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【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第3章:空白がうるさい

その日は、朝の空気がいつもより乾いていた。

乾いているのに、喉の奥は重い。湿度の話ではなく、たぶん気持ちの話だ。そういうものを、ひかりは昔から勘違いしやすい。身体の反応を、気分だと思う。気分の揺れを、身体のせいにする。どちらでもいいのに、どちらでもよくないみたいな顔をして、いつもやり過ごしてしまう。

フロアに入ると、いつもの音が並んでいた。打鍵。紙が擦れる音。遠くの電話の短い声。音があるのに静かな場所で、ひかりは自分の席に座り、画面を立ち上げる。

画面の白さは、朝の白さとよく似ている。似ているから、気づきにくい。気づきにくいものほど、積もる。

未読の通知がある。直哉からではない。そう分かっただけで、ひかりは少しだけ息を吐いた。息を吐いたのが安堵なのか失望なのか、自分では決めないことにした。決めると、名前がつく。名前がつくと、そこから先が動き出す。

午前中は会議が続いた。社内調整。資料の差し替え。誰かが言いかけて飲み込んだ言葉の後始末。ひかりはそういうものを拾うのが得意だ。拾って、並べて、整えて、なるべく波風を立てない形にする。拍手もブーイングも起きない会議が、いちばん平和だと思ってしまう。

会議室の窓は磨かれていて、外の光が薄く反射する。反射する光は冷たい。冷たいのに、春の気配も混じっている。季節はいつも中途半端なまま、東京の建物の間をすり抜ける。

会議の終わりに、廊下へ出ると、向こうから数人の塊が歩いてきた。真ん中に直哉がいる。表情は仕事の角度。周りに合わせる笑い。資料を抱える腕の力。いつも通りのはずなのに、ひかりは足を止めそうになった。

直哉はひかりに気づき、ほんのわずかに目を細めた。会釈の代わりみたいな一瞬の合図。声は出ない。出さない。出さないほうが安全だから。そういう判断が二人の中で同時に働くのが、少しだけ寂しい。

すれ違う。香りだけが残る。整髪料の薄い匂いと、紙の匂いと、忙しさの匂い。忙しさには匂いがある。時間に追われている人の匂い。ひかりはその匂いが嫌いではない。嫌いではないのが、また困る。

昼が近づくころ、窓の光が少し柔らかくなった。柔らかくなると、心も緩む。緩むと、余計なことを考える。

ひかりは給湯室でマグカップを洗いながら、昨日の帰り道の直哉を思い出した。終わらない形を探すと言った声。疲れてもいいと言った温度。言葉の量は少なかったのに、胸の中で長く鳴っている。

鳴っているから、静かにしたい。静かにしたいのに、静かにならない。

水が手に当たる。ぬるい。ぬるい温度は中途半端で、心を落ち着かせない。熱いか冷たいかなら、理由がつくのに。ぬるいのは、ただそこにある。名前がつけにくい。そういうものが増えている。

昼休みの終わり際、チャットの通知が来た。直哉。

今日、少し遅くなる。帰り道、先に行ってて。

ひかりは画面を見たまま指を止めた。先に行ってて。第2章のタイトルみたいな言葉が、今日はただの連絡として届く。連絡の形をしているから、受け取りやすいはずなのに、胸の奥に薄い影が落ちる。

遅くなる。それだけのことだ。よくある。忙しいのは分かっている。分かっているのに、帰り道が崩れることに慣れていない自分がいる。慣れていないのが恥ずかしい。

ひかりは返信した。

了解。無理しないで。

送信してから、椅子に深く座り直した。背もたれが背中を支える。支えられると安心する。安心すると、また余計なものを欲しがる。欲しがる自分が見えて、ひかりは机の上の書類を一枚だけずらした。ずらして戻す。何も変わらない動作で、気持ちの行き先を誤魔化す。

午後の時間は、妙に長かった。

数字の確認をしていても、画面の端に空きがある気がした。空きは実際にはない。未処理は山ほどある。それなのに、どこかが空いている。空きがあると、そこに直哉の不在が入り込む。入り込んでしまう。仕事に戻れ、と自分に言いながら、指先だけが少し遅れる。

夕方が近づくと、フロアの空気が変わる。人が立ち上がり、引き出しの音が増え、上着の布が擦れる音が広がる。終わりの気配。終わりはいつも少しだけ軽い。軽いから、逆に怖い。終わったあとに残るものが、いつも予想と違う。

