【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第6章:選ばれないほう
電車を降りてホームに足を踏み出したとき、駅の空気は、外よりも少しぬるかった。地下から地上へ向かう階段を上がると、夜の冷たさがゆっくりと肌にまとわりついてくる。街路樹の枝先には、小さな光がいくつも結ばれていて、その下を通り過ぎるたびに、肩や髪にひと粒ずつ光の欠片が落ちてくるような気がした。
最寄り駅から自宅までの道は、何度も歩いたことのある距離だった。コンビニの白い光が角を曲がるたびに現れては消え、マンションのベランダにかかった洗濯物が、夜風にわずかに揺れている。アスファルトに残った薄い水気の上を、靴底がさらりと撫でる。その摩擦音の向こう側で、さっきまで聞いていた彼の声が、まだ耳の奥でくすぶっていた。
「そのぎりぎりのあたりに触れるくらいなら、今ここで話してもいいですか?」
「線の上って、怖いです。でも、景色はよく見えます」
言葉そのものよりも、音としての響きが残っている。カップの縁に触れたときのかすかな揺れや、呼吸が一瞬だけ詰まる間合い。あのカフェの照明の下で見た横顔が、夜道の暗がりの中でも輪郭を保っていた。
マンションの入口でオートロックの扉を開けると、室内から温風の匂いが流れてきた。エレベーターに乗り込んで階数のボタンを押す。扉が閉まると、外の音が一気に遮断され、代わりに機械のかすかな振動だけが身体の芯を揺らす。狭い箱の中に、自分の呼吸の音がはっきりと浮かび上がる。
部屋に入ると、真っ暗な空間が待っていた。スイッチを入れると、天井の灯りがゆっくりと明度を上げていく。その変化を眺めながら、コートとマフラーを椅子の背に掛ける。窓際に立ってカーテンを半分だけ開けると、向かいの建物の窓がいくつか灯っているのが見えた。誰かの暮らしがそれぞれの部屋で進行していることが、遠くの光で知らされる。
鞄からスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置く。画面はまだ暗いままだった。通知の光が点っていないことに、ほっとする気持ちと、少し物足りなさを覚える気持ちが同時に立ち上がる。しばらく触れずにいたが、結局我慢できずに手に取った。
画面をスワイプすると、今日のカフェの店名と、会計金額の通知だけが新しく増えていた。久遠さんからのメッセージはない。社内チャットにログインすれば、何か一言くらい残しているのかもしれないが、仕事用のアプリをこの時間に開くことが、急に現実に引き戻されるようで、躊躇われた。
冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぎ、一口飲む。冷たい水が喉を通り過ぎていく感覚を追いかけながら、テーブルの上のスマートフォンが視界の端で静かに光を反射しているのを眺める。そこにまだ何も届いていないという事実が、今のところ唯一の「線」のように思えた。
シャワーを浴び、髪を乾かし、部屋の灯りを少し落とす。ベッドに潜り込む前に、もう一度だけスマートフォンを手に取った。今度は、社内チャットではなく、私用のメールアプリを開く。新着のメールは、一通だけ届いていた。
差出人の名前を見た瞬間、胸が少しだけ跳ねた。
件名のところには、企画書のタイトルではなく、小説のタイトルが書かれていた。本文の冒頭には、短い挨拶と、「今日の話を受けて直した部分があります」とだけ記されている。添付ファイルの名前には、「rev」という文字列が増えていた。
ベッドの上に腰を下ろし、背中を壁に預ける。部屋の灯りをさらに落とし、スマートフォンの明かりだけが顔を照らすような状態にする。画面の白い光が、シーツの上に四角く落ちていた。
ファイルを開くと、あの物語の見慣れた冒頭が現れる。スクロールしていく指先の動きに合わせて、行間を風が通り抜けるように、文字が流れていく。川沿いの場面に近づくにつれて、心臓のあたりに小さなざわめきが生まれる。
