見出し画像

【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第5章:含まれない自分

朝の光がまだ白くなりきらないうちから、東京は動き出す。窓の外の車の音は低く、遠くの交差点の信号が切り替わるたび、街の呼吸が少しだけ速くなる。篠原紗月は目を開けたまま、天井の影を見ていた。眠ったのかどうか分からない。眠ったふりはできる。目を閉じていれば、世界は止まったように見えるからだ。けれど止まっているのは自分だけで、街も時間も、言いかけた言葉も勝手に進む。

近いうちに。

宮本の声が、まだ耳の奥に残っていた。近いうちに、ちゃんと話す。そういう種類の予告は、日常ではほとんどない。締切は予告というより命令だし、仕事の連絡は結論だけが先に落ちてくる。だからこそ、近いうちに、という言い方は異質だった。結論を先延ばしにしたまま、結論が来ることだけを保証する。保証は、期待を生む。期待は息を浅くする。紗月は自分の呼吸の浅さを、枕の匂いのせいにして起き上がった。

出勤の道は、いつもより乾いていた。雨の気配がない日は、地面の硬さが足裏に直に響く。靴底と舗装の摩擦が、耳ではなく皮膚に伝わる。駅の階段を降りると、空気の温度が一段下がり、金属の匂いが鼻の奥に残る。人の多さは同じでも、朝の群れは黙っている。会話が少ない分、衣擦れの音がよく聞こえる。布が触れ合う音は、生活の擦れだと思う。擦れは痛みの前段で、まだ破れていない証拠でもある。

編集部に着くと、紙とインクと、誰かの淹れたコーヒーの匂いが混じっていた。紗月の机の上には、昨日積み上げたゲラがそのまま残っている。揃えて帰ったはずなのに、端が少しずれている。誰かが触ったのかもしれない。あるいは自分が焦って置いたのかもしれない。ずれは小さいのに、目が吸い寄せられる。小さいずれほど、生活を乱す。

午前のうちに、担当作家から電話が来た。声がいつもより軽い。軽い声は信用できない。軽い声の裏側に、何かが隠れていることが多いからだ。

「紗月さん、昨日送った原稿、どうでした」

「まだ全部は見てない。途中まで」

「途中まででいいです。途中までで、もう分かりますよね」

「分かるように書いてください」

自分でも少し刺す言い方だと思った。刺すつもりはない。ただ、仕事の場では言葉を濁すと、別のものが濁る。作品が濁る。締切が濁る。関係が濁る。関係が濁るのは、恋のほうで十分だと、紗月は心の中で思った。

電話を切ったあと、指先が冷えていることに気づく。室内は暖かいのに、体の端だけが冷える。冷えは、心のどこかが緊張している合図だ。紗月は指を握り込み、机の引き出しの中でこっそりほぐした。寒いから、という言い訳が使えない場所で、自分の癖は露骨になる。

昼の終わりが見え始めるころ、宮本からメッセージが来た。

今日は遅くなる。多分、飯田橋は無理。ごめん。

無理。ごめん。短い文の中で、謝罪だけが丁寧だ。丁寧な謝罪は、慣れているように見える。慣れているのは仕事のせいだろうか。それとも、こういう断りの積み重ねに、既に形があるのだろうか。紗月は返信を打てなかった。打てないというより、打つ言葉が見つからない。大丈夫、と言えば簡単だ。けれど大丈夫は、相手の未来を楽にする言葉だ。相手の未来が楽になるほど、自分はそこから外れる気がした。

机に目を戻し、赤字を入れる。文章の行間に、自分の呼吸を挟む。作家の文は、今夜も欲張りだ。言いたいことが多すぎて、言葉が渋滞している。紗月は渋滞をほどく。ほどくことが仕事だ。ほどくと、道が見える。道が見えると、行き先も見えてしまう。行き先が見えるのが怖いのに、自分は他人の行き先だけは整えてしまう。

