【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第8章:言葉になった想い
窓の外の空気が少しだけ柔らかくなってきたころ、篠原紗月は編集部のコピー機の前に立っていた。紙が吐き出される熱い匂いは、いつも同じで、いつも同じなのに、その一定さが今は救いだった。救いは、派手なものではなく、繰り返しの中にある。繰り返しは生活で、生活は恋から遠いはずだった。遠いはずなのに、恋のほうが生活の隙間に入り込み、見えないところで繰り返しになっている。思い出す癖。待つ癖。飲み込む癖。癖が増えると、心の自由が減る。
宮本からの連絡は、前よりも時間を選ぶようになった。夜の終わりぎわではなく、夜の手前。週の途中ではなく、週の終わりに寄せる。寄せ方が丁寧になったぶん、距離も丁寧にできる。丁寧な距離は、乱暴な拒否より痛いことがある。痛いのに、優しさの顔をしているからだ。
その日、夕方の光がビルの窓に細い筋を作るころ、宮本から珍しく電話が来た。メッセージではなく、通話。画面の着信表示が、胸を軽く叩く。紗月は一度だけ息を飲み、出た。
「今、大丈夫?」
宮本の声は低く、背後に風の音が混じっていた。外にいるのだろう。外の音が混じると、距離が見える。距離が見えると、今まで見ないふりをしてきたものが輪郭を持つ。
「大丈夫。どうしたの?」
「今夜、時間取れる。ちゃんと話したい」
ちゃんと。第4章で予告された言葉が、やっと今夜の現実になる。紗月の胸が跳ね、同時に冷える。跳ねたのは期待。冷えたのは恐れ。未来の話をした瞬間に終わる気がする、その恐れが喉の奥で固まる。
「どこで?」
「神楽坂でもいい?」
神楽坂。二人の中で習慣になった場所。習慣は安全だ。安全な場所で、危険な話をする。矛盾している。でも矛盾しているほうが、人は本音を出せることもある。紗月は頷いて、言った。
「行く」
電話が切れたあと、編集部の音が戻ってきた。紙の擦れる音、キーボードの乾いた音、誰かの笑い声。戻ってきた音の中で、紗月の耳の奥だけが静かだった。静かさは、決意の音に似ている。決意は怖い。決意は終わりを呼ぶ。終わりが怖いのに、今夜は終わりを避けるより、終わりの形を知りたい気もしていた。知ってしまえば、楽になるかもしれない。楽になるという言い訳は、時々、別れの準備だ。
夜の入口、街の明かりが少しずつ濃くなるころ、紗月は飯田橋を通り過ぎ、神楽坂へ向かった。終電後ではない時間に歩く坂は、誰のものでもない顔をしている。人が多い。声が多い。匂いが多い。夜の路地は二人の世界だったのに、今夜は街の中に二人が混ざる。混ざることは、現実になることだ。現実になれば、隠せない。
坂を上がり切ったところで、宮本が待っていた。いつもより早い。早いことが、今夜の重さを示している。コートの襟は整い、髪も整っているのに、目の下の影は消えない。影は仕事の影でもあり、心の影でもある。影がある人の言葉は、軽くはならない。
「来てくれてありがとう」
宮本はそう言って、紗月の顔を見た。見る目がいつもよりまっすぐだ。まっすぐな視線は、逃げ道を減らす。逃げ道が減ると、心が緊張する。緊張すると、癖が出る。紗月は唇を噛みそうになり、噛むのを我慢した。今日は、逃げる癖を少しだけ置いてきたい。
二人は路地へ入らず、坂の途中の小さな店に入った。窓が大きい店で、外の灯りが薄く入る。路地の暗さではない。少し明るい場所。明るい場所で話すのは怖い。怖いのに、今夜は明るい場所が必要な気がした。隠すためではなく、見えるために。
席に座ると、宮本はコートを脱いだ。脱ぐ動作が慎重で、袖の端を揃える。いつもより落ち着こうとしている。落ち着こうとするほど、落ち着かないのだろう。紗月は温かい茶を頼み、両手で包める熱を先に確保した。手が冷えると、言葉が出なくなるからだ。宮本は水を頼み、グラスを指先で触った。冷たいものを選ぶのは、熱を抑えたい時だと紗月は知っている。