修正された部分は、すぐに分かった。以前は、主人公の心情が一気に高ぶるように書かれていた箇所が、少し抑えられている。言葉の温度をほんの少しだけ下げ、その代わりに、指先の動きや、視線の揺れ方を丁寧に描き足している。
「線を越える」ことに関する比喩も、直接的な表現がいくつか削られていた。その代わりに、「元に戻れなくなるかもしれない瞬間」という言葉が、新しく差し込まれている。その一文を読んだとき、喉の奥がひゅっと狭くなった。
ページを進めていくうちに、これまで見えていなかった角度から、あの夜の場面が照らし出されていることに気づく。ベンチの木目、手すりの冷たさ、橋の下を流れる水音。編集者としての自分と、あの場にいた自分と、今ここで読み直している自分が、一瞬重なったり離れたりしながら、同じ段落を何度も行き来する。
最後まで読み終えたところで、本文の下に添えられた作者からのメモが目に入った。
「川沿いの場面を少しだけ書き換えました。相沢さんが教えてくれた『はみ出し方』を意識したつもりです。もし、まだどこか違和感があれば、遠慮なく言ってください」
短い文なのに、その一行一行の隙間に、今日のカフェでの会話の温度が残っている気がした。「はみ出し方」という言葉が、自分のものではないみたいに見えてくる。
返信するべきかどうか、しばらく迷った。夜も遅い時間だ。明日の朝に落ち着いて読んだふりをして返事をしても、仕事としては何の問題もない。それでも、今この体温のまま返したい言葉が、胸の内側でじっと待っている。
メール作成の画面を開き、指がキーボードの上をゆっくり滑る。
「修正版、拝読しました」
自然と出てきた定型の一文を打ち込んだあと、いったんそこで指が止まる。息を整えてから、続ける。
「川沿いの場面、以前よりも呼吸がしやすくなった気がします。感情に引っ張られすぎず、その前後の時間も一緒に読めるようになったというか……」
そこまで書いて、言葉を一度消しかける。消さずに残したまま、少しだけ言い換える。
「主人公が『元に戻れなくなるかもしれない」と感じる瞬間の描き方が、すごく好きでした」
「好き」という単語を打ち込んだとき、指先にかすかな汗がにじんだ。仕事のメールの中で使わないわけではない言葉だ。それでも、この文脈で使うことの意味を、内側のどこかが敏感に察知している。
少し間を置いて、もう一文足す。
「だからこそ、あそこで一度立ち止まる主人公の弱さも、ちゃんと守られているように感じました」
送信ボタンに指を乗せたまま、画面を見つめる。押すか押さないかの間に、心臓の音がわずかに大きくなる。もう少し冷静になってから読み返した方がいいのかもしれない。でも、この温度が残っているあいだでなければ書けない言葉もある。
息を小さく吸って、指先に力を込める。送信のマークが画面の端へ滑っていった。メールが届く先にいる彼の顔を想像しそうになるのを、慌てて止める。代わりに、スマートフォンを伏せてテーブルに置いた。
ベッドに身体を横たえ、天井を見つめる。部屋の明かりはすでに消していて、窓の外から漏れてくる街の光だけが、壁紙の模様をぼんやり浮かび上がらせている。その中で、さっき読んだ文のいくつかが、耳の後ろあたりで何度も繰り返されていた。
「川沿いの場面だけは、ほとんど混ぜ物をしていない」
「書いている自分と、その場にいた自分と、今ここにいる自分が、全部ずれていく感じがして」
目を閉じると、店内の音楽と、彼の声が混ざった音が、ゆっくりと遠ざかっていく。代わりに、数年前の自分の記憶が、別の川沿いの光景と一緒に浮かんでくる。大学を出たばかりのころ、終電を逃して友人と歩いた道。何気なく交わした会話。そのどれもが、彼の物語とは無関係なはずなのに、不意に重なってしまう。