ひかりは定時より少し遅れて席を立った。誰かに声をかけられ、軽く笑い、軽く返す。軽い会話の中で、自分の心は別の場所へ行っている。帰り道。高架下。蛍光灯の白。裏通りの匂い。そこに直哉がいない夜。

駅までの道は、いつも通りの人の流れがある。いつも通りのはずなのに、今日は街が少し広い。広いと寒い。寒いと、心が縮む。縮むのを隠すために、歩幅が小さくなる。小さくなると、さらに遅れる。遅れると、また広くなる。嫌な循環だ。

大井町の改札を抜けた瞬間、電車の音が頭上から降ってきた。

音はいつも通り。光もいつも通り。けれど、耳が拾うものが違う。直哉の足音がない。隣に合わせてくる気配がない。気配がないだけで、こんなに音の層が薄くなるのかと思った。薄くなると、逆に自分の足音が目立つ。自分の足音を聞くのが、今日は少しつらい。

ひかりは高架下を歩いた。白い光の下で、自分の影が頼りなく伸びる。影は薄い。薄い影のまま、一人で裏通りへ向かう。

裏通りの入口のところで、ふと立ち止まりかけた。立ち止まれば、何かが変わる気がした。変わるのが怖いから、歩く。歩いてしまえば、ただの帰宅になる。ただの帰宅にしたい。したいのに、足が遅い。

路面に小さな水たまりが残っていた。昨日の雨ではない。どこかの店の裏で流した水かもしれない。蛍光灯の白が水面に映って、揺れる。揺れはすぐ消える。消える前に、靴が近づくと、その揺れが小さく震えた。自分の歩き方の癖が、水面にまで出るのが嫌で、ひかりは目をそらした。

それでも、匂いは容赦なく届く。油の甘さ。湿った壁。排気の薄さ。人が通ったあとに残る熱。匂いだけは、いつも通りだ。いつも通りの匂いの中で、一人で歩くと、匂いが自分にまとわりつく。まとわりつくと、落ち着くはずなのに落ち着かない。

ひかりはコンビニの前を通り過ぎた。入って何か買う理由はない。ないのに、身体が勝手に足を止めそうになる。誰かと歩くときは気にならないのに、一人だと、光のある場所に引かれる。人は弱い。自分も弱い。

結局、入った。

店内の明るさは、蛍光灯より柔らかい。白すぎない白。床が少しだけ温かい気がする。空調の匂い。棚の匂い。レジのあたりに漂う、温めた食品の匂い。選ぶ必要のないものを眺める時間が、ひかりには今ちょうどよかった。目的がない時間は、気持ちの置き場所になる。

温かい飲み物を一本だけ手に取った。手のひらがすぐに温まる。温まると、心が少し緩む。緩むと、直哉の顔が浮かぶ。浮かんでしまうのが、また面倒だ。

レジで会計をして、店を出ると、夜の空気が戻る。戻る空気は少し湿っていて、温かい缶が一瞬だけ心細く感じた。ひかりは缶を握り直した。握ることで、何かを掴んでいる気がする。掴んでいるのは、ただの缶なのに。

歩きながら一口飲む。甘い。甘いと、昨日の自販機が思い出される。直哉が選んだ甘い缶。疲れてるときは甘いのが落ちると言った声。落ちる、という言い方。言葉が少しだけ尖っていないところが、直哉らしい。尖っていないから、こちらの心の柔らかいところに触れる。

触れないでほしいのに。

家までの道の途中で、ひかりはスマホを見た。通知はない。ないから、また見た。見たところで何も変わらないのに、指が勝手に動く。こういう自分は嫌だ。嫌だと思うほど、やめられない。やめられないのが、たぶん本当の気持ちだ。

その夜は早く寝ようと思った。思ったのに、布団に入ってから、目が冴えた。暗い天井を見上げると、昨日の夜の言葉が浮かぶ。終わらせるつもりはない。探したい。ちゃんと言う。そういう言葉は、眠りの邪魔をするほど強くはないのに、弱くもない。弱いものほど、長く残る。

いつの間にか、窓の外が少しだけ明るくなっていた。街が起きる準備を始めるころ。遠くの車の音が一本増え、また一本増え、やがて一定の波になる。ひかりはその音の波の中で、ようやく浅い眠りに落ちた。

