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【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第7章:それでも歩く夜

数日が過ぎた。久遠蓮と電話で話したあの夜から、私の日々は、外から見れば何ひとつ変わっていないのに、内側のどこかだけが静かに色を変え続けているようだった。

朝、窓の外の淡い光がいつものようにカーテンの布地を透けて入ってくる。湯気の立つマグカップを手に、ニュースサイトを流し見しながらトーストをかじる。その一つひとつの動作はこれまでと同じなのに、スマートフォンの画面を机の上に伏せて置く癖だけが、新しく増えていた。

仕事のメールが届く音と、久遠さんからのメッセージが届く音は、同じような短い振動しか持たない。それなのに、耳はその小さな揺れの違いを勝手に覚え始めている。机の端でスマートフォンが一度だけ震えるたびに、心臓がほんの少し早く跳ねるのを、私は何度も誤魔化した。

そんなある日の午後、社内チャットの全体ルームに、告知用のメッセージが上がった。

「来週金曜、恵比寿の書店で久遠さんの新刊のトークイベントがあります。営業と編集の一部はサポートで参加をお願いします」

短い文面に添えられたポスターの画像には、カバーの写真と簡単なあらすじ、日時、会場名が並んでいる。私は画面をスクロールしながら、自分の名前が参加予定者の欄に含まれているのを確認した。

「相沢さん、行けそう?」

隣の席から、同じチームの同僚が顔をのぞかせる。

「はい。金曜なら大丈夫です」

「じゃあ、当日売り場周り、お願いしてもいい? 久遠さんのところ、ファン多いから」

「分かりました」

必要最低限のやりとりだけを交わしてから、画面を閉じる。胸のどこかで、生ぬるい水が静かに揺れた。恵比寿の書店。夜。トークイベント。キーワードを並べるだけで、まだ見ぬ光景の輪郭が、頭の中にぼんやりと浮かび上がってくる。

その週は、締め切り前の案件がいくつも重なり、気づけばいつもより残業が続いていた。メールの返信、校正紙への赤入れ、会議資料の修正。作業に没頭しているあいだは、余計なことを考えずに済む。けれど、ふと顔を上げて窓の外の暗さに気づいた瞬間、耳の奥であの声が静かに再生される。

「今度なにか書くとき、相沢さんの『練習中』の部分を少しだけ借りてもいいですか」

あの言葉を思い出すたび、どこまでが仕事で、どこからが個人なのか、その境界がまた少し曖昧になる。曖昧なままにしておく方が楽だと分かっていながら、きちんと線を引こうとする自分も確かにいる。その二人が、胸の中で静かに押し合い続けている。

そして、金曜日がやってきた。

ビルの谷間で午後の光が少しずつ薄くなり、窓ガラスに映る自分の顔の輪郭が濃くなり始めるころ。私は一度パソコンを閉じ、鞄をまとめた。社内の空気はまだ仕事の熱を保っていて、コピー機の音や電話の呼び出し音があちこちから聞こえている。

トイレの鏡の前で、コートの襟を整える。いつもより少しだけ明るい色のニットを選んだことを、そこで初めて自覚して、少しだけ恥ずかしくなる。誰に見せるためというわけでもない。ただ、自分の中で「イベントに行く」という名目が、身だしなみに細かい理由を与えていた。

オフィスを出て地上に上がると、風はすでに夜の匂いを含んでいた。街路樹の枝先に残るわずかな葉が、街灯の光を受けて鈍く光る。駅までの道を急ぎながら、私はスマートフォンの乗り換え案内で、恵比寿への最短ルートを確認した。

電車を降り、人の流れに合わせて改札を抜ける。恵比寿の駅前は、すでに週末の空気を帯びていた。店先から漏れる音楽、ガラス越しに見えるビールの泡、待ち合わせをしているらしい人たちの笑い声。そこに自分の時間を混ぜ込まれていく感覚に、少しだけ眩暈を覚える。

書店は、駅から少し離れた通り沿いにあった。ビルの一階部分のガラス張りの正面には、新刊の平積みがきれいに並び、その隣に今日のイベント告知が控えめに立てかけられている。扉を開けると、紙とインクの匂いがふわりと鼻腔を満たした。

店内は思っていたよりも広く、奥の一角がすでにイベントスペースとして整えられていた。折りたたみの椅子がいくつも並べられ、小さな台の上にはマイクと水の入ったペットボトル、そして彼の新刊が横向きに置かれている。