飲み物が来るまでの短い沈黙の間、外の車の音が窓を通して薄く聞こえた。雨の気配はない。乾いた夜は、音をよく運ぶ。運ばれた音の中で、二人の沈黙も運ばれてしまいそうだった。
「紗月」と宮本が言った。
「うん」
「この前、言ったよね。同じ東京の別々の夜、増やしたくないって」
紗月は頷いた。頷くと、胸の奥が痛む。言った言葉は戻らない。戻らない言葉は、今夜の入口になる。
「俺も、そう思ってる」と宮本は言った。
言葉が一致する。一致は嬉しい。嬉しいのに、次の言葉が怖い。一致の後には、差が来る。差が来ると分かっているから、嬉しさに身を委ねられない。
宮本は視線を外さずに続けた。
「関西の件、正式に決まった。来月から」
来月。音が硬い。紗月の中で、季節が一つ飛ぶ。飛んだ先の空気が冷たい。半年。延びるかもしれない。言葉を聞くたび、距離が増える。距離が増えると、会話の密度が変わる。終電後の隙間が、ただの隙間ではなく、別れの準備の時間に見えてしまう。
「うん」と紗月は言った。声が揺れていないか気にする。揺れていると、宮本が止まってしまう。止まらせたくない。今夜は、止めないでほしい。
「紗月を、どうしたいか」と宮本は言った。
どうしたいか。言い方が不器用だ。不器用だから、本気だと分かる。不器用な本気は、痛い。
「俺、本当は」と宮本が言った。「一緒に来てって言いたい。言いたいけど、言えない」
言いたい。言えない。紗月は胸の奥で息が詰まるのを感じた。言いたいと言われると希望が生まれる。言えないと言われると絶望が生まれる。希望と絶望が同時に来ると、人はどちらにも寄れずに立ち尽くす。
「どうして」と紗月は訊いた。
もう何度も聞いた問いなのに、今夜の問いは違う。今夜は答えが出る気がする。出た答えが怖い。
宮本は少しだけ視線を落とし、グラスの縁を指でなぞった。指先が震えているようにも見えた。見えただけかもしれない。見えたと思うのは、紗月が震えているからだ。
「紗月の仕事」と宮本が言った。「紗月の生活」
紗月は息を吐いた。仕事。生活。自分の大事なものを、彼が言葉にしてくれる。言葉にされると、嬉しい。嬉しいのに、苦しい。仕事も生活も、この恋の外側に置かれている。外側に置かれているから守られる。守られるほど、恋は中に入れない。
「私のことを思ってるってこと?」と紗月は訊いた。
問いが少し意地悪だと分かっている。けれど、確かめたい。確かめないと、自己防衛のための言葉に聞こえてしまう。
「思ってる」と宮本は言った。「でも、思ってるだけで、何もできてない」
何もできてない。認める言葉は誠実だ。誠実だから、傷つく。傷つくのに、胸が少しだけほどけた。認められると、こちらも認めざるを得ない。自分も同じだ。何もできていない。飲み込むだけで、形にしない。形にしないことで、壊れないようにしてきた。壊れない代わりに、進まない。
「私」と紗月は言った。声が自分のものではないみたいに細い。「一緒に来てって言われたら、行けないって言うかもしれない」
宮本の目が僅かに動いた。
「そうだよね」と宮本が言った。「だから、言えない」
紗月はそこで、初めて二人の差をはっきり見た。宮本は、言わないことで相手を守っているつもりだ。紗月は、言わないことで自分を守っている。似ているようで違う。違いは、結果として同じ場所で止まることだ。止まったまま、現実だけが進む。
「でも」と紗月は言った。「言われないと、選べない」
選べない。言葉が出た瞬間、紗月は自分の弱さを見た気がした。選ぶのは自分のはずなのに、選ぶためのきっかけを相手に求めている。求めてしまうのは、怖いからだ。自分が選んで失敗したら、自分の責任になる。責任は未来を固定する。固定した未来が壊れたら痛い。痛いのが怖い。でも、今の痛みは確かにある。確かな痛みを薄めるために、未来の痛みを避けている。その矛盾が、急に嫌になった。
宮本は黙った。黙ると、店の外の音が入ってくる。車の走る音。遠くの話し声。どれも日常の音だ。日常の音が、二人の会話を現実にする。現実の中で、紗月は自分の言葉の続きを探した。
