【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第5章:揺れる立ち位置
週明けの朝、窓の向こうの空は、まだ完全に明るくなり切る前の淡い色をしていた。薄い雲が一枚かぶさっていて、その向こうにある太陽の位置だけが、ぼんやりと白い滲みになっている。カーテンの隙間から差し込む光はまっすぐではなく、部屋の中のものをゆっくり撫でるように進んで、フローリングの一角だけを少し白くしていた。
目覚ましより少し早く目が覚めて、しばらく天井を見ていた。まぶたの裏には、金曜の夜に見た川沿いの光景が、まだうっすら残っている。欄干の冷たさや、ベンチの木のざらつきや、スマートフォンが震える瞬間の掌の感覚。その上に、久遠さんからの「また今度」を楽しみにする、という文字が、薄い膜のように重なっていた。
布団から出ると、足裏に伝わる床の冷たさが、週末から平日への切り替えを告げてくる。キッチンでケトルに水を入れ、スイッチを押す。電気の熱が水の温度をゆっくり押し上げていくあいだ、私はテーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンを手に取った。
画面をなぞると、昨夜までのメッセージのやり取りが、そのままの形で現れる。「また今度」を楽しみにしておきます、と締めくくられた彼の文。既読の表示がついたまま、そこから新しい文字は増えていない。増えていないことに、ほんの少しだけ安心する自分と、物足りなさを覚える自分が、薄く並んでいる。
「続き」という言葉が、喉の奥に残り続けていた。彼は、あの物語の先を指しているのだろう、と頭では分かっている。けれど、あの夜の秘密を共有した二人にとっての「続き」は、ページの中だけで完結するものではない。そのことも、同時にはっきりしていた。
ケトルが沸騰を告げる音を立てる。湯気が立ちのぼり、コーヒー粉の上に細いお湯を落とすと、部屋の中に焦げた豆の匂いと、ほのかな酸味が混じった空気が広がった。マグカップを両手で包み込みながら、窓際の椅子に座る。外の通りを走る車の音は昨日と変わらないはずなのに、耳に届く響きが少し違って感じられるのは、たぶん自分の方が変わってしまったからだ。
テーブルの端には、金曜の夜に川沿いで使ったノートが開きっぱなしになっていた。「この物語を読んで、一番苦しくなるのは誰なのか」と書かれた一文は、寝ているあいだもそこにいたのだろう。インクの色は乾いていて、紙の繊維に完全に馴染んでいる。指先で軽くなぞると、少しだけざらりとした感触が返ってきた。
その下に、新しい余白がまだ残っている。私はペンを取り、しばらく宙を見つめてから、ゆっくりと書き足した。
「続き」を話すとき、どこからを「はじまり」にするのか。
ペン先を止め、書いたばかりの文字を見つめる。あの夜のことを話すのか、それとも、あの夜の前から積み重なっていた、自分の中の小さな傾きについて話すのか。仕事場での会話や、指先が触れそうになった瞬間や、結婚指輪に視線が引っかかったときの、自分の心の動き。そのどれもが、物語の「前日譚」のように思えてしまう。
洗面所に向かい、鏡を見る。寝癖を直しながら、自分の表情を確かめる。いつもと同じ顔に見えなくもないし、どこか違って見えなくもない。頬のあたりに少し影が落ちているように感じるのは、気のせいだろうか。指でなぞってみても、肌の感触はいつもと変わらない。
通勤電車に揺られているあいだも、頭の片隅には「続き」の二文字が居座っていた。吊り広告の見出しや、車内アナウンスの言葉が流れていくたび、その隙間を縫うようにして、あの夜の川沿いの音や匂いが立ち上がる。椅子に座っているスーツ姿の誰かの左手に、光る指輪が見えると、自然と視線がそちらに引き寄せられてしまうのを、慌てて逸らした。
