【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第9章:手放す準備
川沿いの欄干から手を離したあとも、指先には鉄のひんやりした感触が残っていた。遊歩道を駅とは反対側へ少しだけ歩き、それからようやく向きを変える。水音はすぐ背中の方で小さく続いているのに、足元の石畳はもう別の場所に変わってしまったようで、歩くたびに靴底と地面のあいだに、さっき送ったメッセージの言葉が挟まっている気がした。
自分の中で整理した方がいい気がしてきました。
打ったばかりのその一文を思い出すたび、胸の奥で薄い紙が何枚も重なって擦れ合うような音がする。駅までの道のりは、いつもと同じコンビニと同じ信号と同じ横断歩道を通っているはずなのに、看板の光がやけに遠く、車のヘッドライトが少し眩しすぎた。改札を抜け、地下へ降りる階段を下りていくと、地上の湿った空気が背中にまとわりついて、ゆっくり剝がれていった。
その夜、久遠蓮からの返事は来なかった。枕元にスマートフォンを置いて、画面を伏せたり点けたりしながら、部屋の天井をぼんやり眺めているうちに、窓ガラスの向こうで街の明かりが少しずつ薄くなっていく。カーテンの隙間から差す明るさが、白から淡い灰色へと変わり、やがて輪郭だけを残して溶けていったころ、私はいつのまにか浅い眠りに沈んでいた。
目を覚ましたとき、部屋の空気はすでに仕事へ向かう朝の温度になっていた。冷蔵庫のモーター音と、遠くを走るトラックの低い響きが、背中の方からゆっくりと押し寄せてくる。スマートフォンの画面には、見慣れたアラームの通知と、夜のあいだに届いたニュースアプリの見出しがいくつか並ぶだけで、彼の名前はどこにも見当たらなかった。
返事がない、という事実そのものよりも、「返事を待っている自分」を自覚してしまったことの方が、よほど落ち着きを奪った。顔を洗い、コーヒーを淹れ、食パンをトースターに入れる一連の動作のあいだも、頭のどこかで画面の向こうの沈黙を数えている。カップから立ちのぼる湯気に顔を近づけても、香りより先に「あの人は今、起きているだろうか」という考えが浮かんでしまう。
会社へ向かう電車の中で、私は一度だけメッセージアプリを開いた。送信済みの吹き出しの下には、相変わらず何も増えていない。それを確かめてから、わざとスマートフォンを鞄の底にしまい込み、窓の外の景色へ視線を逃がした。高架の脇を並走するビルの壁面が、朝の光を平らに跳ね返している。通勤電車の中にぎゅっと詰まった体温と、ガラス越しの淡い光とのあいだに挟まれながら、私は自分でもよく分からない種類の緊張を抱えたまま、中目黒の一つ手前で深く息を吸った。
その日の仕事は、妙に段取りよく進んだ。メールの返信も、ゲラのチェックも、会議での確認事項も、ひとつひとつを淡々とこなすほどに、心のどこかが空白になっていく。昼食を取り損ねたことに気づいたのは、社内チャットで誰かが「午後の打ち合わせ、オンラインに変更で」と書き込んできたときだった。
「相沢さん、お昼行った?」
向かいの席の先輩が、ディスプレイの上から顔だけ覗かせる。
「さっき、軽く。パンを」
咄嗟にそう言ってしまってから、机の脇に置いたカップの底に残るコーヒーだけが現実を暴いていることに気づき、わずかに目を伏せた。
「夕方まで長いから、何かつまんできなよ。倒れられると困る」
「大丈夫です。何か買ってきます」
そう答えて席を立ちながら、心の中で別の計算を始める。今夜、もし彼から連絡が来るとして、自分はどこまで応じるつもりなのか。仕事の打ち合わせという名目があれば、どこへだって行けてしまうのだということを、あの夜が証明してしまっている。