夕方、編集部の窓が暗くなり始めたころ、同僚が席に立ち寄ってきた。書類を抱え、軽く肩をすくめる。

「篠原さん、これ、回覧です。あと、今日飲みに行かないんですか」

「行かない」

「忙しいですもんね。最近ずっと行ってない気がする」

気がする、という言い方が優しいのに、紗月には少し痛かった。行っていない理由は忙しさだけではない。忙しさの隙間に、終電後の夜を差し込んでいる。その差し込み方が、自分でも不自然だと分かっている。分かっていて続けている。続ける理由が、言葉にできないまま増えていく。

「また今度」

紗月はそう言って、笑ったつもりで口角を動かした。うまくできていない気がする。それでも同僚は気を遣って頷き、去っていった。去っていく背中を見ると、急に編集部が広く感じる。広さは孤独を増やす。孤独は、誰かに触れたくなる衝動を呼ぶ。呼ばれた衝動を、紗月はいつも飲み込む。

夜が深まるにつれて、机の上の紙の白さが浮く。白さは冷たい。冷たい白さの中で、赤字の線だけが熱を持つ。修正の指示を書き込むペン先の摩擦が、指の腹に小さな痛みを作る。痛みがあると、今ここにいることが分かる。分かることは救いだ。救いがあると、夜をやり過ごせる。やり過ごした先に、宮本がいるはずだった。はずだった。

終電が消える前に、紗月は職場を出た。今日は会えない。会えないと分かっているのに、帰り道の足が勝手に飯田橋の方向へ向きかける。癖のように体が覚えている。体が覚えていることが、いちばん怖い。恋は心の問題だと思っていたのに、今は筋肉の問題になっている。

交差点の向こうに飯田橋の光が見えたところで、紗月は立ち止まった。風が頬に触れ、昼間の乾きが夜に研がれる。橋の上の空気は、どこか薄い。水の気配が近いせいだろう。水は形を持たないのに、確かにそこにある。自分たちの関係も、そういうものだと思ってきた。形はない。けれど確かにある。確かだと思っていた。

スマホが震えた。胸が先に反応する。反応する自分を、もう止められない。

今、少しだけ空いた。飯田橋まで行ける。まだいる?

紗月は息を止めた。まだいる? という問いは、今夜だけの問いではない気がした。まだいる? ここにいる? この関係の中にいる? 紗月は唇を噛み、すぐに離した。癖が出る。癖が出るほど、感情が揺れている。

いる。

それだけ返して、紗月は橋へ向かった。歩く速度が少し速くなる。速くなると息が乱れ、乱れた息が胸の奥の焦りを増やす。焦りは期待だ。期待は危険だ。危険だと分かっているのに、今夜は危険に手を伸ばしている。

宮本は改札の外にいた。いつもの場所ではなく、少し人通りの少ない柱の陰に立っていた。顔色が少し薄い。目の下が、うっすらと影を持つ。仕事の匂いが濃い。濃い匂いは、空気に重さを作る。重さがあると、言葉が出にくい。

「ごめん、急に」

宮本の声は低く、いつもより硬かった。硬さは、疲れのせいかもしれない。あるいは、言うべきことを抱えているせいかもしれない。

「大丈夫」と紗月は言いそうになり、止めた。大丈夫と言ってしまうと、今夜の意味が薄くなる気がした。

「来れたなら、よかった」と紗月は言った。

よかった。よかったは安全な言葉だ。でも今夜は、安全だけでは足りない気がする。足りないと言ってしまうのが怖い。

二人は神楽坂へ向かった。坂の入口の明かりが、いつもより白く見える。夜が深いせいで、光の輪郭が濃い。路地に入ると、飲食店の匂いが混ざる。油の匂い、湯気の匂い、甘い香り。人の生活の匂いだ。生活の匂いが濃い場所ほど、紗月は自分の生活の薄さを感じる。終電後の隙間にだけ存在するものは、生活の匂いを持ちにくい。匂いを持たないものは、消えやすい。

