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【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第4章:触れかけた未来

日が短くなるほど、東京の夕方は急に生活めいてくる。空がまだ明るいのに、道路の光が先に灯り、窓の内側の気配が外へ滲み出す。篠原紗月はその境目の時間が苦手だった。夜に向かう途中の半端さは、どちらにも属せないものを炙り出す。仕事と私生活の境界も、正しい言葉と飲み込んだ言葉の境界も、こういう時間にいちばん薄くなる。

その日は、珍しく早く編集部を出られた。締切が一段落したというより、締切が一瞬だけ息を吸っただけのような静けさだった。静けさは長くは続かない。だから紗月は、早く帰ることにどこか罪悪感が混じる。それでも鞄の中が軽く、肩がいつもより上がらない。余った時間が手の中で温度を持つ。温度を持つと、誰かに渡したくなる。

スマホを取り出して、宮本の名前のところで指が止まった。連絡するのは簡単だ。簡単だからこそ怖い。欲しいものほど、簡単に手に入る形で差し出されると、受け取った瞬間に失う準備をしてしまう。

少しだけ会える?

打って、消した。少しだけ、という言い方は便利で、便利な言葉は大事なものを曇らせる。会いたい、と打って消す。会いたいは、軽く見える。軽く見えたくない。けれど軽く見えるのを怖がっている時点で、もう軽くはないのだろうとも思う。考えながら、紗月は自分の指先の迷いにうんざりした。編集の仕事では迷いを整理し、言葉を整えるのに、自分の言葉だけはいつも散らかっている。

画面が震えた。先に来たのは、宮本のほうだった。

今日は早い? 神楽坂、行けるなら行きたい。

行きたい。言い切らない柔らかさがあり、でも意思がある。紗月の胸が小さくほどけた。ほどけた糸がどこへ繋がっているか、確かめるのが怖いのに。

行ける。飯田橋で。

短く返した。短く返すと、心臓の音が文章に混じらない気がする。そんなわけはないのに、そういう癖で自分を守ってきた。

飯田橋へ向かう電車の中で、窓の外が暗くなる速度を追いかけた。駅が一つ過ぎるたび、車内の光が強く感じられる。人の顔が白く浮き、目の下の疲れが露わになる。紗月は自分の顔を見たくなくて、窓に映るものを見ないようにした。誰の顔にも、今日の生活の重さがあり、それは軽く慰められるものではない。宮本にも、もちろんある。その重さがどこから来るのかを、紗月は知りたいと思ってしまう。知ったら、もう知らないふりはできない。

改札を出ると、風が少し甘い匂いを運んでいた。どこかで焼き菓子を出しているのか、あるいは飲食店の仕込みの香りか。夜が来る前の匂いは、食べ物に寄ることが多い。人が帰宅し、家の中へ向かう気配が街にも伝染する。家の中。紗月はその言葉に触れないように歩いた。家の中は、未来と繋がりやすい場所だ。終電後の路地は、未来からいちばん離れているはずだった。

宮本はコンビニの前にいた。今日は紙コップではなく、手ぶらだった。コートの襟は立っていない。髪も整っている。仕事終わりの匂いより、少しだけ余裕の匂いがする。紗月はその余裕が嬉しいはずなのに、胸の奥が落ち着かない。余裕は、余白を作る。余白ができると、言葉が入ってくる。入ってくる言葉は、たいてい怖いものだ。

「早いね」

宮本が笑う。紗月は頷き、唇を軽く噛んだ。癖が出る。話す前の癖は、相手に見られたくないのに、宮本は気づいていそうな気もする。

「今日は、たまたま」

「たまたまって、いいね。たまたま、会える日」

会える日、と言われると、会えない日も同じように数えられてしまう。紗月は指先を握り込み、寒さのせいにする。

「どこ行く?」

宮本は問いかけるのがうまい。決めつけず、逃げ道を残す。逃げ道を残す人は、逃げ道を使える人だ。使えるから残す。使えるから、いなくなることもできる。紗月はその想像を振り払うように、歩き出した。