コンビニでサンドイッチと小さなヨーグルトを選び、支払いを済ませて外に出ると、街の光はもう昼の眩しさから少しだけ角度を変え、ビルの陰影に柔らかい層を作り始めていた。その薄い影の中で、ポケットの中のスマートフォンが短く震える。
歩道の端に立ち止まり、画面を確認する。久遠蓮の名前が、通知の一番上にあった。
「昨夜は遅い時間にごめんなさい。メッセージ、ありがとうございます」
一文目を読み終えた時点で、身体のどこかに溜まっていた緊張が少しだけ形を変える。続きには、打ち合わせの日程についての提案が、控えめな文体で並んでいた。
「今週の木曜か金曜の夜なら、比較的時間を取りやすそうです。相沢さんのご都合はいかがでしょう?」
文面だけ読めば、ごく普通の業務連絡だ。それでも、「夜」という単語が画面の中央で小さく光っているように見える。私は指先で何度か画面をスクロールし、余計な通知を追いやってから、返信欄に文字を打ち始めた。
「ご連絡ありがとうございます。木曜の夜でしたら、私も調整しやすいです」
そこまで書いて、ふと止まる。場所をどうするか。中目黒、と彼が言っていたことを思い出す。川沿いを避けたい気持ちと、完全に遠ざけてしまうことへの躊躇が、胸の中で静かにぶつかり合う。
「中目黒駅から少し離れたところに、落ち着いて話せるお店があります。そちらはいかがでしょうか?」
無難な文案に落ち着かせながらも、「落ち着いて」という形容詞が、何を指しているのか自分でも分からなくなってくる。送信ボタンを押すと、ほどなくして既読の印がつき、そのすぐ後に返信が届いた。
「ありがとうございます。そのお店でお願いできたらうれしいです。時間は、相沢さんの終業に合わせます」
電車の走行音が高架の下から響き上がってきて、路地の空気をわずかに震わせる。私は画面を閉じ、深く息を吸い込んだ。木曜の夜。その言葉が、胸の奥にそっと印を押す。そこから先の日常の時間が、すべて薄いトレーシングペーパーのように、その印に重ねられていく予感がした。
木曜までの数日は、音を立てずに過ぎていった。朝の通勤電車の人いきれも、昼のオフィスのキーボードの打鍵音も、夜の帰り道の信号待ちのざわめきも、どこか遠くの出来事のように感じられる。その一方で、久遠蓮から届く原稿の小さな修正依頼や、短い確認のメッセージは、過不足なく仕事の顔をして私の画面に現れ、そのたびに心のどこかを細くなぞっていった。
木曜の朝は、雨上がりのような空気で始まった。実際には雨は降っていなかったのかもしれない。ただ、ビルの隙間を抜ける風に、街路樹の葉の匂いがいつもより濃く混ざっていて、その湿り気が肌に薄い膜のように張りついた。窓際のデスクに座ると、遠くのビル群の輪郭が、かすかな霞の奥でまだ決まりきらない線を探している。
午前中の会議をひとつ終え、昼には社内の誰かに誘われるまま簡単な定食屋で食事を済ませた。箸を動かしながらも、頭の片隅では、夜に向かう自分の姿を想像してしまう。何を着ていくのか。どれくらい早く店に着くのか。何を話し、どこまで話さないのか。
午後の空は、少しずつ色の層を変えながら傾いていった。窓の外の光が書類の白に柔らかく溶け出し、モニターの画面に小さな反射を作る。定時より少し前に、私の担当分の作業はいったん区切りを迎えた。机の上を簡単に片づけ、パソコンをスリープ状態にする。コートを椅子の背から取り、袖を通した瞬間、背中のあたりで心臓の脈がひとつだけ強く跳ねた。
「お先に失礼します」