小さな店に入り、カウンターの端に座った。店主が目だけで挨拶し、黙って水を置く。水の透明さが、今夜の空気を際立たせる。透明なものは、見落とすと後悔する。

宮本はコートを脱がず、背筋を少し固くしたまま座った。手を膝の上で組み、視線が落ち着かない。考えると視線を外す癖はいつも通りだが、外し方が今日はいっそう遠い。遠い場所を見る目は、ここにいない目だ。

「疲れてる」

紗月が言うと、宮本は小さく笑った。笑いはすぐに消えた。

「うん。少し」

少し。少しだけ。ここ数週間、二人の間には少しが増え続けている。少し会う。少し話す。少し触れる。少しだけで保つ関係。少しだけで保てるのは、形がないからだ。形がないものは、すり抜ける。

「仕事、動いてる?」

紗月は訊いてしまった。訊くつもりはなかった。訊くと、未来に触れる。未来に触れた瞬間に、関係が終わる気がする。終わるのが怖いのに、終わらせないまま削れていくのも怖い。怖さの質が変わってきている。

宮本はグラスを指先で回した。氷のないグラスの底で、水滴が小さく動く。動きが答えを引き延ばす。

「うん」と宮本は言った。「動いてる」

「どこまで」

「決まりそう」

決まりそう。言葉の手触りが固い。固い言葉は、現実に近い。現実に近いほど、息が苦しくなる。紗月は自分の呼吸の音が大きくならないように、ゆっくり息を吐いた。吐いた息が、店内の暖気に吸い込まれていく。

「いつ」

紗月の声が思ったより小さい。小さい声は、弱さに見える。弱さに見えたくないのに、今夜は小さくしか出ない。

宮本は視線を外し、しばらく黙った。沈黙が、今までの沈黙とは違う種類の重さを持つ。重さは、言葉にする前の結論だ。結論がある沈黙は、逃げ場がない。逃げ場がないと、人は優しくなる。優しさは時々、別れの前触れだ。

「来月から」と宮本は言った。

来月。期限が数字を持った。紗月の胸の奥が冷える。冷えは指先へ行く。紗月はテーブルの下で拳を握り、爪が掌に当たるのを確かめた。痛みがあると、今ここにいることが分かる。けれど今ここにいることが、未来の保証にはならない。

「東京を離れる?」

「うん」

答えは短い。短い答えのあとに、沈黙が続く。沈黙の中で、店の音が増える。隣の客の笑い声。グラスが置かれる音。扉が開閉する音。日常の音は、今夜の会話を容赦なく薄める。薄められた言葉は、味が変わる。

「どこ」

紗月は訊いた。もうここまで来たら、訊かずにいられない。訊かないで済ませたら、また少しだけが積み上がる。積み上がった少しが、いつか崩れて自分を押し潰す。押し潰される前に、輪郭を見たい。見たら痛いのに。

宮本は息を吸い、少し遅れて吐いた。

「関西」と宮本は言った。

地名ではない。けれど十分だ。東京ではない。東京の外だ。紗月の頭の中で、距離が具体になり始める。新幹線の揺れ。車窓の暗さ。駅の匂い。見たことのない街の温度。宮本がそこに立つ姿。そこに、紗月はいない。想像が勝手に結論へ走る。走るのを止められない。

「仕事で?」

「仕事で。半年くらい、って言われてる」

半年。半年は短いのか長いのか。短いと言えば、我慢すればいいと言える。長いと言えば、耐えられないと言える。どちらも言えない。言えないまま、半年が近づいてくる。その感覚が、紗月には耐え難い。

「半年、か」

紗月はそう言って、声が震えていないか気にした。震えていたら、宮本は優しくなる。優しくなると、言えない言葉が漏れそうになる。漏れたら終わる気がする。終わるのが怖い。怖いから、震えないようにしたい。けれど心臓の鼓動は、指先の冷えに出ている。

宮本が言葉を足した。

「場合によっては、延びるかも」

延びる。半年が伸びる。伸びた分だけ、二人の夜が消える。消える夜の代わりに、何が残るのか。残るものがないなら、関係は蒸発する。蒸発は静かだ。静かな終わりは、いちばん残酷だと紗月は思う。終わったと気づくころには、もう戻れない。

