【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第2章:習慣になる夜
雨が降る手前の空気には、紙の端を湿らせるような匂いがある。水そのものより先に、街の方が濡れる準備を始める。篠原紗月は昼の窓に背を向け、机の上の赤字を指で押さえた。指の腹に、鉛筆の粉がわずかに移る。黒でも灰でもない、乾いた汚れが皮膚に残る感触が、妙に現実だった。
原稿は、いつも途中で別の生き物になる。最初は人の話だ。次に言葉の束になる。最後は、誰のものでもない塊になって、締切という名の火のそばに置かれる。編集という仕事は、その熱で自分の手が焦げるかどうかを気にしながら、塊を人の形に戻す作業だと、紗月は思うことがある。思うだけで、誰にも言わない。言えば格好をつけているみたいで、いやだ。
受話器の向こうで担当作家が咳払いをした。咳には、その人の生活が混じる。喉の荒れ具合、眠れていない夜の多さ、煙の匂い。紗月は受話器を肩に挟んだまま、窓の外の曇りを見た。ビルの角が、いつもより曖昧に霞んでいる。これから降るのだろうか。
「すみません、今日中に、あと二枚だけ」と作家が言う。
「二枚なら、今日中に来ますか?」
「来ます。来るはずです」
はず、が入ると危ない。紗月は相手を責めない言い方で、現実の形を戻そうとする。
「夜のうちに送ってください。明け方に見ます」
「そんなに急がなくても」
「急いでいるのは、あなたの本です」
電話を切ると、背中の力が抜けた。自分が冷たい人間に見えていないかと考える癖は、仕事ではむしろ邪魔だ。優しさを説明できない。だから優しさを振る舞うとき、いつも自分の中に言い訳が残る。編集者の言葉は、作家の心を守るための装置であると同時に、締切を守らせるための刃でもある。その刃を抜いた手で、夜だけ会う男に触れようとしている自分が、時々滑稽に思える。
夕方が近づくころ、編集部の空気が一段重くなる。人の出入りが増え、紙の擦れる音が多くなる。プリンタの吐き出す熱、コピー機の低い唸り、誰かの机から流れる小さな笑い声。どれも生活の音だ。紗月はその音に混じりながら、胸の奥の別の音を聞かないふりをする。今日も、終電後に会うのだろうか。会うかどうかを決めるのは、自分のはずなのに、決める前からもう道が一本に収束している気がする。
夜の入口は、突然やってくる。窓の色が青から墨に変わり、街の灯りが一つずつ点るころ、紗月は鞄を持ち上げた。肩に掛けた瞬間、肩紐が少し湿っている気がして、慌てて触った。自分の手が汗ばんでいる。寒い季節の汗は、後から冷える。冷えると指先が固くなる。固くなると、言葉が出にくくなる。そういう連鎖を、紗月は今夜は避けたかった。
外に出ると、雨はまだ落ちていなかった。けれど風が薄く湿っていて、髪の表面がわずかに重くなる。街路樹の葉がこすれ、遠くで車が水たまりを探すような音を立てた。信号の待ち時間に、紗月はスマホを取り出す。画面の明るさが目に刺さる。通知はない。ないことに、安堵と落胆が同時に湧いた。どちらが大きいのか、分からないのが苦しい。
少し歩いてから、画面が震えた。胸が勝手に反応する。そういう自分が嫌だ。嫌なのに、指は素直に画面を開く。
今夜、行けそう。遅くなる。
宮本からだった。短い言葉。丁寧な語尾がついているだけで、いつもより遠慮があるように見える。紗月は返信欄を開き、閉じ、また開いた。言葉の順番が決まらない。返事が遅れると、彼は焦るだろうか。焦らないだろう。焦らないことで守っているものがある。彼のその性質が、紗月には救いにもなれば、怖さにもなる。焦らないまま、いなくなることもできるからだ。
行ける。待ってる。
それだけ打って送ると、息が小さく漏れた。送信という行為は、ほんの少しの決意を伴う。決意の量が少ないほど、後から重く感じる。紗月は唇を軽く噛んで、歩き出した。歯の跡が残るほど強くは噛まない。感情が漏れない程度に、ただ整えるために。
