【創作大賞2026応募作品】君の横顔に触れるまで 第7章:不在の音を聴く
朝の白が壁の塗装の凹凸に薄くからみつき、フロアの空気にまだ熱がないころ、私は昨日の議事録を見直して、言い回しの角をいくつか取り替えた。数字は揃っている。揃っているのに、心のほうは少しだけばらけている。ばらけは見た目に出ない。出ないように整えるのが昼の癖だ。プリンターの吐き出す紙の端が湿度でわずかに丸くなり、つめた指でそれをのばしてから束ねる。ディスプレイの明るさを一段落として、画面の右上に小さく増える未読の数を眺める。眺めるだけで、慌てない。慌てる前に呼吸を整える。
午前の会議は静かに進んだ。色の話はまた数字に戻され、数字はスプレッドシートの中で意味を持ったふりをする。ふりでも構わない。ふりが役に立つ日だってある。私は必要なところだけに線を引き、余計な言葉を置かず、手短に次の段取りを確認する。ペン先が紙を擦る音が耳の内側に残り、その上を誰かのキーボードが一定の速さで滑っていく。昼のリズムは、昼のうちに消化するのがいちばんいい。
「午後いち、三面の色、先方の修正方針また変わったみたいです」
「了解しました。新しい指示、共有フォルダに入っていますか」
「いま入れる」
やり取りは短い。短さは距離の目印だ。距離は悪いものではない。守るものでもある。ただ、守られすぎると、何かが届かなくなる。会議室のガラス越しに横顔が見える。朝倉先輩の視線は近くに置かれ、眉間の皺が深くはならないように調整されている。昼の顔の礼儀。ただ、声の底に昨日より乾いた響きが混じっていた。乾きは睡眠では取れない種類のものだと、何度か見て知った。
昼を越えると、フロアの白が灰に近づく。空調の風が巡る音が目立ち始め、紙の束に触れる指先に微かな静電気が走る。私は色の数値を再計算し、サンプル画像を入れ替え、履歴に注釈を残して、先方へ送った。送る直前、ひと呼吸あける。呼吸を挟むだけで、文面の温度が変わる。昼にそれをやるのは、少しだけ反則だと知りながら、やる。送信音が短く落ちて、画面の端に青い文字が増える。増えたこと自体には意味がない。意味はいつも、あとから決まる。
午後の終わりに近いころ、小さな事故が起きた。差し替え前のファイルが先方の共有に残り、古い色の画像がチェック用に回ってしまったのだ。原因は複合的だった。私の削除ミスと、向こうの勝手な再利用と、クラウドの同期の遅れ。昼の光は、原因をいくつもの箱に分けて並べたがる。並べている間に、誰かが焦る。焦りは声に出ないけれど、文面の語尾に滲む。
「すぐ直します。差し替え先のリンク、こちらです」
「ありがとう。俺からも一度先方に電話する」
「私からもかけますか?」
「いや、ここは俺が」
「わかりました」
通話を終えた彼は席に戻り、誰に向けるでもない沈黙を机の上に置いた。置かれた沈黙が見える夜がある。昼にも見えることはあるが、いま見えてしまうのは、たぶん雨上がりの湿気のせいだ。私は視線を落とし、次のやることリストの二番目に印をつける。印をつけると、少しだけ楽になる。楽になることが悪いと教わったことはない。
「先に上がります」
「うん。ありがとう。……気をつけて」
彼の声は低かった。低さは叱責ではなく、保留だった。保留にされた何かが胸の裏に残る。残ったものは夜に持ち帰る。夜はものを受け取るのがうまい。受け取りすぎて、朝に返せなくなることだってある。
ロビーの自動ドアを抜けると、外の空気は乾いていて、アスファルトに薄い粉のにおいがあった。表通りの音はいつもどおり一定で、人の姿は多いのに、誰の顔もよく見えない。私は右へ折れる。裏道では看板の明かりが低く浮き、店先のガラスに内側の灯りが浅く乗っている。角のカフェのガラスの向こうに人影がひとつ。店主の背中と、カウンターの端に置かれたマグカップの白。扉は開けない。開けないで通り過ぎる。通り過ぎる速度を少しだけ落とす。落とした速度に、胸の中の保留が位置を変えるのがわかる。
背中のほうから、足音が近づく音がした。響きの高さで誰かわかる。足音は近づいてきて、しかし並ばない。並ばず、少し早いテンポで追い抜いていく。知らない靴。知らない背中。知らないのに、胸の奥の保留が少し熱を増す。私は歩く。歩いて、駅に向かう細い道の出口で立ち止まる。立ち止まると、夜が体に触れる位置が変わる。触れる位置が変わると、考えることも変わる。
