【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第7章:離れて分かる
朝の光が薄い膜を張ったまま窓に貼りつくころ、篠原紗月は台所の蛇口をひねった。水が落ちる音はいつも同じで、いつも同じなのに、その一定さに腹が立つ日がある。水は迷わない。流れる方向を選ばない。選ばないものの潔さが、今の自分には眩しい。
コップの縁に口をつけると、冷たさが歯に触れた。冷たさは目を覚まさせる。目を覚まさせるのは、今日が始まるからだ。今日が始まれば、仕事があり、締切があり、誰かの原稿の行間に潜む癖を直す。それは紗月が得意なことだ。得意なことに救われる日もあれば、得意なことに追い詰められる日もある。今朝は後者だった。自分の癖だけは直せない。飲み込む癖。大丈夫と言う癖。分からないと言って逃げる癖。直せない癖の先に、宮本の顔が浮かぶ。
また連絡する。
第6章の夜、宮本が残した曖昧な言葉。曖昧な言葉は、届くのに、触れた手が空を掴む。掴めないままの手は、次に何を掴めばいいのか分からなくなる。紗月は自分の手を見た。指先が少し乾いている。乾いた皮膚は、冬の前触れだ。冬は何かを終わらせる季節のようで、紗月は冬が怖い。終わるなら、終わると分かる終わりであってほしいのに、冬は静かに奪っていく。
編集部へ向かう途中、空気が薄く冷えていた。街路樹の葉が少しだけ硬く見える。硬さは、瑞々しさの反対だ。瑞々しさが失われると、人は余計に何かを求める。求めたものが手に入らないとき、空気まで乾く。紗月は駅の階段を下りながら、息を吐いた。吐いた息が白くならないのに、喉の奥が冷える。冷えると指先を握り込む癖が出る。出るのが嫌で、紗月は鞄の持ち手を強く握った。
午前中、会議が長引いた。会議が長引く理由はいつも同じだ。決めるべきことが決まらないから。決まらないのは、誰かが責任を取りたくないから。責任が嫌いなのは分かる。責任は未来を固定する。固定すると、壊れるときの痛みがはっきりする。痛みがはっきりするのが怖いから、人は曖昧にしたがる。紗月はその心理を仕事で何度も見てきた。見てきたのに、自分も同じことをしているのが滑稽で、笑えない。
昼休み、同僚の笑い声が近くで弾んだ。誰かが恋人の話をしているらしい。小さな声で、でも楽しそうな笑い。紗月はその笑いに混ざれない。混ざれないのは、自分が恋をしていないからではない。恋をしていることを、昼の光の中で言えないからだ。終電後の時間だけが、彼と会える現実的な隙間になっている。それを言葉にすると、隙間という語が痛みになる。隙間は埋められるべきものだと、誰かが言いそうで怖い。埋められない隙間を抱えている自分が、恥ずかしい。
午後の仕事を片付けながら、紗月はスマホを何度も見た。宮本からの連絡はない。ないことに、心が少しずつ馴れていく。馴れるのは危険だ。馴れると、待つ姿勢が崩れる。崩れた姿勢は、元に戻らない。元に戻らないまま、相手が戻ってきたら、また期待してしまう。期待してまた傷つく。その繰り返しの中で、心だけが消耗する。
夕方、窓の外の色が少し灰に寄るころ、紗月は自分から連絡しないと決めた。決めた、というほどの強さはない。ただ、指が動かなかった。動かない指を、決意と呼ぶのは傲慢だろう。むしろ、怠惰に近い。怠惰は、傷つかないための省エネルギーでもある。
夜、職場を出ると、街の匂いが昼と違っていた。排気の匂いが強く、遠くの飲食店の香りが薄い。人の流れが少し減り、足音が目立つ。足音が目立つと、ひとりで歩いていることが強調される。紗月は歩く速度を少し落とした。落とすと、周囲の音が増える。増える音は、心の空白を埋めてくれない。