夜が深まると、東京の音は薄い膜になる。大きな音は減るのに、細かな音が増える。遠くの救急車のサイレン、誰かが閉めた扉の反響、電車の鉄の擦れ。街が呼吸している音、と言えば詩的すぎるだろうか。紗月はこういう言い回しを、仕事では嫌うのに、ひとりで歩くとつい頭に浮かべてしまう。自分の中にある文学的な部分は、編集者になっても消えない。むしろ、消えないからこの仕事を続けているのかもしれない。
飯田橋に着くころ、雨が細い糸になって落ち始めた。濡れるほどではないのに、頬に触れると冷たい。濡れるか濡れないかの境目は、人の気持ちにも似ている。はっきり濡れれば諦めがつく。濡れない程度だと、傘を差すか迷って、結局そのまま歩いてしまう。紗月は傘を持っているのに、差さなかった。今夜の自分は、少しだけ自分に乱暴でいたい気がした。
いつもの場所に、宮本はいなかった。時計を見ない。見ても意味がない。時間を数字で確認すると、待つという行為が現実になりすぎる。紗月はコンビニの前の明るさを避け、少し暗い壁際に立った。明るい場所にいると、表情が露わになる。自分が今どんな顔をしているのか、見たくない。
雨が少し強くなり、舗装に小さな点が増えた。点が増えると、街の光が滲む。車の灯りが伸び、信号がぼやけ、道の境界が柔らかくなる。そういう夜は嫌いではない。輪郭が曖昧になると、自分の輪郭も少しだけ緩む。緩んだところから、言いそびれた言葉が落ちそうになるのが怖いのに。
後ろから足音が近づいた。靴底が水を踏む、短い音。紗月が振り返る前に、宮本の声がした。
「待った?」
その声には、息が混じっていた。少し走ったのだろう。宮本が息を切らす姿は珍しい。紗月は胸の奥が一瞬だけ温かくなる。自分のために急いだ。その事実を喜んでしまう自分がいる。
「少しだけ」
紗月がそう言うと、宮本は肩をすくめるように笑った。髪の表面に雨の粒が付いている。コートの袖が濃い色に変わっていて、湿った布が夜気に冷えそうだった。
「ごめん。打ち合わせが伸びて」
「仕事?」
「うん。いつも通り、って言いたいけど、今日は少し違う」
少し違う。その言い方に、紗月の指先が反射で握り込まれる。寒さのせいにできる動作をする。宮本はそれを見て、何も言わずに自分の傘を差し出した。一本しかない。自分は濡れる気だろうか。そう思うと、紗月は受け取れなかった。
「いい」と紗月が言う。
「風邪ひく」
「ひいたら、ひいたで」
言いかけて、紗月は止めた。ひいたら、ひいたで会える理由が増える、などと続けそうになったからだ。宮本は言葉の続きを待たず、傘を二人の間に差し込んだ。肩と肩が近づく。濡れている布の匂いが、彼の体温と混ざる。傘の内側は小さな部屋になり、外の雨音が少し遠のく。距離が縮まると、空気の密度が上がる。密度が上がると、息が苦しくなる。
「神楽坂、行く?」と宮本が言った。
「うん」
坂を上がるのではなく、裏の路地へ入る。今夜は雨のせいで、石畳が少し滑る。紗月は足元を確かめながら歩いた。宮本は歩幅を調整し、紗月の半歩前に出ない。前に出ないことが、相手を急かさない配慮だと分かる。分かるのに、時々、前に出てほしいと思うことがある。選んでほしい。決めてほしい。そう思う自分がいることを、紗月は認めたくない。認めたら、自分が欲張りになる。
路地の角に、小さな明かりが滲んでいた。酒場でもなく、喫茶でもなく、古い本を並べた店だ。看板は控えめで、窓に灯りが漏れている。以前、二人でその前を通ったとき、宮本が足を止めたことがある。紗月は仕事柄、本屋に寄り道するのが癖のようになっているのに、そのときは素通りした。終電後の時間に本屋へ入ると、時間の流れが変わってしまう気がしたからだ。夜の隙間を、別のものに奪われたくなかった。