神楽坂へ上がる坂は、いつもより人がいた。夜の入り口の時間で、店の灯りがちょうど良く眩しい。石畳の路地へ入ると、音が変わる。靴底が硬い地面に当たり、空気が少しだけ湿る。昼間の熱が壁に残り、そこへ夜の冷えが重なる。二つの温度が同居する感じが、紗月は好きでもあり、苦手でもあった。混ざりきらないものは、いつかどちらかに寄る。寄った瞬間、片方は消える。

宮本が歩幅を合わせる。合わせられるたびに、紗月は自分の歩き方が誰かに規定されていくようで怖い。怖いのに、合わせてくれることが嬉しい。嬉しさと怖さが同じ場所で鳴る。

二人は小さな店に入った。前に行った店とは違う。今夜は、宮本が選んだ。選ばれることに、紗月の胸が少し波打つ。選ぶという行為は、未来の練習みたいだ。練習のまま終わってほしい。練習が本番になるのは怖い。

店内は木の匂いが濃く、壁に古い絵が掛かっていた。音楽は小さく、旋律がはっきりしない。話し声が吸い込まれるような空気。席に座ると、外の街灯の輪が窓に滲んで見える。紗月は窓の滲みを眺めながら、ここなら沈黙も許されると思った。沈黙が許される場所は、人を甘やかす。

飲み物が来るまでの間、宮本は指先でコースターの端を撫でていた。考える癖のときの視線の外し方は、今日も同じだ。癖が同じだと安心する。安心は油断になる。油断すると、言いたいことが漏れる。

「昨日、ゲラを抱えて寝た」

紗月が言うと、宮本は目を上げた。

「抱えて?」

「机の上に置くのが怖くて。朝見たら、現実って感じがするから」

自分でも意味が分からないことを言っていると思う。宮本は笑うのではなく、少しだけ頷いた。そういう返しが、紗月にはいちばん効く。笑われるより、受け止められるほうが、逃げ道が減る。

「紗月って、現実に強いふりして、実は現実に弱いよね」

宮本が言った。紗月は反射で唇を噛み、すぐに離した。癖がばれた気がして、視線を落とす。

「弱くない」

「弱いって、悪い意味じゃないよ。大事にしたいものがあるってこと」

大事にしたいもの。紗月の胸が冷える。大事にしたいものを口にすると、名前がつく。名前がつくと、責任がつく。責任がつくと、未来がつく。未来がつくと、終わりも生まれる。終わりが生まれるのが怖いのに、大事にしたいものは確かにある。今この瞬間にある。

「宮本は、何を大事にしたいの?」

訊いた瞬間、紗月は自分の言葉の危うさに気づいた。訊かないで済ませてきたことを、今日は訊いてしまった。会える時間が少し長いと、余白ができる。余白は怖い言葉を連れてくる。

宮本はすぐに答えなかった。視線を外し、息を少しだけ吸ってから吐く。沈黙がゆっくり形を作る。店の音楽が、沈黙を埋めるには弱すぎる。紗月は茶碗の熱を両手で確かめながら、自分の呼吸を整えようとした。整えようとするほど、呼吸は乱れる。

「今は」と宮本が言った。「紗月と、こうして座ってる時間」

今は。今は、という前置きが優しいのに残酷だった。今は、の先に何があるのかを想像してしまう。今ではないとき、宮本は何を大事にしたいのだろう。仕事か。未来か。東京の外か。紗月はその想像を止められない。止められないのに、止めたふりをしてしまう。

「今は、ね」

紗月はそう返した。声が少し硬い。硬くなるのは、防御だ。宮本はそれに気づいたのか、視線を戻して紗月を見た。その目は穏やかで、でもどこか慎重だった。触れたら割れるものを扱う目だ。

「紗月、怒ってる?」

「怒ってない」

「じゃあ、怖がってる?」

怖がってる。言い当てられると、胸の奥の柔らかい部分が痛む。紗月は言葉を飲み込もうとした。飲み込んだら、またいつもの夜に戻れる。戻れるのに、今日は戻りたくない気もした。会える時間が長いと、欲が出る。欲は悪いものではないはずなのに、紗月にとって欲はいつも罪悪感と並ぶ。

