【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第7章:同じ場所に戻れない
窓の外がまだ夜の名残りを引きずっているころ、ひかりは靴を履く前に一度だけ立ち止まった。
玄関の鏡に映る自分は、いつもと同じ通勤の顔をしている。髪の結び目も、コートの襟も、整っている。整っているから安心するはずなのに、今日はその整い方が妙に頼りない。昨日の電話の声が、まだ耳の裏に薄く貼りついているせいだ。
会いたい。
あの言葉を声で聞いたのは初めてだった気がする。文字なら、読めば間を置ける。声は間を置けない。耳に入った瞬間に胸に落ちる。落ちた重さを、いったん抱えたまま出勤するしかない。
会社のフロアは、変わらず乾いた音で動いていた。人の呼吸は聞こえないのに、全体が息をしているみたいにざわめく。朝の会釈、短い挨拶、キーボードの連打。ひかりはその中に紛れる。紛れるのは得意だ。紛れれば安全だと思ってきた。安全だと思うのに、紛れたままでは欲しいものが届かない。
昼前、直哉からメッセージが来た。
今日、早めに抜けられそう。もし帰り道、いけるなら。
いけるなら。
その言い方に、胸がふっと軽くなる。軽くなるのに、すぐ怖くなる。軽くなったものは、落ちやすい。落ちたときに拾いに行く自分を想像して、ひかりは画面を伏せた。伏せた黒に、うっすらと自分の指が映る。少しだけ震えている気がした。
仕事中だ。仕事の時間に、震えなくていい。
ひかりは深く息を吸って、返信する。
行けます。いつものところで。
送信して、すぐに後悔した。後悔の理由は分かっている。会えることが嬉しいからだ。嬉しいと認めると、その先が動き出す。動き出したものは、止められない。止められないから、まだ動かしたくない。そう思うのに、もう動いている。
午後は妙に長かった。
短い依頼がいくつも積み重なって、気づけば手元が散らかる。ひかりは揃える。揃えても、心が揃わない。心だけが一枚余っている。余った一枚は、帰り道のことを考えるために用意されたみたいに薄い。
窓の外の光が沈むころ、ひかりは椅子から立ち上がった。立ち上がると、脚が少し軽い。軽いのに、歩幅は小さくなる。小さくなるのは癖だ。考え事をすると足が遅くなる。今日は考え事しかしていないみたいだ。
駅へ向かう道で、空気が入れ替わるのを感じた。湿度は高くない。けれど冷えがある。昼の温度がどこかへ引っ込んで、夜の薄い刃だけが残る。コートの内側が少しだけ暖かい。暖かさがあると、外の冷えが目立つ。
大井町の改札を抜けた瞬間、電車の音が頭上から落ちてきた。
いつも通りの音。いつも通りの振動。駅前の明るさも、看板の光も、流れる人の量も、ほとんど変わっていない。変わっていないのに、ひかりの身体が少しだけ緊張しているのが分かった。変わっているのは自分だ。こういうとき、世界は平気な顔をしている。
高架下へ向かう途中、直哉が見えた。
柱の影に立っている。手にはスマホ。肩はいつもより少しだけ落ちている。疲れているのだろう。そう思った瞬間、胸の中の柔らかいところが反射で動く。心配。労り。触れたい気持ち。触れたい気持ちが心配に化ける。化けさせたほうが安全だからだ。
直哉はひかりに気づくと、視線を上げる前に一拍遅れる。呼吸が遅れる。遅れたあとに目が合う。その流れが、いつも通りで、だからこそ胸が痛い。いつも通りのはずなのに、いつも通りではいられない。
「おつかれ」
「おつかれさま」
声が少し掠れている。直哉のほうが先に喉を使いすぎた声だ。仕事のせいだ。仕事のせいなら仕方がない。仕方がないと言い聞かせながら、仕方がないで済ませたくない自分がいる。