その夜、彼からのメッセージは来なかった。来ない夜は何度もあったのに、今夜は来なかったことが形を持った。形に触れると、指先が冷える。私はスマートフォンの画面を伏せ、テーブルの上に置き、水を一口飲む。喉を通る冷たさで、形の輪郭が少しぼやける。ぼやけたくらいがいい。くっきりすると、話が急ぐ。
次の夕方、フロアの空気は乾いているのに、誰かの声が湿っていた。先方の再修正がまた届き、色の話が元の位置に戻る。戻るたびに、数字は疲れる。数字の疲れは見える。見えた疲れを見なかったことにするのは、礼儀ではない。私は顔を上げ、必要な分だけ解説し、必要な分だけ腰を上げる。腰を上げると、椅子が小さく軋む。軋みは昼の音だが、今日の軋みは夜の端のほうまで届いた。
「小野寺さん、さっきの件、俺のほうで一度引き取ります」
「私のミスも少し入っています。私から説明します」
「今は俺が適切だと思う」
「はい……わかりました」
言い切られた「俺が」が胸に引っかかる。引っかかるのは、言葉の問題ではない。引き取り方の問題だ。引き取られると、こちらの手の中に残るのは軽さだけになる。軽さは安堵で、同時に空虚だ。空虚に触れると、夜が冷える。冷えた夜は、街の色を変える。
退社後の裏道は、光の温度がいつもより低く見えた。角のカフェのガラスの中で、店主がカップを磨いている。カウンターにひとつ空いた椅子。座れば暖かいだろう。暖かさは必要だが、今夜の体は受け取り方を忘れている。忘れているという自覚がいちばんつらい。私は扉に手をかけず、通り過ぎる。
「こんばんは」
呼び止められたように思って振り向くと、別の人だった。似た背の高さ、似たジャケットの色、違う声。すこし笑って会釈し、また歩く。歩幅が乱れ、靴の音が跳ねて、すぐに落ち着く。その落ち着きが、今夜は冷たかった。
続く二日の昼、私たちは必要なことだけを必要な長さでやり取りした。やり取りの文面はどれも正しく、間違いはなかった。正しさの連続に安心する人もいる。私は、正しさだけでできている一日を苦手だと思う。苦手だと声にするわけにはいかない。声にしていい場所は、夜の細い裏道にしかない。
その翌日の夕方、会議室のガラス越しに彼の顔色がさらに低くなっているのが見えた。低さは疲労だけではない。板を何枚も渡した人の肩の形。渡した板の重みは、肩幅に隠れるが、目の高さには隠れない。打ち合わせの終わり、彼はこちらを見ずに資料を閉じ、短い「助かる」を机に置いて出ていった。置かれた言葉に私はうなずき、誰も見ないうなずきの意味を自分にだけ渡す。
その日、退社のメッセージは珍しく彼から来た。短かった。
「今日は寄らない。また」
「了解です。また」
既読の灰色は昼の色だ。昼の色を夜に持ち込むと、照明の白に似た硬さが出る。「また」を送って数秒、画面を見返す。付け加えたい言葉がいくつも浮かんで、どれもふさわしくない気がして消える。消しているあいだに、電車の音が脳に入り、足が駅へ向かう。身体は決めないで進める。進んでから決める。夜はときどき、その順序でしか動かない。
別の夜、裏道で偶然に会うはずの場所に彼はいなかった。偶然は、会わないことにも平等だ。私は角のカフェに入る。扉のベルがいつもどおりの高さで鳴り、店主の視線が短く上がる。カウンターの端に座ると、木の肌理が指に馴染む。湯気の輪が薄く回り、カップの縁に口をつける。温かさは喉を落ちて胸の手前まで来て、そこで止まる。止まるのを見張る。見張っているうちに、扉のベルがもう一度鳴る。別の誰かが入り、別の席に座る。私は自分の席から動かない。動かなかったことに意味を付けない。意味を付けると、夜は窮屈になる。
帰り道、雨の名残りが路地の角にだけ残っていた。白い光が水の薄い膜でほどけ、地面の小さな段差に影が寄る。足首にひやりとしたものが触れて、思わず呼吸が短くなる。短くなった呼吸に、胸の奥の保留がもう一度形を持つ。持った形に触れて、痛みだと名づけない。名づけないで持つ。持って歩く。歩きながら、駅の白い光の前で携帯を取り出し、長めの文章を打ちかけて、消す。消す指が軽かった。軽い指は、たぶん誤りだ。
週の半ばを過ぎた夕方、フロアの空気に粗さが混じった。急ぎの差し替えが連続して投げ込まれ、私の画面の上で数字が小刻みに動く。昼の集中は正確だった。正確であるほど、夜は遠くなる。遠ざけてしまったものを取り戻す方法は、夜の裏道にしか置かれていない。
「小野寺さん、さっきの送信先、クライアントの古いアドレスに飛んでる」