「紗月」

宮本が呼ぶ。呼び方が少しだけ丁寧だ。丁寧な呼び方は、距離を作ることもある。

「うん」

「ちゃんと話すって言ったのに、今夜もちゃんと言えてない」

言えてない。言えてないのは、何だろう。半年行くことは言えた。関西だとも言えた。言えていないのは、その先だ。私をどうするのか。私を入れるのか。入れないのか。聞きたい。聞けばいい。聞いた瞬間に、答えが出る。答えが出たら、関係が終わる気がする。終わるのが怖い。怖いから聞けない。聞けないままでも、終わりは近づく。近づく終わりを見ないふりするのは、編集者としての自分が一番嫌うことだ。なのに自分の恋では、それをしている。

「私が、含まれてない気がする」

紗月は言ってしまった。言ってしまった瞬間、喉の奥が熱くなった。熱は涙の前触れだ。泣かない。泣かないと決めた。決めても、熱は止まらない。決意は体温に勝てないことがある。

宮本はすぐに否定しなかった。否定しない沈黙が、紗月の言葉を現実に近づける。現実に近づくほど、心は冷える。

「含まれてない、わけじゃない」と宮本がようやく言った。「でも、紗月を簡単に巻き込みたくない」

巻き込みたくない。紗月はその言い方に、胸が痛くなる。巻き込みではなく、誘いがほしい。誘いは、形だ。形を求めることは怖い。怖いのに、欲しい。欲しいのに、怖い。矛盾が胸の中で擦れ、音がしないのに痛みだけが増える。

「巻き込みじゃないなら」と紗月は言った。「何?」

宮本は視線を外した。考えると視線を外す癖。外した視線は、答えを探しているのではなく、答えの重さを測っているように見えた。測っているのは、自分の言葉が紗月を傷つける量だ。彼は傷つけたくない。だから確約を避けてしまう。紗月はそれを知っている。知っているから、責められない。責められないことが、さらに苦しい。

「俺さ」と宮本が言った。「一緒に来て、って言えない」

言えない。核心に触れた。触れた瞬間、空気が一段冷える。冷えは、店内の暖気とは別の層で起きる。沈黙の層だ。紗月は自分の指先が震えそうになるのを、茶碗を持つことで誤魔化した。茶碗の熱はもう弱い。弱い熱は、余計に冷えを感じさせる。

「なんで」

紗月の声は細い。細い声は、お願いに聞こえる。お願いをするつもりではなかったのに、結果としてお願いになっている。紗月は自分の言葉の形が嫌になり、でも止められない。

「言ったら」と宮本は言った。「紗月の人生を動かすことになる。俺の都合で」

「私の人生は、私が動かす」

そう言い切ったつもりなのに、声の終わりが揺れた。揺れは、今の自分がどれだけ宮本に影響されているかを示してしまう。示したくないのに、示される。

宮本は小さく頷き、けれど言葉を続けない。続けないことで守っているものがある。守っているのは、自分の良心か、紗月の生活か、それとも二人の今か。守りたいものが多すぎて、手が足りない。その手の足りなさに、紗月は初めて具体的な恐怖を覚えた。彼は選ぶかもしれない。仕事を。未来を。自分の生活を。紗月を選ぶとは限らない。限らないという現実が、今夜の空気に混じっている。

「じゃあ」と紗月は言った。「私は、どうすればいいの」

問う声が震えた。震えたことに気づいた瞬間、涙が喉まで上がってきた。泣かない。泣いたら終わる気がする。終わるのが怖い。怖いのに、終わりの形はすでに見えている。見えてしまったら、泣くのを我慢する意味があるのか分からなくなる。