次の日も、直哉から連絡は来た。

今日も遅くなる。ごめん。

ごめん、と入っているのが意外だった。直哉は必要以上に謝らない。謝らない人が、ごめんと言うときは、何かが引っかかっている。引っかかっているのが仕事なのか、自分なのか。考え始めると、また足が遅くなる。

ひかりは返信した。

大丈夫。仕事優先で。

仕事優先で。自分で書いて、少しだけ苦くなった。優先という言葉は正しい。正しいのに、心が納得しない。納得しない心があることを、ひかりはずっと知らないふりをしてきた。知らないふりが上手いと、こういうときに困る。

その日は、帰り道を通らなかった。

同僚に呼び止められて、急な飲み会に流れたわけではない。寄り道をしたわけでもない。ただ、駅を出たところで足が止まった。止まってしまった。高架下へ向かう線に、自分の身体が乗らなかった。

理由を付けたくなった。例えば、冷えるから別の道で帰ろうとか。例えば、用事があるとか。理由はいくらでも作れる。作れるけれど、作ってしまうと嘘がつく。嘘がつくと、自分が自分に疲れる。だから、理由を作らないまま、ひかりは少し明るい通りへ向かった。

明るい通りは人が多い。店の光が多い。音も多い。音が多いと安心するはずなのに、今日は違った。音が多いと、直哉との沈黙が恋しくなる。恋しくなるという言葉を使うのは危ない。でも、他に適切な言葉がない。

適切な言葉がないまま、ひかりは歩いた。

歩きながら、スマホが震えた。直哉からだった。

今、終わった。今から行っても、もういないよな。

ひかりは立ち止まった。立ち止まると、周りの音が急に近くなる。自分だけが止まって、街だけが流れる。流れの中で、自分がひとつ置き去りになる感じがした。

返信を打つ指が止まる。何を返せばいいのか分からない。いないよ、と言えば終わる。待ってるよ、と言えば始まる。始まるのが怖い。終わるのも怖い。どうしてこう、選択肢が全部痛いんだろう。

ひかりは深く息を吸った。吸うと、空気が少し甘い匂いを含んでいる。どこかの店の焼ける匂い。人の熱。夜の湿り。東京の匂い。

ひかりは打った。

まだ大井町。いつもの裏通りじゃないけど、近くにいる。

送信して、すぐ後悔した。後悔したのに、取り消しはできない。できないことが現実だ。現実はいつも、取り返しがつかない形で進む。

直哉からすぐ返事が来た。

どこ行く?

短い。短いのに、胸が熱くなる。熱くなるのが怖いのに、熱を否定できない。

ひかりは自分がいる場所を伝えた。駅から少し離れた明るい通りの端。人が途切れるところ。街灯が一つだけ妙に明るい場所。指が震えないように、画面をしっかり押さえた。

待つ時間は長くないはずなのに、ひかりには長く感じた。

風が吹く。風は冷たくない。けれど、肌の上を通ると、汗が少しだけ冷える。手のひらが落ち着かない。ポケットに入れたいのに、入れるとスマホが触れない。触れないと不安になる。自分がこんなふうに不安になることが、驚きだ。

足音が近づいた。

足音は人混みの音に混ざりながらも、ひかりの耳には分かった。規則的すぎないリズム。急いでいるのに乱れない感じ。直哉はひかりを見つけると、足を少しだけ緩めた。緩めて、呼吸を整える。その一拍遅れが、ここでも出る。

「ごめん、遅くなった」

直哉の声は少し掠れている。疲れている匂いがする。仕事の終わりの匂い。それでも目は冴えている。冴えている目が、ひかりをちゃんと見ている。

「ううん。私も、いつもの道じゃなくて」

「なんで」

なんで、と聞かれて、ひかりは言葉に詰まった。理由がないからだ。理由がないことが理由だ。そんなふうに言ったら、直哉は困るだろう。困らせたくない。困らせたくないのに、困ってほしい気もする。矛盾が、また喉に詰まる。

「……一人で高架下歩くの、今日は無理だった」

言ってしまった。言ってしまった瞬間、胸が軽くなる。軽くなると同時に、顔が熱くなる。熱くなるのを隠せない。隠せないまま、ひかりは視線を落とした。

直哉はすぐに返さなかった。沈黙が落ちる。落ちた沈黙は、明るい通りでは逆に目立つ。音が多い場所の沈黙は、輪郭が濃い。

「俺も」

直哉が言う。声は小さい。

「今日、帰り道がないって思ったら、仕事の最後、集中切れた」

そんなことを言う人だと思わなかった。直哉はいつも整っている。整っている人が、集中が切れたと言う。言ってしまう。それが、少し嬉しい。嬉しいと思うのが怖い。けれど嬉しい。