「……確認します。すぐ対応します」
血の気が引くという言い方は便利だが、実際のところは皮膚の温度が均一になる感じだ。私はすぐに正しいアドレスへ送り直し、古いアドレス宛には削除依頼を出し、履歴を整え、関係者へ短く連絡する。短い文面は単語の配置だけで態度を持つ。態度が冷たくならないように目配りしながら、私は自分の指の役目を終わらせる。終わらせたあとで、席の横に影が落ちる。
「大丈夫。ここは俺が拾う」
「すみません」
「謝る場所は、ここじゃない」
「はい」
彼の声は平らだった。平らさは責めていない合図でもあり、距離の目印でもある。目印に触れると、胸の内側で何かがきしむ。きしみは音にならない。ならないように、息をのむ。
その日は、彼は私より先に帰った。帰り際の言葉はなく、視線も合わなかった。合わないことが礼儀だとわかっているのに、視線の不在はからだの位置を危うくする。危ういと感じたとたん、私は机の上をきれいにし過ぎてしまい、帰り道に何も持てなくなる。
裏道の入り口で、二人組の笑い声が弾んでいた。笑いが弾む夜は嫌いではない。嫌いではないけれど、今夜は似合わない。私は笑いの弾みを避ける角度で歩き、店の看板の裏にできた影を踏む。踏んだ影は足の裏で淡く砕け、すぐに元にもどる。もどる速さに、胸の中の保留が追いつけない。
「今日は、ひとりで歩きます」
彼へ送らなかった文章の最初の一行が、頭の中で言葉になって浮かぶ。浮かび、宙にとどまり、消える。消えたあと、足音だけが残る。残った足音の高さを、私は自分で聞く。
数日、私たちは夜に会わなかった。会わないことは続く。続いたことにも意味はある。意味を付けないでいられるのは最初の二日だけで、三日目には音の高さに意味が宿る。四日目には匂いに意味が宿り、五日目には光に意味が宿る。六日目には、呼吸の長さに意味が宿ってしまう。宿ってしまった意味は、次の夜に簡単には抜けない。
ある夕方、ビルの谷間で風の層が薄く入れ替わるころ、彼が私の席の横を通り過ぎながら、いつもより少しだけ遅い速度で言った。
「先に上がる。戻るのは遅い」
「はい。お疲れさまです」
遅い、の中に仕事の重さと個人的な事情が半分ずつ混ざっているのがわかった。わかったからといって、何もできない。できないことを認めるのは、夜の気温をすこしだけ下げる。下がった温度から身を守るのは、コートだけでは足りない。足りないものを抱えたまま裏道に折れると、角のカフェのガラスに自分の姿が浅く映った。映った横顔は、昼の線に戻りきらず、夜の線に届いていない。届いていない顔のまま、ガラスから目を離す。
その夜、部屋で水を飲み、灯りを落としたあと、スマートフォンの画面をうつ伏せにして枕の横に置いた。置いた位置の正しさに自信が持てない。持てないまま、目を閉じる。遠くで電車の音が重なって、少しずつ薄くなっていく。薄くなった音の隙間に、言わなかった言葉がいくつか浮かぶ。浮かんだだけで、沈まない。沈めるには何かのきっかけがいる。きっかけはたいてい外から来る。外から来るものを、今は待てない。待てない夜は、長い。
週末にかけて、街の色は薄くなった。買い物袋のビニールが風を拾い、信号の赤が普段より冷たく見える。駅前の広場でイベントの準備が半端に残され、テープの端が地面で落ち着かずに揺れていた。揺れは視線を吸い、吸われた視線の先に、誰の姿もない。誰もいないことを確かめるたび、胸の中で何かが小さく欠ける。欠けたまま歩く。歩きながら、自販機の白を横目に見る。飲み物を選ぶ気にならない。選べない夜は、疲れよりも理由が近い。
「元気ですか?」
画面の中に文字を打って、消す。「元気」という言葉は昼のものだ。夜に使うと、音が浮く。浮かせるなら、いっそ無言でいい。無言でいることが罪ではないと学ぶのに、いくつも夜を使った。使った夜は戻らない。戻らないものは、重さを持つ。
翌週のはじめ、彼は別のフロアで長い会議に入ったまま戻らなかった。戻らないという事実が、その日の夜を先に暗くする。暗い夜ほど、街の灯りはくっきり見える。くっきり見える灯りは冷たい。冷たいと感じるのは、こちらの側の問題だ。問題を夜に持ち出すのはずるい。ずるいまま、裏道に入る。角のカフェの扉のベルは鳴らない。入らないのは正しい。正しいことを続けると、胸の内側が静かに擦り減る。