二人は歩き出す。高架下の白い光が、顔の陰影を薄くする。薄くするから助かる。助かるのに、今日は薄さが頼りない。隠れてくれない。隠れてくれないのは、こちらが隠れたいものを増やしたからだ。
電車が通る。音が増えて、すぐに引く。引いたあとに残るのは、自分たちの足音だけになる。その足音が、久しぶりに揃っている。
揃っているのに、揃っていない。
直哉の歩幅は変わらない。ひかりの歩幅が変わっている。余計な力が脚に入って、自然な速度が出ない。自然に歩けないのが悔しい。悔しいのに、直哉は何も言わない。言わないから余計に意識する。
裏通りの入口で、湿った匂いが少しだけ濃くなる。壁の近さが、空気の重さを変える。細い道の影が深くなり、蛍光灯の白がさらに冷たく見える。匂いは変わらない。匂いが変わらないのに、身体は覚えている。ここを二人で歩いてきた。歩いて、話して、話さないで、息をしてきた。
直哉が先に口を開いた。
「久しぶりだな」
久しぶり。言葉にされると現実になる。現実になると、空白が確定する。確定した空白は戻らない。戻らないと分かるのが怖い。
「うん」
ひかりは短く返した。短く返すと安全だと思う。安全なのに、直哉の横顔が一瞬だけ寂しそうに見えて、胸が痛い。見えたのは自分の投影かもしれない。投影だったとしても、痛みは本物だ。
直哉は歩きながら、手をポケットに入れた。入れたまま、指先だけが落ち着かない。いつも通りの癖。いつも通りの癖が、今日は言葉みたいに見える。
「忙しかった?」
ひかりが聞くと、直哉はすぐ頷いた。
「忙しかった。頭がずっと熱かった」
頭が熱い。直哉の言い方は、感覚に寄っている。感覚に寄るのは、相手に伝えるためだ。伝えたい相手がいるときの言い方だと思ってしまう。思ってしまうから苦しくなる。
「熱いのに、冷めない感じ」
直哉が続ける。
「帰り道のこと考えると、余計に落ち着かなくて」
帰り道のこと。直哉が言った。言ってしまった。言ってしまうほど疲れていたのかもしれないし、言いたかったのかもしれない。どちらでもいいのに、どちらかを選びたくなる。選びたくなる自分が危ない。
「私も」
ひかりは言いかけて、言葉を止めた。止めたのに、直哉は歩く速度を落とさない。落とさないのは、待っているからだ。待っているときの直哉は、動きが変わる。変わるのが分かる。
「私も、落ち着かなかった」
言った瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。ほどけたぶん、痛みがはっきりする。痛みがはっきりすると、次の言葉が怖い。
直哉は一拍置いて言った。
「ありがとう」
「何が」
「言ってくれて」
言ってくれて。言葉を共有するだけで、救われることがある。救われるのは嬉しい。嬉しいのに、救いがあると依存が生まれる気がして怖い。怖いから、ひかりは視線を前に固定した。
裏通りの先に、小さな水たまりが残っていた。いつ降った雨の名残りか分からない。乾ききらない影の中で、水面が蛍光灯を映して揺れている。揺れは、足音が近づくだけで変わる。
ひかりはその水面を避けるように歩いた。避けるつもりが、少し踏みかけた。靴底が水を薄く押し広げる。小さな音。小さな音なのに、妙に胸に響く。失敗の音みたいだ。
直哉が言った。
「ひかり」
名前を呼ばれる。名前はいつも強い。名前は距離を縮める。縮まるのが怖い。怖いのに、呼ばれたい。
「今週、電話したあと」
直哉はそこで止めた。止めたあと、電車が頭上を通った。音が二人の間に落ちて、少しだけ隠してくれる。隠してくれるうちに、ひかりは息を整える。整えるのが癖だ。