オフィスに着くと、蛍光灯の白い光が一面に広がっていた。週明けの空気は、休み中に積もったタスクの重さで少しだけ濃くなっている。自分の席に荷物を置き、パソコンを立ち上げる。画面が立ち上がると同時に、社内チャットの通知がいくつも並んだ。進行中の企画のスレッド、営業からの確認事項、会議の時間変更の連絡。
そのどれもに、順番に返信していく。仕事の文体を手に戻していく作業は、思ったよりも自然にできた。いつもの敬語、いつもの言い回し。顔文字も感嘆符もない、淡々とした文章。それでも、どこかで自分の中の別のレイヤーが、まだ週末の川沿いに残っているような感覚が拭えなかった。
少しして、久遠さんからも社内チャットが届いた。件名代わりの一行は、いつものように仕事の話だ。
今週の打ち合わせですが、水曜か木曜の夕方でご都合いかがでしょうか。
例の企画書のアップデート版、相沢さんに一度見てもらいたくて。
それだけを見ると、ごく普通の連絡だった。結婚指輪をした先輩社員から後輩への、業務上のメッセージ。そのはずなのに、「例の企画書」という言葉に、あの夜の会話がうっすら貼り付いているように見える。
私はカレンダーを開き、自分の予定を確認する。水曜の夕方には別の会議が入っていて、木曜の方がまだ余裕があった。仕事の都合だけを考えれば、迷う余地はほとんどない。
木曜の夕方でしたら、大丈夫です。
時間帯は久遠さんのご都合に合わせます。
そう返信すると、すぐに既読がつき、少し間を置いてから返事が返ってきた。
ありがとうございます。
では、木曜の十九時過ぎに、恵比寿のあのカフェでいかがでしょう。
例の物語の件も、もし無理のない範囲で少しだけお話を聞けたら。
社内チャットの画面に「恵比寿のあのカフェ」という文字が並んだ瞬間、胸の奥で空気が少しだけ動いた。仕事の打ち合わせを、社外のカフェですること自体は珍しくない。けれど、そこがあの夜の延長線上にある場所であることを、二人とも知らないふりをしている。
「十九時過ぎ」という時間も、仕事ともプライベートとも決めきれない、曖昧な位置にあった。まだ残業の範囲と言えなくもないし、完全に退社してからの時間と言うこともできる。線の上に片足だけ乗せているような、その時間帯を選んだのは、どちらなのだろう。
了解です。
木曜の十九時に、カフェでお待ちしています。
そう返信してから、送信ボタンを押すのに、ほんの少しだけ時間がかかった。文字列に問題がないことは分かっている。それでも、その文を送信した瞬間から、木曜の夜が、ただの「仕事の予定」ではなくなることを、自分の身体が先に理解していた。
送信を終えた画面には、「了解しました。当日よろしくお願いします」という、きちんとした返事がすぐに届いた。社内チャットらしい整った文。その文の背後に隠れているかもしれない何かを、探ろうとするのはやめた。
午前の仕事に戻ろうとしても、意識のどこかは木曜の夜に向かって少しずつ傾いていく。打ち合わせの内容、企画書の中身、今後のスケジュール。考えるべき要素はいくつもあるはずなのに、そのどれよりも、「例の物語の件も」という一言が、頭の中で何度も反芻されていた。
昼休み、オフィスの近くのコンビニで買ったサンドイッチをデスクでかじりながら、私はブラウザの新しいタブを開いた。検索窓に、自分の名前を入れてみる。何も出てこないことは知っている。それでも、こうして確認したくなったのは、自分がまだ「物語の中の登場人物」ではなく、「ここで働いているただの一社員」であることを確かめたかったからだ。
検索結果の代わりに、ニュースサイトの見出しや、知らない誰かのブログが並ぶ。どれも自分とは無関係な情報ばかりで、その事実が逆に安心感をもたらした。ブラウザを閉じると、画面には再びメールソフトと社内チャットだけが残る。
午後の会議では、他部署のメンバーと数字の話をした。グラフの推移や、予算の配分や、リスクの説明。誰かのペンがテーブルを叩く音や、書類をめくる紙のこすれる音が、会議室の中に重なっていく。その中で、私はいつも通りの言葉を使って、いつも通りの役割をこなした。
