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【創作大賞2026応募作品】言えない未来へ 第3章:違和感の芽

紙の匂いが薄まる季節は、街の匂いが代わりに濃くなる。乾いた風がビルの角を削り、昼の時間の端を少しずつ尖らせていくころ、篠原紗月は編集部の給湯室で湯を沸かしていた。カップの底に落ちる熱の音が小さく、耳を澄ますと自分の呼吸のほうが目立つ。息が浅い。浅さを指摘してくる人はいない。指摘してくれる人がいないのに、勝手に整えようとするのが、紗月の癖だった。

机に戻ると、赤字を入れたゲラの端がわずかに湿っていた。誰かの手の油か、室内の乾ききらない空気か。紙は正直だ。ここに人がいた、と痕跡で言う。痕跡はいつも、持ち主より先に本音を晒す。紗月はそのことに安心する時と、嫌悪する時がある。今はどちらでもなく、ただ指先で紙の角を揃えた。揃える行為は、心を落ち着かせる。揃えたところで、生活の角は揃わないのに。

午前の会議は短く終わった。短い会議は疲れる。言い残したことが、空気の底に沈むからだ。若い同僚が「この企画、もう少し尖らせませんか」と言い、上司が「尖らせたら刺さるのはこっちだ」と返す。笑いが起きて、でも笑いの後に残る沈黙が少し硬い。紗月は自分のメモに視線を落としながら、その硬さが胸に似ていると思った。刺さるのは、いつも自分だ。刺さらないように角を丸めて生きているのに、角を丸めるほど、刃は別の場所で育つ。

昼の終わりが近づくころ、作家から原稿が届いた。添付ファイルの数字が、思っていたより大きい。紗月は一度だけ目を閉じた。大きいということは、枚数が多いということだ。多いということは、読む時間が長いということだ。長いということは、夜がまた短くなるということだ。夜が短くなるのは、困る。困ると感じている自分に、紗月は驚く。恋は生活を乱すものだと思っていたのに、今は生活のほうが恋の形を決めている。乱れたまま整えられない。言葉にしなくても、その事実だけは手のひらに残る。

ファイルを開くと、最初の一行が妙に明るい。明るい文章は怖い。明るい文章ほど、裏側に暗さがあることを知っているからだ。紗月は読み始め、数ページで息を吐いた。作家の文は今日も勝手だ。勝手で、でも勝手なままでは届かない。届かせるのが自分の役目だ。役目を果たすことが、救いになることもある。救いは、いつも別の痛みを連れてくる。

夕方の入り口、窓の外の色が少しだけ冷たくなるころ、スマホが震えた。震えは短く、すぐに止まる。通知の短さが、宮本の言葉と似ていると思う。紗月は画面を見た。

今夜は無理。ごめん。明日なら。

無理。ごめん。明日なら。短いのに、胸の中で重くなる並びだ。無理という単語は、どこか固い。仕事の無理、予定の無理、気持ちの無理。どれにでも使えるから、逆に怖い。紗月は返信欄を開き、閉じた。開くと、言葉が要求される気がする。閉じると、拒否になる気がする。どちらも嫌で、指が宙に止まる。

明日、会えるなら。

そう打って送った。打つ前に唇を噛んだ。噛んだところで、言葉の震えは消えない。送信した直後、画面が暗くなり、編集部の明かりが戻る。蛍光灯の白は、感情を薄く見せる。薄く見せるのは得意だ。得意なことが、幸福に繋がるとは限らない。

その夜、紗月は終電に乗った。久しぶりに、終電というものの存在をまともに感じる。車内は思ったより人がいて、皆が黙ってスマホを見ている。光が顔を照らし、影が目の下に溜まる。誰もが同じ疲れを持っているようで、誰もが違う夜を持っている。紗月は座席の端に立ち、窓に映る自分の顔を見ないようにした。見たら、何かがわかってしまう。わかってしまったら、次にすることが決まってしまう。決まるのが怖い。