「私ね」と紗月は言った。「終電後の時間だけで、ずっと続けられるって、どこかで思ってた」
宮本の目が揺れた。
「思ってたって、どういう」
「思い込み。終わりが来ないっていう。来ないわけないのに」
紗月は笑えなかった。笑えば軽くなるのに、軽くしたくない。軽くしたくないのは、今夜が大事だからだ。大事な夜は、笑えない。
「でも、来た」と紗月は言った。「関西っていう形で」
宮本は頷いた。
「うん」と宮本は言った。「来た」
来た。来たという言い方が、運命みたいで嫌だった。運命にしてしまえば、誰も責任を取らなくて済む。責任を取らなくて済むのは楽だ。楽な道は、後で痛い。
「俺、紗月に、来てほしいと思ってる」と宮本は言った。
紗月の胸が跳ねた。跳ねたのは嬉しさ。嬉しさが来た途端、すぐに怖さが追いかける。来てほしい。言葉になった。言葉になった瞬間、空気が変わる。沈黙の温度が上がる。上がった温度は、涙を呼ぶ。紗月は喉の奥が熱い。
「でも」と宮本が続けた。「俺の都合でそう言いたくない。紗月のことを、選択肢にしたくない」
選択肢にしたくない。美しい言い方だと思った。美しい言い方は、残酷だ。選択肢にしないというのは、つまり、選べないということだ。選べないなら、どうやって一緒にいるのか。紗月の胸の奥に、静かな苛立ちが生まれた。苛立ちは怒りではない。期待が裏切られるときに出る、薄い熱だ。
「私が選択肢になるのが嫌なら」と紗月は言った。「私は、何」
第6章で言った問いが戻ってくる。戻ってきた問いは、前より冷たい。冷たい問いは、優しさを削る。削られた優しさの下から、欲が出る。
宮本は息を吐き、そして言った。
「紗月を、失いたくない」
失いたくない。告白に近い。けれど、約束ではない。約束ではない言葉に、紗月は救われそうになり、同時に絶望した。失いたくないなら、掴んでほしい。掴まない失いたくないは、願いでしかない。願いは風に飛ぶ。
「失いたくないなら」と紗月は言った。「失わないようにして」
言い方が強い。強いと分かっている。けれど、強く言わないと届かない気がした。届かないことに疲れた。疲れは人を乱暴にする。乱暴になりたくないのに、乱暴になる。
宮本の目が揺れ、少しだけ痛そうに細くなる。
「できることは、する」と宮本は言った。「でも、できないこともある」
できないこと。紗月はその言葉で、埋まらない差を見た。自分は、できないことを減らしたい。宮本は、できないことを受け入れている。受け入れることで守るものがある。守るものがある人は、決断が遅い。遅い決断の間に、関係は薄くなる。
「例えば」と紗月は言った。「何ができないの」
宮本はすぐに答えなかった。沈黙が落ちる。沈黙の中で、茶の匂いが上がる。茶の香りは落ち着きを呼ぶ。落ち着きは、決断を遅らせることもある。
「一緒に来てって言ったあと」と宮本が言った。「もし紗月が断ったら」
紗月の心臓が跳ねた。断る。自分の口から出していない拒否を、宮本が先に口にする。口にすると現実になる。現実になると怖い。
「断ったら」と宮本は続けた。「俺、今みたいに会えなくなる気がする。気まずくなる。怖い」
怖い。宮本の怖いは、自分の怖いと似ている。似ているから、責められない。責められないことが、さらに苦しい。二人は同じ怖さを持っている。怖さが一致しているのに、進めない。進めないのは、怖さを越える理由が違うからだ。
紗月は息を吐き、言った。
「私はね」と紗月は言った。「気まずくなるのが怖いんじゃない」
宮本が目を上げる。
「未来の話をした瞬間に終わるのが怖い」
言ってしまうと、喉の奥が軽くなる。軽くなるのに、涙の匂いがする。言葉は時々、体の中の圧を抜く。抜いたところから、別のものが溢れる。
宮本は黙って頷いた。
「終わるのが怖いから」と紗月は続けた。「終電後の隙間に閉じ込めてきた」
閉じ込めてきた。閉じ込めたのは恋だけではない。自分の欲も、未来も、日常も。閉じ込めたものは、いずれ膨らむ。膨らんだものが割れる音は、静かでも耳に残る。