気づかないあいだに、眠りに落ちていた。夢の中で、画面上の文章が川の流れみたいに動き続けていた。カーソルだけが、水面に浮かぶ小さな光のように、ある一点を示したまま動かない。
翌朝、目が覚めたとき、部屋にはまだ薄い色の光しか入っていなかった。枕元のスマートフォンに手を伸ばし、画面を点ける。通知のアイコンがひとつだけ増えていた。
差出人の名前は、昨夜と同じだった。確認する前から、心臓の鼓動が少し速くなる。タップすると、短い返事が表示された。
「丁寧な感想をありがとうございます。『好きでした』の一言に救われました。はみ出し方、まだ試行錯誤中ですが、少しだけ自信が持てそうです」
その下に、一行だけ付け足されている。
「もしよろしければ、次は相沢さんが『元に戻れなくなりそうだ』と感じた場面の話も、いつか聞かせてもらえたらうれしいです」
瞬間的に、喉の奥が熱くなった。昨夜、自分が打った言葉が、そのまま反射されたような文。編集者としての距離を保とうとしていたはずの場所に、個人的な問いが滑り込んできている。
「いつか」という曖昧な時制が、かえって具体的に感じられた。今すぐではないけれど、近いうちに、きっとそういう話をする機会が訪れるのだろうという予感が、体内に静かに沈殿する。
返事を打つべきかどうか、布団の中で丸くなりながら考える。朝の空気はまだ冷たく、窓の外では、ゴミ収集車の音が遠くで鳴っていた。日常の音が、今日も始まることを告げている。
簡単なお礼だけを返すこともできる。でも、そうしてしまえば、自分の中の何かを誤魔化したままにしてしまう気がした。
少しだけ身体を起こし、背中をヘッドボードに預ける。
「こちらこそ、ありがとうございます」
そう打ち込んだあと、数秒だけ手を止める。そこから先をどう続けるかで、今日一日の重さが変わるような気がした。
「私の『元に戻れなくなりそうだ』と感じた場面の話は、まだうまく言葉にできません。でも、いつかちゃんと話せたらと思っています」
そこまで書いて、文末に「そのうち」という言葉を足そうとしてやめる。昨夜、彼の口から聞いたときには、少しあたたかく感じたその言葉が、自分の側から使うと、途端に逃げ道のように思えたからだ。
その代わりに、一瞬だけ指を迷わせたあと、こう付け足す。
「今はまだ、物語の中で練習中です」
送信ボタンを押すと、胸の奥にわずかな後悔と、同じくらいの安堵が同時に広がった。「練習」という言葉に、自分を守ろうとする意図が透けて見える。それでも、完全な嘘ではないことに、救われる。
ベッドから降りてカーテンを開けると、窓の外の空は、少しずつ青の濃度を上げ始めていた。遠くのビルの輪郭が、朝の光に洗われるようにくっきりしていく。通りを走る車の音が、いつもと同じリズムで耳に届いた。
その「いつもと同じ」風景の中に、自分の内側の変化だけが取り残されている。通勤の服を選びながら、今日の昼休みにはどのニュースサイトを開くか、どの案件から手をつけるかを考えるふりをする。実際には、そのどれもが、さっきのメールの余韻の上に薄く重なっているだけだった。
職場に向かう電車の中で、私はスマートフォンをわざと鞄の奥にしまった。画面を見ないと決めれば決めるほど、指先がそこに伸びていきそうになる。その衝動を押し戻すたびに、自分が何かに少しずつ依存していっていることを、正面から見せつけられるようだった。
ビルの谷間を抜ける風が、いつもより少し冷たく感じられた朝。その冷たさが、醒ましの水になるのか、それとも、これからじわじわと染み込んでいく苦味の前触れなのかは、まだうまく判別できなかった。
金曜の朝は、いつもより少しだけ体が軽かった。眠りの深さが違ったわけでも、夢見がよかったわけでもない。ただ、目を開けた瞬間、昨夜のやりとりがぼんやりと浮かんで、その余韻が布団の中の空気を温めていた。
「今はまだ、物語の中で練習中です」
