【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第2章:言いかけたまま
朝の光がまだ白く硬いころ、ひかりは会社の入口のガラスに映る自分を見て、少しだけ目をそらした。
寝不足ではない。けれど、顔のどこかに昨日の夜の湿度が残っている気がした。残っているのは本当は湿度ではなく、言いかけてやめた言葉の端っこだ。端っこは洗っても落ちにくい。指先に残る石けんの匂いみたいに、気づくとそこにある。
エレベーターの中は、朝の匂いがする。コートの繊維と、整髪料と、缶の甘い残り香。誰かが飲んだコーヒーの苦さが、空気の隅で薄く乾いていた。数字のことを考えると、ひかりの心は落ち着く。整えるべきものがあると分かると、呼吸が一定になる。
一定になる。そこが問題でもあるのに。
管理部門のフロアは、いつも音が少ない。キーボードの打鍵が遠くで雨みたいに続いて、コピー機がたまに大きな息をする。誰かの笑い声があっても、角が立たないように丸く響く。ひかりは席につく前に、机の上の書類を少しだけ直した。揃えることで、気持ちが整ったような錯覚がある。錯覚でも、朝はそれでいい。
メールを開くと、未読が積もっている。いつも通りの量だと思ったのに、二通目で指が止まった。
営業企画からの依頼。資料の数字の整合性確認。締め切りは今日の夕方まで。
差出人の名前を見た瞬間、ひかりの胸の奥が小さく鳴った。音にすれば、机の角を指で軽く叩くくらいの微かな衝撃だ。それでも分かる。自分が変に反応しているのが分かってしまうのが、いちばん困る。
ひかりは画面をスクロールし、依頼内容を読む。丁寧な言葉。短い文。要点だけ。余計な温度がない。直哉の文面はいつもそうだ。温度がないから安心するはずなのに、逆にそこに温度を探してしまう。
探すな、と心の中で言いながら、ひかりは返信を書く。
承知しました。確認します。気になる点があれば連絡します。
送信して、椅子に背中を預けた。背もたれの硬さが現実に戻してくれる。現実の中にいることが、一番安全だ。安全な場所で、危ないもののことを考えてしまうから、夜は厄介なのだ。
資料を開くと、数字の列が並んでいる。計画値、見込、実績。整っているように見えて、ところどころに微かな歪みがある。歪みはたいてい、誰かが悪いわけではない。数字は人の手を通るたびに温度が変わる。入力の癖、見方の癖、期待の癖。そこに小さなずれが生まれる。
ずれは直せる。直せることが、救いだと思う。直せないものもあるから。
ひかりは目を細めて、差異の原因を追う。列を見比べ、シートをまたぎ、参照元を辿る。集中すると、周囲の音が薄くなる。紙の匂いが近くなる。プリンターの熱が肌にまとわりつく。こういう作業は嫌いじゃない。結果が出るから。整えば、整ったと言えるから。
昼前、ひかりは差異の根っこを見つけた。数式の参照が一行だけずれている。よくあるミスだ。よくあるからこそ、見落としやすい。ひかりは直し方をまとめて、営業企画に返すためのメモを作った。
送るだけでいい。送って終わり。そうすれば、会う必要もない。
そう思ったところで、チャットの通知が立った。
佐伯直哉
ひかりは一瞬、画面に触れるのを躊躇した。躊躇しても通知は消えない。消えないから、結局開く。
確認ありがとうございます。今、ちょっと詰まってて。可能なら五分だけ直接教えてもらえますか。
五分。直接。言葉が胸の内側に落ちる。
会わなくていいはずだったのに、と思う。けれど仕事だ。仕事の言葉は強い。断る理由がない。断る理由を探す自分が、すでに仕事じゃない。
ひかりは返信する。
今なら大丈夫です。会議室前のスペースに行きます。
送信してから、立ち上がるのが少しだけ遅れた。息を吸って、吐いて、肩の力を抜く。大げさだ。大げさなのに、身体がそうしないと歩けないみたいに言うことを聞かない。
通路を歩くと、床のカーペットの感触が靴底から伝わる。吸い込むような柔らかさ。柔らかいと足音が消える。足音が消えると、気配だけが残る。気配はときどき、声より正直だ。