フロアに向かってそう告げる声は、思っていたよりも落ち着いていた。数人から返ってきた「お疲れさまです」という言葉を背中で受けながら、エレベーターに乗る。降りた先の一階ロビーは、外からの光と室内照明が混じり合って、まだ昼の名残をわずかに引きずっている。その中を抜けてビルの外へ出ると、街はすでに、夜の境目を静かに越えかけていた。
中目黒へ向かう電車は、いつもより人が少なかった。車内の会話はどれも断片的で、耳に入るそばから溶けていく。窓の外では、川に向かって緩やかに下っていく街の斜面が、ひとつずつ灯りを点し始めていた。駅に着くころには、空の青はほとんど黒に寄り、ビルとビルのあいだを、細い光の筋が縫うように走っている。
改札を抜け、人波を避けるように少し脇の通路へ出る。待ち合わせの時間までは、まだ少し余裕があった。私は一度だけ川の方角を振り返り、すぐに視線を外す。スマートフォンの地図アプリを開き、約束の店までの道順を確認する。駅から少し離れた住宅街の手前、小さな坂を上りきったところにある店。前に一度だけ、別の打ち合わせで使った、照明の音が静かな場所。
人通りの少ない道を歩いていると、街路樹の影が足元を斜めに切っていく。マンションの窓から漏れるテレビの光や、小さな食堂の暖簾の向こうから漂う揚げ油の匂いが、夜の層にかすかに混ざる。店の前に着くと、ガラス越しに見える店内は、数組の客がそれぞれのテーブルで静かにグラスを傾けているだけだった。木目のカウンターの上に置かれた小さなランプが、琥珀色の光を優しくにじませている。
約束の時間より十分ほど早く着いてしまったことに気づき、私は一度だけ深く息を吸う。ドアを押して中に入ると、カウンターの内側にいた店員が穏やかな笑みを向けた。
「いらっしゃいませ」
「ひとりですが、あとでもう一人合流します」
そう告げると、店員は窓際から少し離れた二人掛けのテーブルを示した。外の気配が直接入り込んでこない、店の奥に近い席。コートを椅子の背に掛け、鞄を足元に置く。メニューを開いたものの、文字列はほとんど目に入ってこなかった。
「何かお決まりでしたら、お伺いします」
「白ワインを一杯だけ、お願いします。軽いものがあれば」
自分の声が少しだけ乾いているように聞こえる。グラスが運ばれてくるあいだ、私はテーブルの上の小さな水滴を指先でなぞり、何度も手を離した。店の扉が開く音がするたびに顔を上げてしまい、そのたびに違う誰かの姿に、胸の奥が空振りする。
約束の時間が近づいたころ、ドアベルが小さく鳴った。振り向くと、久遠蓮が戸口に立っている。暗い色のコートの襟を指先で軽く整えながら、店内を見渡し、私に気づいたようだった。
「相沢さん」
彼がそう呼ぶ声は、原稿の中で何度も読んだ台詞の行間とは違う、かすかな息遣いを含んでいた。私は椅子から立ち上がり、軽く会釈する。
「お忙しいところ、すみません」
「こちらこそ。急に時間を作っていただいて」
テーブルを挟んで向かい合って座ると、しばらくのあいだ、グラスの縁を指でなぞる自分の癖が、いつもよりはっきりと意識に上ってきた。久遠蓮はメニューを眺め、店員にウイスキーの水割りを頼む。その横顔を盗み見ながら、私は胸の内側に溜まっていた言葉を、どこから取り出すべきか測っていた。
「ここ、静かでいいですね」
最初に口を開いたのは彼の方だった。
「前に一度、別の作家さんと打ち合わせで使ったことがあって。話し声があまり響かないので、原稿の相談とかに向いているかなと思って」
「なるほど。編集さんの行きつけは、どこも仕事の匂いがしますね」
久遠蓮は少しだけ笑い、すぐに表情を整えた。その笑いが、緊張をほどくためのものなのか、自分を守るためのものなのか、私には判断がつかなかった。