自分で書いたその一文が、時間を置いて読み返すと、思っていた以上に幼く、そして正直に見える。あの返事を画面の向こうで読んだ彼が、どんな顔をしていたのかを想像しそうになって、慌てて思考を別の方角へ逸らした。
通勤の電車に揺られながら、スマートフォンは鞄の奥にしまったままにした。車内広告の色とりどりのポスターが視界の端を横切っていく。隣の人の肩と自分の肩が、揺れのたびにかすかに触れては離れる。その小さな接触にさえ敏感になっている自分に気づき、少しだけ苦笑した。
オフィスに着くと、いつものようにメールの返信と書類の整理から一日が始まる。午前中は、企画の進捗をまとめる打ち合わせが続いた。ホワイトボードに書かれた数字や矢印を追いながら、どこか遠くの方で、自分の意識の一部だけが別のことを考えている。
久遠さんと会う予定は、しばらく先まで入っていない。にもかかわらず、同じフロアのどこかで彼がキーボードを打つ音を聞いているような錯覚にたびたび襲われる。実際には、壁や仕切りや廊下に遮られて、彼の席の様子を見ることもできないのに。
昼休み、いつものメンバーとオフィス近くの定食屋に向かう途中、ふと社内チャットの通知が震えた。ポケットの中で小さく震えたその感覚に、心臓がほんの少しだけ速くなる。
テーブルにつき、注文を済ませてから、さりげなくスマートフォンを取り出す。画面には、新着のメッセージがひとつ。相手の名前を確認してから開くまでの数秒が、妙に長く感じられた。
「さっきの会議、お疲れさまでした。相沢さんのまとめ方に助けられました。落ち着いたら、また修正版の続きも見てもらえたらうれしいです」
ごく短い、仕事の延長線上にある連絡。それでも、その文の隙間に、昨夜のやりとりの温度が薄く残っているように思えてしまう。
「こちらこそ、ありがとうございます。資料の方、週明けには一度拝見できると思います」
定型的な返事を打ち込み、送信する。画面を閉じたあとも、指先には、ほんの少しだけ熱が残っていた。
その日から、彼との連絡の頻度は、少しずつ増えていった。仕事に関する確認や、プロジェクトの進め方の相談。それに紛れるように、読んだ記事の感想や、最近の本の話が短く添えられていることもあった。
「この資料の書き方、少し小説的すぎますかね」
「いえ、むしろそれが分かりやすいと思います」
「そう言ってもらえると、書き手の癖も、少しだけ救われます」
そうした短いやりとりが、昼休みや退社後の時間帯に、小さな波のように押し寄せては引いていく。こちらから話題を振ることはできるだけ控えていたが、返事をするたびに、メッセージの画面に指を滑らせる自分の仕草が、少しずつ習慣になっていくのを自覚していた。
週が変わり、外気の冷たさが一段と増した頃、窓の外の空は、仕事を終える頃にはすでに濃い藍色を帯びていることが増えた。オフィスの蛍光灯が、パソコンの画面と紙の上の文字を白く照らす。その光の中で、時間の感覚が少しずつ薄れていく。
ある夜、いつもより少し残業が長引いたあと、デスクの片隅でスマートフォンが静かに震えた。画面を確認すると、見慣れた名前からのメッセージが一つ。
「もし今、帰りの電車の中とかでなければ、少しだけ電話で相談してもいいですか。企画書と原稿の境目のところで、行ったり来たりしてしまっていて」
電話。文字ではなく、声で。
手元の時計を見なくても、オフィスの空気で時間帯は分かる。周囲の席はほとんど空いていて、残っているのは数人だけ。コピー機の音も、さっきから聞こえない。窓の向こうには、隣のビルの灯りがまばらに浮かんでいる。
帰り支度を始めていた手を止め、私は少しだけ考えた。ここで断る理由はいくつも挙げられる。疲れていること、自宅でゆっくり読み直してから返事をしたいこと、電話よりも文字の方が記録に残って便利だということ。
それでも、どの理由も、本当に言いたいことを隠すための言い訳にしか思えなかった。
「まだオフィスにいます。少しなら、大丈夫です」
送信してから、胸の奥でなにかがふっと沈む。数秒も経たないうちに、着信の表示が画面に浮かび上がった。