「でも今、閉じ込めてるだけじゃ」と紗月は言った。「もう持たない」
宮本の目の温度が少し上がった。上がったのは、痛みかもしれない。優しさかもしれない。どちらでも、紗月の胸は熱くなる。
「紗月」と宮本が言った。「俺、行く。関西へ」
言い切る声。言い切ると、その瞬間に道が一本になる。一本になった道は戻れない。戻れない道の先に、自分がいない気がする。その気がする、が現実になる怖さが、紗月の中で膨らむ。
「うん」と紗月は言った。「知ってる」
知ってると言いながら、知りたくなかったとも思う。知りたくなかったのに、知った。知った以上、ここからは選択だ。選択の章は第9章だと、どこかで自分が作った筋書きが頭をよぎる。筋書き通りに進むなら、今夜はその直前だ。
「紗月に、来てって言えない」と宮本は言った。「でも」
でも。紗月はその言葉に怯えた。怯えながら、聞く。
「でも、俺、行く前に、紗月に会いたい。ちゃんと会いたい」
ちゃんと会いたい。終電後ではない時間に。昼の光の中に。そういう意味を、紗月は勝手に読み取ってしまった。読み取るのが怖い。期待すると傷つく。でも今夜は、期待しないふりをするのがもう疲れた。
「会うって」と紗月は言った。「いつ」
「来週、休み取れる。昼から」
昼。紗月はその言葉で胸が詰まった。昼は、二人の関係の外側にあった時間だ。外側にある時間に入るのは、形を持つことに近い。形を持てば、壊れる可能性も持つ。壊れる怖さより、形が欲しい。欲しいと言ったら、また自分が欲張りになる。でも欲張りでいい。今夜だけは。
「行く」と紗月は言った。
宮本が少しだけ笑った。笑いは安堵の笑いだった。安堵は優しい。優しい安堵の中に、別の苦さも混じる。これは解決ではない。ただ、先延ばしではない形で会う約束だ。約束は未来の糸だ。糸は細く、切れやすい。切れやすい糸に、今の二人はぶら下がる。
店を出ると、夜の空気が頬を撫でた。路地へ入らず、坂を下りる。下りる坂は、上るときより現実が強い。足元が見え、街灯の光が舗装に落ち、車の音が近づく。現実が強いほど、今夜の言葉が現実になる。現実になるほど、怖さも増す。
駅へ向かう途中、宮本が立ち止まり、紗月を見た。
「紗月、今日、言ってくれてありがとう」
「何を」
「終電後に閉じ込めてたって。もう持たないって」
紗月は目を逸らさずに、言った。
「言わないと、消えるから」
消える。言葉にすると残酷だ。消えるのは恋か。自分か。どちらもだろう。宮本は小さく頷き、視線を落とした。考える癖。今は考えているのではなく、抱えている気がした。抱えることが、彼の誠実さだ。誠実さが、決断を遅らせる。
別れ際、紗月はいつもより長く立ち止まった。改札の前の白い光の中で、二人の影が並ぶ。影が並ぶのは、今だけだ。並ぶ影を見ていると、泣きそうになる。泣かない。泣いたら終わる気がする。でも今夜は、終わりが怖いだけではない。終わりを避けるための一歩を踏み出した気もする。踏み出した一歩が、埋まらない差を埋めるのか、差をよりくっきりさせるのか。まだ分からない。
帰宅して、部屋の灯りをつけると、静けさが戻った。静けさの中で、紗月は今日の会話を反芻する。言いたい。言えない。失いたくない。できないこと。できること。言葉になった想いは確かにあった。確かなものがあるのに、未来の差は埋まらない。埋まらない差を抱えたまま、来週の昼に会う約束だけが、薄い光みたいに残る。
紗月はスマホを机に置き、手のひらを見つめた。握り込んだ跡がない。今日は、あまり握らなかった。少しだけ、呼吸ができた。呼吸ができたから、明日も仕事ができる。仕事ができるから、生活が続く。生活が続くから、恋が続くかもしれない。かもしれないの中に、まだ希望がある。希望があることが、怖い。怖いのに、今夜はその怖さを否定しないで眠ろうと思った。
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