「相沢さん、こちらです」

事前に連絡を取っていた書店員が手を振る。私はスタッフ用の名札を受け取り、簡単な打ち合わせに加わった。椅子の数、立ち見の導線、本の追加分の置き場所。実務的な確認事項が淡々と積み上がっていく。

その最中、ふと入口の方でざわめきが起きた。振り向くと、久遠蓮が、スタッフに案内されながら店内に入ってくるところだった。スーツ姿ではなく、落ち着いた色のニットとジャケット。職場で見る顔と同じなのに、ここでは「著者」としての輪郭が前に出ている。

視線が合うかどうかのぎりぎり手前で、彼は軽く会釈をした。私も同じくらいの角度で頭を下げる。あくまでも、担当編集者と著者としての距離。そのはずなのに、胸の内側では、川沿いの暗がりで見た横顔が一瞬だけ重なった。

開始時間が近づくにつれて、店内には人が増えていった。世代も性別もばらばらの読者たちが、椅子に座ったり、通路に立ったりしながら、静かに開演を待っている。そのざわめきの中に紛れ込むように、私は会場の端に立ち、全体の様子を見渡した。

店内の照明が少し落とされ、スポットライトがトーク用のテーブルを柔らかく照らす。司会役の書店員が簡単な挨拶をし、久遠さんが紹介される。拍手が波のように広がり、その中心に彼の声が置かれた。

「今日はお忙しい中、ありがとうございます」

マイク越しの声は、オフィスや電話とは少し違って聞こえる。言葉の端々に、読者に向けた意識の緊張が乗っている。それでも、時折こぼれる笑いのタイミングや、言い淀みの癖は、私が知っている彼と同じだった。

編集とのやりとりの話題になったとき、彼は軽くこちらを見た。

「担当の編集さんには、だいぶわがままを聞いてもらいました。川沿いの場面なんかは、ほとんどそのまま残してもらったので……」

会場に、くすりとした笑いが広がる。その中で、私の胸だけが一瞬、きゅっと縮んだ。「川沿い」という単語が、この場では物語上の場面を指していることを、頭では理解している。それでも、身体のどこかが反射的に反応してしまう。

質問コーナーでは、読者のひとりが、静かな声で尋ねた。

「この小説は、どこまでがフィクションで、どこからが現実なんですか?」

どこかで聞いたことのある質問だった。彼は少し笑ってから、マイクに口を近づける。

「全部フィクションです、と言いたいところなんですけど……現実の方が勝手に寄ってきてしまう瞬間が、ときどきあります」

会場にまた笑いが起こる。その笑い声の中で、私は自分の手を組み直した。笑いも拍手も、ここでは安全な音だ。この空間にいる全員にとって、この話は、あくまでも「物語」として消費される。

けれど、川沿いの夜を知っている自分にとっては、その一文だけが、別の重さを持って響いていた。

トークイベントが終わると、今度はサイン会が始まった。列に並ぶ読者ひとりひとりと短い会話を交わしながら、彼はペンを走らせる。私は少し離れた場所で、列の整理や本の補充をしながら、その様子を横目で見ていた。

「このシーンが好きでした」「あそこで泣きました」

読者たちの言葉が、断片として耳に届く。彼は一人一人にきちんと目を合わせ、丁寧に返事をしている。その姿を見ながら、私は、彼の描いた「元に戻れなくなりそうな瞬間」が、どれだけ多くの人の中に住み着いているのかを思い知らされる。

サイン会が終わるころには、店内の空気も少し柔らかくなっていた。残ったのは、スタッフと関係者だけ。書店員が、ほっとしたような笑顔で言う。

「このあと、近くで軽くご飯でもいかがですか。お時間大丈夫でしたら」

「ありがとうございます。僕は大丈夫です」

久遠さんがそう答え、視線をこちらに向ける。

「相沢さんは?」

名前を呼ばれた瞬間、胸の内側で何かが小さく跳ねる。時計を見なくても、外がすでに夜の顔をしていることは分かる。ここから帰れば、家に着くころには、街のざわめきも少し落ち着いているだろう。

「……はい。ご一緒させてください」

言葉にするまでのわずかな間に、いくつかの別の返事の候補が頭をよぎった。疲れているから、明日も早いから、原稿を読み直したいから。どれも、もっともらしい理由だった。でも、どれも口にしなかった。