「もしもし」
声を出した瞬間、自分の声が思ったよりも柔らかく響いたことに、自分で驚く。
「お疲れさまです。こんな時間にすみません」
受話口から聞こえる彼の声は、カフェで聞いたときよりも少し低く、近く感じられた。電話越しの声は、相手の顔が見えない分だけ、耳に触れる部分だけが強調される。
「いえ。まだ少し作業していたので」
オープンスペースではあるが、今いる一角にはほとんど人がいない。周囲を見回し、声の大きさを調整する。自分の声が空調の音に混ざって溶ける程度の音量を探る。
「企画書の、あの『背景』のところなんですが」
彼は本題に入った。キーボードを打つ音が小さく聞こえる。彼もまだデスクにいるのだろうか。それとも、自宅の机から話しているのだろうか。背後の音が少なすぎて、場所の特定はできない。
画面共有も資料もないまま、言葉だけで段落や構成の話をする。ページ数や見出しの番号を伝え合いながら、どの表現を残し、どの表現を削るかを一つ一つ検討していく。文字のうえでしてきたやりとりを、そのまま声にしたような会話。けれど、その密度は、文字よりも濃かった。
「ここで、あえて少し説明を抜いてみるのは、どうでしょう」
「抜く、ですか」
「はい。その分、次の段落で、読む人に想像させる余白を広めに取る。さっき相沢さんがメールで言ってくださった『呼吸しやすさ』みたいなものを、ここでもう少し増やしてみたくて」
自分の言葉が引用された瞬間、体の温度が一段階上がる。メールの文章を誰かの声で聞くのは、こうも違うのかと不意を突かれたような気持ちになる。
「いいと思います。読んでいても、読み手が行間に入り込める感じがしました」
「そう聞けて、少し安心しました」
電話の向こうで、彼が椅子の背にもたれる気配がした。かすかなきしみ音が、受話口越しに伝わる。
「……こうやって声で話していると、さっきまで一人で悩んでいたのが、急に少しだけ馬鹿らしくなってきますね」
「それは、いい意味で、ですか」
「そうです。もちろん」
言葉尻に、小さな笑いが混じる。その笑い方は、カフェのときとよく似ているのに、距離の感覚だけが違う。視線や表情が見えない分、呼吸と沈黙のタイミングに、より敏感になっていく。
ひと通り企画書の話が済んだあと、会話は自然と、原稿の方へと流れていった。新しく書き足したシーンのこと、登場人物の名前の由来、小説と現実の距離をどこまで詰めるかの迷い。
「相沢さんは、自分のことを書かれるのは、嫌ですか」
不意に投げられた問いに、一瞬、言葉が固まる。
「どういう形で、にもよりますけれど」
「例えば、完全に架空の物語の中に、相沢さんが言った一文だけを紛れ込ませる、とか」
「それは、きっと、外からは分からないですよね」
「そうですね。書いた本人と、モデルになった本人くらいしか、気づかないかもしれません」
「それなら、多分、嫌ではないです」
電話の向こうで、彼が息を吸う音がして、少し間を置いてから話を続けた。
「じゃあ、今度なにか書くとき、相沢さんの『練習中』の部分を少しだけ借りてもいいですか」
「私の『練習中』、ですか」
「はい。さっきメールで書いてくれていた、『今はまだ物語の中で練習中です』っていうところ。あの言い方が、ずっと頭に残っていて」
自分の言葉が、誰かの創作の材料になる。その事実は、嬉しくもあり、少し怖くもある。物語の中に溶かされてしまえば、もとの形を保ったままではいられない。それでも、その過程を想像すると、胸の奥にじんわりとした熱が広がっていく。
「……その代わり」
自分でも驚くほど自然に、口が動いた。
「いつか、私にも見せてもらえますか。その『借りた』部分が、どんなふうに使われたのか」
「約束します」
彼の声が、受話口の向こうで静かに落ち着く。その短い返事の中に、冗談ではない重みが含まれていることが伝わってくる。