宮本は紗月を見た。目の温度がいつもより低いわけではない。むしろ熱がある。熱があるから、痛い。熱がある目は、本気だ。本気の目は、逃げ道を減らす。

「今まで通りでいたい」と宮本は言った。「でも、それが紗月を苦しめるなら」

苦しめるなら。紗月はそこで、初めて自分の苦しさを相手の言葉にされた気がした。言葉にされると、苦しさは現実になる。現実になると、もう戻れない。戻れないのに、どこへ行けばいいのか分からない。

「私を苦しめない方法って」と紗月は言った。「私が何も望まないこと?」

言ってしまった。言ってしまった瞬間、後悔が遅れてくる。責めるような言い方だ。責めたいわけではない。責めたところで何も変わらないのに。ただ、自分の心がひどく狭くなっている。狭さの中でしか息ができない。

宮本は首を振った。

「違う」

「じゃあ、何」

宮本は黙った。黙るしかないのだろう。答えがないのか、答えを言えないのか。どちらにしても、紗月の胸は冷えていく。冷えは、恋の終わりの匂いに似ている。終わりの匂いは、甘くない。金属の味がする。

店を出ると、夜がさらに深く、空気が細くなっていた。呼吸すると、冷たさが喉の奥まで届く。石畳の上に落ちた街灯の輪が、硬く見える。硬い光は、柔らかい嘘を許さない。二人は歩き出した。いつものように、宮本が歩幅を合わせる。合わせてくれるのに、今夜はその調整が距離に見える。近づくための調整ではなく、離れないための調整。離れないための努力は、いずれ離れることを前提にしているみたいで、紗月は胸が痛んだ。

「関西って」と紗月が言った。「どんなところ」

質問がずれているのは分かっている。聞きたいのはそこではない。けれど核心を聞けば、終わる。終わるのが怖い。だから周辺を触る。周辺を触ることで、核心の熱さをごまかす。編集者の技術を、自分の恋に使っていることが嫌になる。

宮本は少し驚いたように紗月を見て、それから小さく笑った。

「仕事でしか行ったことない。駅と会議室と、ホテルの部屋」

「生活じゃないんだ」

「うん。まだ」

まだ。まだ生活じゃない。まだ、という言葉は未来を含む。未来を含むのに、紗月はそこに自分がいない気がする。いない気がするという感覚は、証拠がないぶん、ずっと苦しい。

飯田橋に戻るころ、風が橋の上を撫でていった。水の匂いが少し強い。夜の川は音を立てないのに、存在感だけは濃い。濃いものは、簡単に消えないはずだと思ってしまう。思ってしまうのが、間違いかもしれない。

改札の前で、二人は立ち止まった。いつもの場所。いつもの別れ方。いつもの、が今夜は刃になる。いつもの、が続けられないかもしれないと分かったからだ。いつもの、が終わるとき、どんな顔をすればいいのか分からない。

「紗月」と宮本が言った。

「うん」

「ごめん」と宮本は言った。「ちゃんとできない」

ちゃんとできない。できないと認める言葉は、誠実だ。誠実だからこそ痛い。痛いのに、紗月は頷いてしまった。頷くことで、自分もこの誠実さを受け入れてしまう。受け入れたら、終わりに向けて歩くことになる。歩きたくないのに、歩いている。

「私ね」と紗月は言った。唇を噛み、噛むのをやめ、声を出す。「一緒にいたい」

言ってしまった。核心に触れた。触れた瞬間、時間が少し止まったように見えた。駅の明かりが白く、音が遠のく。自分の心臓の音が耳の内側を叩く。言ってしまった。言う勇気がないと言い続けてきた言葉を、今夜は言ってしまった。言った以上、期限や形まで含めなければならない気がする。けれど続きが出ない。喉が固い。指先が冷たい。言葉が出ない。

宮本は紗月を見た。目が揺れた。揺れは、痛みの揺れだ。嬉しさだけの揺れではない。嬉しさなら、もっと簡単に頷けるはずだ。揺れは迷いだ。迷いは、答えが一つではないことを示す。