飯田橋へ向かう電車に乗る理由が、今日はなかった。理由がないのに、体はその方向を覚えている。覚えている方向へ行けば、もしかしたら会えるかもしれない。もしかしたらは、希望の形をした罠だ。罠に自分からかかるのが嫌で、紗月は反対側のホームへ歩いた。帰る。今日は帰る。帰ると決めると、胸の奥が少しだけ軽くなる。軽くなるのが怖い。軽さは、切り離しの始まりだからだ。
部屋に帰ると、灯りが静かに迎えた。誰もいない部屋は、何も責めない。責めないことが、逆に胸を締める。責められるなら言い訳ができる。言い訳ができない静けさは、自分の本音だけを残す。本音が残ると、眠れない。
紗月は湯を沸かし、茶を淹れた。湯気が立ち上がる匂いは、夜を一段柔らかくする。柔らかくなると、胸の固さが目立つ。固さは何だろう。怒りではない。悲しみでもない。失望でもないと言い張りたい。けれど第6章で、失望と自分で言ってしまった。言ってしまった言葉は取り消せない。取り消せない言葉は、心の輪郭を決める。輪郭が決まると、もう別の形には戻れない。
スマホの画面を開く。通知はない。ない画面は、黒くて静かだ。紗月は画面を見つめながら、宮本が今どこにいるのか想像してしまう。広告代理店の夜は遅い。会議室の白い灯り。紙の資料。パソコンの青い光。疲れた顔。誰かの笑い声。仕事の匂い。その中で、宮本はどんな顔をしているのだろう。視線を外して考える癖は、仕事の場でも出るのだろうか。出るなら、誰にも見られたくない顔を他人に見せていることになる。紗月は、そのことに小さな嫉妬を覚えた。嫉妬は醜い。醜い感情は、夜に育つ。育つと、言葉が尖る。尖った言葉は、相手を切る。切りたくないのに、切る言葉を準備してしまう自分が嫌だ。
数日が過ぎた。連絡はない。会えないまま、同じ東京で夜を重ねる。夜が重なるほど、神楽坂の路地の湿りを忘れそうになる。忘れるのは、悪いことではない。忘れられないほうが苦しい。そう思ってしまう自分が、また苦しい。
その週末、紗月は昼の神楽坂を歩いた。昼の神楽坂は別の街だ。石畳の路地は明るく、観光客の声が響く。昼の匂いは甘い。焼き立てのパンの匂い、コーヒーの匂い、香水の匂い。夜の匂いはもっと鋭い。夜は油と湿りと金属が混ざる。昼はそれが薄い。薄い匂いの中で、紗月は自分がここに宮本といないことを強く感じた。夜にしか会えない男と、昼の街を歩く自分。それだけで、関係の形が浮き彫りになる。浮き彫りになった形は、想像より脆い。
小さな本屋の前で足を止めた。第2章で立ち寄った店だ。窓の内側の灯りは昼でも柔らかい。扉を押すと、紙の匂いが外の甘い匂いを押し返した。紗月は棚の間を歩き、背表紙を指でなぞった。紙の角は、人の時間を吸って柔らかくなる。柔らかくなった角に触れると、時間の層が指先に移る気がする。宮本が買った本は、今どこにあるのだろう。貸すよ、いつでも。そう言っていた。いつでも、はまだ来ていない。あるいは、いつでもは来ない。そういう言葉の罠を、紗月は知っている。編集者だから知っている。知っているのに、恋の中では引っかかる。
本屋を出ると、昼の光が目に刺さった。刺さる光は、夜のやさしさを奪う。夜のやさしさは、曖昧さのやさしさだ。昼は曖昧さを許さない。紗月はスマホを取り出し、宮本の連絡先を開いた。指が止まる。止まった指は、唇を噛みたくなる。噛むと痛い。痛いと、言葉が逃げる。言葉が逃げると、連絡しない理由ができる。紗月はその逃げ道に何度も救われてきた。救われることで、何かを失ってきた気もする。