しばらくのあいだ、どちらも言葉を継がなかった。会話が途切れたはずなのに、通話を切る気配はどちらにもない。その沈黙の中で、空調の音や、キーボードを叩く誰かの音が、遠くでかすかに聞こえる。
「……相沢さん」
名前を呼ばれた瞬間、背筋に細い電流が走るような感覚があった。
「はい」
「きっと僕は、相沢さんが思っているよりも、ずっと線の引き方が下手なんだと思います」
彼は、あの日と同じような言い方をした。ただ、「線」という言葉を使いながらも、そのまわりを慎重に踏んでいるのが分かる。
「それをちゃんと分かっているなら、大丈夫なんじゃないですか?」
自分でも、なぜこんな返事をしたのか分からない。背中のどこかで、別の自分が、小さく眉をひそめている気がした。
「そうだといいんですけど」
彼の笑い声は、少しだけ苦かった。それは、自分の内側にあるものとよく似た苦味だった。
ふと窓の外を見ると、夜の色がゆっくりと深くなっていた。ビルの窓の灯りがいくつか消え、代わりに街路を走る車のヘッドライトが強く浮かび上がる。ガラスに映る自分の顔が、受話口に寄り添うように少し傾いている。
「そろそろ、切りましょうか。長く引き留めてしまいましたね」
彼がそう言ったとき、通話時間の表示が目に入った。ふだんなら誰かと話すことのない長さの数字が、画面の端に静かに並んでいる。その数字に、自分の今日一日の重さの一部が、見えないかたちで紐づいている気がした。
「いえ。こちらこそ、助かりました」
「また、よろしくお願いします」
「はい」
最後に互いにそう言い合ってから、通話は切れた。画面から彼の名前が消えると、急に耳の中に静寂が流れ込んでくる。さっきまで確かにそこにあった声のぬくもりだけが、鼓膜の裏側に薄く残っている。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、帰り支度を整える。オフィスを出ると、夜の空気がさっきよりも一段と冷えていた。ビルの谷の間を抜ける風が、首元に入り込んでくる。その冷たささえ、どこか鮮明に感じられる。
駅までの道を歩きながら、自分の足音がアスファルトの上で規則的に響くのを聞く。信号待ちの列に並び、赤から青に変わる光を見上げる。周囲には、家に帰る人たちが当たり前の顔で立っている。そのどの横顔にも、自分の事情を重ねることはできない。
帰りの電車の中で、スマートフォンを取り出しては画面を見ず、また鞄にしまうという動作を何度か繰り返した。新しい通知が来ていないことは分かっているのに、その確認をしないと落ち着かない。自分の中に、小さな依存の芽のようなものが育ち始めているのを、わざと曖昧に見つめる。
家に着き、部屋の灯りを点ける。窓を少しだけ開けると、遠くで電車が通り過ぎる音がかすかに聞こえた。その音と、さっきまで聞いていた彼の声が、耳の奥で重なり合う。どちらが現実で、どちらが頭の中の再生なのか、境目があいまいになっていく。
ベッドに横になり、天井を見上げる。目を閉じると、しばらく前の川沿いの夜と、今日の電話の時間が、一本の細い糸でつながっているのが見える気がした。その糸は、まだ簡単に断ち切れる細さをしているはずなのに、いざ手を伸ばそうとすると、指先がうまく動かなかった。
少し苦いのに、喉の奥がそれを覚えてしまっている飲み物みたいに、彼の声とやりとりの記憶が体内に残り続けている。明日の朝になっても、その味はきっと完全には消えないだろう。
どこまでが仕事で、どこからが個人的な感情なのか。その境界線を、自分で引き直そうとするたびに、線の輪郭がぼやけていく。結局のところ、その曖昧さそのものに、私は少しずつ惹かれているのかもしれない。
そんなことを思いかけたところで、意識がふっと暗くなった。眠りに落ちていく直前、耳の奥で彼の笑い声がもう一度ほどけた気がした。
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