部屋に着いて、電気をつけないままコートを脱いだ。暗い部屋は、仕事の匂いを薄める。薄めた匂いの向こうに、夜の余韻が残る。余韻は、まだ宮本の気配に似ている。似ているのに、今夜はいない。いないことが、妙に現実的だ。会えない夜があるほど、会える夜が特別になる。特別は甘い。甘いものは依存になる。依存は怖い。怖いのに、甘さを捨てられない。

翌日、空が澄みすぎている朝だった。澄んだ空は、街の輪郭をはっきりさせる。はっきりした輪郭は、ごまかしを許さない。紗月は出勤の足取りが少し重いのに気づき、重さの理由を探すのをやめた。理由を探すと、宮本に辿り着いてしまう。辿り着くと、質問が増える。質問は未来に触れる。未来に触れた瞬間、関係が終わる。紗月の恐れは、いつも同じ形で戻ってくる。

編集部で一日をやり過ごし、夜が薄い膜を張り始めるころ、宮本からまたメッセージが来た。

遅くなるけど、飯田橋行く。少しだけでも会いたい。

少しだけでも会いたい。そこだけがやけに柔らかい。紗月はその柔らかさに、胸の奥がほどけるのを感じた。ほどけたところから、言いそびれた言葉が漏れそうになる。漏れそうになって、慌てて息を整える。整える必要があるのかどうかも分からないのに。

うん。待ってる。

打って送ってから、紗月は自分の返信の短さに笑いそうになった。短さは宮本の領域だと思っていたのに、いつの間にか自分も同じ呼吸で言葉を出している。言葉は、会う回数と一緒に似てくる。似てくることは親密だ。親密は嬉しい。嬉しいことが怖いのは、失ったときの痛みを先に数えてしまうからだ。数える癖を、紗月は直せない。

飯田橋に着くと、空気が乾いていた。雨の匂いがない夜は、音がよく響く。足音が舗装に当たり、遠くの車の走行音が地面の下を流れる。川の上を通る風が冷たく、橋の欄干が金属の匂いを返す。紗月は改札を出て、いつもの場所ではなく、少し離れたところに立った。理由はない。理由がない選択は、今夜は少しだけ自分を自由にする。

宮本は遅れて現れた。遅れても、息を切らしてはいない。コートの襟を立て、髪が少し乱れている。乱れているのに、清潔さは崩れていない。そういう人だと思う。生活のリズムが不規則でも、どこかで自分を保つ術を知っている。紗月はそれが羨ましい。自分は保っているつもりで、実は綱渡りをしているだけだからだ。

「待った?」と宮本が言う。

「少し」と紗月は答える。

「ごめん。ほんとに少しだけになる」

少しだけ。言葉が重なる。少しだけの積み重ねが、いつか何になるのかを考えると、胸がざわつく。ざわつきを言葉にしない。言葉にしないことが、今の自分の呼吸法だ。

二人は神楽坂へ向かう道を歩いた。坂を上がらず、路地へ逸れる。路地は昼間より狭く、夜はさらに狭く感じる。建物が近いから、息が壁に返ってくる。返ってくる息は、自分のものなのに他人みたいだ。宮本は歩幅を調整し、紗月の横を保つ。横にいることが、彼の意思の表れに見える。意思があるなら、未来もあるのだろうか。紗月はそんなことを考え、考える自分を嫌う。

店に入ると、灯りが柔らかく、外の冷えが背中から剥がれる。カウンターに座り、飲み物を頼む。紗月は温かいものを選んだ。熱が掌に戻ると、指先の冷えが少し薄れる。薄れると、言葉が出そうになる。出そうになると、怖くなる。怖くなると、また飲む。こうして夜は、少しずつ形を変える。

「昨日、無理だったの」と宮本が言った。言い方が慎重だ。責められると感じる余地を消そうとしている。

「うん」と紗月は言う。「大丈夫」

大丈夫ではないのに、大丈夫と言う。そうすることで、相手を楽にする。楽にすることが優しさだと思ってきた。けれど優しさは、時々、相手の逃げ道になる。逃げ道を用意すると、相手はそこからいなくなることもできる。紗月はその可能性に気づいてしまっている。