その日、帰宅して灯りを落とし、ベッドに横になったとき、私は自分の胸の骨に手のひらを当てた。骨の下で心臓が規則的に動き、規則性が急に拷問みたいに思える。規則性ほど残酷なものはない。痛みは規則的ではないから耐えられる。私は手のひらを外し、目を閉じる。閉じたまぶたの裏に、彼の横顔の線が薄く浮かぶ。昼の線より夜の線のほうが柔らかいことを知っている。柔らかい線は、触れないまま持ち歩くには繊細すぎる。それでも、持ち歩く。
別の夜、裏道へ向かう足が階段の途中で止まった。止めたのは私で、理由はなかった。なかったことに理由をつけるのは簡単だが、つけない。つけないまま別の道を選ぶ。表通りに出ると、街の音が平らに広がる。平らな音は、夜の痛みを隠してくれる。ただし、隠しているだけだ。隠された痛みは、別の形で戻る。
店の前で、声をかけられた。
「飲んでいきませんか?」
同僚だった。二人、三人。顔見知り。私は笑って首を振る。
「今日はやめておきます」
「また今度」
「また」
言いながら、別の「また」が胸の内側で沈む。沈みきらずに、浮かぶ。浮かび方が下手だ。下手な浮力を抱えたまま、駅へ向かう。ホームの端に寄り、白い線から離れた位置に立つ。立つ姿勢はいつか彼に教わったものだ。教えられたわけではない。見て覚えた。覚えたものは、本人の不在でも続く。
その夜、画面は静かだった。通知の光は点かなかった。点かないことが胸の奥に長い影を作る。影は動かない。動かない影の上で、呼吸だけが続く。続くこと自体が慰めではない夜がある。
何日かのすれ違いは、数えられるうちは軽い。数えられなくなったとき、重くなる。重いと気づいた夜、私はカーテンの隙間から外の光を少しだけ入れて、横になった。光の細い帯が枕の端で途切れる。途切れた先に闇があり、闇は見えないものの輪郭をよく見せる。見えないものの輪郭が見えてしまう夜に、私は名前を付けない。名前を付けると、終わってしまいそうで。
同じころ、会社でのやり取りは、変わらず正しかった。昼の彼は、正しくて、淡くて、少し遠い。遠さは彼のせいではない。私の足が勝手に近づかないようにしているのだと思う。近づけば、何かがこぼれる。こぼしたくない。こぼすなら、夜に。夜にこぼすなら、拾ってくれる人がいる夜に。それが今はない。ない夜は、光だけがやけに鮮明だ。
「小野寺さん、午後の編集会議、俺の代わりにメモ取っておいてくれる?」
「はい。まとめて共有します」
「助かる」
昼の「助かる」は軽くて、無害だ。無害であることが救いの日もある。今日は少しだけ違った。無害の中に、薄い毒がある気がした。毒という言葉は強い。強いから使わない。代わりに、違和感という置き換えをする。置き換えは正確ではないが、今はそれでいい。
帰り道、裏道の入り口で立ち止まる。角のカフェのガラスは暗く、椅子がきれいに揃えられている。揃っているものを見ると、体が少し冷える。冷えたまま歩き出す。歩きながら、胸の内側に触る。触って確かめる。確かめるたびに、痛みは位置を変える。位置が変わるのは、まだ救いだ。固定されると、痛みは名前になってしまう。
部屋に戻り、コップに水を入れて一口飲み、机の端に白いハンカチを置く。今日は広げる。広げて、すぐ畳む。畳み目の跡が指に触れ、布の小さな毛羽立ちが光を拾う。拾った光は温かくない。温かさを求めるのは、正確ではない。求める前に、眠る。眠って、朝になれば、昼の顔が勝手に戻る。それを今は信じている。
その夜、枕の横にうつ伏せに置いた画面は光らなかった。光らなかったことを、私は覚えている。覚えているというだけで、何かが前に進む。進まない夜は、あるはずのものが欠けた形のまま静止する。静止した形を見つめるのに、余計な力が要った。
翌日、昼の会話は簡潔で、失敗はなく、段取りは滑らかだった。滑らかさは優秀さの証拠だ。優秀さは夜を救わない。救わない夜の終わりに、私は裏道で立ち止まる。立ち止まった場所に、いつもは彼の気配が薄く残る。今夜は風だけが通る。通った風の向きが変わり、街の白が少し冷たく見える。冷たさの中で、私は気づく。胸の奥の痛みは、いままでと違う位置にいる。違う位置にいる痛みは、次の夜の入口に似ている。
枕元の画面はうつ伏せのまま、暗い。指先で縁をなぞる。なぞった指が止まる。止まった指を上げない。上げなければ、何も始まらない。始まらない夜は、静かだ。静けさの底で、何かがゆっくりと動き始めている気配だけが、はっきりしていた。
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