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【創作大賞2026応募作品】まだ終われないふたり 第10章:線を引かない終わり方

曲がり角をひとつ抜けるだけで、街の温度が少し変わる。さっきまで耳の奥で跳ねていたネオンのざわめきが背後に下がり、細い路地に入ると、人の声よりもグラスの触れ合う小さな音のほうがはっきり聞こえるようになる。店の看板からこぼれる黄色い光が、舗装の上にやわらかい輪をいくつも落としていた。

「ここ、覚えてる?」

怜が立ち止まったのは、木枠の扉が印象的な小さな店の前だった。ガラス越しに見えるカウンターには、ボトルとグラスが整然と並び、その向こうで店主らしき人が静かに氷を砕いている。外の喧噪が嘘みたいに遠く見える空間だった。

「一度だけ、打ち合わせ帰りに寄ったところ?」

沙季が首をかしげると、怜は小さく頷いた。

「そう。原稿が行方不明になったって騒いでたとき」

「思い出さなくていいエピソードだね、それ」

苦笑いしながらも、足は自然と扉のほうへ向かっていた。あのときは原稿のことしか頭になくて、店の色合いなんてほとんど目に入っていなかった気がする。今、ガラスの向こうに広がる光景は、別の物語の舞台のように見えた。

怜が扉を押すと、金属の小さな鈴が控えめに鳴る。その音と一緒に、柑橘系の皮をひねったときのような、かすかに苦い香りがふわっと流れ出てきた。外の湿った空気とは違う、室内特有の、温度と匂いが混ざり合った空気。

「いらっしゃい」

低く穏やかな声に迎えられて、二人はカウンターの端に並んで腰を下ろした。木目のカウンターは手入れが行き届いていて、指先でなぞると、長い時間の中で少しだけ丸くなった角の感触が伝わってくる。

「何にしますか?」

「どうする?」

怜が振り向かずに問う。沙季は天井近くの黒板に書かれたメニューを一通り眺めてから、ゆっくりと選んだ。

「そんなに強くないやつがいいな。あったかいのでも」

「ホットワインありますよ。果物とスパイスを少しだけ入れてます」

店主が穏やかに提案する。その言葉だけで、喉の奥がじんわり温まるような気がして、沙季は素直に頷いた。

「それでお願いします」

「じゃあ、僕はウイスキーを。氷は少なめで」

注文を告げると、店主はうなずき、静かな手つきで準備を始めた。グラスの中に氷が落ちる音、ワインを温める小さなバーナーの火がともる気配、ボトルから琥珀色の液体が注がれるささやかな音。そのひとつひとつが、外の時間とは別の速度で流れている。

カウンターの上には、細長いキャンドルが一本だけ灯されていた。揺れる小さな炎が、ガラスの器に閉じ込められて、周囲の空気にわずかな陰影をつくる。その光の揺れに合わせて、怜の横顔も少しずつ表情を変えて見える。

「さっきさ」

待ち時間の空白を埋めるように、怜が口を開いた。

「コインランドリーの前、通り過ぎるとき」

「うん」

「沙季、あんまり俺のほう見なかったよね」

唐突な指摘に、沙季は瞬きをする。

「見たら、たぶん歩けなくなると思ったから」

正直に答えてから、言葉の重さに自分で驚く。店の空気が、ほんの少しだけ密度を増したように感じた。

「俺も、見なかった」

「なんで」

「同じ理由。あと、いつか振り返れるように、今は前だけ見とこうかなって」

冗談とも本音ともつかない言い方で、それでもどこか言葉を選んだ跡が残っていて、沙季はカウンターの木目を眺めながら、小さく息を吐いた。

「いつか、振り返る日なんて来るのかな」

「来るかもしれないし、来ないかもしれない。けど、多分、今日みたいに一緒に歩いてないと、その『いつか』には届かない気がする」

怜の声には、妙な落ち着きがあった。さっきまで路地を歩きながらふざけていたときとは違う、紙の上でしか使わないような言い回しが混じる。

「小説みたいなこと言うね」

「職業病」

「でも、ちょっと分かるかも」

そう言ったところへ、ホットワインとウイスキーが運ばれてきた。ワイングラスから立ちのぼる湯気の向こうに、薄く輪切りにされたオレンジと、砕いたシナモンのようなものが浮かんでいる。甘い香りと、少し刺すようなスパイスの匂いが鼻腔をくすぐった。