結局、連絡しなかった。連絡しないまま、夜になった。夜になると、昼の決意は薄まる。薄まる決意は、意志ではなく気分だったと教える。気分に左右される自分が嫌で、紗月は布団に潜り、眠ろうとした。眠れない。眠れない夜の音は、やけに大きい。冷蔵庫の低い唸り。遠くの車の音。隣の部屋の水の音。生活の音は、恋の不在を際立たせる。
その次の夜、宮本から突然メッセージが来た。
今、終わった。飯田橋、行ける? 急でごめん。
急でごめん。紗月は画面を見つめた。胸が跳ねるのではなく、胸の奥が重くなる。会えるのに。会えるなら嬉しいはずなのに。嬉しさより先に、疲れが来る。呼び出されるような会い方に、心が馴れてしまったからだ。馴れは、愛情を育てることもある。けれど今の馴れは、雑さに似ている。
紗月は返信を打たなかった。打たない時間が長くなるほど、画面の文字が痛い。痛いのは、会いたいからだ。会いたいのに、会い方が嫌だ。嫌だと言う勇気がない。勇気がないから、沈黙で抵抗する。抵抗は卑怯だ。卑怯な抵抗は、相手に届かない。
結局、紗月は短く返した。
今日は無理。
送信したあと、胸がきゅっと縮んだ。言い切ると、自分の中の何かが折れる。折れたものが何か分からない。分からないまま、スマホを伏せた。伏せた画面は暗く、暗いまま続く。暗い画面の中で、宮本はどんな顔をするのだろう。傷つくのだろうか。傷つかないのだろうか。傷つかないなら、それはそれで悲しい。傷つくなら、申し訳ない。申し訳なさは、怒りを薄める。薄めた怒りは、結局、自分の中で腐る。
しばらくして、宮本から返事が来た。
分かった。無理させてごめん。
短い。責めない。責めない言葉は優しい。優しさは、時々、話を終わらせる。終わらせることで、次の話をしなくて済む。次の話とは未来の話だ。未来の話を避けているのは、紗月だけではない。宮本も同じだ。だから二人は、同じ場所で沈黙を重ねる。沈黙の積み重ねは、言葉の欠落の積み重ねでもある。欠落が増えると、関係の中に穴が空く。穴は見えないまま広がる。広がっていることに気づくころには、もう塞げない。
その夜、紗月は窓を少しだけ開けた。外の冷気が部屋に入る。冷気は肺を刺し、頭を少しだけ冴えさせる。冴えると、自分が何をしたか分かる。会えるのに断った。断った理由は、会いたくないからではない。会い方が嫌だからだ。けれど会い方が嫌だと言わずに断った。言わないことで、相手を責めない形にしたつもりで、実は相手に理由を渡していない。理由のない拒否は、相手を不安にする。不安にさせることが、今の自分の望みだったのだろうか。望みではない。望みではないのに、やってしまう。こういう矛盾は、恋の末期によくある。末期という言葉が頭に浮かんだ瞬間、紗月はその言葉を押し戻した。終わりを口にすると、終わりが現実になる。現実になるのが怖い。怖いのに、もう現実は動いている。
翌日、編集部で同僚が旅行の話をしていた。週末にどこへ行くか。誰と行くか。何を食べるか。そういう話題は、昼の東京では自然だ。自然だからこそ、紗月は息が詰まった。自分は、誰とどこへ行くという話ができない。宮本とは夜の路地を歩くだけだ。路地は、どこにも繋がらない道のように見える。実際はどこかへ繋がっているのに、自分たちだけがその繋がりを使わない。
夕方、宮本からまたメッセージが来た。
この前のこと、ちゃんと話したい。時間、作れる?