「怖い」と紗月は言った。

宮本が少しだけ眉を上げる。

「何が」

紗月は答えを持っている。持っているから言えない。言えば、関係が変わる。変わるのが怖い。変わらないまま終わるのも怖い。二つの怖さの間で、紗月はどちらにも寄れない。

「未来の話をすると」と紗月は言った。「終わる気がする」

宮本は黙った。黙り方が、いつもより深い。沈黙の底に何かが沈む気配がある。紗月はその沈むものが、自分の言えない言葉なのか、宮本の言えない言葉なのか分からないまま、熱の冷めた茶を口に含んだ。ぬるい。ぬるさが、時間の長さを露骨に知らせる。

「終わるって」と宮本がやっと言った。「別れるってこと?」

「分からない。でも、何かが壊れる」

「壊れるのは、今の形かもしれない」

今の形。形と言われると、初めて輪郭が立つ。これが形なのだと認めた瞬間、確かに壊れやすくなる気がする。紗月は指先を握り込み、爪が掌に軽く当たる感触で自分を保った。

「今の形が壊れたら」と紗月は言った。「次の形になるの?」

宮本は視線を外した。考える癖。考えるというより、逃げ道を探しているようにも見える。逃げ道を探すのは、誠実だからだと思いたい。誠実でないなら、もっと簡単に言えるはずだ。大丈夫だよ、とか。一緒にいるよ、とか。簡単な言葉は、簡単に壊れる。宮本はそれを知っている。

「なれるようにしたい」と宮本は言った。

したい。未来を断言しない言葉。したい、は願いで、約束ではない。願いは優しい。優しいから、聞く側は勝手に期待する。期待は刃になる。紗月はその刃を自分で握ってしまうのが怖い。

「したい、か」

紗月の声が小さくなった。宮本は小さく頷く。

「でも、怖い」

宮本が言った。自分の怖さを認める声は、少しだけ掠れていた。掠れは、言葉が喉を通るときの抵抗の跡だ。抵抗があるほど、本音に近い。紗月はその掠れに、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。

「何が怖いの」

「言った瞬間に、紗月が泣く気がする」

紗月は息を止めた。泣く気がする、と言われると、泣く未来が現実味を持つ。泣くのは弱いことではない。そう頭では分かる。でも、泣いたら取り返しがつかない気がする。取り返しがつかないのは、泣くことで自分の本音が露出するからだ。本音が露出すると、相手の本音も露出させてしまう。露出した本音は、傷つけ合うこともある。傷つけ合う未来が見えるから、紗月は泣かないようにしてきた。泣かない代わりに、飲み込む。

「泣かない」と紗月は言った。

宮本は少しだけ笑った。笑いは優しい。優しさが、また残酷だ。

「泣かないふり、上手い」

「ふりじゃない」

「じゃあ、本当に強いんだ」

強い。そう言われると、弱くなりたくなる。強いと言われるほど、甘えたくなる。甘えるには、形が必要だ。形が必要だから、怖い。紗月は自分が何を欲しがっているのか、少しずつ分かってしまう。分かってしまうことが、いちばん怖い。

そのとき、宮本のスマホが震えた。机の上ではなく、ポケットの中で控えめに動く。布越しの振動は、心臓の鼓動に似ている。宮本の表情が一瞬で変わった。仕事の顔。遠くを見る目。紗月はその変化を見て、胸の奥が冷える。冷えは、外気ではない。

宮本は画面を見ずに、ただ息を吐いた。息が少し長い。

「出たほうがいい?」と紗月が訊く。

訊きながら、もう答えが分かっている気がした。出るべきだ。出るべきことに、彼の未来が繋がっている。それを引き留める権利は自分にはない。権利がないことが、悔しい。悔しいと言うのも怖い。

「出ない」と宮本は言った。

紗月は驚いた。驚いた自分が、嬉しそうな顔をしていないか気になり、すぐに表情を固めた。固めたところで、宮本は見抜くかもしれない。

「今は、ここにいる」

今は。今は、がまた来る。今は、の後ろに、いずれ別の場所が来る。紗月はその予感を振り払えない。

「その連絡」と紗月は言った。「東京の外の話?」

宮本の目が揺れた。揺れは一瞬で、彼は目を伏せた。答えだ。答えなのに言葉ではない。言葉でない答えほど、確かなものはない気もする。紗月は喉の奥が熱くなるのを感じた。熱は涙の前触れだ。泣かない。泣かないふりをするなと言われても、泣かない。泣いたら終わる気がするからだ。