「熱いので気をつけてくださいね」

店主の声を聞きながら、沙季は両手でグラスを包む。ガラス越しに伝わる熱が、冷えていた指先だけでなく、手首から肘のあたりまでじんわりと広がっていった。

「……あったかい」

思わず漏らした言葉に、怜が笑う。

「さっきまで、息してるかどうか確認されてた人の台詞とは思えない」

「さっきのほうが、ちゃんと生きてるかもよ」

「どういう意味」

「なんか、怖い場所を通るときのほうが、自分のことをちゃんと感じるじゃない。足の裏とか、喉とか、心臓とか」

自分でもうまく言葉にできない感覚を手探りで探していると、怜はグラスを軽く揺らしながら頷いた。

「分かる。安全な場所ほど、自分の輪郭がぼやける感じ」

「そうそう。ここ、今はすごく安全な感じがするから」

そう口にしてから、沙季は少しだけ不安になった。安全だと思っている場所のほうが、油断して本音がこぼれやすい。緊張しているときは、むしろ言葉を選ぶ余裕がある。

「安全な場所で、危ない話をするほうが、案外ましだったりするよ」

怜がグラスの縁に指を滑らせながら言う。

「危ない話って?」

「たとえば、今日ここに来た意味を、ちゃんと話すとか」

その一言に、喉の奥まで温まっていたはずのワインの熱が、急にどこかへ引いていくような感覚がした。逃げ道を探すようにグラスの中身を見つめても、そこに答えが浮かんでいるわけではない。

「意味なんて、あるのかな」

ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほどかすれていた。

「あると思うよ」

怜はあっさりと言い切る。

「何個も重なってると思うけど」

「例えば?」

「生き延びるための練習」

「それさっきも聞いた」

「あと、終わらせ方を決めないまま、続けるための実験」

「実験台にされてる気がするんだけど」

「俺も、だから」

ウイスキーを一口飲んでから、怜はカウンターに視線を落とした。琥珀色の液体の向こうに、自分の指先がぼやけて映っている。

「終わらせ方を決めるのってさ、楽なんだよね。本当は」

「楽、かな」

「ここで終わりって線を引いたら、そこから先はもう何も考えなくていいから。悲しいけど、分かりやすい」

「分かる気もする」

沙季はグラスの縁に唇をつけ、慎重にひと口飲む。温かい液体が舌の上を通り過ぎて、喉をゆっくり落ちていく。その途中で、さっきまでまとめて飲み込んでいた感情が、ばらけて浮かび上がってくるような気がした。