音が引いたとき、直哉が続けた。
「俺、ここ通った」
「一人で?」
ひかりは聞いてしまった。聞いてしまってから、分かっているのにと思う。分かっているのに聞くのは、確かめたいからだ。確かめると、痛みが増えるのに。
直哉は頷いた。
「一人で。……変だった」
変だった。その言葉に、ひかりは少し笑いそうになって、笑わなかった。変だという言葉は軽い。軽いのに、内容は重い。重いものを軽く言うのが直哉の優しさだ。優しさが、今日は少し苦い。
「何が変だったの」
直哉は一拍置く。視線を一度だけ逸らす癖が出る。逸らした先は、壁の湿った染みだった。染みは消えない。消えないものを見ると、人は黙る。
「歩幅が合わなかった」
直哉が言った。
「当たり前だけど。……合わせる相手がいないと、歩き方が分からなくなる」
歩き方が分からなくなる。そんなふうに言う人だと思わなかった。直哉はいつも迷いなく歩いているように見えた。仕事でも、街でも。迷いがない人が、歩き方が分からないと言う。それはつまり、相手に合わせているということだ。合わせていることを、本人が認めてしまったということだ。
ひかりの胸の奥が熱くなる。熱くなるのに、声は落ち着く。いつもの癖が出る。
「……私も、同じ」
ひかりは言った。
「一人だと、ここ、早く通り過ぎたくなる。遅く歩く理由がないから」
言ってしまった。言ってしまうと、理由を共有してしまう。共有は嬉しい。嬉しいのに、怖い。
直哉は小さく息を吐いて、ぽつりと言った。
「遅く歩く理由」
その言葉を繰り返すだけで、夜の空気が少し変わる。言葉の輪郭が濃くなる。濃くなると、隠れていたものが見える。
直哉が言った。
「ひかり、今日」
そこでまた一拍。躊躇の一拍。ひかりはその一拍で、いくつもの答えを用意しそうになる。用意するのが癖だ。相手の反応を先に想像する。想像して、無難な言葉へ逃げる。
逃げるな、と心の中で思う。思っても逃げたくなる。
直哉が続けた。
「今日、ここに来るまで、怖かった」
怖かった。第6章でも出た言葉。怖さは二人の共通語になってしまった。共通語は親密の証でもある。親密は嬉しい。嬉しいのに、親密は破壊の入口でもある。
「何が怖いの」
ひかりはもう一度聞く。聞くことが癖になりつつある。聞かないで済ませられなくなっている。
直哉は前を見たまま言った。
「同じになれないって分かってたから」
同じになれない。ひかりはその言葉が、喉の奥に引っかかったまま息を吐いた。吐いた息が冷たい。冷たいのに胸が熱い。身体がまたずれている。
「同じに戻りたいって思ってた?」
ひかりは言ってしまった。言ってしまってから、直哉の反応が怖い。思ってたと言われたら嬉しいのか。嬉しいのに、戻れない現実が痛い。思ってないと言われたら、もっと痛い。
直哉は一拍置いて、短く言った。
「思ってた」
言い切り。短いのに、胸に響く。ひかりは視線を前に固定したまま、唇だけが少し震えそうになるのを抑えた。
「でも」
直哉が続ける。
「戻るって言い方が、もう違う気がして」
違う。違うと分かってしまったら、戻れない。戻れないなら、どこへ行くのか。どこへ行くのかを決めるのが怖い。怖いのに、決めないと進めない。
裏通りの奥で、換気扇の低い音が鳴っていた。金属が回り続ける音。止まらない音は、生活の音だ。生活の音があると、人は安心する。安心するのに、今日はその音が何かを急かしているみたいに聞こえる。
「ひかり」
直哉がまた呼ぶ。
「俺、忙しいって言い訳にしてた」
言い訳。直哉がそう言うと、ひかりの胸が痛んだ。忙しいのは本当だろう。それでも言い訳だったと言う。つまり、忙しさの中に逃げていたということだ。逃げたくなる気持ちは分かる。分かるから、責められない。責められないのに、傷は残る。