会議室前のスペースは、壁がガラスで、昼の光が薄く反射している。そこに直哉がいた。会社の中の直哉は、昨日の夜の直哉とは違う。ネクタイの結び目がきちんとしていて、表情が仕事の角度で固定されている。それなのに、ひかりを見つけた瞬間だけ、ほんのわずかに肩がゆるむのが分かった。
そのゆるみが見えたのが、嬉しい。
嬉しいと思った自分を、ひかりは心の中で黙らせた。黙らせたつもりでも、黙りきらないものがある。そういうものがあることを、最近よく知る。
「ありがとう。急にごめん」
「大丈夫。どこが詰まってる?」
直哉は資料を開いて、指で画面を示した。指先がきれいに整っている。爪が短い。そういうところまで見る必要はないのに、目が勝手に拾う。
「ここ、数式は合ってるはずなのに、結果が合わなくて」
「参照先が一行ずれてる」
ひかりは言いながら、口調が少しだけ速くなるのを感じた。説明のときはいつもこうだ。感情が混ざらないように、手順に寄せる。手順は裏切らない。
直哉は眉をわずかに動かして、画面をスクロールする。理解が早い。早い人は好きだ。好き、と言うと誤解が生まれる。仕事として、という意味だ。こうやってすぐ言い訳が出る自分が嫌になる。
「ほんとだ。一行」
直哉は小さく息を吐いた。そこでようやく、仕事の仮面の下の疲れが少し見える。目の奥の鈍さ。瞬きの回数。気づいてしまうと、気づいたことをどう扱えばいいか分からなくなる。
「昨日、遅くまでやってたの?」
ひかりが言うと、直哉は一拍置いた。返事の前の癖。会社の中でも出る。昨日の夜よりも短い一拍。
「まあ。遅くなるほど集中力が削れるタイプ」
「私も。最後の一行に裏切られる」
「ひかり、裏切られるって言うんだ」
「数字ってたまに意地悪じゃない?」
ひかりは言ってから、自分が少し軽口を叩いたことに驚いた。会社での自分は、もう少し無難だ。けれど直哉の前では、無難が少しだけほどける。ほどけてしまうのが、怖くもある。
直哉は小さく笑った。声は出さない。息だけで笑う。その笑い方が、昨日の夜を連れてくる。ひかりは胸の内側に薄い波が立つのを感じて、視線を資料に戻した。
「この修正で、全体の数字は揃う。あと、ここの見込みは、元のシートが更新されてるから、リンクも張り替えたほうがいい」
「ありがとう。助かる」
助かる。直哉がその言葉を言うと、ひかりの中で何かがすこしだけ温まる。仕事の言葉だと分かっているのに、温まってしまう。温まってしまうことが、やはり怖い。
「助かるって言うとき、いつも本当っぽい」
ひかりが言うと、直哉は一瞬、目を細めた。困ったような、照れたような。どちらにも見える中間の表情。
「本当だから」
言い切るのが直哉らしい。言い切られると、こちらの逃げ道が減る。逃げ道が減るのに、逃げたくない気もする。気もする、で止める。止めないと危ない。
そのとき、背後で誰かが通り過ぎ、会議室の扉が開く音がした。空気が少し動く。ひかりはその動きに救われた。二人きりの気配が濃くなると、仕事の話でも別のものが混ざりそうになるからだ。
直哉が資料を閉じる。
「これ、夕方までに仕上げる。もしまた詰まったら、聞いていい?」
「もちろん」
もちろん、と答えながら、ひかりはその言葉の軽さが怖かった。もちろんと簡単に言える関係になっている。仕事の関係として。仕事の関係として、と思い直すほど、別のものが浮く。
直哉は少し間を置いて、続けた。
「昼、時間ある?」
昼。仕事の流れの中にある、短い隙間。隙間は危ない。隙間に余計なものが入り込む。そう分かっているのに、断る理由がない。いや、理由は作れる。忙しいふりをする。用事があるふりをする。そうすれば安全だ。
安全なのに。
「あるよ。どうしたの」
直哉は周囲を一度だけ見てから、声を少し落とした。落とした声は、近い。
「資料の背景、ちょっと確認したい。食べながらでいい?」
食べながら。仕事の延長。仕事の延長なら、許される。許される形にすると、関係を守れる。そういうことを二人ともよく知っているのだと思う。だから、こういう言い方になる。
「いいよ」
ひかりはそう答えた。