「でも、線を引かなかったら」

怜が続ける。

「ずっと考え続けなきゃいけない」

「何を?」

「今、どこにいるのか、とか。まだ一緒に歩いてていいのか、とか」

言葉の途中で、怜は一瞬だけこちらを見る。その視線に捕まってしまいそうになって、沙季はキャンドルの炎に視線を逃がした。小さな火が、グラス越しの世界を揺らしている。

「それって、面倒くさくない?」

わざと軽い調子で聞き返すと、怜は肩をすくめる。

「面倒くさい。でも、生きてるって感じがする」

その言い方が、彼らしいと思った。締め切りに追われる日々の中で、それでも「生きている感覚」に固執しなければ、書く理由を見失ってしまう人だ。

「沙季は?」

逆に問われて、言葉が出てこない。続けたいのか、終わらせたいのか。そのどちらかを選ぶこと自体が、怖い。

「……どっちか選ぶの、今じゃなくてもいい?」

「もちろん」

怜は即答した。その速さに、少しだけ救われる。

「今決めることなんて、ほとんどないよ。今日できるのは、木曜の夜を一緒に使うことくらい」

「それ、結構大事なこと言ってる自覚ある?」

「あるような、ないような」

ふざけたように言って笑う唇の端に、わずかな緊張が残っているのを見てしまって、沙季の胸の奥で、何かが静かにほどけかける。

「ねえ」

グラスの底に残ったワインの赤を眺めながら、沙季は口を開いた。

「もしさ。もし、あのとき別れないでいたら、今ごろどうなってたと思う?」

「あのとき?」

「駅前のスタバで、喧嘩しながらアイスコーヒー飲んでたとき」

怜は「ああ」と小さく声を漏らした。氷の溶ける音と、冷房の風と、隣の席の知らないカップルの笑い声。あの日の断片が、ふたりのあいだを一瞬で満たす。

「どうなってただろうね」

怜は少し考えるように視線を天井の一点に向け、それからゆっくりと戻した。

「多分、あのあとも何度か同じ喧嘩を繰り返して、どっかのタイミングで、もっと雑な終わり方してた気がする」

「雑な終わり方?」

「うん。メッセージ一通で終わるとか、電話越しとか。忙しさ言い訳にして」

具体的すぎる仮定に、沙季は苦く笑う。

「想像が妙にリアルなのやめて」

「職業病パート2」

「でも、分かるかもしれない」

沙季も、自分なりの「もし」を辿ってみる。あのとき別れない選択をしていたら、きっと今より密度の低い毎日を送っていただろう。安心と惰性のちょうど真ん中あたりで、相手の存在を当たり前にしてしまう日々。

「じゃあ、あそこで別れたのは正解?」

そう問うと、怜は少しだけ眉を寄せた。

「正解だったかどうかは、まだ分からないけど」

「まだって」

「だって、あのときの選択の結果を、まだ全部受け取れてないでしょ」

その言い方に、ハッとする。別れた日の痛みだけを結果だと思い込んでいたけれど、その先に今日みたいな夜があるなら、それもまた同じ線上にあるのかもしれない。

「受け取るの、時間かかるね」

「ゆっくりでいいよ。どうせ、すぐには次の物語なんて書けないし」

怜が冗談めかして言う。「物語」という言葉が、今夜に限っては比喩に聞こえない。

ふと、カウンターの向こうで氷を砕いていた店主が、さりげなく水の入ったグラスをふたりの前に置いた。何も言わずに戻っていくその背中が、長年この場所で人の話を聞き流してきた証のように見える。

「聞かれてたかな」

沙季が囁くと、怜は肩を揺らした。

「きっといろんな話を聞いてきてるだろうから、今さら元恋人の話なんて、たいした事件じゃないよ」

「元、ね」

自分でその言葉を繰り返した瞬間、胸の中に小さな引っかかりが残る。元、という接頭辞は、終わった関係に貼られるラベルのはずなのに、今夜のふたりにはどうもしっくりこない。

