。
飯田橋へ戻る道で、宮本がふと立ち止まり、紗月を見た。
「紗月」と宮本が言った。「俺、紗月のこと、ちゃんと好きだよ」
好き。好きは、言い方によって軽くも重くもなる。今夜の好きは重い。重いのに、方向がない。好きだと言われても、どこへ向かう好きなのかが分からない。向かう先がない好きは、今を延ばすための燃料になる。燃料は燃えて消える。燃え尽きたら、寒い。
「知ってる」と紗月は言った。
知ってる、と言った自分に驚いた。知っている。知っているのに苦しい。苦しさは、好きが足りないからではない。好きの外側のものが足りない。足りないものの名前を、紗月はまだ言えない。
宮本が何か言いかけ、口を閉じた。言葉の端が空中で折れる。折れた言葉は拾われない。拾わないまま、二人は駅前の光の中に戻った。
別れ際、宮本が言った。
「また連絡する」
また。連絡する。曖昧な約束。曖昧さが、今日は痛い。痛いのに、紗月は頷いた。頷くことで、自分もこの曖昧さを選ぶ。選ぶことで、傷つかないようにする。傷つかないようにするほど、温度が下がる。温度が下がると、恋が生活から遠ざかる。遠ざかるのに、終わらない。終わらないまま、ただ薄くなる。
帰宅して部屋の灯りをつけると、白い壁が静かに待っていた。待っているのに、責めない。責めないものの前では、人は弱くなる。紗月はソファに座り、スマホを机に置いた。画面は暗い。暗い画面は、今の二人の関係に似ている。触れれば光る。光れば見える。見えたら、選ばなければならない。選ぶのが怖いから、触れないでいる。
それでも、今日の会話は残った。静かな失望として。怒りではない。別れの決意でもない。ただ、心の中の何かが少しだけ硬くなった。硬くなると、言葉がさらに出にくくなる。出にくい言葉は、いつか出なくなる。出なくなったとき、恋はどうやって続くのだろう。続くのだろうか。続かなくなるのだろうか。紗月はその問いを、答えのないまま胸に置き、眠りのふちへ身を滑らせた。
眠りの手前で、ふと思った。明日も仕事はある。締切もある。生活は続く。続く生活の中で、宮本の居場所はどこへ行くのだろう。自分の居場所はどこへ行くのだろう。問いは静かで、けれど消えなかった。消えない問いがある夜は、恋の気配が濃い。濃い気配は、痛みの匂いも含んでいる。
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