昼の食堂は、人の湿度が高い。湯気と話し声が混ざり、床の清掃の匂いがうっすら漂う。皿の音が規則的に重なって、どのテーブルの会話も、はっきりは聞こえない。聞こえないのが助かる。誰に聞かれても困る話をするわけじゃないのに、聞かれたくない気配がある。
二人は窓際から少し離れた席に座った。外の光が強すぎると、顔が見えすぎる気がしたからだ。ひかりは自分のそういう選び方に気づいて、少し笑いそうになる。自分が自分を扱いづらくしている。
直哉は、食事を取りに行くときも歩き方が一定だった。迷いが少ない。ひかりはそれを眺めながら、昨日の夜の彼の迷いを思い出す。迷いはたぶん、いつもある。ただ、見える場所と見えない場所が違う。
直哉が戻ってきて、向かいに座る。テーブルの上に置かれた湯気が、二人の間で薄くほどける。湯気はすぐ消える。消える前に、息を吸うと、少しだけあたたかい。
「背景って、どの辺?」
「提案の根拠。数字は揃うけど、どう言うかで刺さり方が変わる」
刺さる。昨日の夜も似た言葉を聞いた。直哉の言葉の癖は、彼の仕事の癖と繋がっている。届く、刺さる、落ちる。人の心に触れる言葉を扱っているから、触れないところで自分を守っているのかもしれない。そう思ってしまう。思うけれど、それが本当かどうかは分からない。分からないまま、分かったふりをしない。ひかりはそう決めている。決めているはずだ。
直哉は資料のポイントを短く説明した。言葉の切り方が上手い。要点が見える。ひかりは頷きながら、ふと気づく。彼は話しているとき、相手の反応をよく見ている。目を見すぎない程度に、視線を滑らせる。合う瞬間は短く、でも確かに合う。合うたび、胸の内側が小さく熱を持つ。
「ひかりはさ」
直哉が箸を置いて言う。置き方が丁寧だ。音を立てない。音を立てない人は、感情も立てないように見える。けれど、見えるだけだ。
「数字をどういう順番で見てる?」
「順番?」
「俺は、まず大枠を見てから細部に行く。でもひかりは、最初から細部に入る感じがする」
ひかりは一瞬、答えに詰まった。自分のやり方を言葉にしたことがあまりない。やり方は身体に染みていて、説明するより先に手が動く。
「細部っていうか。違和感から入るかも」
「違和感」
「ここだけ触るとザラってする、みたいな」
ひかりが言うと、直哉は少し笑った。今度は声が出る。小さな声。周りの話し声に溶ける程度の笑い。
「触るって言うの、意外だな」
「意外?」
「ひかり、いつも整ってる感じするから」
整ってる。そう言われると、ひかりは嬉しいより先に疲れる。整っているのは、そう見せているだけだ。そう見せないと、場が乱れる。乱れると、人が困る。困らせたくない。そうやって、自分の本音を後回しにしてきた。
でも直哉が言う整ってるは、責めではない。むしろ、頼りにしている温度がある。頼りにされると、居場所ができる。居場所ができると、離れにくくなる。離れにくくなるのが、怖い。
「整ってるのは、そういう仕事だから」
ひかりは笑ってごまかした。ごまかしたことは自分でも分かる。分かるのに、直哉は追わない。追わないことが、優しい。優しさが、また胸に残る。
直哉は少しだけ言い方を変えた。
「仕事じゃなくて、ひかりの癖だと思う」
癖。昨日の夜も、癖の話をした。呼吸の一拍遅れ。歩幅が小さくなる。そういうものを互いに知ってしまっている。その知ってしまっている感じが、仕事の場面に入り込むと、途端に現実味が増す。現実味が増すと、逃げにくい。
「癖、ね」
ひかりは箸先で皿の端を軽くつついた。音を出さない程度の動き。そういうところまで気を使う自分が面倒で、少しだけ笑いたくなる。
「直哉くんは」
言いかけて、ひかりは止まった。何を聞くつもりだったのか、自分でも分からない。癖の話を続けるつもりだったのか。昨日の夜の話に触れたくなったのか。触れたい気持ちがあることが、怖い。
直哉は黙って待つ。待つ沈黙が、急かさない。急かさないから、こちらの心が勝手に動く。
「直哉くんは、話すとき、相手の反応見てるよね」