「元、って言葉、便利すぎない?」

ぽつりとこぼすと、怜は興味深そうにこちらを見た。

「どういう意味で?」

「全部、過去の棚にまとめて押し込めるみたいで。元恋人、元同僚、元クラスメイト。今ここにいることまで、過去のほうに持っていかれそうになる」

「じゃあ、何て呼べばいい?」

真面目な声で問われて、沙季は言葉に詰まる。恋人ではない。でも、ただの友達とも違う。仕事仲間とも違う。

「……分からない」

それが正直なところだった。

「分からないままじゃ、だめ?」

怜はグラスを両手で包みながら、ゆっくりと言う。

「名前をつけないまま、一緒にいる時間があっても」

その提案に、胸のどこかがきゅっと縮こまり、同時にふっと軽くなる。

「だめじゃないと思う」

沙季は、グラスの底に残った最後の一口を飲み干した。舌の上に残る甘さとスパイスの名残が、夜の長さを静かに教えてくる。

名前のない関係。終わり方を決めないまま続いていく距離。木曜の夜は、その実験の最初のページみたいに、静かに開かれていく。

「おかわり、する?」

怜が尋ねる。

「どうしようかな」

「まだ、木曜は少し残ってる」

その言葉に、沙季はふっと笑ってしまう。時間を時計ではなく、夜の残り香で測るような言い方に、少しだけ救われる。

「じゃあ、もう一杯だけ。今度は冷たいのにしようかな」

「生き延びるには、水分大事だからね」

「それ、さっきから何度も言ってる」

「ほら、ちゃんと繰り返さないと、章のテーマが伝わらないでしょ」

「ここ、人生だから」

笑い合いながらも、ふたりのあいだに流れる空気は、少しずつ、確かに変わっていく。終わりと始まりのどちらにも傾ききらないまま、ただ今ここにある夜を共有すること。その行為自体が、ふたりの新しい呼吸の仕方になりつつあるような気がした。

カウンターの端で揺れるキャンドルの炎が、さっきよりもわずかに小さくなっている。その光の減り方まで含めて、今夜の記憶になるのだと思うと、沙季は静かに背筋を伸ばした。

この夜の続きを、どこで区切るのか。どこまでをひとつの章として抱きしめるのか。それを決めるのは、たぶんもう少し先でいい。

今はただ、木曜の夜の先へ、息を合わせながら進んでいくことだけを考えればいいのだと、自分に言い聞かせる。

二杯目のグラスが空になるころには、店の空気も少しだけ薄くなっていた。さっきまで濃く立ちのぼっていたアルコールとスパイスの匂いがゆるみ、代わりに水のグラスの冷たさや、カウンターの木の匂いが前に出てくる。キャンドルの炎はさらに小さくなり、ガラスの器の中で名残のように揺れていた。

「そろそろ、出ようか?」

怜がそう言ったとき、店の外の気配が急に近づいてきた気がした。扉の隙間から吹き込む冷たい空気が、足元にさわり、この夜が店の中だけでは完結しないことを思い出させる。

会計を済ませて店を出ると、路地の風はさっきよりも冷たくなっていた。ビルの壁に反射する光は少し色を失い、空の高いところには街の明かりをうすく押し返すような暗さが広がっている。遠くでタクシーのドアが閉まる音と、信号が変わるリズムを知らせる電子音が、遅い時間の合図みたいに重なっていた。

「駅まで、歩ける?」

怜の問いかけに、沙季は頷いた。

「歩きたい」

「じゃあ、遠回りしていこうか?」

ふたりは並んで歩き出す。さっきまでいた路地を背にして、大きな通りへと向かう途中、アスファルトの上に街灯の輪が滲んでいる場所を踏むたびに、靴底越しにかすかな湿り気が伝わってきた。夜の間にかすかに降ったのか、あるいは昼間の雨の名残なのか、舗装の表面には、ごく薄い水の膜が残っている。

「木曜の夜って、こんな感じだったっけ」

沙季がぽつりと言うと、怜は少しだけ空を見上げた。

「木曜はいつも、締め切りとメールの山の印象しかないからなあ」

「それは今もでしょ」

「今は、少しだけ余白がある気がする」

怜の言葉に、沙季は横目で彼を見る。ネオンの反射と街灯の光が混ざり合って、怜の横顔の輪郭を行き来している。その光の上に、さっき店の中で見た表情の余韻が、まだ薄く重なっているように見えた。

「余白、ね」

自分の胸の中を探ってみる。仕事のスケジュール、返信していないメッセージ、洗濯物、早めに予約しなきゃいけない歯医者。いつもなら真っ先に浮かぶはずの雑事が、今夜に限って、壁の向こう側の出来事みたいに遠い。

「なんかさ」

沙季は、歩道のタイルの継ぎ目を見つめながら言った。

「今日、一日の時間の使い方が、ちょっとだけまともだった気がする」

「まとも?」

「うまく言えないけど……ちゃんと、使った感じがする。無駄に消費したんじゃなくて」

言いながら、自分でも照れくさいと思う。怜は少し黙ってから、穏やかに口を開いた。

「俺も、そんな気がする」

「毎週こんなことしてたら、さすがに疲れそうだけどね」

「毎週やると、きっと何かの名前がついちゃうから」

その言葉に、さっき店で話した「名前をつけない関係」という話題が自然とよみがえる。あえて口には出さないまま、その感覚だけを胸の奥で確かめる。

信号待ちで足を止めると、車道の向こう側にコンビニの明かりがにじんでいた。自動ドアが開くたびに、温かい空気が外に溢れ、雑誌のインクと揚げ物の匂いが混ざったような香りが、風にのって流れてくる。