グラスが二人のあいだに置かれ、氷の触れ合う音が一瞬だけ小さく鳴る。店内の他のテーブルからは、控えめな笑い声や、グラスを置く乾いた音が途切れ途切れに届いてくる。そのすべてが、私たちの会話の前置きとして、静かに背景を編んでいく。
「原稿、読ませていただきました」
私はようやく本題に触れる言葉を探し当てる。
「ありがとうございます。コメントも、ひとつひとつ、ありがたく拝見しました」
「いえ……こちらこそ。すごく、手応えのある改稿だと思いました」
自分でも少し型どおりすぎると感じる言葉を並べながら、私は彼の視線を真正面から受け止めることができず、グラスの中の光を見つめた。琥珀色の液体に、店内のランプが揺れて映り込み、その奥で彼の指先の輪郭がぼんやりと重なる。
「今日、お時間をいただいたのは」
久遠蓮が、グラスに口をつける前に言葉を継いだ。
「原稿の話も、もちろんしたいんですけど」
そこで一度言葉を切り、少しだけ息を吸い込む。その間の取り方が、あの夜、川沿いで聞いた声のリズムと重なって、胸の内側を静かに叩いた。
「それだけじゃなくて」
彼の視線が、まっすぐに私を捉える。
「あの夜のことを、ちゃんと聞かせてもらえたらと思って」
久遠蓮の言葉が、テーブルの上でゆっくり広がる。グラスの中の氷がわずかに解けて、琥珀色の液体の表面に細い筋を作った。その揺れを見つめながら、私はどこから話せばいいのか分からず、唇の内側をそっと噛んだ。店内の音楽が、さっきより少しだけ大きく聞こえる。周囲のテーブルから届く笑い声や、カトラリーの触れ合う音が、遠景のノイズみたいに背景へ押しやられていく。
「あの夜って」
自分の声が、思っていたよりもかすれていた。
「中目黒の、川沿いの……」
「はい」
久遠蓮は、グラスを持ち上げかけた手を一度テーブルに戻し、まっすぐに私を見る。その視線が強すぎないことに、逆に逃げ場のなさを感じる。責めるでもなく、言い訳を探すでもなく、ただ確かめようとしている目。
「僕はあの夜、自分がしたことを、何度も頭の中で巻き戻しているんです」
彼は少しだけ視線を落とし、指先でグラスの脚をゆっくり回した。氷がカランと鳴り、ランプの光が液体の中で細く折れ曲がる。
「仕事の打ち合わせだと言いながら、あの場所を選んだのは僕で。終電が近い時間まで引き留めたのも僕で」
「引き留められた、って感じてたわけじゃないです」
思わず遮るように言葉が出た。受け身の位置に押し込まれるのが、どうしても耐えられなかった。
「私も、あの夜が終わってほしくないって、どこかで思っていましたから」
口に出してしまってから、その正直さが自分の首を絞めるのを感じる。久遠蓮のまなざしがほんの少し揺れ、次の瞬間には、その動揺を丁寧に包み隠すような静けさに変わった。
「それでも」
彼は息を吐き、言葉を選び直す。
「あの帰り際に、僕は自分の家庭のことを、必要以上に話しました。書けなくなっていた時期のことも、編集部への不満も、本来なら仕事相手にさらすべきじゃない部分まで」
あの夜の川沿いの空気が、急にここへ流れ込んでくる。欄干に寄りかかりながら、彼が低い声で語ったこと。締切前の焦り、売上の数字、家に帰っても原稿のことしか考えられない自分への嫌悪。ひときわ小さな声で漏れた「妻には話していないんです」という一文。
「秘密にしてもらえますか、って、言いましたよね」
久遠蓮が、自分の言葉をなぞるように続ける。
「僕にとって一番都合のいいやり方で、相沢さんに甘えた。それを、ずっと気にしていました」
「……秘密にしてるじゃないですか?」
思ったより強い声が出て、自分で驚く。私はグラスを握り直し、テーブルの木目を見つめた。視界の端で、ランプの光が少しだけ滲む。
「誰にも言っていません。編集部にも、友だちにも。あの夜、ここで聞いたことは、全部私の中だけで止めています」