ただ一度だけ、久遠さんが発言するとき、彼の左手がテーブルの上に軽く置かれるのが目に入った。薬指に光る細い輪。照明の反射で、ほんの一瞬だけ強く光った。その光を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが差し込んでくる。
視線を資料に戻しながら、自分に言い聞かせる。「続き」を話すというのは、物語のことだ。仕事の一環として、作者と読者が感想を共有する場に過ぎない。木曜の夜の約束も、その延長線上にある。そうやって言葉を並べれば並べるほど、その言葉の輪郭が、少しずつ薄くなっていくのを感じた。
夕方、窓の外の空がほんのりとオレンジを含み始めるころ、私はデスクの端に置いていたノートを手に取った。あの一文が書かれたページを開き、その下の余白にゆっくりとペンを走らせる。
木曜の夜
恵比寿のカフェ
企画書のアップデート
物語の続き
箇条書きのように並んだ言葉は、予定表のメモにも見えるし、プロットの断片にも見える。そこに一行だけ、別の種類の言葉を書き足した。
線を引く側に立ったまま、どこまで近づけるのか。
書き終えたペン先が、紙の端で止まる。インクがじわりと滲み、文字の輪郭をほんの少しだけぼかした。ぼやけた部分を見つめながら、私は深く息を吐く。木曜までの数日間、その問いが自分の中で発酵していくことを、身構えるように、どこかで楽しむように受け入れていた。
週の真ん中を少し過ぎるころ、オフィスの空気は、忙しさと倦怠のあいだでゆっくりと濃度を変えていった。出社したばかりの朝の張り詰めた感じは薄れ、机の上に積まれた書類は減ったり増えたりを繰り返しながら、誰の手の中にも定着しきらない。コピー機の音や、電話のコール音や、誰かの笑い声が、床のカーペットに吸い込まれていく。
火曜と水曜は、意識的に忙しく過ごした。締め切りの前倒し、急に差し込まれた修正、クライアントからの要望の整理。自分から仕事を詰め込んでいったと言った方が近いかもしれない。身体を数字や期限の中に置いておけば、「木曜」という言葉が頭の中で鳴る回数を、少しは減らせるような気がした。
それでも、ふとした拍子に意識は滑っていく。会議室の窓から見える遠くのビルの隙間に、あの川沿いの灯りを重ねてしまう瞬間。昼休みにコンビニへ向かう途中の横断歩道で、誰かの背中越しに見えた中目黒行きのバスの行き先表示。数字と資料の層の下で、別の層が静かに膨張していた。
木曜の朝、目覚めたときの空気は、週の疲れと、終わりに向かう安堵と、まだ終わっていない何かの予感が混ざり合っていた。窓の外には薄い雲が長く伸びていて、その隙間からこぼれる光が、いつもより柔らかく見える。洗面所で顔を洗うと、水道の水が指先から手首まで滑っていく冷たさが、少しだけ現実側に引き戻してくれた。
クローゼットの前で立ち止まり、何を着るかで思いのほか長く悩んだ。仕事の日にふさわしいこと、打ち合わせに違和感がないこと、でも、あまりにも「いつも通り」ではないこと。その三つを同時に満たそうとすると、選択肢が狭くなる。
結局、よく着ているニットとパンツの組み合わせの中から、少しだけ色味の柔らかいものを選ぶ。誰が見ても普段着の延長にしか見えないはずの服。その中に、自分だけが知っているわずかな違いを忍ばせる。鏡に映る自分を確認しながら、髪を耳にかけるかどうかでまた少し迷う。顔が出すぎるのも、隠しすぎるのも、どちらも落ち着かなかった。
通勤電車の中で、私は意識的にスマートフォンを鞄から出さなかった。ニュースアプリも、メッセージアプリも開かないまま、窓の外を流れていく景色だけをぼんやり追う。線路沿いに並ぶ建物の窓ガラスが、朝の光を受けて一斉に白く光っていた。車内の揺れに合わせて、その光の帯が少しずつ形を変える。
オフィスに着くと、いつもの木曜と同じようにメールが溜まっていた。午前中は、意地になって仕事に集中した。チェックして、返信して、資料を直して、印刷して。指先を動かし続ければ、心臓の拍動が速くなっていることに気づかずに済むのではないかと思った。