「水、買ってく?」

怜が訊ねる。

「……うん。明日、ちゃんと起きたいから」

ふたりで横断歩道を渡り、コンビニに入る。店内の白い蛍光灯の光に照らされると、さっきまでの夜の陰影が一度リセットされたような気がして、少しだけ心細くなる。冷蔵ケースの前でペットボトルの水を選びながら、沙季は怜の背中をちらりと見た。

彼は棚の端に並んだガムやタブレットを眺めている。指先でパッケージを軽く押しながら、どれを選ぶか迷っている様子が、昔から変わっていない。

「まだそれ、悩むんだ」

つい口にすると、怜は振り返って笑った。

「毎回違うやつ買ったほうが、人生お得な気がして」

「そんなとこで運試ししなくていいと思うけど」

「いや、こういう小さい選択をちゃんと揺らしておくと、大きい選択のときに固まらずに済むんだよ」

「それ、本当に?」

「さあ?」

肩透かしのような返事に、沙季は笑いながらも、どこかで納得してしまう。大きな決断は、いつも突然訪れたように感じるけれど、本当はこうした小さな選択の積み重ねが、そのときの自分を形作っているのかもしれない。

会計を済ませて外に出ると、さっきよりも空が深く沈んでいた。雲の切れ間から、うっすらと星が一つだけにじんでいるように見える。東京で星を探す癖なんてなかったはずなのに、今夜はなぜか目がそちらに向かう。

駅へ向かう道は、さっきより静かだった。終電に近い時間のせいか、人の流れは細くなり、足音のひとつひとつがはっきりと聞こえる。遠くで電車がホームに滑り込む音がして、線路の鉄の匂いが、湿った風にまぎれて微かに届いた。

「どこまで送ろうか?」

駅の入り口が見えてきたところで、怜が言う。

「改札まででいいよ」

「ホームまで行こうかと思ったけど」

「それやると、ドラマみたいになっちゃう」

「それはそれで、悪くないけどね」

ほんの一瞬、想像してしまう。ホームで、電車のドア越しに手を振るふたり。あるいは、発車ギリギリまで何かを言おうとして、結局言えずに終わるふたり。そんな場面が、どこかの物語の一ページみたいに頭の中で再生される。

「今日は、ここまでがいい」

そう言った自分の声は、思っていたよりも落ち着いていた。

駅の階段を降り、改札前の広場に出る。天井の時計は、夜と朝の境目に少しずつ針を近づけている。その下で、待ち合わせに遅れたらしい誰かが、急ぎ足で走っていく。キャリーケースのタイヤが床を擦る音が、やけに大きく響いた。

「沙季」

怜に呼ばれて振り向くと、彼は少しだけ距離を詰めてきた。触れるほどではないけれど、すぐに手を伸ばせば届いてしまうくらいの近さ。さっきまで一緒に歩いていた距離よりも、半歩だけ狭い。