「それが、余計に」
久遠蓮は、苦笑ともため息ともつかない息をこぼした。
「相沢さんに、僕のいちばん醜いところを預けてしまったみたいで。あのあとから、ずっと引っかかっていたんです。仕事のメールを書くたびに、川沿いの空気を思い出してしまうくらいには」
私の胸の奥で、何かが静かに反応する。その感覚は、喜びとも安堵ともつかない。ただ、自分だけがあの夜を引きずっているわけではなかった、という事実が、痛みと一緒に身体の形を変えていく。
「じゃあ、聞きたいのは」
私は息を整えながら問う。
「あの夜、私がどう思っていたか、ってことですか。編集としてここにいるはずなのに、境界線をぼやかしてしまった、私の側の話を」
久遠蓮は少しだけ首を振った。
「責任を分け合いたいわけじゃないんです。自分の行動を正当化したいわけでもなくて」
彼は一度言葉を切り、グラスに口をつける。氷がまた音を立て、その音が落ち着くのを待つように、少しの沈黙がテーブルを覆う。
「ただ、あの夜を、僕だけの後悔にしたくないと、どこかで思っているんだと思います」
「それは」
私は眉を寄せる。
「ずるくないですか?」
久遠蓮の指が、グラスの脚のあたりで止まる。
「だって、後悔って、自分の中で抱え続けるものじゃないんですか。私がどう感じていたかを確かめることで、その重さを少し軽くしたい、って聞こえます」
自分でも驚くくらい、言葉が滑らかに出てくる。仕事の場では決して使わない種類の率直さ。彼は目を伏せ、少しの間、テーブルの木目だけを見つめていた。
「そうですね」
やがて、静かに認める声が返ってくる。
「ずるいです。相沢さんの言うとおりだと思います」
彼はそう言ってから、ゆっくり顔を上げる。
「それでも、知りたいと思ってしまった。あの夜、相沢さんが僕の話を聞きながら、何を考えていたのか。僕の家の話や、小説の行き詰まりや、川の匂いや、あのときの風を、どんなふうに身体に刻んだのか」
「そんな大げさなものじゃありません」
反射的に否定したあとで、その言葉が嘘だと自分で分かっていることに気づく。川沿いの風の温度も、橋の欄干の冷たさも、彼の声の高さも、すべてが今も鮮やかに残っているのだから。
「でも、忘れられない、って意味では」
私は小さく息を吸い、言葉を選び直す。
「私も同じです。あの夜のことを思い出すと、編集としての自分と、それとは別の自分が、身体の中でずれて見えてくる」
「別の自分」
久遠蓮が、その言葉を繰り返す。
「仕事の顔をして、原稿の話をして。締切やページ数や、読者の反応を気にしている自分と。川沿いで夜風を受けながら、目の前の人の声の震えや、指先の動かし方ばかりを意識している自分と」
私はグラスの縁を指でなぞり、その冷たさを確かめる。
「もし私が編集じゃなかったら。もしあなたが既婚者じゃなかったら。そんな『もし』ばかりを、あの夜から何度も何度も考えました」
言葉の最後に、小さな震えが混じる。久遠蓮は、その震えを直接なぞらないように注意深く目を伏せ、グラスに残った氷をゆっくり回した。
「そういう『もし』は」
彼は少し間を置き、低い声で続ける。
「小説の中だけにしておくべきなんでしょうね、本来は」
その一文が、テーブルの上にそっと置かれる。編集者として、作家として。私たちが共有している共通の土台の上に、現実の線が静かに引かれていく感覚があった。
「じゃあ」
私は唇を湿らせる。
「現実では、どうするべきなんですか?」
問いかけた瞬間、自分でもその言葉の重さに気づく。久遠蓮は一度目を閉じ、ランプの光を受けた睫毛の影が頬に薄く落ちる。
「僕は、相沢さんとの仕事を、失いたくないです」