ひかりはそう言った。仕事の話に寄せた。寄せることで、安全な形にした。こういうときの自分は、いつもずるい。
直哉は少し考えてから答えた。
「見てる。見ないと怖い」
「怖い?」
「刺しすぎたら戻せない。そういうの、何回かやった」
直哉の声が少しだけ低くなる。過去の話。過去の失敗。彼が自分の失敗を口にするのは珍しい気がした。珍しいから、ひかりの胸がざわつく。ざわつきを見せないように、ひかりは水を飲んだ。冷たさが喉を通る。
「誰に?」
ひかりが聞くと、直哉は一拍置いた。返事の前の間が長い。長い間は、迷いだ。
「仕事でも。私生活でも」
私生活。言葉が空気の中で少しだけ浮く。浮いたまま、落ちない。落ちないから、二人の間が一瞬だけ硬くなる。
ひかりは笑って流したくなった。流せば楽だ。楽なのに、流したくない気持ちがある。流したくないのに、触れたくもない。どうしたらいいのか分からないまま、ひかりは皿の中身を見た。見る必要のないものを見るとき、人は時間を稼いでいる。
「私生活で刺すって、どういう」
言ってしまった。踏み込んだかもしれない。けれど踏み込み方を少しだけ浅くした。質問の形にして、答えるかどうかを相手に渡す。そういう癖が、ここでも出る。
直哉は、少しだけ口元を緩めた。
「大げさな話じゃない。相手が大事にしてるものに、俺が勝手に意見を言って」
「それは、あるよね」
「ある。でも、言った側は忘れない」
忘れない。ひかりはその言葉に、胸の奥がちくりとした。昨日の夜、直哉が言いかけてやめた言葉。足りない。あれもきっと、言った側は忘れない類の言葉だ。言いかけてやめたとしても、舌の上に残る。
「直哉くん、忘れないタイプっぽい」
「そう見える?」
「うん。悪い意味じゃなくて」
直哉は頷き、少しだけ息を吐いた。
「忘れない。だから言う前に考える」
「私も、言う前に考えすぎて言えなくなる」
ひかりは言って、少しだけ後悔した。共感を出しすぎると、距離が縮む。縮むと、いずれ痛みに変わる。分かっているのに、言ってしまう。言ってしまうのが人間だとしたら、人間は厄介だ。
直哉は、今度は真正面からひかりを見た。長く見ない。けれど短すぎない。ちょうど、逃げられないくらい。
「昨日も、そんな感じだった」
ひかりの胸が一段強く打つ。昨日、という言葉が、昼の明るさの中に置かれると急に生々しい。夜だけの話ではなくなる。夜の湿り気が、昼の乾いた空気に混ざる。
「昨日?」
ひかりはとぼけたふりをした。ふりをした瞬間、自分が小さく見えて嫌になる。嫌になるのに、止められない。
直哉は追わない。追わないまま、少しだけ言葉を変える。
「帰り道。ひかり、言葉探してた」
探してた。そう見えていた。見られていた。ひかりは頬が熱くなるのを感じた。熱さが出ないように、表情を整える。整えるのが癖だ。整えると、また整ってると言われる。堂々巡りだ。
「探してた。……たぶん」
「たぶん好きだな」
直哉が言って、少し笑う。ひかりは思わず、ほんの小さく睨むような目つきをしてしまった。
「からかわないで」
「からかってない」
直哉は真面目な顔に戻る。その切り替えが早い。早いから、こちらの心が追いつかない。
「ひかりの、そういうところが、安心する」
安心。ひかりの胸の奥が、柔らかくなるのが分かった。柔らかくなると同時に、怖くなる。安心は依存に近い。依存は崩れたときに痛い。
「安心って言われると、なんか複雑」
ひかりは正直に言った。正直を出すとき、声が落ち着く癖がある。落ち着いてしまうのが、自分でも不思議だ。
「複雑?」
「安心って、良いことなんだけど。……それだけで終わる感じもする」
終わる。言ってしまってから、ひかりは自分の心臓の音が大きくなるのを聞いた。昼の食堂の音の中で、自分の心臓だけが勝手に主張する。馬鹿みたいだ。
直哉は箸を握り直した。握り直す指先が、少しだけ強い。
「終わらせるつもりはない」
ひかりは返事ができなかった。返事をしたら、その言葉に意味がつく。意味がついたら、戻れない。戻れないのが怖いのに、戻りたくない気もする。矛盾が喉に詰まる。