「逃げたの?」
ひかりは問う。問う声は落ち着いている。落ち着いている声が、自分の心を裏切る。
直哉は頷いた。
「逃げた。……ひかりからじゃなくて、俺の中の、ここから」
直哉は胸のあたりを軽く押さえる仕草をした。コートの上から。触れるだけ。触れる仕草だけで、そこに言葉がある気がする。
「ここ、動くと面倒になるから」
面倒。言葉は軽い。軽く言っているのに、目は真剣だ。真剣な目を見てしまって、ひかりは視線を逸らしたくなる。逸らしたら逃げる。逃げたくない。
ひかりは思った。
この人は、ずっと踏み込まないことで関係を守ってきた。自分と同じだ。だから、踏み込むのが怖い。怖いのに、踏み込まないままでは足りないと言い始めている。足りないと言い始めたら、もう後戻りはできない。
「面倒になるって」
ひかりは言った。言いながら、自分が怒っているのか悲しいのか分からない。分からないまま言葉が出る。
「私が面倒みたいに聞こえる」
直哉はすぐに首を振った。
「違う。ひかりが面倒なんじゃない。俺が面倒なんだ」
俺が面倒。そう言う直哉の声が少しだけ掠れている。疲れではなく、何か別のものの掠れだ。ひかりは胸の奥がじくりとする。
「俺が勝手に、壊したくなくて」
壊したくなくて。ひかりはその言葉に、ほんの一瞬だけ救われる。壊したくないと思ってくれている。そう思うだけで息ができる。でも、すぐに痛みが追いかけてくる。壊したくないまま壊れることもあるからだ。第4章で言った。名前をつけないままでも、なくなるときはなくなる。
「壊れてないと思ってる?」
ひかりは言った。言った瞬間、声が少しだけ硬くなる。硬くなるのは、怖いからだ。
直哉は一拍置いて言った。
「壊れかけてた」
壊れかけてた。ひかりの喉の奥が熱くなる。熱が上がると、泣きたくなる。泣くのは嫌だ。泣いたら、直哉が困る。困らせたくない。困らせたくないと言いながら、自分は困っている。
ひかりは足を止めた。
裏通りの真ん中で、二人の歩みが止まる。止まると、空気が厚くなる。電車の音が遠くで鳴っている。鳴っているのに助けにならない。音があるのに、沈黙の輪郭が濃い。
直哉も止まった。半歩前に出ない彼が、今日は同じ位置で止まる。並ぶことを選ぶ。選んだことが、妙に胸に刺さる。
ひかりは言った。
「私、怖かった」
直哉がこちらを見た。傘はない。雨もない。光は白い。逃げ道がない夜だ。
「何が」
直哉が聞く。
ひかりは言葉を探して、見つけられないまま、吐くように言う。
「慣れそうだったことが怖かった。帰り道がなくても、仕事は終わって、電車は走って、私は帰って、寝て、朝起きて」
言いながら、心が自分の声についていかない。言葉が少し遅れて出る。ひかりは普段、言葉を選びすぎるのに、今日は止められない。
「慣れたら、楽になるのに、楽になるのが怖かった」
直哉は黙って聞いている。聞くときの目は、逸らさない。逸らさない目は、ひかりの心の柔らかいところに触れる。触れたところが、熱い。
ひかりは続けた。
「私、ずっと言えなかった。言えないほうが安全だったから。でも、言えないままじゃ、戻れないって、分かってた」
戻れない。またその言葉。戻れないなら、どこへ行くのか。どこへ行くのかを決めるのが怖い。怖いのに、決めないと壊れる。
直哉が息を吐いた。吐く前に一拍遅れる。その遅れが、今夜は頼りないほど人間っぽい。
「俺も分かってた」
直哉が言う。
「言わないでいたら、いつか勝手に消えるって」