「……俺も」と宮本は言った。声は小さく、でも嘘ではなかった。「一緒にいたい」

同じ言葉なのに、意味が違う気がした。紗月の一緒にいたいは、生活の中に入れたいという意味を含む。宮本の一緒にいたいは、今夜の温度を守りたいという意味を含む。どちらも間違いではない。間違いではないから、すれ違う。すれ違いは、派手な喧嘩より静かに心を削る。

「でも」と宮本が続けた。

紗月はその二文字で、全身が冷えた。続きが来る。来るのに、聞きたくない。聞きたくないのに、聞くしかない。聞かなければ、言った言葉が宙に浮く。宙に浮いた言葉は、やがて腐る。

「でも、今すぐには言えない」と宮本は言った。「一緒に来て、って」

紗月は頷いた。頷いてしまった。頷くしかない。ここで怒れば、何かが壊れる。壊れるのが怖い。壊れたくない。壊れないために、飲み込む。飲み込む癖が、ここでも出る。飲み込んだものは、いずれ別の形で出る。出る場所は、たぶん夜だ。夜はいつも、飲み込んだものの出口になる。

「分かった」と紗月は言った。自分の声が遠い。

宮本が一歩だけ近づき、止まった。触れない距離。触れないことで守る。守られているのは、紗月の涙か、宮本の罪悪感か。どちらでもいい。どちらでもよくない。どちらでもいいと言えるほど、紗月は冷たくなれない。

「紗月」と宮本がもう一度呼んだ。

「なに」

「好きだよ」

好き。好きは軽い言葉だと思ってきたのに、今夜の好きは重い。重いからこそ、救いでもある。救いは、痛みを少しだけ先延ばしにする。先延ばしは、また少しだけを増やす。少しだけの積み重ねの先に、半年がある。関西がある。延びるかもしれない時間がある。そこに自分はいるのか。紗月はその問いを、声にできなかった。

「私も」と紗月は言った。

言ったあと、涙が出そうになり、必死に堪えた。泣いたら終わる気がする。終わりはもう始まっているのかもしれないのに、紗月は終わりを認めたくない。認めたくないから、泣かない。泣かないまま、背中を向ける。

改札を抜け、階段を降りると、駅の空気が一段冷たくなる。冷たさが頬に貼りつき、涙を乾かしてくれる気がした。紗月はホームで立ち止まり、電車の風を待った。風が来れば、今夜の温度が少しだけ剥がれる。剥がれたところで、胸の奥の言葉は残る。一緒にいたい。言ってしまった言葉は戻らない。戻らない言葉は、未来を呼ぶ。未来は怖い。怖いのに、もう呼んでしまった。

家に帰り、靴を脱ぎ、灯りをつけると、部屋の白が現実を固定した。固定された現実は、逃げ場がない。逃げ場がないのに、スマホを開く。宮本からのメッセージは来ていない。来ないことに、少しだけ安堵する。今夜の言葉の後に、文字が追加されたら、現実が確定しすぎる気がするからだ。

紗月はベッドの端に座り、指先を見た。冷たい。握り込んだ跡がうっすら残っている。寒さのせいではない跡。感情の跡。跡は消える。消えるなら、何を残せばいいのだろう。言葉を残したくない。残せば確定する。確定したくない。けれど確定しなければ、生活の中に自分の居場所は作れない。居場所がないまま好きでいるのは、息ができない。

窓の外で、遠くの電車の音がした。音は通り過ぎ、戻らない。宮本の未来も通り過ぎるのだろうか。通り過ぎる未来の中で、自分はただ見送るだけなのだろうか。見送るだけなら、今夜の一緒にいたいは、何だったのだろう。問いが胸に残り、眠りの縁で何度も反響する。

紗月は目を閉じ、暗闇の中で自分に言い聞かせるように思った。大丈夫。まだ終わっていない。まだ。まだという言葉に、今夜は自分が縋っている。縋るほど、手が空になる。空になった手で、何を掴めばいいのか分からないまま、紗月は眠れない夜の底へ静かに沈んでいった。

いいなと思ったら応援しよう!

reika1021 🎈 宜しければサポートお願い致します。頂いたサポートはITの勉強の為に利用させて頂きます。