昼を少し過ぎたころ、社内チャットに通知がひとつ届いた。久遠さんからではなかった。別の部署からの問い合わせ。そちらに返事を打ちながら、画面の左側にある名前の一覧を、視線だけでなぞる。彼のアイコンの横には、新しい数字はついていない。その事実に、肩の力が少し抜けた。
午後の終わりが近づくにつれて、窓の外の光がゆっくりと傾き始めた。ビルの谷間に差し込む光の角度が変わり、向かいのフロアの窓ガラスに映る空の色が、少しずつ青から金色を含んだ色に変わっていく。パソコンの時計を見るのはやめて、光の変化だけで時間を測ろうとする。
退社時刻が近づいたころ、私は机の上を片づけ始めた。書類をファイルに戻し、マグカップを軽く洗い、明日のタスクを書き出して机の端に置く。周りの同僚たちも、それぞれのペースで今日を終わらせようとしていた。誰も、私がこのあとどこへ行くのかを知らない。
コートを羽織り、鞄を持って席を立つ。エレベーターに乗り込むと、同じフロアで働く何人かが一緒になった。天気の話や、最近できたランチの店の話が、狭い箱の中にふわりと浮かぶ。自分も適度に相槌を打ちながら、その会話の外側にいる自分の意識を感じる。
オフィスビルを出ると、街は既に夜に傾き始めていた。街路樹に巻きつけられた小さな灯りが一つずつ点っていて、その下を行き交う人たちの肩や髪に、瞬間的な光の粒を落としていく。冷たい空気の中に、誰かのマフラーの柔軟剤の匂いや、近くの店から漏れてくる料理の匂いが混ざり合っていた。
電車を乗り継ぎ、恵比寿の駅に着く。ホームから階段を上がると、改札口の前には、仕事帰りの人たちと、待ち合わせをしている人たちが入り混じっていた。時計を見ずに、周囲の明るさと人の密度で時間を推し量る。木曜の夜らしい、ほどよいざわめきだった。
駅の外に出ると、足元の舗装が少しだけ湿っていることに気づく。いつの間にか、かすかな雨でも降ったのかもしれない。街灯の光がアスファルトの上で薄く反射していて、その上をヒールやスニーカーや革靴が順番に踏んでいく。その一歩一歩の音が、夜の始まりを刻んでいた。
カフェへ向かう道は、何度か歩いたことがある経路だった。駅前の喧騒から少し離れ、路地を一本曲がると、急に周囲の音が柔らかくなる。ビルの一階に入っている店のガラス越しに、灯りの色と椅子の影が見える。あのカフェの前にたどり着く前から、胸の奥で呼吸が少し浅くなっていくのを感じた。
店の前に着くと、ガラス越しに中の様子が見えた。窓際の席で、誰かがノートパソコンを開いている。カウンターでは、バリスタがミルクの入ったピッチャーを傾けている。壁際の棚には、色の揃ったカップや豆の瓶が並んでいた。そのどこにも、まだ久遠さんの姿は見えなかった。
扉を押して店内に入ると、温かい空気と、挽きたての豆の香りが一度に押し寄せてきた。外の冷たさから解放される瞬間の、身体の奥がゆるむ感じが、少し心細くもある。店員に軽く会釈をし、視線だけで席を探す。
奥の方、壁際の二人掛けのテーブルに、彼はすでに座っていた。コートを椅子の背に掛け、テーブルの上には半分ほど減ったコーヒーのカップと、開いたノートと、ペンが一本。顔を上げた彼と目が合うと、時間がほんの少しだけゆっくりになったように感じた。
「すみません、少し遅くなりました」
近づきながら声をかけると、彼は軽く首を振った。
「いえ、僕が早く着きすぎただけなので。今ちょうど、少しだけ書き物をしていただけです」
椅子に座ると、テーブルの木目が視界に入る。真新しいわけでも、古びているわけでもない、日常の中の質感。その上に置かれた彼のノートの紙の端が、少しだけ反っていた。
「何か、飲み物を頼みますか?」
「はい。ラテ、お願いしてもいいですか?」