食堂の放送が、軽い音で流れる。昼の時間が終わる合図。人が立ち上がり始め、椅子が擦れる音があちこちで鳴る。その音に助けられる。助けられて、少しだけ息ができる。
「午後、これ仕上げる。夕方までに共有する」
直哉が仕事の言葉に戻した。ひかりも頷く。仕事の言葉は安全だ。安全な言葉で橋を架け直す。壊れかけた橋を、見ないふりをして補修する。そういうのは得意だ。得意だから、余計に疲れる。
午後は忙しかった。ひかりは自分の業務に戻り、数字の整合性確認を進める。打鍵音が自分の呼吸と重なり、意識が仕事へ引き戻される。引き戻されるのに、ふとした瞬間に昼の直哉の言葉が浮く。
終わらせるつもりはない。
その言葉を繰り返すと、勝手に甘くなる。甘くなるのが嫌で、ひかりは別の数字を見る。数字は甘くならない。厳しいだけだ。厳しさは安心でもある。
夕方が近づくころ、フロアの光が少し黄味を帯びる。窓の外の空が、ビルの隙間で色を変え始めると、室内の白さがわずかに緩む。仕事の終わりの気配が立つと、胸の奥がまたそわつく。帰り道の時間が来る。帰り道が来ることを、待ってしまっている自分がいる。それを認めたくない自分もいる。
直哉からチャットが来た。
共有しました。修正点ありがとう。今日、少し遅くなるかも。先に行ってて。
ひかりは画面を見て、胸がわずかに沈んだ。遅くなるかも。先に行ってて。その二つの言葉が、帰り道が保証ではないことを思い出させる。分かっていたはずなのに、分かっていなかったふりをしていた。
返信する。
了解です。無理しないで。
無理しないで。仕事の言葉としては普通だ。けれどひかりの胸の内では、別の意味が混ざっている。無理しないで、帰り道を失わないで、と言ってしまいそうになる。言わない。言わないほうが安全だ。
帰り支度をして、ひかりはエレベーターに乗った。鏡のような壁に自分が映る。昼間より少し疲れた顔。目の奥が乾いている。口元は整っている。整っているのが、今日も嫌だ。嫌だと思いながら、整えない方法が分からない。
駅へ向かう道は、昼と違う匂いがする。人の汗が乾いた匂い。夕飯の支度の匂い。遠くの車の排気が、空気の底で薄く重なる。空が低くなった気がする。実際には低くなっていないのに、夜が近づくと街は重くなる。
大井町の改札を抜ける。昨日ほど冷えていない。けれど風は湿り気を含んでいて、肌に触れると少しだけ粘る。ひかりは高架下へ向かう足を、無意識に速めた。速めてしまってから、止める。止めると、周りの人の流れが前へ行く。自分だけが少し遅れる。遅れると、空気が広くなる。広くなると、寂しさが入り込む。
寂しい。そんな言葉を自分が使うのは大げさだと思う。大げさだと思うのに、胸の感覚はそう言っている。
高架下の蛍光灯が、白く路面を照らす。電車の音が頭上を走り抜け、振動が足元から上がってくる。音があるのに、今日は静かだった。直哉がいないからだ。直哉がいないと、音の層が一枚足りない。足りないなんて言い方をすると、まるで彼が必要みたいで嫌になる。
嫌になるのに、足りない。
ひかりは裏通りの入口で立ち止まりそうになった。立ち止まっても誰も困らない。困らないのに、立ち止まるのが怖い。立ち止まったら、本当に一人の帰り道になる。いつも通りのはずなのに、いつも通りじゃなくなる。
ひかりは歩いた。歩くことで、気持ちを前へ押し出す。
角を曲がる少し手前で、背後から足音が近づいた。柔らかいけれど確かなリズム。半歩前に出ないような速度。ひかりは振り返る前に分かってしまって、胸の奥がほどけた。ほどけたことが悔しい。でも、ほどける。
「待たせた」
直哉の声は少し掠れていた。仕事で声を使ったのだろう。疲れが混じっているのに、歩く速度は整っている。その整い方が、逆に心配になる。
「遅くなるって言ってたから、先に行ってた」
ひかりはできるだけ普通に言った。普通に言えてしまうのが、自分の癖だ。動揺しているほど声が落ち着く。
「先に行ってたのに、ここで会えるの、なんか変だな」
「変?」
「変っていうか。ありがたい」
ありがたい。直哉の言葉が、夜の空気に落ちる。落ちた言葉は、蛍光灯の白さの中で少しだけ影を持つ。