「直哉くんでも、そういうことあるんだ」

「あるよ。俺だって」

直哉は笑いそうになって、笑わない。笑わないまま、手をポケットに入れた。指先が落ち着かないのが分かる。分かってしまうのが、また胸に触れる。

二人は歩き出した。帰り道ではない道を。

街灯の光が、歩くたびに足元の色を変える。店の前を通ると匂いが変わる。焼けた香り。生姜の匂い。甘い匂い。生の野菜の匂い。どれも生活の匂いで、恋の匂いではないのに、二人で歩くとそれが不思議と馴染む。馴染むことが、少し怖い。

「ひかり」

直哉が呼ぶ。

「昨日から、ずっと考えてた」

ずっと。時間の言い方が重い。重いのに、直哉の声は重くしすぎない。重くしすぎないのが、余計に心に入る。

「何を」

「ひかりが、名前をつけたくないって言ったこと」

ひかりは息を止めそうになって、止めなかった。止めたら、苦しくなる。苦しいのは嫌だ。嫌なのに、もう十分苦しい。

「私、変なこと言ったよね」

「変じゃない」

直哉は言い切る。言い切ってから、一拍遅れて続ける。

「名前をつけないで守ってるの、分かる。俺もそうしてる」

分かる。分かると言われると、逃げ場がなくなる。逃げ場がなくなるのに、逃げたくない自分がいる。

「でも」

直哉が言う。

「名前をつけないままでも、なくなるときはなくなる」

その言葉は鋭い。鋭いのに、刺すためではない。現実を言っているだけだ。現実はいつも、刺さる。刺さる現実を、直哉が口にしたことが、ひかりには嬉しくもあり怖くもあった。

「……そうだね」

ひかりは小さく答えた。答えながら、心の奥の言葉が浮かぶ。

この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。

言わない。言わないけれど、言わないままで守れるのか。直哉の言葉が、それを揺らす。

二人は歩道橋の下をくぐった。上を車が通り、低い音が腹の方へ落ちてくる。音は高架下の音とは違う。違うから、守ってくれない。違う音の下では、言葉がはっきりしてしまう。

直哉が歩く速度を少し落とした。ひかりの歩幅に合わせる。合わせる癖が、今日は少しだけ苦しそうに見える。

「ひかりはさ」

直哉が言う。

「帰り道が楽って言ってたろ」

「言ったっけ」

「言ってた。息がしやすいって」

息がしやすい。ひかりはその言葉を思い出して、胸がきゅっと縮む。自分がそんなことを言ったことを、直哉が覚えている。覚えていて、今言う。今言うことで、言葉に重みが出る。

「……言ったかも」

「その息がしやすい時間が、なくなったら」

直哉はそこで止まった。止まって、息を吸う。一拍遅れて吐く。その癖が、今は震えているように見える。

「俺は、たぶん耐えられない」

耐えられない。直哉がそんな言葉を使うのは珍しい。珍しいから、ひかりの胸の中の水面が大きく揺れる。揺れると、もう隠せない。

「私だって……」

ひかりは言いかけて止めた。止めたのに、直哉は待つ。待つ沈黙が、ひかりの背中を押す。

「私だって、耐えられないかもしれない」

言ってしまった。言ってしまうと、戻れない。戻れないのに、言ったあとの呼吸が少しだけ深い。深い呼吸ができるのは、やっぱり救いだ。救いがあるから、人は言ってしまう。

直哉は頷いた。頷いて、少しだけ笑った。笑いは嬉しそうでもあり、痛そうでもある。

「じゃあさ」

直哉が言う。

「耐えられないなら、耐えられないって言える形にしよう」

形。終わらない形。探す形。言葉はまだ曖昧なのに、曖昧なまま触れている。触れているのに、触れきらない。触れきらない距離が、二人の間に薄く残る。

ひかりは歩きながら、ふと自分の手元を見た。指先が冷えている。冷えているのに、胸は熱い。身体がバラバラだ。バラバラなのに、一緒にいる。そういう状態が、人間らしいと思う。人間らしさは、面倒で、でも少しだけ愛しい。