「大丈夫じゃないよね」と宮本が言った。

紗月は一瞬だけ息を止めた。見抜かれる。見抜かれると、どう返せばいいかわからなくなる。わからなくなるのに、見抜かれたい気持ちもある。見抜かれれば、言えない言葉の代わりに、理解が置かれるかもしれない。理解は形ではない。形ではないから、壊れにくい。そういう甘い期待が、紗月の中でまだ生きている。

「大丈夫だよ」と紗月は言い直した。言い直すことで、自分の言葉を自分で固定する。固定したくないのに、固定してしまう。矛盾が増えていく。

宮本は視線を外し、グラスの水滴を指先でなぞった。考えている。言葉を選んでいる。選ぶ時間が長いと、紗月の胸は不安になる。不安は、言葉を先に出させる。

「昨日、どこにいたの」と紗月は訊いた。

訊いてしまった。訊かなければよかったと思う。思うのに止められない。質問は、未来を引っ張り出す糸だ。糸を引けば、繋がっているものが見える。見えたら戻れない。戻れないと分かっているのに、引いてしまう。

宮本は一度だけ紗月を見て、それからまた視線を外した。

「打ち合わせ。終わってから、別の連絡が来て、呼び出されて」

「呼び出し」

「上の人と」

上の人。仕事の人。具体にならない言葉。具体にならないのに、輪郭はある。輪郭があるのに触れられない。それが今の二人の話し方に似ていて、紗月は苦しくなる。

「東京を離れる話」と紗月は言った。言った瞬間、喉が乾く。「それ、進んでるの?」

宮本の目がわずかに揺れた。揺れは一瞬で、すぐに穏やかな顔に戻る。穏やかな顔は、相手を落ち着かせるための顔だ。落ち着かせられると、自分の感情が抑えられる。抑えられると、言葉が遠のく。遠のくと、関係は続く。続くことが、救いなのか延命なのか分からない。

「まだ、形にはなってない」と宮本は言った。「でも、話は具体的になってきてる」

具体的。紗月はその単語を胸の中で反芻した。具体は、期限を連れてくる。期限は、選択を連れてくる。選択は、言葉を連れてくる。言葉は、終わりを連れてくる。終わりは怖い。怖いのに、ここまで来てしまった。

「どこ?」と紗月は訊いた。

宮本が黙る。沈黙が落ちる。落ちた沈黙が、二人の間の空気を重くする。重さは、嫌ではない。嫌ではないことが、もっと嫌だ。紗月は自分の心の面倒くささに、少しだけ疲れる。

「まだ、言えない」と宮本は言った。

言えない。紗月の胸が冷える。言えないという拒否ではなく、言えないという保留。保留はいつも、希望と絶望を同時に置く。希望は、まだここにいるという意味だ。絶望は、まだ言える段階ではないという意味だ。言える段階になったとき、何が起きるのか。紗月はそこまで考えてしまい、目の前のグラスを見つめた。

「言えないのは、私がいるから?」と紗月は言った。言い方が自分でも嫌だ。試すような言い方だ。試すことで何かが分かるのなら、試してしまう弱さがある。

宮本は小さく息を吐いた。吐く息が白くならない室内で、その息だけが見える気がした。

「紗月を傷つけたくない」と宮本は言った。

また、その言葉だ。優しいのに、少し冷たい。紗月はその冷たさの正体を知りたくなった。冷たいのは、距離のせいだ。距離は、未来のせいだ。未来は、言葉のせいだ。言葉を避ければ距離は保てる。保てる距離は、今だけのものになる。今だけは、いつか終わる。終わるものに寄りかかっていると、自分が倒れる。紗月は倒れたくない。倒れたくないのに、もう半分倒れている。