消える。消えるという言葉は、終わりより静かで残酷だ。終わりなら、区切りがある。消えるのは、気づいたらなくなっている。気づいたらなくなっているものほど、後悔が残る。
ひかりは、唇を噛みそうになってやめた。
「じゃあ、言って」
自分の口からその言葉が出たことに、ひかり自身が驚いた。言って、と言うのは頼みだ。頼みは、相手に負担を渡す。渡したくない。渡したくないのに、もう渡さないと戻れない場所にいる。
直哉の目が少しだけ揺れる。揺れは、決意の前触れみたいに見えた。
直哉は一拍置いてから言った。
「ひかりがいない帰り道が、足りなかった」
足りなかった。直哉が言う足りないは、前にも聞いた。第3章。あの夜の「足りない」。今夜の「足りなかった」は、過去形で、だから余計に胸に刺さる。足りなかったものが、すでに失われていたみたいに聞こえるからだ。
「足りなかったって言うの、ずるい」
ひかりは言ってしまった。言ってしまうのは、もう止まらない。止まらないことが怖いのに、止めたくない。
直哉は小さく笑った。笑いはすぐ消える。
「ずるい。俺もそう思う」
直哉が続ける。
「でも、言わないままのほうが、もっとずるい」
言わないままのほうが、もっとずるい。ひかりはそれを聞いて、胸の奥が少しだけほどけた。ずるさを共有するのは、情けないのに救いだ。自分だけが弱いわけではない。そう思える。
「私も、足りなかった」
ひかりは言った。言った瞬間、目の奥が熱くなった。熱くなったのに、涙は出ない。出ないまま、喉が少し詰まる。
「帰り道がない夜って、こんなにうるさいんだって思った。部屋が静かなのに、うるさい」
直哉が頷く。
「分かる」
「分かるって言わないで」
ひかりは思わず言った。言ってから自分で笑いそうになる。言わないでと言いながら、分かってほしい。矛盾が自分を面倒にする。
直哉が言う。
「分かるって言うしかない」
言うしかない。その言葉が、妙に優しかった。直哉はいつも、強い言葉を使わないのに、ここでは強くなる。強くならないと進めないと分かっているのかもしれない。
二人はまた歩き出した。歩く速度が少し遅い。遅い速度は、今夜は言い訳ではなく選択だ。選択になった速度は、少し重い。重いのに、丁寧だ。
高架下の方から電車の音が大きくなる。ちょうどタイミングよく、音が空気を割る。割れた音の隙間に、言葉が入り込む余地が減る。減る余地が、少しだけ助けになる。
直哉が言った。
「今日、ここ来る前」
ひかりは耳を澄ませる。電車の音の下で、声が薄く震えている。
「ひかりが、もう俺と歩かないほうが楽になってるかもしれないって思った」
その言葉に、ひかりは足を止めそうになって、止めなかった。止めたら、その想像が現実になる気がした。現実にしたくない。したくないなら、言葉を返さないといけない。
「楽になってない」
ひかりは言い切った。言い切ってしまってから、胸が痛む。言い切りは、嘘を混ぜたときに痛む。嘘ではない。けれど全部でもない。楽になっていないのは本当だ。でも、慣れそうだったのも本当だ。その揺れが、言い切りを痛くする。
「慣れそうで怖かった」
ひかりは付け足した。付け足すことで、嘘の割合が減る。減ると少し楽になる。
直哉は頷いた。
「慣れないでいてくれて、ありがとうって言うのも、ずるい?」
ずるい。ずるいがまた出る。二人は最近、ずるさで繋がっている。繋がり方としては最低かもしれない。最低なのに、愛おしい気もする。愛おしいと認めたら危ないから、ひかりは小さく息を吐いた。
「ずるいけど、言っていい」
言っていい。許可を出したつもりはなかったのに、口がそう言う。言っていいと言ったら、直哉はもっと言葉を出すかもしれない。出したら、止められない。止められないのが怖い。