今夜、宮本が窓の中をちらりと見た。視線が吸い寄せられるように止まる。紗月はその横顔を見て、胸の奥が静かに動く。言葉より先に、感情が動く瞬間がある。それを捕まえると、逃げられなくなる。
「入る?」と宮本が言った。
紗月は迷った。迷うこと自体が、今夜を引き延ばす。引き延ばすのは好きだ。けれど引き延ばした結果、何が待っているのかを考えると怖い。それでも、今日は雨だ。雨は言い訳になる。濡れを避けるために、と言えばいい。
「少しだけ」
二人は店に入った。古い紙の匂いが、湿った外気を押し返す。灯りは黄色く、棚の木目が柔らかく見える。店主は奥で何かを読んでいて、顔を上げずに小さく頷いた。音が少ない。頁をめくる音と、雨が窓を叩く音が、薄く重なる。紗月は肩の力が抜けるのを感じた。こういう場所は、言葉を急がなくていい。沈黙が自然な形で存在できる。
宮本は棚の前で立ち止まり、背表紙を指先でなぞった。考えると視線を外す癖がある人が、こういうときは逆に目を細めて文字を追う。紗月はその表情を見て、彼の別の面を知った気がした。広告の言葉は短く、刺さるように作るものだ。けれど本の言葉は、刺さる前に滲む。滲んで、時間をかけて染みる。その違いを、宮本はどう感じているのだろう。
「紗月は、こういうの、好きだよね」と宮本が言った。
「仕事でもあるし」
「仕事で好きになるって、変だね」
「変かな。好きじゃないと、続けられない」
紗月は言いながら、自分の言葉が少し強いことに気づいた。続けられない。続ける。続けるという言葉は、未来を含んでしまう。紗月はその瞬間、喉が乾いた。宮本は何も言わず、棚から一冊を抜いた。薄い詩集のような本だった。頁を開くと、紙が少し波打っている。古い本は湿度を覚えている。誰かが触れた手の油や、置かれた部屋の空気を吸い込んで、頁の端に残す。
「これ、面白い?」と宮本が訊く。
「どれ」
宮本が開いた頁の文を、紗月は声に出さずに読んだ。短い行。意味がすぐに掴めそうで掴めない。掴めないのに、どこか胸が熱くなる。そういう言葉は、説明より先に体に触れる。
「面白いというより、痛い」と紗月は言った。
「痛い」
「読むと、自分のことを見られてる感じがする」
宮本は笑わなかった。ただ、少し頷いた。頷き方が静かで、紗月はその静けさに救われる。軽く流されると、胸に出かけたものが引っ込んでしまう。引っ込んだものは、次に出てくるのが難しくなる。
「買う?」と宮本が言った。
「宮本が?」
「うん。今夜の記念に」
記念、という言葉が危うい。記念は、形にする行為だ。形にすれば残る。残るものは、いつか見返される。見返されると、あのとき、と言い始めてしまう。あのとき、から始まる会話は未来に繋がる。紗月はその連鎖を恐れている。けれど同時に、残したいとも思う。終電後の夜は、朝になれば薄れる。薄れるほど、存在が疑わしくなる。確かにあったと自分に言い聞かせるために、何かが欲しい。
「好きにしたら」と紗月は言ってしまった。
言ってしまった、と自分で思う。許可を出したように聞こえる。許可を出せる立場でもないのに。宮本は本を閉じ、店主のところへ持っていった。支払いの間、紗月は棚の前に立ち、無意味に背表紙を眺めた。雨音が少し強くなっている。外の世界が濡れていくほど、店内の乾いた匂いが濃くなる。乾きと湿りが共存する空気が、紗月の今の気分に近い。
店を出ると、雨は細かな粒になっていた。傘の内側に、ぽつぽつと音が生まれる。音は一定ではなく、風の向きで揺れる。その揺れが、二人の会話の間に似ている。話せる日と話せない日がある。話せるときも、肝心のところは避けてしまう。
「行こう」と宮本が言った。