「私を傷つけないために、言わないなら」と紗月は言った。「私は、何を想像すればいいの」

宮本は答えなかった。答えないことが答えのようにも見える。答えないことで守っているものがある。それが宮本の癖だ。紗月はその癖に救われてきた。救われてきた分だけ、今はその癖に息が詰まる。

「想像しなくていい」と宮本はようやく言った。

「できない」

紗月は自分の声が少し強いことに気づき、慌てて抑えた。店内の静けさが、声の強さを増幅する。自分の感情が空間に響くのが怖い。怖いのに、もう言ってしまった。言ってしまったものは戻らない。戻らないことが、宮本の言う怖さなのだろう。

宮本は視線を外し、指先でグラスの縁を軽く叩いた。音は出ない。出ないのに、動きだけが見える。出ない音は、言えない言葉のようだと思った。言えない言葉は、存在しないわけではない。存在しているのに、聞こえないだけだ。

「紗月」と宮本が言った。

「なに」

「俺、ちゃんとしたいと思ってる」

ちゃんと。紗月の胸が痛む。ちゃんと、の中には何が入っているのか。形か。期限か。約束か。約束は怖い。怖いのに、欲しい。欲しいのに、怖い。紗月はその矛盾の中で、言葉を探した。探して、見つからない。見つからないまま、時間だけが進む。

「ちゃんとって、どういうふうに?」と紗月は訊いた。

宮本はすぐに答えなかった。沈黙。沈黙は、彼の逃げ道でもあり、彼の誠実さでもある。誠実さが、時々、人を傷つける。曖昧な優しさより、誠実な沈黙のほうが痛いことがある。紗月はその痛みに慣れつつある自分を、少し恐ろしいと思った。

「ちゃんと言うってこと」と宮本が言った。「軽く言わない。逃げない」

逃げない。宮本がそう言うとき、逃げたい気持ちも含まれている気がする。人は、逃げたくない時に逃げないと言う。言うことで自分を縛る。縛ることが必要なほど、足元が滑りやすい。滑りやすいのは、二人の関係そのものだ。

そのとき、宮本のスマホがまた震えた。机の上で小さく動く。宮本の目が一瞬で仕事の顔になる。仕事の顔は、どこか別の場所を見ている。紗月はその別の場所の気配を、今夜ははっきりと感じ取ってしまった。別の場所に、彼の未来がある。

宮本は画面を見て、すぐに伏せた。出ない。出ないことが、紗月には救いでもあり、別の痛みでもある。出ないことで、今夜は守られる。出ないことで、あの連絡が何であるかを想像してしまう。想像は、終わりを先取りする。

「出なくていいの?」と紗月は訊いた。

「大丈夫」と宮本が言った。

その大丈夫が、紗月の大丈夫と同じ匂いがした。大丈夫ではないのに、大丈夫と言う。相手を安心させるために。あるいは自分を落ち着かせるために。宮本も同じように言葉を使うのだと気づいた瞬間、紗月の胸に別の感情が湧いた。嬉しさではない。哀しさでもない。似ている、という感覚だ。似ているから、惹かれたのかもしれない。似ているから、壊れやすいのかもしれない。

店を出るころ、外の空気はさらに冷えていた。路地の石畳は乾き、雨の痕跡だけが目地に残っている。空気が乾くと、匂いの層が変わる。遠くの焼き物の香りより、金属と排気の匂いが前に出る。夜が現実に戻っていく匂いだ。

二人は傘を差さずに歩いた。歩いている間、会話はほとんどなかった。沈黙があるのに気まずくない。気まずくないことが、また危うい。沈黙が当たり前になると、言葉がますます遠のく。遠のいた言葉は、必要なときに出なくなる。必要なときは、もうすぐ来る気がする。根拠はない。ただ、宮本のスマホの震えが、その予感を運んでいる。

飯田橋の明るい場所に出ると、車の音が増え、信号の電子音が耳に入る。都市は、人が少なくても機械の音で満ちている。満ちている音の中で、二人の小さな会話はすぐに埋もれる。埋もれると、言いづらい言葉がますます言えなくなる。言えなくなることが、二人の習慣になっていく。