彼が店員を呼び、私の分の注文を伝える。そのやりとりを見ながら、あの夜と同じように、自分の声が少しだけ上擦っていないかを、内側から確かめる。店内に流れる音楽は、歌詞のない静かな曲だった。話し声やカップを置く音と混ざり合って、柔らかな背景を作っている。
「忙しいところ、すみません」
彼がそう言って、マグカップに軽く触れる。白い陶器のふちに、ほんの少しコーヒーの跡がついている。
「いえ。こちらこそ、木曜にしてもらって助かりました。水曜は、会議が詰まっていたので」
言葉を交わすうちに、少しずつ呼吸が整っていく。ここが仕事の延長線上なのか、それとも、その外側にあるのかを決めるのは、多分、このあとの言葉の選び方なのだということを、どちらも黙ったまま理解している。
やがて私のラテが運ばれてくる。白いカップに描かれた薄い模様が、泡の表面に浮かんでいた。カップに手を添えると、指先から手のひらにかけて、じんわりとした熱が伝わってくる。その熱が、胸のあたりで渦を巻いている何かの輪郭を少しだけぼかしてくれる。
「企画書の方から、話した方がいいですよね」
私がそう切り出すと、彼は軽く笑った。
「そうですね。いきなり『続き』の話から入るのも、さすがにどうかと思うので」
その「続き」という言葉が、空気の中で小さく揺れた。彼は冗談めかして言ったつもりなのかもしれない。でも、その冗談の中に、本気の部分が混ざっていることが、会話の前後から伝わってくる。
ノートパソコンを開き、企画書の最新版を見せながら、仕事の話を始める。目標数値、ターゲット、コンセプトの方向性。ディスプレイの明かりが彼の横顔を照らし、その光の中で、眉間の皺や目の奥の疲れの色が少しだけ浮かび上がる。
しばらくのあいだは、本当に仕事の話だけをした。修正点を指摘し、アイデアを足し、現実的なラインを探る。指先がキーボードを叩く音と、コーヒーの香りが、テーブルの上に混ざり合っていた。
ふと、彼が手を止める。
「ここから先の部分で、どうしても迷っているところがあって」
彼が画面をスクロールし、ある段落を指で示した。そこには、企画書の「背景」と「物語」が交差するような文章が並んでいた。顧客の変化や、時代の空気の話。その書き方に、彼自身の小説の文体がうっすらと滲んでいる。
「ビジネスとしての説得力と、物語としての厚み、どこで折り合いをつけるかが難しくて」
そう言うときの声色は、原稿を渡されたときのそれに近かった。私は画面を見つめながら、ゆっくり言葉を選ぶ。
「全部をきれいに説明しようとすると、どちらも薄くなってしまう気がします」
「やっぱり、そう見えますか?」
「でも、どちらかだけを残すと、久遠さんが書く意味が薄れる気もして。だから……」
言葉の先で迷いながら、口の中で転がしていた考えを、少しずつ外に出していく。
「読む人が気づくかどうかぎりぎりのところまで、物語側の熱を残しておいても、いいんじゃないかと思います」
彼はしばらく黙って画面を見つめていた。沈黙を破るのは、エスプレッソマシンの蒸気の音や、他の客の笑い声だった。やがて、彼はゆっくりと息を吐く。
「ぎりぎり、ですか?」
「はい。きちんと仕事としての筋も通しながら、でも、自分が本当に書きたいことの気配を、完全には消さないくらいの」
そう言いながら、自分でもその言葉が、企画書だけの話をしていないことに気づいていた。あの夜から今日まで、自分がとってきた距離感のことにも、そのまま重ねられる言葉だった。
彼は視線を画面から外し、私を見た。
「相沢さんは、自分の話でも、そういうバランスを取るタイプですか」
突然、自分に向けられた問いに、胸の奥が少し震える。コーヒーの熱はもう冷めかけているのに、指先だけが妙に熱かった。
「どうでしょう。そうできていたらいいと思っているだけかもしれません」
「じゃあ、金曜の川沿いで話してくれたことは」
彼の問いは、まっすぐだった。あの夜の会話が、ここに連れてこられることを、どこかで予感していた。それでも、実際に言葉として聞かされると、空気の密度が変わる。
「仕事としての筋からは、少しはみ出していましたか?」