「まだ、言えない」と宮本が言った。

紗月は頷いた。頷くしかない。頷くことで、自分の痛みを自分で封じる。封じた痛みは、後で別の形で出る。指先の冷えとか、眠れない夜とか、短くなる返事とか。そういう形で、生活の隙間から滲む。

店を出ると、夜気が鋭くなっていた。石畳は乾き、空気は透明で、遠くの音がよく届く。遠くの電車の走行音が、地面を伝ってくる。人の話し声が、角を曲がってもまだ耳に残る。東京は距離の感覚を狂わせる街だ。離れていても近く感じ、近くても遠い。二人の関係も、そのどちらにも振れないまま揺れている。

神楽坂の坂を少しだけ上がった。珍しく。宮本が「今日は、上から見たい」と言ったからだ。上から見ると、灯りが広がる。灯りは綺麗で、綺麗なものは嘘のようでもある。坂の上に立つと風が強く、頬が冷える。紗月は指先を握り込み、コートの袖口に指を隠した。

「きれいだね」と宮本が言った。

「きれい」

紗月はそれだけ返した。言葉が増えると、感情が増える。感情が増えると、言ってしまいそうになる。言ってしまう言葉の核心は分かっている。一緒にいたい。けれどそれを言うなら、期限や形まで含めて言わなければならない。期限や形を言えば、宮本の未来に自分を入れることになる。入れてほしい。入れたい。入れるのが怖い。

宮本が少しだけ近づいた。触れない距離のまま。でも、温度は近い。息が白くなるほどではないのに、二人の呼吸の形が見える気がした。呼吸は揺れる。揺れは嘘をつけない。

「紗月」と宮本が言った。

「なに」

宮本は視線を外した。外したまま、言葉を探している。探している言葉が、未来の言葉だと分かる。未来の言葉を聞いた瞬間に、関係が終わる気がする。終わるのが怖い。でも、終わらないまま消えるほうが、もっと怖い。紗月はその二つの怖さの間で、息を吐いた。吐いた息が、夜に薄く溶ける。

「俺さ」と宮本が言った。「ちゃんと話したい」

「今?」

「今じゃない。今だと、言い方を間違える気がする」

今じゃない。先延ばし。先延ばしは、守りでもあり、逃げでもある。宮本は逃げているのだろうか。守っているのだろうか。どちらでもあるのだろう。人は、同じ行為で二つのことをする。

「いつならいいの」と紗月は訊いた。

問いかけは、刃に近い。自分でもそう思う。けれど、聞かずにいられない。聞かずにいれば、曖昧なまま続く。続くことは救いだ。救いが続けば、ある日突然終わる。突然の終わりは耐えられない。耐えられないのに、耐えられるふりをする自分が目に浮かぶ。それがいちばん嫌だ。

宮本はしばらく黙り、それから小さく言った。

「近いうちに」

近いうちに。期限のない期限。紗月はその言葉に、少しだけ安心してしまった自分を恥ずかしく思う。近いうちに、という言葉だけで、未来がまだある気がする。未来がまだあると思えるだけで、今日をやり過ごせる。そういうふうに生活が組まれてしまった自分が怖い。

坂を下り、飯田橋へ戻る道で、二人はほとんど話さなかった。沈黙は重いのに、居心地がいい。居心地の良さは、危険だ。居心地の良さに慣れると、別の形を望まなくなる。望まなくなると、未来の話をしないまま終わる。終わるとき、何も残らない。何も残らないのが怖いから、紗月は本を残したいと思った。言葉を残したいと思った。けれど言葉は、残すほど重くなる。

別れ際、改札の前で宮本が立ち止まった。紗月も止まる。足元のタイルが冷たく見える。駅の明かりは白く、影がくっきりする。ここで影がくっきりするのは、嘘がつきにくいからだろうか。