直哉は少しだけ笑った。
「じゃあ、ありがとう」
短いありがとう。短いのに、胸に残る。ひかりは返事ができなかった。返事をすると、対になる言葉を出さなければならない気がした。ありがとうに対して、どういたしまして。そんな軽い言葉じゃ足りない。足りない言葉を出したくない。
分かれ道が見えてきた。いつもの角。いつもの場所が近づくと、胸が少しだけ痛む。いつもはここで別れる。別れて、また明日。今日は明日が確定していない気がした。確定していないのに、確定してほしい。
直哉が立ち止まった。ひかりも立ち止まる。
街灯の輪が地面に落ち、二人の影が並ぶ。影は薄い。薄い影の端が、少しだけ重なる。重なっているのに、触れない。触れないことが二人の決まりだった。決まりが今夜は痛い。
直哉が言った。
「ひかり、明日も」
言いかけて止まる。止まったところに、ひかりの心臓が跳ねる音が重なる。言葉の続きを、先に想像してしまう。
明日も歩こう。
明日もここで会おう。
明日も当たり前に。
当たり前に、という言葉が怖い。でも、当たり前にしたい。
ひかりは先に言った。
「明日も、ここで」
言った瞬間、胸が軽くなる。軽くなると怖くなる。軽さと怖さが同時に来るのが、恋の気配だと分かってしまう。分かってしまうのに、まだ名前をつけない。名前をつけたら壊れる気がするからだ。
直哉は少しだけ目を細めた。
「いいの?」
いいの、と聞く声が弱い。直哉の声が弱いのが、ひかりには痛い。弱い声は、本気の声だ。
「いい」
ひかりは短く答えた。短く答えると、涙が出そうになる。出そうになる涙を、息で押さえる。
直哉は一拍置いて、言った。
「じゃあ、明日」
「明日」
二人の間に、約束が置かれる。約束は言葉なのに、形がある。形があるから安心する。安心するのに、安心したぶん失うのが怖い。怖さを抱えたまま、ひかりは小さく笑った。
「帰り道って、面倒だね」
直哉が少し笑って頷く。
「面倒。でも、好きだ」
好きだ。直哉はすぐに言い直すみたいに、視線を逸らした。逸らしてから短く付け足す。
「……この道が」
この道が。限定の言い方。逃げ道の作り方。ひかりはその逃げ道を責めたくなかった。逃げ道がないと、二人は今夜ここに立てない。
「うん」
ひかりはそれだけ言った。うん、の中に全部を詰める。詰めたまま、零さないようにする。零したら、全部が溢れる気がするからだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がった。数歩進んで、振り返りたい衝動が来る。衝動は熱い。熱いのに、振り返らない。振り返ったら、今夜の言葉の続きを求めてしまう。求めたら、もう戻れない場所へ行く。
戻れないのに、行きたい。
その矛盾を抱えたまま、ひかりは歩幅を小さくした。小さくした歩幅が、今日は遅れの癖ではなく、余韻のための速度に変わっている気がした。
部屋に入ると、静けさが戻る。
けれど、今夜の静けさは前より少しだけ薄い。薄い静けさは、直哉の声の跡を残す。足りなかった。慣れたくない。ありがとう。明日。
言葉は全部、決めごとの手前で止まっている。止まっているから、まだ危なくない。危なくないと言い聞かせても、胸の奥は知っている。
言葉にしなければ戻れない場所がある。
戻れないなら、進むしかない。
ひかりは枕元にスマホを置き、画面を伏せた。伏せた黒に映る自分の目が、少しだけやわらかい。やわらかい目は、まだ自分には似合わないと思いながら、ひかりは目を閉じた。
いいなと思ったら応援しよう!
宜しければサポートお願い致します。頂いたサポートはITの勉強の為に利用させて頂きます。