冗談めかした口調だったが、その裏側には本気の確認があった。私はカップに残ったラテを一口だけ飲んで、視線をテーブルの木目に落とす。
「はみ出していたと思います」
正直に答えると、彼は少しだけ苦笑した。
「ですよね」
「でも……」
自分でも意外なほど、すぐに言葉が続いた。
「あれくらいはみ出さないと、伝わらないこともあると思ったので」
彼は、返事をすぐにはしなかった。視線だけが、私の顔とテーブルのあいだをゆっくりと行き来する。その動きの中に、言葉にならない迷いと、抑え込んでいる感情の層が見え隠れする。
「こうやって、線の話ばかりしていると、自分がどこにいるのか分からなくなりますね」
彼がぽつりと言った。
「線を引いているつもりが、気づいたら、その線の上に立っているみたいな」
その言葉に、胸の奥で何かが小さくうずく。月曜の朝、ノートに書いた一文と、同じ場所に触れられたような感覚。
「線の上って、居心地は悪いですか?」
私が尋ねると、彼は少し考えるように視線を落としたあと、肩の力を抜いた。
「怖いです。でも、景色はよく見えます」
「ずるい例えですね」
そう返すと、彼は静かに笑った。その笑い方が、あの夜の川沿いで見せたものとよく似ていて、体温が少しだけ上がる。
しばらくのあいだ、二人とも黙った。カフェの店内には、他のテーブルの会話や、カップとソーサーが触れ合う小さな音が流れている。その音に紛れるようにして、彼が口を開いた。
「……『続き』の話、してもいいですか?」
その「続き」が、どちらの話を指しているのか、わざわざ確認することはしなかった。彼の視線の揺れ方と、指先の緊張の仕方で、なんとなく察する。
「物語の方ですか?」
あえてそう聞くと、彼は少しだけ視線を逸らした。
「もちろん、物語の方です」
「もちろん、ですか?」
「ええ。たぶん」
その「たぶん」が、カップの縁に触れて震えた。彼はノートを閉じ、テーブルの上に置き直す。
「さっき、相沢さんが言ってくれたでしょう。ぎりぎりまで、物語側の熱を残していいって」
「言いましたね」
「じゃあ、そのぎりぎりのあたりに触れるくらいなら、今ここで話してもいいですか?」
彼の声は、店のざわめきに紛れやすいくらいの大きさだった。その小ささが、言葉の重さを余計に増やしていた。
「聞きます。私に聞ける範囲までなら」
そう答えると、彼はほっとしたような、それでいて少し覚悟を決めたような表情を見せた。
「さっきの物語の主人公には、モデルがいます」
「そうだろうなと思っていました」
「ですよね」
彼は苦笑いを浮かべ、指でカップの取っ手をなぞった。
「でも、そのモデルは一人じゃないんです。何人かの記憶や、何回かの夜を混ぜている。だから、あれは誰か一人の物語ではない、と言い訳することもできる」
「できますね」
「それでも、川沿いの場面だけは、ほとんど混ぜ物をしていない」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがはっきりとした輪郭を持った。金曜の夜、画面の文字を追いながら感じていた違和感の正体が、ようやく言葉になったような感覚。
「だから、あそこを書いているときが、一番しんどかった」
彼は視線をテーブルに落としたまま続けた。
「書いている自分と、その場にいた自分と、今ここにいる自分が、全部ずれていく感じがして」
私は、カップの中で冷めかけたラテを見つめる。泡はほとんど消えていて、表面には薄い膜のようなものが張っていた。それをスプーンで軽く崩すと、輪郭が一瞬だけ消え、また別の形で浮かび上がる。
「その『今ここにいる自分』には、ちゃんと指輪がついているから、余計にずれるのかもしれません」
自分でも驚くくらい、静かな声が出た。彼は一瞬だけ顔を上げ、私の方を見た。
「……そうですね」
それ以上、そこに踏み込むことはしなかった。双方とも、その先の言葉の重さを想像できてしまうからだ。代わりに、少しだけ話題をずらす。