「今日は、ありがとう」と宮本が言った。

「うん」と紗月は言い、言い足してしまう。「話してくれて」

宮本は少しだけ目を細めた。穏やかさの中に、申し訳なさが混じる顔だった。

「話せてない」と宮本は言った。「触れただけ」

触れただけ。未来に触れかけた夜。触れかけた指先が冷える。触れかけたところで引っ込めた手が、空中で震える。紗月はその震えを自分の中にも感じた。

「触れただけでも」と紗月は言った。「よかった」

よかった、という言葉が嘘に聞こえないのが怖い。触れただけでよかったと思ってしまうほど、紗月は今に依存している。依存は、未来を奪う。未来を奪われたら、何が残るのだろう。

宮本が一歩だけ近づき、止まった。触れない距離。触れないのに、温度が伝わる。伝わる温度は、言葉より先に心を揺らす。紗月は唇を噛まずに、まっすぐ見返した。見返すのは勇気だ。勇気を出したところで、言う言葉がない。

「紗月」と宮本が言った。

「うん」

「俺、逃げたくない」

その言葉は、約束ではない。約束ではないのに、胸の奥で何かが微かに鳴った。鳴った音は、嬉しさにも不安にも似ている。似ているから、判断できない。判断できないから、今夜はこのまま終わらせるしかない。

「私も」と紗月は言った。

何から、と問われる前に、宮本は頷いた。問い返さない。問い返さないことで守っているものがある。問い返さないことで、逃げ道も残る。逃げ道があるから、今夜は崩れない。崩れない夜が、明日を作る。明日が、未来を作ると信じたい。

紗月は改札へ向かい、振り返らずに歩いた。振り返れば、彼がいる。いることを確認したら、次の確認が欲しくなる。欲しくなると、言ってしまう。一緒にいたい。期限や形まで含めて。言えない勇気の核心が、今夜も喉の奥で眠ったままだ。

電車に乗り、窓の外の灯りが流れるのを見つめる。流れていく灯りは、どれも誰かの生活の中の光だ。帰る場所がある人の光。帰る人を待つ人の光。紗月は自分の部屋の灯りを思い浮かべ、そこに宮本が入ってくる場面を想像しかけて、慌ててやめた。想像すると、欲しくなる。欲しくなると、今日の言葉では足りなくなる。足りなくなると、未来を求める。未来を求めた瞬間、終わる気がする。終わるのが怖いのに、終わりを避けるほど、終わりが近づく気もする。

部屋に着いて灯りをつけると、白い光が現実を確定させた。鞄を置き、コートを掛ける。指先が少し冷たい。冷たさは、外の空気のせいでもあるし、言いかけた言葉のせいでもある。紗月はスマホを開き、宮本のメッセージの履歴を見た。短い言葉の列。短い言葉の列が、こんなにも生活の中に入り込んでいる。

近いうちに。

宮本のその言葉が、まだ耳に残っている。近いうちに、何が起きるのか。何が言われるのか。何を言うべきなのか。紗月はその準備ができていない。できていないのに、準備をしなければ間に合わない気がする。間に合わない、という感覚は締切に似ている。締切は仕事のものだった。今は、心の締切が近づいている気がする。

紗月はベッドの端に座り、息を吐いた。吐いた息が、部屋の静けさに吸い込まれる。吸い込まれた息は戻らない。戻らないものを抱えたまま、生活は進む。進む中で、言葉は遅れて追いついてくるのだろうか。それとも追いつけないまま、落ちるのだろうか。どちらでもない道があると信じたい。信じたいのに、信じるには形が要る。形は怖い。怖いから、また飲み込む。

それでも、今夜の宮本の目は、嘘ではなかった。逃げたくないと言った声も、嘘ではなかった。嘘ではないものがあるなら、それだけで明日が作れる気もする。そうやって自分を納得させるのが、紗月の癖だ。癖で今日を越え、癖で夜を越える。その先に、未来があるのかどうかは分からない。

分からないまま、紗月はスマホを伏せ、暗くなる画面を見つめた。暗闇の中でなら、まだ終わっていない気がする。終電後の恋は、光の外で続く。続くことが救いであるうちは、まだ壊れていない。壊れていない、と言い聞かせながら、紗月は目を閉じた。

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