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第6章:声の輪郭が歪むとき

 三月の冷たい風が、東京の街を撫でるように流れていた。
 少しだけ春の匂いが混ざったその空気は、どこか警戒心のない浮遊感をまとっていた。

 下北沢の編集プロダクション「ノワール」では、朝から妙な緊張感が漂っていた。
 風間瞬は、出版社から送られてきた一通のPDFを印刷してデスクに広げたまま、コーヒーに手を伸ばさなかった。

 件名は「白石凛・担当作家に関するWEB記事の事前確認について」

 そこには、すでに大手文芸ニュースサイトが草稿としてまとめた“記事案”が添付されていた。



見出し案①:
《“現代のサリンジャー”か、“痛み商法”か話題の作家・白石凛、その光と闇》

見出し案②:
《失声症の過去、孤立と苦悩の青春時代白石凛“語られなかった履歴書”》



 風間の中で、血が逆流するような不快感が走った。
 この取材を許可した覚えはない。
 凛本人も、何も知らされていない可能性が高い。

 そしてなにより、文中の内容はすべて“編集部の外”から収集された曖昧な証言と、SNSに残された古い発言の切り取りだった。

 それは、作品ではなく作家の“傷”そのものを売り物にしようとする構成だった。



 玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、そこに風間が立っていた。
 スーツの上からトレンチコートを羽織り、左手には書類を挟んだA4サイズのファイル。

「……入ってもいいですか」

 凛は一瞬だけ困ったような笑顔を浮かべて、うなずいた。

「はい。……あの、何かあったんですか?」

 風間は、部屋に入ってすぐ、ファイルをテーブルの上に置いた。
 迷わずページを開き、凛に見せた。

「これが、来週の“文芸マルクト”で公開される予定の記事です。
 出版社が“宣伝効果を考えて黙認した”と言ってきました。
 でも……僕は、あなたにちゃんと確認してほしかった」

 凛は黙って目を通す。
 視線の動きはゆっくりで、何行か読み飛ばしては戻り、また読み直す。
 その間、風間は一言も喋らなかった。

 数分後、凛はページから目を上げ、短く言った。

「……これ、私じゃないです」

「はい。そう思いました」

 ふたりのあいだに沈黙が流れる。
 だがその静けさは、怒りでも絶望でもなく、冷えきった現実の匂いを帯びていた。

「読者って……こういうの、読みたがるんですね」

「“作品の裏側”を覗きたがる人間は、いつの時代にもいます。
 でも、あなたが“物語の中でしか語れないこと”を、勝手に“記事”にされるのは、違う」

 凛は、唇をかすかに噛んだあと、ゆっくりと口を開いた。

「……風間さん。
 このまま、書き続けていいと思いますか?
 私が書くことで、こうして“自分の過去”を勝手に裁かれるなら」

「思います。
 というか、今こそ書くべきだと思います。
 記事では、あなたの“過去”を語っている。
 でも、あなたが書いてる小説は、“今”を語ってるんです」

 凛は目を伏せる。
 その表情に、風間はほんのわずかな“決壊の兆し”を見た。

「……守ってもらってばかりですね。私」

 風間は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
 そして、視線を合わせて言った。

「違います。
 僕は“守る”んじゃなく、“信じてる”だけです。
 あなたが書くということを。
 あなたの声が、誰よりも静かに、でも確かに人の胸に届くってことを」

 風間は、出版契約の再交渉に出向いた。
 「記事公開は、あくまでプロモーションの一環」という姿勢を崩さない広報担当に対し、彼は冷静に、しかし明確に伝えた。

「この作家は、作品の中でしか語らない人間です。
 それを、“周囲の言葉”で語らせるような真似をするなら僕が、この本の担当から降ります」

 静まり返った会議室で、誰もが言葉を失った。
 そのあとで、編集長がしぶしぶ言った。

「……せめて、凛さん本人に“コメント”だけでももらえれば」

「彼女は作家です。コメントは“作品”で返します。
 それで理解できないなら、あなた方は“文学”を商材としか思っていない」

 凛は、風間との一連のやり取りのあと、自分の部屋にこもり、新しい章を書き始めた。
 それは、自分の“声が消えた高校時代”をモデルにした、半自伝的な章だった。
 けれど、あくまでも“物語”のかたちで。