「昼の話、覚えてる?」
直哉が唐突に言った。唐突なのに、唐突に聞こえない。昼の話は、ずっとどこかで続いていたのだと思う。
ひかりは息を吸って、吐いた。電車の音が遠くで鳴る。音が間に入ってくれればいいのに、入ってくれない。入ってくれないから、返事をするしかない。
「覚えてる」
「終わるって言ってた」
ひかりの胸がきゅっと縮む。終わる。自分が言った言葉を、相手が覚えている。それが嬉しい。嬉しいのに、怖い。忘れてくれたら楽なのに、忘れてほしくない。矛盾がまた増える。
「言った。……ごめん、変なこと言った」
「変じゃない」
直哉は言い切る。言い切ってから、少しだけ声を落とした。
「俺も、終わるのが怖い」
その言い方は、昨日の夜の続きだった。昨日も今日も、似た場所に戻ってくる。戻ってくるのに、少しずつ位置が違う。位置が違うから、同じ言葉でも響きが変わる。
裏通りの湿った匂いが濃くなる。どこかの店の裏口が開いたのか、湯気が一瞬だけ流れてきて、すぐ消えた。消える前のあたたかさが、頬をなでる。
ひかりは横を見た。今日は見てしまった。見てしまって、直哉の横顔が少しだけ疲れているのが分かる。目の下の影。口元の乾き。けれど、目はひかりを見ない。前を見ている。前を見ているのに、ひかりの気配を拾っている。
「直哉くん」
「ん」
「今日、昼、言ってたでしょ。私生活で刺したって」
直哉は一拍置いた。夜の一拍は、昼より重い。重いのに、逃げない。
「うん」
「今も、刺さるのが怖い?」
ひかりは自分でも驚くほど、まっすぐ聞いてしまった。聞いてしまってから、胸が熱くなる。熱くなるのを隠すように、視線を前に戻す。戻した先に蛍光灯の白があって、白さが目の奥を冷やす。
直哉は少しだけ笑った。今度は苦くない。苦さより、諦めに近い柔らかさ。
「怖い。でも、怖いって言ってるだけだと、今日みたいに、足りない」
足りない。直哉がその言葉を夜に置いた。昼には言わなかった。言えなかったのかもしれない。言えるようになったのかもしれない。
ひかりは喉の奥が乾くのを感じた。乾きは声を尖らせる。尖らせたくない。尖らせないために、ゆっくり息を吐いた。
「足りないって言われると、私も、困る」
「困らせたいわけじゃない」
「分かってる。分かってるけど……」
言葉が途切れる。途切れたところに電車の音が来る。音が来て、助かる。助かるのに、助かりすぎると、また何も言えなくなる。助けに甘えるのが、この場所の癖だ。
音が引いたあと、ひかりは小さく言った。
「でも、足りないって言われたら、足りるようにしたくなる」
言ってしまった。言ってしまってから、自分の胸がどきどきするのが分かる。言葉が自分を追い越してしまう感じ。追い越してしまうと、戻れない。戻れないのが怖い。怖いのに、今さら戻りたくない気もする。
直哉は歩く速度を変えないまま、ほんの少しだけ近づいた。近づいたのは、肩が触れるほどではない。触れない。触れないから、余計に意識する。触れない距離が、今夜は薄い膜みたいに存在している。
「ひかりってさ」
直哉が言う。
「優しいこと言うとき、いつも怖がってる」
ひかりは思わず笑いそうになった。図星すぎて、笑うしかない。笑うと、声が震えるから、笑わない。代わりに、息だけを少し吐いた。
「怖いよ。だって、言ったら終わるかもしれないじゃん」
終わる。言ってしまった。終わるを、夜にまた置いてしまった。置いてしまうと、逃げられない。
直哉はしばらく黙った。黙り方が丁寧だ。急かさない。急かさない沈黙は、ひかりの心の中を勝手に掘り起こす。
ひかりは、胸の奥に沈めている言葉を思い出す。
この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。
言わない。言わない。言わないほうが守れる。守れるのに、守りたいものは何だろう。帰り道の時間。直哉の隣の空気。息が楽になる瞬間。その全部を守りたい。守りたいから、名前をつけたくない。名前をつけないことで守れると思っている。
思っているだけかもしれない。
直哉が口を開く。