二人は路地を進み、いつもの小さな店へ入った。今夜は客が少ない。椅子の軋みがよく聞こえる。店主が静かに飲み物を置く。紗月は珈琲ではなく、温かい茶を頼んだ。苦みのあるものを飲むと、言いたいことが増えそうで怖かった。茶の温度は、言葉を丸くする気がする。そんな気がするだけかもしれない。こういう思い込みが、紗月の生活を作っている。
宮本はコートを脱がずに座った。袖口がまだ少し湿っている。紗月はそれを見て、指先が動きかける。拭いた方がいいと言いたい。ハンカチを差し出したい。でも、その行為は親密だ。親密は、形を作る。形は、未来を呼ぶ。紗月は手を動かさず、代わりに自分の茶碗を両手で包んだ。熱が掌に染みて、少しだけ落ち着く。
「さっきの本」と宮本が言った。「紗月、読んでた?」
「読んでた」
「声に出すと、変わるよね。意味が」
「変わる。音になると、逃げられない」
紗月は言ってから、自分が何を言っているのか分からなくなる。逃げられない、というのは、本の言葉のことだけではない。声に出した言葉は、相手の中に残る。残った言葉は、いつか回収される。回収されるとき、言った側は責任を問われる。責任を負えるほど、自分は強くない。紗月は理性的でいようとする。理性は責任を知っている。だから軽々しく言えない。
宮本が少し笑った。その笑いは、痛みを避けるための笑いではなく、理解の笑いだった。
「紗月、そういうところ、ずるいよね」
「ずるい?」
「ちゃんと考えてるのに、ちゃんと考えてないふりする」
紗月は息を止めた。見抜かれた気がした。見抜かれると、嬉しいより先に怖いが来る。怖いのは、見抜かれた後に何かを求められるからだ。求められるのが怖いのではない。求められたら、自分も求め返してしまうのが怖い。求め返せば、関係の形が変わる。
「考えてないふりなんてしてない」
「してるよ」
宮本は言って、視線を外した。考えると視線を外す癖。今、何を言うか選んでいる。その選び方が、紗月には少し愛おしい。愛おしいと思うこと自体が危険だ。愛おしいと思った瞬間、守りたいものが増える。守りたいものは、失うときに痛い。
「昨日さ」と宮本が言った。「寝る前に、紗月からの便りが来るかなって、見ちゃった」
紗月の喉が鳴った。第1章の夜、送らずに伏せた文字。彼は知らないはずなのに、紗月は今、ばれたような気持ちになる。自分の迷いが、相手に透けている気がする。
「来なかった?」と紗月は訊いた。
「来なかった」
宮本は笑わない。淡々と言う。それが逆に、紗月の胸を刺す。責められているわけではない。ただ、事実が置かれただけだ。事実は、余白の中で勝手に意味を増やす。紗月はその増え方が苦手だ。自分の中で勝手に育つものを制御できない。
「打ってた」と紗月は言った。
宮本の眉がわずかに上がる。
「打ってた?」
「送らなかった」
「なんで」
なんで、と聞かれると答えが必要になる。答えは核心に触れてしまう。送信を押さなかった理由は、言葉が確定するのが怖かったからだ。ありがとう、と送れば、今夜の終わりが終わりになってしまう。終わりになれば、次の夜を欲しがる。欲しがることが怖い。そう説明するのは、あまりにも自意識が強い。紗月は唇を軽く噛み、茶碗の縁を見た。
「押すの、怖かった」と紗月は言った。
宮本は少し黙った。沈黙が重い。重いのに、嫌ではない。嫌ではないことが、また怖い。沈黙の中で、呼吸だけが動く。自分の呼吸が浅いのが分かる。宮本の呼吸は穏やかで、紗月はそれに合わせたくなる。合わせるという行為が、また一つの親密だ。
「俺も」と宮本が言った。「便りが来たら、嬉しいのに、次が欲しくなるから」
紗月は顔を上げた。視線がぶつかる。ぶつかって、ほどける。宮本の目は穏やかだ。穏やかな目は、答えを急がない。急がないことが、今夜は救いだ。でも、救いが続けば続くほど、いずれ救いではなくなる気もする。延命のような優しさは、時々、残酷だ。
「次って?」と紗月はわざと曖昧に訊いた。
「明日、とか。来週、とか。そういうの」