「具体的にどうするの」

ひかりが聞くと、直哉は首を傾げた。

「分からない。まだ」

「分からないのに言うんだ」

「言わないと、また先に行っててになる」

先に行ってて。言葉が夜気の中で軽く揺れる。軽いのに痛い。ひかりは思わず笑ってしまった。笑うと、少しだけ肩が緩む。緩んだ分だけ、涙が出そうになる。泣く理由はない。ないのに、出そうになるのは、緩んだからだ。

「今日、私、先に行ってたよ」

「知ってる」

直哉は短く言った。

「だから来た」

来た。来たという事実が、ひかりの胸の奥に落ちる。落ちて、静かに広がる。大きな出来事ではない。けれど、こういう小さな選択の積み重ねで関係は変わる。変わるのが怖い。怖いのに、変わってほしい気もする。

いつもの分かれ道ではない場所で、二人は立ち止まった。周りの光は明るい。明るいから、表情が見える。見えると困ると思ったのに、今日は見たいと思ってしまう。

直哉の目の下には疲れの影がある。けれど、その影の上にある目は、ひかりから逸れない。逸れないのに、押しつけない。距離を詰めない。詰めないから、余白が生まれる。余白が生まれると、そこに気持ちが入り込む。

「ひかり」

直哉が呼ぶ。

「今日、ありがとう。待っててくれて」

待っててくれて。ひかりは首を振った。待っていたのかどうか、自分でも分からない。待っていないふりをしていたのかもしれない。ふりをする癖は、たぶんもう簡単には治らない。

「待ってないよ。たまたま」

「たまたまを、信じたい」

直哉の言葉が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなると、危ない。危ないのに、今日は逃げたくない。

「信じたいって、ずるい」

ひかりが言うと、直哉は小さく笑った。

「ずるいよ。俺も分かってる」

分かってる。分かっていて、言う。そういうところが直哉だ。ひかりはその強さが羨ましい。羨ましいのに、同じことはできない。

二人はまた歩き出した。今度は、少しだけ遠回りで、ひかりの家の方へ向かう道を選んだ。遠回りは、意味を持つ。意味を持つのが怖い。怖いのに、遠回りを選んだ自分がいる。

風が吹いた。風はさっきより冷たくなっている。街の温度がゆっくり下がるころ。空気が薄く澄んで、遠くの音が少しだけはっきりする。電車の音が、いつもの高架下より遠い場所で鳴っている。それでも耳が拾う。拾ってしまう。拾ってしまうのは、たぶん身体が慣れてしまったからだ。

角が見えてきた。ここから先は、ひかり一人の道になる。いつも通りの分岐。今日はいつも通りではない分岐。

直哉が足を止めた。ひかりも止まる。

「明日は」

直哉が言う。

「遅くならないようにする」

断定。珍しい断定。断定は重い。重いのに、ひかりは嬉しいと思ってしまった。嬉しいと思うのが怖い。怖いのに、嬉しい。

「無理しないでって言ったのに」

「無理はする。でも、無茶はしない」

言い方が直哉らしい。ひかりは息を吐いて、笑った。笑うと、胸の熱が少しだけ落ち着く。

「じゃあ、明日」

「明日」

二人の間に、短い約束が置かれる。短いのに、確かだ。確かさがあると、夜が少し軽くなる。軽くなると、ふと怖くなる。軽くなったものは、風にさらわれやすいからだ。

直哉が一歩、下がった。半歩前に出ない彼が、今日は半歩下がる。その動きが妙に優しい。優しさはときどき痛い。でも、痛いのに嬉しい。

「おやすみ」

「おやすみ」

ひかりは歩き出し、数歩進んでから振り返りそうになった。振り返ったら、今夜が確定してしまう気がした。確定したくないのに、確定してほしい。矛盾がまた胸の奥で揺れる。

振り返らないまま、玄関の灯りが見えるところまで来て、ひかりはようやく息を吐いた。吐いた息が、少し白い。白い息は、冬のものではなく、夜のものだ。夜のものが出るとき、人は自分の体温を意識する。

体温を意識したまま、ひかりは鍵を回した。

部屋の中の空気は、少しだけ乾いている。乾いているのに、胸の奥は湿っている。湿っているのは、言えない言葉のせいだ。言えない言葉は、まだ喉の手前にある。

この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。

その言葉は、まだ沈めたままだ。沈めたままでも、水面は揺れる。揺れた水面の光だけが、今日の帰り道の代わりに、ひかりの中で残っていた。

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