 風間は、その原稿を受け取った夜、声を出さずに泣いた。
 言葉のひとつひとつが、読者を迎え入れるのではなく、“読まれることすら拒むほどの痛み”を抱えていたからだ。

 だが同時に、それは凛にしか書けない、小説だった。

 「編集者」と「作家」として、ふたりは並んでいられた。
 だが、それだけではもう足りないと、お互いが“うすうす”気づきはじめていた。

 まだ何も言葉にはしていない。
 だが風間の指が、凛の手の近くに伸びかけて、止まった。
 凛はそのことに、あえて気づかないふりをした。

 雨が降り始めたのは、夜の十時を回った頃だった。
 白石凛は、編集部から戻った風間からのメールを読み返していた。
 件名は短く、“ひらがな”でこう記されていた。



「つよさ」



 本文には、たった一行。



「あなたが書くということは、“過去を語る”ことではなく、“現在を生きる”ことだと思います」



 その一文に、凛は涙を流さなかった。
 代わりに、少しだけ笑った。
 胸の奥に、風間の声が届いた実感があった。
 でもそれは、嬉しいとか、ありがたいとか、そういう類の感情ではない。

 「孤独が、誰かに“分かたれた”という感覚」それに近かった。



 パソコンの前に座る。
 画面には、まだ白紙のままの新しい章のプロットが表示されている。

 けれど、彼女の中にはすでに、物語の“骨格”ができあがっていた。
 それは、自分の人生の痛みをなぞるものではなかった。
 むしろ、“痛みを引き受ける側の人間”について書こうとしていた。

 なぜなら彼女のそばには、風間がいたから。

 彼は“守ってくれる人”ではない。
 “救ってくれる人”でもない。
 ただ、“見てくれる人”だった。
 それがどれだけ稀で、どれだけ大切なことかを、凛は知っていた。

 “見られる”ことは、時に暴力だ。
 けれど、“見抜かれる”ことは、時に救いだ。

 凛はキーボードに指を置き、静かに打ち始めた。



〈人は誰かを守りたくてそばにいるんじゃない。
 ただ、そばにいたいから守ろうとする。〉



 その一文を書き終えたとき、
 彼女の頬には、涙ではない“熱”がこぼれていた。
 それは、心が何かを自覚したときに生まれる“熱源”だった。

 風間は、凛の既存草稿に目を通しながらも、まったく集中できていなかった。
 自分の内側に、いままで明確にしてこなかった“感情”が、輪郭を持ち始めているのを感じていた。

 彼女を守りたいと思った。
 でもそれは、編集者としての責務ではなく、
 “誰かの生に触れてしまった人間”としての欲望だった。

 電話をかけようか迷った。
 でも、夜の十時半を過ぎている。
 仕事を越えたラインであることは明白だった。

 風間は、ため息をついて携帯を置いた。
 だがその瞬間、メールの通知音が鳴る。
 差出人:白石凛



件名:一行だけ、送ります
本文:
 そばに“いたい”人がいるだけで、
 私はもう、“孤独じゃない”と思いました。
 ……ありがとうございます。
 これ、プロットには使いません。
 ただの個人的な言葉です。



 そのメールを読んだとき、風間は立ち上がって窓を開けた。
 雨が静かにアスファルトを叩く音が耳を包む。

 彼は、携帯を手に取り、返信を書き始めた。
 だが、なかなか文章がまとまらなかった。
 彼の中で、いくつもの思いが、言葉に変換される前に崩れていった。

 そしてようやく、こう書いた。



件名:ことばにならないもの
本文:
 その気持ちが、言葉になったことが、
 僕にはなにより嬉しいです。
 僕も……あなたの隣に、いたいと思っています。
 たとえ、それが“沈黙”しかない時間でも。



 送信ボタンを押す手が、ほんのわずかに震えていた。

 凛は、風間からのメールをベッドの中で読んだ。
 何度も、繰り返し、息を整えながら。
 そして、画面を見つめながら、小さく頷いた。

 「“いる”ことが、もう充分に言葉なのかもしれない」

 彼女の物語はまだ始まったばかりだった。
 でも、“誰かと共に始まる物語”として、ようやく根を張り始めた気がした。

 彼女は再びキーボードに向かう。
 今度は、プロットを開いた。



〈第3章:沈黙の傍らに立つ人〉
 孤独を癒すのは、声ではなく、同じ沈黙を共有できる存在だった。
 それが、彼女の最初の“光”だった。〉



(エピローグ的余韻)