彼は慎重に言葉を紡ぐ。
「今回の連載も、その先にあるかもしれない本も。編集としての相沢さんと一緒に作りたいと思っている。それは、本心です」
「でも」
私はその先を待つ。来ると分かっている言葉を、避けることもできずに。
「でも、僕は相沢さんを、編集者としてだけ見ることができていない」
久遠蓮は、ようやく真正面からそれを口にした。
「川沿いで話を聞いてもらった夜からずっと、メールを開くたびに、名前を見るたびに、仕事じゃない方の感情が顔を出してくる。それを認めることも、なかったことにすることも、どちらもできなくて」
テーブルの上の空気が、少しだけ重くなる。私は喉の奥に溜まる息を、どこへ流せばいいのか分からなかった。
「それで」
久遠蓮はグラスを両手で包み込むようにして持ち直し、視線を落とさずに続ける。
「ここからは、相沢さんを巻き込みたくない話です」
「もう十分巻き込まれている気がしますけど」
言いながら、自分でもどこか諦めに似た笑いが漏れる。彼はその笑いに、短く、痛そうな微笑みを返した。
「これ以上」
久遠蓮は、言葉を静かに置く。
「境界線を曖昧にしたくないんです。家庭も、小説も、仕事も。全部を中途半端に壊してしまうのが、一番怖い」
「私が、その境界線の外側にいる方がいい、ってことですか?」
自分でも驚くほど、まっすぐな言い方になっていた。久遠蓮は、テーブルの上で視線をさまよわせることなく、私の目を見据える。
「相沢さんを、外側に追い出したいわけじゃありません。むしろ、内側に引き寄せたい気持ちの方が強い」
「じゃあ」
「だからこそ、危ないんだと思います」
彼の声は、ささやきの手前で止まる。
「もし僕たちが、本当に線を越えてしまったら。多分、元の仕事には戻れなくなる。中目黒の川沿いを、何事もなかったように歩くこともできなくなる。それに、僕は自分の小説を、言い訳のために使いたくない」
その言葉が、私の胸の中で、ゆっくり沈んでいく。言い訳のための小説。誰かを傷つけたことを正当化するための物語。確かに、そんなものをこの人が書く姿は想像できなかった。
「だから、決めたいと思ってここに来ました」
久遠蓮は、グラスをテーブルに置き、その両手を静かに組む。
「相沢さんとは、編集者と作家という関係に、戻るべきだと」
「戻る、って」
私は小さく首を振る。
「私たち、ちゃんとそこまで到達していましたか。最初から、少しずつずれていた気がします」
「そうかもしれません」
彼は穏やかに同意する。
「それでも、今からでも。またそこを目指すしか、僕には思いつかない」
テーブルの上で、ふたりのグラスのあいだに細い溝ができる。その溝は目に見えないけれど、言葉を交わすたびに、少しずつ深くなっていく気がした。
「相沢さんには、編集を降りてほしくないです。今回の連載も、その先も、一緒に作ってほしい。それが、僕のわがままです」
「そのうえで」
私は息を整える。
「私の気持ちは、どう扱えばいいんですか?」
久遠蓮は、返事を急がなかった。店の奥のテーブルから、誰かの笑い声が小さく聞こえ、すぐにまた静けさの中に吸い込まれていく。
「それは」
彼は一度目を閉じ、ゆっくり言葉を探す。
「僕がどうこう言えることじゃないと思います。相沢さんの気持ちは、相沢さんのものだから。ただ、ひとつだけお願いするとしたら」
そこまで言ってから、彼はほんの少しだけ視線を落とした。
「仕事の場で、僕に期待させないでください。僕の方が、きっと弱いから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さくひび割れる。期待させないでください。つまり、私がどれだけ抑え込んでも、表情や声やメールの言葉に混ざってしまう何かを、これ以上勘違いしたくないということなのだろう。