「終わるのが怖いなら、終わらない形を探せばいい」
ひかりは足を止めそうになって、止めなかった。止めたら、言葉が形になる気がしたからだ。歩いていれば、まだ流れていく。流れていけば、まだ決まらない。
「終わらない形って、なに」
「分からない。分からないけど、探したい」
探したい。直哉がそう言った瞬間、ひかりの胸の奥に小さな灯りがともる。灯りはあたたかい。あたたかいのに、手を伸ばしたら消えそうな脆さがある。
ひかりは、少しだけ言葉を選んだ。選びすぎないように、でも雑にならないように。こういうときの自分は、いつも中途半端だ。
「探すの、疲れない?」
「疲れる」
直哉は即答した。その即答が、妙に嬉しかった。疲れると言える人は、疲れていることを隠さない。隠さないのに、弱く見えない。そういうところが、直哉の強さだと思う。強さだと思ってしまう自分がいる。
「でも、ひかりとなら、疲れてもいい気がする」
言葉が胸に落ちる。重くない。軽くもない。ちょうど、手のひらに乗るくらいの重さ。持てる。持てるけれど、持ったまま歩き続けるのは簡単じゃない。
ひかりは返事をしなかった。できなかった。代わりに、歩幅が少しだけ小さくなる。自分でも分かる。分かっているのに、直せない。直哉が速度を合わせる。合わせてくれる。それがまた、胸を締める。
裏通りの先に、いつもの角が見えてくる。分かれ道。今日もここで別れる。別れるのが、いつもより少し痛い。痛いのに、痛みがあるから確かだと思ってしまう自分がいる。そういう自分は、あまり好きじゃない。でも、否定もしきれない。
角の手前で、直哉が足を緩めた。ひかりの速度に合わせる。半歩前に出ない。いつもの配慮。いつもの配慮が、今日は少しだけ違う意味に見える。
「明日も」
直哉が言う。
「同じくらい?」
ひかりは昨日と同じ問いを聞いて、胸が苦しくなる。苦しいのに、嬉しい。日常が続くという確認は、恋の言葉よりもずっと現実的で、ずっと強い。
「うん」
ひかりは短く答えた。短く答えると、声に余計なものが混ざらない。混ざらないようにしたかった。
直哉は頷いた。頷いてから、ほんの少しだけ言い足した。
「もし、遅くなるときは、ちゃんと言う」
ちゃんと言う。約束に近い言葉。ひかりは胸の奥が熱くなるのを感じた。熱くなると危ない。危ないのに、熱くなるのを止めたくない。
「うん。ありがとう」
ありがとう。ひかりはその言葉を、できるだけ静かに置いた。静かに置いたのに、自分の中では大きな音がした。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がり、直哉はまっすぐ進む。背中が離れていく。離れていくのに、さっきの言葉は離れない。探したい。疲れてもいい。ちゃんと言う。そういう言葉が、夜の湿り気と一緒に肌に残る。
家までの道は短い。短いのに、ひかりはゆっくり歩いた。ゆっくり歩くと、足音が自分のものとして聞こえる。自分の足で自分の生活へ戻っている感覚がする。戻っているのに、戻りきれない。胸のどこかが高架下に置き去りだ。
玄関の前で鍵を探しながら、ひかりはふと、今日の昼の食堂の湯気を思い出した。湯気は消える前にあたたかい。消えるからこそあたたかい。消えるものに手を伸ばすのは怖い。けれど、消えるものに触れたときにしか分からない温度がある。
終わらない形を探す。
その言葉は、簡単ではない。簡単ではないのに、ひかりの胸の奥で小さく息をする。息をするだけで、今夜は少しだけ救われる。救われてしまうのが怖い。怖いのに、救われたい。
そんな矛盾を抱えたまま、ひかりはドアを開けた。
室内のあたたかさが頬に当たる。外の湿り気が少しずつ消える。消える前に、最後のひと息だけ、帰り道の匂いが鼻の奥に残った。電車の音はもう聞こえないのに、耳の奥にはまだ揺れが残っている。
明日も、同じくらい。
その言葉が約束になりかけていることを、ひかりはもう見ないふりができなかった。
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