「今日さ」

怜は言葉を探すように、一度視線を床に落とし、それからまた顔を上げた。

「ありがとう、って言っていいのか分からないけど。来てくれて、よかった」

「それ、こっちの台詞だよ」

自然と返していた。臆病さよりも、素直な感情のほうが、今は少しだけ前に出ている。

「こんな木曜、久しぶりだったから」

「木曜に失礼だな」

「木曜、ちょっと見直したかも」

ふたりで笑う。変に飾らない笑いが、気まずさよりも先に出てくることが、今はありがたかった。

「また、会ってくれる?」

その問いは、驚くほど静かな声で発された。焦りも期待も、露骨には乗っていない。けれど、その静けさの奥に、長い時間をかけてようやく口にされた願いの重みがある。

「……うん」

沙季は、わずかに息を吸ってから頷いた。

「ちゃんと、会いに行くよ」

約束という言葉を使うのは、まだ怖かった。だから、その手前でとどめる。けれど、自分の口から出た「行く」という方向性だけは、はっきりした輪郭を持っていた。

「木曜?」

怜が冗談めかして訊く。

「木曜がいい?」

「木曜、悪くないと思う」

「じゃあ、木曜のどこかで」

「どこかって、ざっくりすぎ」

「場所は、そのとき決めよう」

怜のそんな言い方が、かえって安心を運んでくる。すべてを決めてしまわないこと。余白を残しておくこと。それは逃げでもあるけれど、今のふたりにとっては、息をするために必要な空間でもあった。

改札の前で立ち止まり、沙季はICカードを握りしめた。タッチするだけで、この場所から切り離されてしまう薄いカード。駅の機械的な音に混じって、その軽さが不意に心細くなる。

「じゃあ」

と言いかけて、言葉が途切れる。さよなら、と言ってしまうと、この夜に線を引いてしまいそうで、口の中でその二文字が重くなる。かといって、またね、と言うのも、軽すぎる気がした。

怜も同じ迷いを抱えているのか、口を開きかけて閉じる。ふたりのあいだに、短い沈黙が落ちた。改札の電子音と、人々の足音と、車輪のきしむ音が、その沈黙をぎゅっと押し広げる。

「……木曜に」

沙季は、結局その言葉を選んだ。

「うん。木曜に」

怜も同じ言葉を返す。その瞬間、見えない場所に小さな印がついた気がした。曜日という、あいまいな場所に打たれた印。そこにまた、ふたりが戻ってくるための目印。

「風邪ひかないでね」

ありきたりな言葉で締めくくる。けれど、その平凡さに、今は救われる。

「そっちこそ。ちゃんと水飲んで、寝て」

「了解」

それ以上何かを足すと、バランスが崩れてしまいそうで、沙季は軽く会釈をして、改札のほうへ向き直った。カードをタッチすると、機械が短く音を鳴らす。その通り過ぎる瞬間に、後ろからの視線をはっきりと感じた。

電車がホームに滑り込んでくる気配が、線路の奥からゆっくりと迫ってきた。空気が押し出され、冷たい風と鉄の匂いがいっしょになって頬を撫でる。その感触に、さっき改札の向こうに残してきた視線の熱が、少しだけ遠くなったことをようやく実感する。

乗り込んだ車内は、終電前の静けさに包まれていた。座席の布の匂いと、床にこぼれた雨粒の冷たさが、一日の終わりを無言で告げている。つり革がかすかに揺れ、その影が窓ガラスにいくつも重なってはほどけていく。

ドアが閉まり、ホームの光がゆっくりと後ろへ流れていく。沙季はドア脇にもたれ、窓に映る自分の輪郭をぼんやりと眺めた。少し乱れた前髪、落ちかけた口紅、まぶたの下の薄い影。そのどれもが、長い一日の痕跡でありながら、どこか見慣れない表情をしている気がした。

ポケットの中でスマートフォンが小さく震える。画面には、明日以降の予定が、何事もなかったかのような顔で並んでいた。会議、締め切り、打ち合わせ。いつも通りの名前たち。その下に、自分でこっそり追加したカレンダーのメモが一つだけある。

「木曜 夜」

場所も時間も書いていない、宙ぶらりんの予定。誰が見ても意味の分からない、その一行。けれど沙季には、それで十分だった。あの改札前で交わした、言葉になりきらなかった約束の残り香が、その短い文字列の中に閉じ込められている。

指先でその予定をなぞりかけて、やめる。今ここで何かを書き足してしまうと、さっきの夜が、急いで形を与えられてしまう気がした。名前をつけないまま、少しのあいだ、ただそこに存在させておきたいものが世の中には確かにある。そのことを、今夜あらためて思い知ったばかりだ。