書店を出ると、夜風が頬に触れた。さっきまで室内に溜まっていた熱が薄く剥がされていく。通りには、週末の夜をこれから始めようとしている人たちの気配が満ちていた。

「この辺り、何かお店あったかな?」

書店員が周囲を見回す。その横で、久遠さんがふと空を見上げる。高架の向こうに、薄く光る雲の切れ間が見えた。

「少し歩いても大丈夫ですか。あまり賑やかすぎないところの方が、話しやすい気がして」

「はい」

気づけば、私の足は自然と彼の少し後ろをついていっていた。数人のスタッフと一緒に、夜の通りを歩く。信号待ちで立ち止まったとき、遠くの方から、どこかで流れる水音のようなものが、微かに聞こえた気がした。

恵比寿から中目黒の方角へと続く道。ビルの隙間を縫うようにして吹き抜けてくる風が、どこか懐かしい匂いを運んでくる。まだ川は見えない。それでも、あの水辺の暗がりの気配だけが、夜の空気の中に、うっすらと混ざり始めていた。

店から漏れる灯りが、通りの舗装に長く伸びていた。細い路地を曲がった先にある、小さなビストロのような店に入ると、ガラス越しの喧噪が一段階和らいだ。照明は少し落とされていて、テーブルごとのペンダントライトが丸い光の輪を机の上に落としている。

四人がけのテーブルに、書店員と営業の社員、それから久遠蓮と私がそれぞれ向かい合うように座った。テーブルの上には、水の入ったグラスと紙ナプキン、それから小さなキャンドルがひとつ。炎は揺れがほとんど分からないほどに安定していて、周囲のざわめきを静かに受け止めている。

メニューを一通り見終わるころには、店内の空気にゆっくりと赤ワインの匂いが混ざり始めていた。グラス同士が遠くで触れ合う乾いた音と、キッチンでフライパンが火を噛む音とが、低く重なって聞こえる。

「お疲れさまでした。本当に、いいイベントでしたね」

書店員がそう言って、テーブルの真ん中に置かれたピザを取り分ける。営業の社員が、店のおすすめだという前菜を持ち上げながら相槌を打つ。

「読者の方々、皆さん熱かったですよね。サインの列、全然途切れなくて」

「ありがたいことです。ああいう場は、毎回やっぱり緊張します」

そう言いながら、久遠さんはグラスの水に口をつけた。彼の前にだけ、アルコールは置かれていない。イベントの最中と同じように、声の調子を一定に保ちたいのかもしれない。

「今日は、どの質問が一番印象に残りました?」

営業がそう尋ねると、彼は少し顎に手を当てて考える仕草をした。

「そうですね……『どこまでが現実で、どこからがフィクションか』という話は、毎回聞かれるたびに、別の答えを用意しないといけない気がします」

「今日の答え、すごく良かったですよ」

書店員がそう言って笑う。
「現実の方が勝手に寄ってくる、って」

「本当なんですよ。こちらが線を引いたつもりでも、気づいたら越境されていることがあって」

彼のその言葉に、私はグラスの縁を指先でなぞる。指先に当たるガラスの冷たさが、さっきまでの拍手や笑い声の余韻と混ざり合い、温度の所在を曖昧にする。

会話はしばらく、書店の棚作りの工夫や、最近の売れ行きの傾向について続いた。私は相槌を打ちながら、それぞれの声が作る波を耳で追っていく。自分の言葉を挟むときも、できる限り当たり障りのない話題を選んだ。

「ところで、あの川沿いのシーンって、実際の場所もああいう雰囲気なんですか?」

ふいに書店員がこちらを見る。
「担当さんは、取材にご一緒されたりしました?」

フォークを持つ手が一瞬止まる。隣に座る久遠さんが、目だけでこちらをちらりと窺った。あの夜の川の匂いが、不意に鼻の奥で蘇る。

「……似た雰囲気の場所には、行ったことがあります」

そう答えると、書店員は目を輝かせた。

「いいですね。やっぱりああいう、水辺の夜って、独特の静けさがありますよね」

「音が少しだけ、遅れて届く感じがします」

自分でも意図しない言葉が口をついて出る。川面を渡る風の感触や、欄干に触れたときの冷たさが、ゆっくりと舌の上に乗ってくる。

「それ、すごく分かります」

久遠さんがそう言って、グラスをテーブルに置いた。彼の声には、イベントのときとは違う柔らかさが混じっていた。

「水辺の夜って、音と光のタイムラグが少しだけ大きい気がするんです。遠くの車の音とか、街灯の反射とか。それが、書くときに助かるんですよね」

「助かる、ですか?」

「現実の輪郭が少しぼやけてくれるから。そこに、物語を紛れ込ませやすくなるんです」

彼の言葉に、書店員と営業が感心したような声を上げた。そのあいだ、私はグラスの水を一口だけ飲む。喉を通り過ぎる冷たさが、さっきまで胸のあたりで静かに膨らみかけていた熱を、ほんの少しだけ沈めていく。