「分かりました」
私は、グラスの脚を握りしめる手に力を込める。
「私も、わがままをひとつだけ言っていいですか?」
「はい」
「今日ここで話したことを、小説にそのまま書かないでください」
久遠蓮は、わずかに目を見開いた。次の瞬間、その表情が照れくさそうな笑いへと変わる。
「それは、耳が痛いお願いですね」
「作家さんって、何でも素材にするじゃないですか。編集として、その才能を信じているし、尊敬もしています。でも今日は、ただの相沢灯としてのお願いです」
久遠蓮は、真剣な顔に戻り、深くうなずいた。
「分かりました。少なくとも、相沢さんだと分かる形では書きません。どうしても何かが漏れてしまったときは……そのときは、先に謝ります」
「先に謝られても」
私は小さく笑い、それがほんの少しだけ涙の味と混ざるのを感じた。
「すぐに許せるかどうかは分かりません」
「それでも、相沢さんはきっと原稿を読んでくれる気がします」
「読まなかったら、仕事になりませんから」
そんなやり取りを交わしながら、グラスの中身は少しずつ減っていく。店員がそっと水を継ぎ足し、テーブルの端に置いた小皿を下げていく。夜はしっかりと外に根を下ろし、ガラス越しに見える街の光が、少しずつ濃くなっていた。
会計を済ませ、店を出ると、外の空気はさっきより少し冷たくなっていた。街路樹の葉がわずかに揺れ、その隙間からこぼれる街灯の光が、アスファルトの上に薄く落ちる。店の前の静かな道に、ふたり分の足音が並ぶ。
「駅まで、ご一緒してもいいですか」
久遠蓮が問いかける。私はほんの少しだけ迷ってから、うなずいた。
「ありがとうございます。逆方向ですよね」
「大丈夫です。少し遠回りして帰るくらいが、ちょうどいい夜もありますから」
中目黒駅へ向かう道は、川沿いを一本外した裏通りを選んだ。川の気配はすぐそこにあるのに、堤防の向こう側へ降りていく階段を、ふたりとも見ないふりをする。コンビニの白い光、マンションのロビーの柔らかい照明、小さなバーの開きかけた扉。さまざまな光が、路地の空気に静かに混ざっていた。
「相沢さん」
駅の入口が見えてきたころ、久遠蓮が歩みを少し緩めた。
「今日は、ありがとうございました。こんな話、どこまでするべきか分からなくて」
「私もです」
私は、肩にかかるストラップを握り直す。
「でも、知らないままでいるより、よかった気がします。多分、明日から原稿を読むときの自分の姿勢が、少しだけ変わると思うので」
「いい変化だといいんですが」
「それは、原稿次第です」
駅前の明るさが、暗い路地の空気を押し返してくる。改札へ向かう階段の手前で、足を止めるタイミングが、自然と揃った。
「じゃあ」
久遠蓮が、わずかに会釈する。
「次は、原稿で会いましょう」
「はい。原稿で」
その言葉の意味を、どこまで同じように受け取っているのか分からないまま、私はうなずいた。彼が踵を返し、川とは反対側の道へ歩き出す。数歩進んだところで、ふと振り返る気配が背中に伝わった。振り向く勇気は出せず、私は代わりに階段の手すりを握りしめる。
風がひとつ、川の方角から吹き抜けてくる。水面をなでてきたばかりの匂いが、ほんの一瞬だけ鼻先をかすめる。その匂いの中に、あの夜の残り香が、ごく薄い影のように混ざっている気がした。
私たちは、それぞれの方向へ歩き出す。夜の中目黒の街に、並ぶことのない二本の足音が、しばらくのあいだ、遠くで交差しないまま続いていった。
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