宮本は言いながら、指でテーブルの端をなぞった。木の表面に薄い傷があり、その傷を辿るような動きだった。紗月はその指先を見て、触れたいと思う。触れたいと思った瞬間、背筋が冷える。触れたら終わる気がする。終わるのは、今の曖昧さだ。曖昧さが終われば、形が始まる。形が始まれば、壊れる日も生まれる。
「未来の話、避けてるよね」と宮本が言った。
紗月は答えなかった。答えられなかった。避けていると認めるのは、避ける理由を問われることと同じだ。理由を言えば、相手も理由を言わなければならない。理由の交換は、契約のようになる。紗月は契約が怖い。契約は明るい場所で交わされる。自分たちはずっと、暗い場所で息をしてきた。暗い場所は、汚れが見えにくい。汚れが見えにくいから、保てる清潔さがある。そういう矛盾に頼っている。
「避けてるわけじゃない」と紗月は言った。「ただ、うまく言えない」
「うまく言えない、か」
宮本はその言葉を口の中で転がすように、少しゆっくり繰り返した。繰り返されると、言葉が重くなる。重くなった言葉は、逃げ場を失う。紗月は自分で作った重さに、息が詰まる。
そのとき、宮本の携帯が震えた。机の上に伏せてあった端末が、小さく動く。音は消されているのに、振動だけが会話を切る。宮本は画面を見て、眉を寄せた。寄せ方が、仕事の顔だ。彼はすぐに出なかった。出ないという選択を一瞬だけ迷って、それから立ち上がった。
「ごめん」と宮本が言う。「ちょっとだけ」
紗月は頷いた。頷くしかない。宮本は店の入口の方へ歩き、雨の音が入り込む隙間で電話に出た。声は低く抑えられている。店内の静けさが、逆に言葉を拾ってしまう。拾いたくないのに、耳が勝手に拾う。
「はい。はい……分かってます……ええ、来月の……」
来月、という言葉が紗月の胸に落ちた。来月。数字を持つ言葉。期限を持つ言葉。未来の形。形があると、逃げられない。紗月は茶碗を持つ手に力が入り、指先が白くなる。寒いわけではない。冷えは別の場所から来ている。
宮本はさらに声を落とし、言葉が途切れ途切れになる。けれど断片だけでも十分だった。場所の名前は聞こえない。けれど、東京の外を示す気配が混じっている。声の端に、申し訳なさがある。それは仕事への申し訳なさか、ここにいる紗月への申し訳なさか。紗月は判断できない。判断できないまま、心が先に揺れる。
揺れを止めるために、紗月は目の前の木目を見た。木目はいつも同じようで、よく見ると毎回違う。節があり、線がうねり、薄い傷が走っている。表面の傷は、誰かがコップを置いた跡かもしれない。いつの夜か、誰かがここで黙った時間かもしれない。そう思うと、少しだけ落ち着く。自分の夜だけが特別ではない。特別ではないと言い聞かせると、痛みが薄まる。薄まる痛みは、結局、後で濃くなることも知っているのに。
電話が終わり、宮本が戻ってきた。彼は椅子に座る前に、ほんのわずかためらった。ためらいは身体に出る。言葉より先に、体が答えを知っている。紗月はそのためらいを見て、胸が締まる。締まるのに、顔は動かさない。動かしたら、何かがこぼれる。
「ごめん」と宮本が言った。
「仕事?」と紗月が訊いた。
「うん」と宮本は言い、少し笑おうとしてやめた。「急に、話が進んで」
話が進む。進む話がある。自分たちの話は進まない。進まないまま、夜を繰り返す。繰り返しの中に、いつの間にか生活が組み込まれている。紗月は恋を生活から切り離したかった。切り離したいのに、切り離せない。乱れたまま整えられない。第1章の夜に抱いた感覚が、今夜はもっと具体的になって、指先の冷えとして出ている。
「進むって、どのくらい?」と紗月は訊いてしまった。
訊いてしまった、と自分で思う。未来を問う言葉。自分が恐れていたものを、自分で引き寄せている。紗月は口の中が乾き、唇を噛みそうになる。噛むと弱さが出る。弱さが出たら、彼は優しくなる。優しくなったら、もっと欲しくなる。欲しくなったら、言いたくなる。言ったら終わる。連鎖を止めたいのに、止まらない。