やがて、書店員が時計を気にするように視線を動かした。

「そろそろ、戻らないとまずいですね。今日は本当にありがとうございました」

会計を済ませると、店の外の空気がふたたび私たちを包んだ。さっきよりも風が増していて、ビルの隙間を抜ける冷たさが頬の皮膚をきゅっと引き締める。

「駅、こっちですよね」

営業が帰り道を指さし、書店員と共にそちらへ歩き出した。私はその背中を追いかけようとして、ふと立ち止まる。久遠さんが、少し違う方向を見ていた。

「相沢さんは、どうします?」

「私も、駅の方へ……」

そう言いかけたとき、遠くから、低く流れるような音が耳に届いた。車の音とも違う、風とも違う。あの夜と同じ種類の響き。

「少しだけ、回り道をしてもいいですか?」

久遠さんは、私ではなく夜空に向かってそう言ったように見えた。けれど、返事を待っているのは、明らかに私だった。

「川の方ですか?」

自分の口からこぼれた言葉に、自分が一番驚く。
彼は、少しだけ笑った。

「はい。すぐ戻ります」

営業と書店員には、「コンビニに寄ってから帰ります」とだけ伝えた。二人は特に疑いもせず頷き、駅へ続く通りへと歩いていく。足音が遠ざかるにつれて、私たちの周囲の空気は、ゆっくりと別の形を取り始めた。

二人で並んで歩くと、さっきまで見えていなかったものが、急に目に入ってくる。街路樹の根元に置き去りにされた植木鉢、看板の灯りの欠けた一角、小さなバーの前に置かれた黒板。どれも、ここで暮らす人たちの気配を持ちながら、今この時間は静かに沈黙している。

やがて視界の向こうに、欄干らしき影が見えてきた。近づくにつれて、水面から立ち上る冷たい匂いがはっきりしてくる。川沿いの遊歩道には、ところどころに街灯が立っていて、その光が水面に細い筋を描いていた。

「あの時とは、少し角度が違いますね」

欄干にもたれず、少し離れた場所で川を見下ろしながら、私は言った。
「もっと向こう側でしたよね、あの夜は」

「よく覚えていますね」

「忘れにくい夜でしたから」

自分でも驚くほど、素直な答えだった。彼は少しだけ沈黙し、その沈黙が水面を流れる光の線と重なる。

「僕もです」

短い返事。それだけで、あの夜の温度が、一気に現在へ引き寄せられる。

川面を渡ってきた風が、コートの裾を小さく揺らした。遠くで橋を渡る車のライトが、ひとつ、またひとつと水面に映り込んでは、すぐにほどけていく。

「さっき、『現実の方が勝手に寄ってくる』って言っていましたよね」

静けさを破らないように声を出すと、久遠さんは視線だけをこちらに向けた。

「言っていましたね」

「川沿いの場面も、そうやって寄ってきたんですか?」

「半分くらいは」

彼は少し笑った。
「もう半分は、願望です」

「願望、ですか?」

「物語の登場人物たちには、現実の自分ができないことを、代わりにさせてしまうことがあるんです」

水の流れる音が、言葉の隙間を埋めるようにして聞こえてくる。
「川沿いで話すシーンも、現実には、そう簡単には増やせないでしょう」

彼は冗談めかして言いながらも、その声の奥には、手放せない本音がうっすらと滲んでいた。

「増やしたいんですか?」

自分の口から出た問いに、私は一瞬だけ戸惑った。けれど、もう取り消すことはできない。

「……本当に正直に言うと、増やしたくなることはあります」

久遠さんは欄干から少し距離を取り、ポケットの中で指を組む。

「でも、それをそのまま現実でやってしまうと、壊れるものが増えすぎるから。だから、小説の中でだけ、何度も川沿いに呼び出してしまうんです」

「呼び出される側の人は、どうなんでしょう」

「物語の登場人物として、ですか?」

「はい。現実とフィクションの境目に、何度も連れてこられて」

自分で言いながら、その言葉が自分自身の立ち位置にそのまま重なっていることに気づく。胸の奥に、かすかな痛みが走った。

「居心地が悪くなければ、いいんですけどね」

彼は、真顔でそう言った。
「少なくとも、僕は、居心地の悪さに気づいた時点で、その登場人物を川から少し離れた場所に戻すようにしています」

「それは、優しいやり方なんでしょうか?」

「どうでしょう。優しいふりをして、実は一番自分が傷つかないようにしているだけかもしれません」

川面に反射する光が、彼の横顔の輪郭を薄く縁取る。その横顔は、イベントで読者の前に立っていたときのものとも、オフィスで見せるものとも違って見えた。どれも同じ人物なのに、その中のどの顔に向かって話しているのか、ふと分からなくなる。