時間を作れる? その問いは、いつもより丁寧だった。丁寧なのに、遅い。遅い丁寧さは、傷の上に布をかけるみたいだ。布をかけても、傷は塞がらない。塞がらないのに、傷を見なくて済む。見なくて済むことに、紗月は少しだけ安堵してしまう。安堵があるのが悔しい。
紗月は返信を打った。
今週は無理。来週なら。
送ってから、唇を軽く噛んだ。来週なら、という言い方は宮本の言い方に似ている。近いうちに、と同じ類いだ。先延ばし。先延ばしは、終わりを遅らせる。終わりを遅らせるほど、痛みが薄まると思っている。薄まるのは痛みではなく、熱だ。熱が薄まると、関係は続けにくくなる。続けにくくなるのに、続ける。続ける理由が、もう恋ではなく習慣になり始めている気がして、紗月は胸が痛んだ。
来週の夜、飯田橋で会った。久しぶりに会った気がした。実際、会っていない日が少し続いただけなのに、体が違いを覚えている。宮本は少し痩せたように見えた。目の下の影が濃い。声の柔らかさは残っているけれど、その柔らかさの裏に硬いものがある。硬いものは、関西の匂いかもしれない。距離の匂いかもしれない。
「久しぶり」と宮本が言った。
「うん」
紗月はそれだけ返した。言葉が増えない。増えないのは、何を言えばいいか分からないからだ。会えない日があるほど、会える時間の密度が濃くなる。以前はそうだった。今は逆だ。会えない日があるほど、会える時間が薄く感じる。薄さは、心の防御だ。防御するほど、恋の気配が減る。減るのが怖い。
二人は神楽坂へ向かった。路地の石畳は乾き、足音が軽い。軽い音が、今夜の会話の少なさを際立たせる。店に入る前、宮本が足を止めた。
「この前、ごめん」
「うん」
謝罪を受け取る言葉がそれしかない。紗月は自分の口の貧しさに驚く。編集者として、言葉で飯を食っているのに。恋の中では言葉が貧しくなる。貧しくなるのは、言葉が足りないのではない。言葉が多すぎて選べないのだ。
宮本が言った。
「紗月、俺のこと、嫌いになった?」
紗月は一瞬、答えが分からなくなった。嫌いではない。好きだ。好きなのに、好きと言うと、また少しだけが積み重なる。積み重なる少しだけが、苦しい。苦しいと言うと、相手を責める。責めたいわけではない。けれど責めずに済ませるほど、自分も強くない。
「嫌いじゃない」と紗月は言った。
「じゃあ」
「ただ」と紗月は続けた。「同じ東京で、別々の夜を増やしたくない」
言ってしまった。言ってしまった瞬間、胸の奥が熱くなった。熱は涙の前触れだ。泣かない。泣かないまま、紗月は宮本を見た。宮本の目が揺れた。揺れは痛みと、理解の混ざった揺れだった。
「増やしたくない」と宮本が繰り返した。
「うん」
宮本は視線を外し、少しだけ息を吐いた。息は白くならないのに、その息が夜の輪郭を持つ。
「でも」と宮本が言った。
紗月の胸が冷えた。二人の会話にはいつも、でも、がある。でも、があるから未来に届かない。未来に届かないまま、今だけが伸びる。伸びた今は、いずれ切れる。
「……ごめん」と宮本が言った。「今、俺、どうしていいか分かんない」
分かんない。紗月はその言葉を聞いて、少しだけ笑いたくなった。笑いではない。苦い感情だ。分かんないなら、分かるようにしようと言いたい。言いたいのに、言えば自分が手を差し出すことになる。差し出した手は、いつか振り払われるかもしれない。その未来が怖いから、紗月は手を出さない。
紗月はゆっくり頷き、言った。
「私も」
同じ東京の別々の夜。その言葉の中に、二人の今が収まってしまった。収まると、動けない。動けないまま、夜は進む。進んだ夜の先に、関西がある。半年がある。延びるかもしれない時間がある。そこへ向かう足音が、もう聞こえている。
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