電車が大きく揺れ、つり革が一斉に鳴った。窓の外で、高架から見下ろす街の明かりが、雨上がりの道路に滲んでいる。信号の赤が、タクシーの屋根に柔らかく反射し、コンビニの白い光が、まだ濡れた横断歩道を薄く照らしていた。ほんの数時間前、自分たちが歩いたかもしれない道が、少し離れた場所から一枚の光景として立ち上がる。

「まだ終われないふたりか……」

誰にも聞こえないような声で、沙季はつぶやく。自分たちにそんな名前を与えたわけではない。ただ、終わったと思っていた物語の続きに、知らないうちに足を踏み入れてしまったふたり、という意味で、その言葉が胸の内側にしっくりと沈んでいく。

終われない、ということは、決められない、ということでもある。ここで線を引く勇気も、すべてを受け入れる覚悟も、まだ持ち合わせてはいない。それでも、あの改札の前で、何もかもを断ち切るほどの冷たさも、自分にはなかった。

中途半端だと責めることもできるし、正直だと擁護することもできる。そのどちらにも振り切らず、ただ今夜の自分が選んだ場所に立ち尽くしている。その不器用さごと抱え込むようにして、沙季は目を閉じる。

まぶたの裏に、怜の横顔が浮かぶ。ネオンと街灯の光を受けて、少し疲れて、少し迷って、それでもどこかほっとしたような表情をしていた顔。その横には、まだ名前のついていない木曜の夜が、薄く寄り添っている。

この先、何が正解だったかなんて、きっとすぐには分からない。来週の木曜に会うのか、会わないのかさえ、まだ決まっていない。それでも今夜、確かにあった会話と沈黙と、歩道の湿りと、グラスの水滴の冷たさは、どんな選択をしても消えない。

電車が次の駅に差しかかり、速度を落とし始める。ブレーキの摩擦音が、夜の奥からじわりと近づいてきた。その音に揺られながら、沙季はゆっくりと息を吐く。胸の奥に残ったわずかな痛みと温度を、ひとつひとつ確かめるみたいに。

終わらせないでいること。それ自体が、たぶん今の自分にとっての答えなのだと思う。白か黒かを選ばないまま、グレーの夜を抱えて家に帰る。その曖昧さの中でしか見えない色が、この街にはいくつも潜んでいる。

ホームに滑り込む直前、窓の外に、自分の部屋のある方向の空がかすかに見えた。街の明かりに負けそうになりながら、それでも小さく光る星が一つだけ、雲の切れ間からのぞいている。東京で星を探すなんて無駄なことだと思っていたのに、今夜に限って、その小さな光が妙にまぶしく感じられた。

扉が開き、人々が動き出す。沙季はゆっくりと歩き出しながら、ポケットの中のスマートフォンをそっと握り直した。来週の木曜のメモは、そのままにしておく。消しもしないし、時間も場所も書き足さない。

いつかその予定を削除するときが来るのか、それとも具体的な約束に書き換える日が来るのか。今はまだ知らなくていい。知ろうとしないでいる自由だけを、今夜の自分への贈り物として持ち帰る。

雨上がりの匂いが、階段の途中でふわりと鼻先をかすめた。昼間の名残か、どこか別の場所から運ばれてきたのか分からないその匂いに、沙季はかすかに笑う。

まだ終われないふたりが、東京のどこかで、それぞれの夜を歩いている。そんな想像を胸の内側にしまい込みながら、彼女は階段を上がり続けた。足音が一段ごとに重ねていくのは、過去でも未来でもなく、今日という一日の最後のページだ。

扉を開ける音と同時に、部屋の暗がりが迎えてくれる。その静けさの中で、沙季は靴を脱ぎ、明かりをつける前に、一度だけ振り返るように目を閉じた。

まだ終われないふたりの物語は、とりあえずここでページを閉じる。けれど、木曜の夜ごとに、きっとどこかで続きが書き足される。その可能性だけが、静かな灯りとなって胸の奥にともり続ける。

その小さな灯りを消さないようにと願いながら、沙季はようやく明かりのスイッチに指を伸ばした。

-完-

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