宮本は視線を外した。考えると視線を外す癖。今、彼は答えを選んでいる。選ぶ時間は短くない。短くない沈黙は、紗月の心臓を少しずつ叩く。叩かれると、痛みが形になる。
「まだ決まってない」と宮本は言った。「でも、動き始めた。俺が止められる感じじゃない」
「止めたいの?」
「分かんない」
分かんない。曖昧な言葉。曖昧は紗月の領域だと思っていた。宮本が曖昧になると、足場が揺れる。曖昧が二人分になると、何も支えがなくなる。支えがなくなると、落ちる。落ちるのが怖い。紗月は自分の膝の上で手を握り、指先を押し込んだ。
「ねえ」と紗月は言った。声が少しだけ高い。自分の声が自分のものではない気がする。「未来の話をしたら、終わる気がするって、私、前に言ったよね」
宮本が頷く。
「でも、今のままでも、終わる気がする」
言ってしまった。言った瞬間、店内の空気が少し冷えた気がした。冷えたのは外気のせいではない。言葉が空気の温度を変える。変える力があるから、言葉は怖い。紗月は目を逸らさずに、宮本を見た。見たまま、逃げたくなる。
宮本はすぐに何も言わなかった。沈黙が降りる。雨音がその沈黙を埋めない。埋めないから、沈黙がきれいに残る。きれいに残る沈黙は、後から思い出せる。思い出せる沈黙は、傷になる。紗月はそういう沈黙をいくつも持っている。持っているのに、また増やしてしまう。
「終わらせたくない」と宮本は言った。声は低く、静かだった。
紗月はその言葉の温度に、少しだけ救われた。終わらせたくない。たったそれだけで、涙が出そうになる。出そうになるのを堪えるために、紗月は茶碗に口をつけた。茶はぬるくなっていた。ぬるい温度が、夜の長さを教える。ぬるさは、気づかないうちに進んだ時間だ。気づかないうちに進むものが、いちばん怖い。
「終わらせたくないなら」と紗月は言いかけた。
一緒にいたい。続きそうになる。紗月は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は、喉の奥で重くなる。重さが胸に落ちる。落ちた重さを、どう扱えばいいのか分からない。分からないまま、紗月は笑ってみせようとした。笑いは失敗した。口角が上がらない。
宮本が手を伸ばし、テーブルの端に指を置いた。紗月の手には触れない。触れない距離。触れないことで保つもの。保たれているのは、安心なのか、逃げ道なのか。紗月はその指先を見て、また触れたいと思う。思うだけで、しない。しないことが習慣になっている。
「帰ろうか」と宮本が言った。
帰るという言葉は、終わりの合図だ。終わりは嫌いではない。終わりがあるから、始まりがある。けれど今夜の終わりは、次の夜を保証しない。保証しない終わりは、ただの切断に近い。紗月はそれが怖い。
店を出ると、雨は細くなっていた。空気が洗われて、街の匂いが変わっている。濡れた石の匂い、土の匂い、遠くの排気の匂い。匂いが増えると、夜の輪郭が増す。輪郭が増すと、心の中の曖昧が少しだけ減る。減ると、決めなければならない気がする。
二人は傘を差し、路地を歩いた。水たまりの表面に、街灯が薄く揺れる。揺れは小さいのに、見ていると目が離せなくなる。紗月は歩きながら、宮本の横顔を盗み見た。彼は前を見ている。前を見る人。前を見る人が、前を見たまま、自分の隣にいてくれる。その事実が、時々、奇跡に思える。
飯田橋の明るい空間に戻ると、街の音が戻ってきた。車の走る音、信号の音、遠くの人の笑い声。人の気配が増えると、二人の会話は減る。会話が減ると、余白が増える。余白は、気持ちを膨らませる。膨らんだ気持ちは、破裂しやすい。
別れ際、宮本が言った。
「今日、本屋に寄れてよかった」