「でも、読者としては、あの川沿いの場面がいちばん好きでした」
「好き、ですか」
「苦しいですけれど」
彼は、ゆっくりと笑った。その笑いは、嬉しさと自嘲が混ざった複雑なものだった。
「ずるい箇所が、いちばん印象に残るというのは、書き手としては、うれしいのか、反省すべきなのか」
「両方じゃないですか?」
そう答えると、彼はまた少し笑った。笑い声は小さいのに、テーブルの上の空気を少しだけ温めた。
店の時計を見るふりをしながら、時間の流れを確認する。外の窓の向こうでは、完全に夜が落ちていた。ガラスに映る店内の灯りが、通りの光と混ざり合って、一枚の絵みたいに滲んでいる。
「そろそろ、帰りましょうか?」
私がそう言うと、彼は一度だけ深く息を吸った。
「そうですね」
テーブルの上に置かれたカップは、どちらもほとんど空だった。ノートとパソコンをバッグに戻し、コートを羽織る。立ち上がったとき、椅子が床を擦る音が、小さく鳴った。
会計を済ませて店を出ると、夜の空気が頬に触れた。さっきまで店内にいたせいか、外の冷たさが少し強く感じられる。通りには、まだ人が途切れずに行き来していた。誰かの笑い声や、タクシーのブレーキの音や、信号が変わるときの電子音が、夜を細かく区切っていく。
「駅まで、一緒に歩いてもいいですか?」
彼の言葉に、私はうなずいた。
「はい」
並んで歩き出すと、歩幅が自然と揃った。肩と肩の間には、半歩ぶんくらいの距離がある。その距離が、近すぎも遠すぎもしない場所を、慎重に探っているように感じられた。
「相沢さん」
呼ばれて、横を向く。
「今日の話、全部を物語に使ったりはしません」
「それは、それで少し残念な気もします」
「どういう意味ですか?」
「いい意味でも、悪い意味でも」
私がそう言うと、彼は少しだけ足を止めかけて、また歩き出した。
「ずるい言い方ですね」
「お互いさまです」
恵比寿駅の入口が見えてくる。階段の上には、行き先の違う人たちが混ざり合っていた。立ち止まると、周りの流れだけが先に進んでいく。
「……『続き』の話、また今度、してもらえますか?」
彼がもう一度同じ言葉を口にした。今度は、問いというより確認に近かった。
「私の方からも、そのうち、聞いてもらうかもしれません」
そう答えると、彼は何かを飲み込むように喉を鳴らし、小さく笑った。
「その『そのうち』を、また贅沢に待たせてもらいます」
駅の階段の手前で、自然に歩みが止まる。どちらからともなく、軽く会釈を交わした。手を振ることも、握手を求めることもなく、ほんの数秒だけ視線が絡み合う。
その短い時間の中に、川沿いの夜と、今日のカフェと、まだ言葉になっていない「続き」のすべてが、静かに折りたたまれているような気がした。
改札を抜けてホームに降りると、電車が滑り込んでくる気配が近づいていた。風が起き、髪が少し揺れる。ホームの向こう側には、別の路線の電車が止まっていて、その窓越しに見える見知らぬ誰かの横顔が、一瞬だけ自分と重なる。
車内に乗り込み、ドアが閉まる。ガラスに映る自分の顔は、少しだけ赤くなっていた。電車が動き出すと、さっきいた駅のホームが、ゆっくりと遠ざかっていく。その中に、コートの襟を立てた彼の姿がいるような気がして、視線を窓から外した。
ポケットの中で、スマートフォンが静かに重さを主張している。取り出して画面を開けば、今日の会話の一部を、簡単な言葉でまとめて送ることもできる。けれど、その誘惑から目を逸らすようにして、私はスマートフォンに触れなかった。
今はまだ、言葉にしないままでいたいものが、いくつかある。
揺れる車内の中で、私は目を閉じた。まぶたの裏には、川沿いのベンチと、恵比寿のカフェのテーブルが、少しずつ重なりながら浮かんでくる。どちらの上にも、「続き」という透明な文字が、静かに座り込んでいた。
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