別れ際、宮本が言った。

「ごめん。今日は、少ししか話せなかった」

少ししか。少しだけ。少しの積み重ね。紗月は笑えなかった。笑えない代わりに、頷いた。頷くことで、今夜を終わらせる。終わらせることが、次の夜の条件になる。条件を受け入れている自分が、もう止められない。

「私も」と紗月は言った。「話したいこと、あったのに」

「なに」

その問いは、優しい。優しいから、危険だ。紗月は言いかける。一緒にいたい。けれどそれを言うには、期限や形まで含めて言わなければならない気がする。期限や形を言えば、彼の未来に自分を入れることになる。入れたい。でも入れるのが怖い。怖いから、言えない。言えないまま、今だけを延ばす。延ばして、延ばして、いずれ切れる。

「また今度」と紗月は言った。

宮本は一瞬だけ目を細めた。理解したのか、諦めたのか、そのどちらでもない表情だった。表情は短く消え、穏やかさが戻る。

「うん。今度」

今度という言葉が、二人の間に落ちた。今度はいつだろう。今度はあるのだろうか。今度が来るとき、宮本はまだ東京にいるのだろうか。紗月はその問いを胸にしまい、背中を向けた。背中を向けると、急に寒さが増す。人の体温は、目に見えないのに、離れると分かる。

家に帰る道で、紗月は自分の足音を数えた。数えたところで意味はない。意味はないことをするのは、心を守るためだ。守るためにやっていることが、結局、自分を孤独にすることも知っている。知っているのにやめられない。

部屋に入って電気をつけると、床の上に自分の影ができた。影は一人分しかない。一人分しかないことが、妙に現実的だった。スマホを机に置き、鞄からゲラを取り出す。紙の匂いが戻ってくる。仕事の匂いは、裏切らない。裏切らない匂いに救われながら、紗月はまた別の匂いを思い出す。宮本のコートの湿り、店の灯りの匂い、路地の乾いた風。混ざる匂いが、胸の奥に残り、消えない。

その夜、宮本から短いメッセージが届いた。

今日はありがとう。気をつけて帰って。

紗月は返信欄を開いた。ありがとう、と打ち、消した。会いたい、と打ち、消した。行かないで、と打ちそうになって、指が止まる。行かないで、は未来の話だ。未来の話をした瞬間に、関係が終わる。終わるのが怖い。怖いから、今だけにしがみつく。今だけにしがみつくほど、未来が遠ざかる。遠ざかった未来を、宮本はどこかで掴もうとしている。掴もうとしている手が、東京の外に伸びている。

紗月は結局、短く返した。

こちらこそ。おつかれさま。

送信したあと、スマホを伏せた。伏せることで、言葉を閉じ込める。閉じ込めた言葉は、胸の中で熱を持つ。熱は痛みに変わる。痛みは、まだ生きている証拠だと、自分に言い聞かせたくなる。言い聞かせるのは、弱いからだ。弱いことを認めると、何かが崩れそうで怖い。怖いから、また言葉を飲み込む。

窓の外で、遠くの電車の音がした。終電ではない。始発でもない。ただ、どこかを通り過ぎる音だ。通り過ぎるものは、戻らない。戻らないものを、紗月は引き留められない。引き留められないなら、せめて名前をつけたくなる。名前をつければ、記憶になる。記憶になれば、失っても残る。残るものがあるなら、失う痛みは少し軽くなるだろうか。軽くなる痛みは、痛みではなくなるのだろうか。分からない。分からないまま、紗月は布団に潜り、目を閉じた。

目を閉じても、宮本の視線が浮かぶ。言葉を選ぶときに外れる視線。外れた視線の先にある未来。紗月はそこに自分がいない可能性を、今夜ははっきり想像してしまった。想像した瞬間、胸の奥が冷え、指先が握り込まれる。寒いわけではない。冷えは、言えない言葉の形をしている。

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