「うん」と紗月は言い、少し間を置いた。「私も」
宮本は笑った。笑いは穏やかで、でもどこか硬い。硬さは、言えない言葉のための硬さだ。紗月も同じ硬さを持っている。二人とも柔らかくなりたいのに、柔らかくなると形が変わる気がして怖い。
「紗月」と宮本が呼ぶ。
「なに?」
「次も、会える?」
次、という言葉。未来の入口。紗月の胸が跳ねる。跳ねるのに、嬉しさだけではない。怖さが混じる。次を約束したら、次の次が生まれる。次の次が生まれたら、いつか終わりも具体になる。具体になった終わりは、避けられない。避けられないなら、今のうちに避けたくなる。その矛盾が、紗月の中でぐるぐる回る。
紗月は唇を軽く噛み、指先を握り込んだ。寒いせいにできない動作だった。けれど、夜風がちょうど良い言い訳をくれた。雨上がりの冷気が、皮膚の上を滑る。
「会える」と紗月は言った。言葉は短く。形を作りすぎないように。
宮本が頷いた。頷き方が、少しだけ安堵に寄っていた。紗月はその安堵を見て、自分の胸が痛む。安堵させてしまった。安堵は期待になる。期待は未来になる。未来は怖い。怖いのに、今夜は安堵の温度が、ほんの少しだけ嬉しい。
紗月は背中を向けて歩き出した。数歩で振り返りそうになる衝動を、今夜も堪えた。振り返れば、彼が見える。見えれば、確かになる。確かになれば、欲しくなる。欲しくなれば、言ってしまうかもしれない。一緒にいたい。言うなら、期限や形まで含めて言わなければならない。その勇気がない。だから、歩き続ける。
家に着いて、玄関の灯りをつけたとき、濡れた空気がコートの中から立ち上った。室内の乾いた匂いと混ざり、少しだけ息が苦しい。紗月はコートを脱ぎ、椅子に掛けた。掛けた瞬間、袖口から水滴が落ちて床に点を作る。その点が、今夜の痕跡みたいに見えた。痕跡は消える。拭けば終わる。終わらせたくないのに、生活は痕跡をすぐに片付けてしまう。
スマホを開くと、宮本から一通だけ届いていた。
さっきの本、貸すよ。いつでも。
貸すよ、いつでも。形を作りすぎない言い方。けれど、いつでも、という言葉は未来を含む。紗月は画面を見つめ、返信欄を開いた。打つ。止める。消す。打つ。止める。指先だけが熱くなり、胸の奥は冷える。人間はどうして、欲しいものほど言えないのだろう。言えば手に入るかもしれないのに。言えば失うかもしれないからだ。失うかもしれないものは、すでに持っているものだ。紗月はその事実に、ようやく気づいてしまう。
紗月は短く打った。
読む。ありがとう。
送信を押した。押した瞬間、胸の中で何かが小さく音を立てた。壊れたのではない。増えたのだ。次、が増えた。その次、も。増えたものを抱えたまま眠ることになる。眠れるだろうか。眠れないかもしれない。眠れない夜は、仕事に響く。仕事に響くから恋は乱すものだと思っていた。分かっているのに、今は乱れたまま整えられない。
画面が暗くなり、部屋の静けさが戻る。外では雨がもう一度だけ、弱く降り直した。窓ガラスに小さな粒が当たり、すぐに消える。その音を聞きながら、紗月は思った。未来の話を避けているのではない。未来の話をするための言葉が、まだ自分の中で育っていないだけだ。育つのを待っている間に、彼の未来が先に動いてしまうかもしれない。その怖さが、今夜ははっきりと形になっている。
目を閉じると、宮本の声が耳の奥に残った。次も、会える? 問いは優しいのに、刃のようだった。刃は痛みを生む。痛みは生きている証拠だ。そう考えるのは言い訳だろうか。紗月は自分の言い訳に慣れすぎている。慣れすぎているからこそ、今夜の一通が、少しだけ怖い。怖いのに、嬉しい。その混ざり方が、恋なのかもしれない。そんな言い方を、紗月は本当は嫌う。嫌うのに、否定できない。
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