「相沢さんは、今、居心地が悪いですか?」

その問いは、不意打ちではなかったのに、避けようがなかった。私はしばらく黙って、水面を見ていた。川の流れは緩やかで、でも確実に同じ場所には留まらない。揺らぐ光の筋が、何度も形を変え、すぐに別の形になっていく。

「……まだ、大丈夫です」

やっとのことでそう答えると、彼は、安堵とも、別の感情ともとれる呼吸をひとつ漏らした。

「よかった」

それだけ言って、彼は欄干に近づき、手のひらをそっと乗せた。私との間には、肩半分くらいの距離がある。その距離の中に、言葉にならないものが密度を変えながら漂っている。

「さっき、イベントで言いましたよね」

彼が静かに口を開く。

「川沿いの場面を、ほとんどそのまま残してもらったって」

「ええ」

「今日も、あまり変えたくないです」

「今日?」

「はい。ここで相沢さんと話していることも、多分、そのままどこかに残ると思うので」

どこかに、という言い方に、小説なのか記憶なのか、あるいはその両方なのかが曖昧に混ざっていた。

「それは、また何かに使うっていう意味ですか?」

「そうですね。使う、というと言葉が悪いかもしれませんけど」

彼は少し考えてから続けた。

「相沢さんが、『まだ大丈夫です』って言ったこととか。こうして川の匂いがする夜に、わざわざ回り道をしていることとか。全部、僕にとっては、忘れたくない場面なんです」

風が少し強くなり、髪の毛の一部が頬に貼りついた。指先でそれを払うと、その動きに合わせて、彼の視線がわずかに揺れる。

「……忘れた方がいい場面も、ありますよ」

思わずそう言ってしまう。
「覚えていたら、次に会ったときに、どんな顔をすればいいか分からなくなるような」

「そういう場面は、物語の中に閉じ込めておけばいいんです」

彼の声は穏やかだった。

「現実の僕たちは、もう少し別の顔を用意しておけばいい。仕事の話をする顔とか、メールで修正点をやりとりする顔とか」

「そんなに、たくさん使い分けられますかね」

「器用ではないので、たまに間違えますけど」

その言葉に、私の口元から小さな笑いがこぼれた。笑ってしまった自分に気づいた瞬間、その笑いはすぐに胸の奥へと沈んでいく。

「そろそろ、戻りましょうか?」

久遠さんがそう言って、欄干から手を離す。私たちは川に背を向け、さっき歩いてきた道とは少しだけ違うルートで駅の方へと歩き出した。

振り返れば、川沿いの街灯が等間隔に並び、その間を埋めるようにして水面の光が揺れている。さっきまでそこにいたはずの自分たちの影は、もうどこにも見えなかった。

駅が近づくにつれて、人の声と店の音楽が再び濃くなっていく。改札の手前で立ち止まり、互いに自然な距離を取った。

「今日は、お疲れさまでした」

「お疲れさまでした。イベント、本当に良かったです」

「そう言ってもらえると、救われます」

彼は少しだけ、いつもの職場の顔に戻った気がした。

「来週、また原稿の続き、送りますね」

「お待ちしています」

それだけを言い交わしてから、私たちは別々の改札口に向かった。振り返ることはしなかった。それでも、背中に受ける空気の重さで、彼がまだ同じ場所に立っているのかどうかを、なんとなく感じ取ろうとしている自分がいた。

電車に乗り込むと、車内の窓ガラスに自分の顔が薄く映る。その背後には、さっきまでいた駅のホームの光がぼやけて重なっていた。ガラス越しの景色が暗いトンネルの中に飲み込まれていくまでのわずかな時間、私は胸のあたりを両腕で抱きしめるようにして、息を整えた。

川沿いの回り道は、ほんの数十分の出来事だったはずだ。時計を見れば、日付が変わるまでにはまだ余裕がある。それでも、今日一日の中で、一番長く伸びている時間がどこかと問われれば、迷いなくあの水辺の区間を指し示してしまうだろう。

少し苦いのに、もう簡単には手放せそうにない味が、喉の奥と胸の内側に薄く残っている。その味を「大丈夫」と言い切った自分の声が、車内の揺れに合わせて静かに揺れ続けていた。

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