 まだ何も始まっていない。
 言葉にしていない感情、距離を測りかねている二人。
 けれど確かに、彼らは“物語を共にしている”。

 愛とは呼ばない。
 けれど、それ以上に“深い信頼”と、“未定義の共鳴”が、いま、ふたりの間でゆっくりと育ち始めていた。

 翌日の午後。
 風間瞬は出版社の応接室に呼ばれていた。

 彼の目の前には、文芸部編集長・飯田、広報担当の安藤、さらに営業部門の販売戦略リーダーまでが揃っていた。

 話は、凛の作品の書籍化に関する「マーケティング方針」の再確認だった。
 そこには、凛の「物語」ではなく、彼女の「生い立ちと傷」を消費しようとする視線が露骨に含まれていた。

 風間は、その会議の途中で、ふと疑問に思った。
 “自分が編集者として彼女の声を守りたいのか”、
 それとも“彼女そのものを守りたいのか”。

 その境界は、今やもう曖昧だった。

 広報の安藤が言う。

「“声を失った少女”が、“言葉で闘うようになった”という構成は、感動的ですよ。
 読者の“ドラマを消費したい欲”を、適度に満たせます」

 その言葉に、風間は口の中の奥歯を強く噛んだ。
 だが、怒声は上げなかった。ただ、静かに資料を閉じ、こう言った。

「白石凛の物語は、“演出”するものではありません。
 それは、彼女自身が“生きて書いている最中”のものです。
 未完成のまま、彼女の手で歩かせるべきです」

 飯田編集長が沈黙し、安藤は唇を噛んで言葉を控えた。

 それが、風間にできる最大の抵抗だった。

(同じ頃・白石凛の部屋)

 凛は、書いていた草稿を一度すべて削除していた。
 あの夜、風間とのメールのやり取りを経て、新しい章の構想を立て直していたからだ。

 彼女はようやく理解した。

 「自分の過去を書くこと」と「自分の過去を語られること」は違う。

 書くということは、自己を消費することではない。
 書くということは、誰にも奪われない“視点”を持つということだ。

 そして、彼女には“誰にも語られたくない痛み”があった。
 それは、物語として昇華されることを待っている、まだ硬く結晶していない感情だった。

 凛は、また一文から書き始めた。



〈痛みは、燃やすこともできる。
 でも私は、それを“凍らせておく”ことを選んだ。
 なぜなら、氷は、太陽が近づいたときにしか溶けない。〉



 書くことは、ただの表現ではない。
 それは、「待つこと」でもあるのだ。
 彼女はそう、風間の隣で知った。

 いつもはメールで済ませていた連絡が、
 その夜は、突然の“電話”だった。

「……風間さん、いますか?」

「いますよ」

「ちょっとだけ、声を……聞きたくなったんです。
 ごめんなさい、変な時間に」

「いいえ。……声、嬉しいです。凛さんの“いま”を感じられるから」

「……私、書きます。
 過去を書かないって決めたんじゃなくて、
 “過去を物語にする”って、今決めたんです」

「はい」

「でも、その物語は……風間さんが“読んでくれる前提”で、書いてます。それって、甘えですか?」

 風間は、しばらく答えなかった。
 言葉を選んでいたのではない。
 胸の奥に湧きあがる何かが、言葉になるまで、時間が必要だった。

「それは、“希望”だと思います。
 そして僕も、ずっとその希望の中にいます」

 電話の向こうで、凛がかすかに息を吸ったのが聞こえた。

「風間さん」

「はい」

「……私、ちゃんと伝えられるようになったら、言いますね。
 今はまだ、言葉が足りなくて……でも、ちゃんと“あなたに向けた言葉”を探してます」

「その時を待ってます。どれだけでも」

 凛からの短いメールが届いた。



件名:タイトル案
本文:
 新しい章のタイトルは、
 “だれかに、読まれたいからじゃなく、
  あなたにだけ、届いてほしかった話”
 にしました。
 風間さん以外に読まれても構いません。
 でも、“あなただけ”に届くように書きます。



 風間はその文面を何度も読み返した。
 それは、告白ではなかった。
 でも、それよりも深い場所から生まれた“ことば未満の信頼”だった。

 それをどう扱うべきか。
 編集者として、男として、人間として。
 風間は答えをまだ出せずにいた。

 この夜から、彼らの関係は静かに変わっていた。
 まだ“想い”とは名づけられていない。
 けれど、「読んでほしい」と「読みたい」が交差するだけの関係では、もうなかった。

 物語がふたりの関係を作っているのか。
 それとも、ふたりの関係が物語を生んでいるのか。
 その境目さえも、いまやもう曖昧だった。

 だが、それでいい。

 曖昧であるということは、まだ成長の余地があるということだ。
 そしてふたりは、まだ物語の“途中”にいる。

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