【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第4章:呼べない関係
午前の光が、窓ガラスの端でいったん止まり、そこで迷っているみたいだった。
雲が厚いわけでもないのに、白さがまっすぐ入ってこない。ビルの影が少し伸びて、机の上の紙の余白がくすむ。ひかりはそのくすみを見て、昨夜の裏通りの匂いを思い出しかけて、すぐに目をそらした。思い出すのは簡単だ。思い出したあとの処理が難しい。
机に座る。パソコンを立ち上げる。メールを開く。数字を揃える。いつも通りの順番。順番があると落ち着く。落ち着くのに、胸の奥だけが落ち着かない。
直哉からの連絡はない。
ないことが普通なのに、ないことが気になる。気になることに気づいてしまうと、気になる自分が少し情けない。自分で自分を叱りたくなる。叱ったところで直らないのに。
午前中は会議が続いた。会議室の椅子は固くて、座面の布が体温を吸う。話す人の声は揃っている。揃っているけれど、どこかで小さく引っかかる。ひかりはその引っかかりを拾う。拾って、言葉にして、全員がうなずける形にする。管理部門寄りの仕事は、そういう作業が多い。誰かの主張を尖らせずに通す。落としどころを作る。数字で納得させる。空気を整える。
整えるのが癖になると、自分の心も整えようとしてしまう。
整っていないと、困る人がいるような気がして。困る人なんて、本当はいないのに。
会議が終わって廊下に出たとき、向こうから人のかたまりが歩いてきた。営業企画のメンバー。真ん中に直哉がいる。いつもの仕事の顔。言葉の切り方も、笑い方も、周囲に合わせた角度で揃っている。その揃い方がきれいで、ひかりは一瞬だけ、昨夜の裏通りで聞いた低い声が嘘みたいに感じた。
すれ違う瞬間、直哉がちらりとこちらを見る。
目が合う前の一拍。ほんのわずかな遅れ。彼の癖は、会社の中でも消えない。消えないものがあるのは、少し救いだと思う。救いを仕事中に持ち込むと危ないのに、もう遅い気もする。
直哉は声を出さない。ひかりも出さない。会釈だけで通り過ぎる。
そのあとに残るのは、紙の匂いと、忙しさの匂いと、ほんの少しだけ整髪料の薄い香りだった。匂いは勝手に距離を越える。距離を越えるものは、いつも少し怖い。
昼が近づくころ、先輩に声をかけられた。
「篠原さん、今日お昼どうする?」
先輩は朗らかで、笑うと目尻がすぐに柔らかくなる。そういう人の近くにいると、こちらの肩の力が抜ける。抜けると、余計なことも口から出やすくなる。
「適当にですかね」
「一緒に行こうよ。最近ずっと机で食べてない?」
最近ずっと。言われて、ひかりは小さく息を吐いた。気づかれている。気づかれたくないわけじゃない。ただ、気づかれた先で、説明が必要になるのが嫌だった。説明は、たいてい嘘を混ぜる。嘘を混ぜると、疲れる。
「行きます」
返事は簡単だった。簡単に言えたことが、少し不思議でもある。直哉と食堂で向かい合った日の湯気を思い出す前に、口が動いてしまった。
食堂は人いきれの湿りで満ちていた。湯気が天井の方へ上がって、そこで散っていく。皿の音。椅子の脚が床を擦る音。笑い声。遠くの咳。全部が重なって、会話がよく聞こえない。よく聞こえないから安心する。安心して、油断する。
先輩と席に着き、箸を持ったところで、先輩が何でもない調子で言った。
「ねえ、篠原さんさ」
この呼び方の変化が、少しだけ嫌な予感を運ぶ。嫌な予感を感じてしまう自分が嫌だと思う前に、次の言葉が来た。
「営業企画の佐伯さんとさ、最近よく話してるよね」
箸先がほんの一瞬止まりそうになった。止めない。止めないまま、口を動かす。
「仕事で、たまに」
「たまにって言うわりに、仲良さそうに見える」
見える。見えると言われると、胸の中の壁が薄くなる。薄くなると、外の風が入ってくる。風が入ると寒い。寒いと守りたくなる。守りたいのは何だろう。自分の顔。自分の距離。帰り道の静けさ。
「仲良いっていうか」
言葉がほどけそうになるのを、ひかりは噛むことで止めた。噛むと時間ができる。時間ができると、無難な返事が選べる。
「たまたまです」
先輩が笑う。
「たまたまが続くやつね。そういうの、だいたいそうなる」
そうなる。先輩は何気なく言っただけなのに、ひかりの胸の奥に針が立つ。だいたいそうなる。そうなるって何だろう。分かっている。分かっているから、分からないふりをする。
「そうなるって、何ですか?」
先輩は、箸を止めずに言った。
「付き合うとか」
付き合う。言葉が耳に入った瞬間、ひかりの手のひらが少し冷えた。冷えは指先から来て、腕を上っていく。体温が下がるというより、血の流れが一瞬止まる感じ。
「違いますよ」
ひかりは思っていたより強く言ってしまった。強く言ったことに気づいて、すぐに笑ってごまかす。
「ほんと、違います。部署も違うし」
部署が違うのは事実だ。事実を盾にすると、嘘が混ざりにくい。混ざりにくいだけで、混ざらないわけじゃない。帰り道は部署とは関係ないのに。
先輩は両手を軽く上げるようにして笑った。
「ごめんごめん。別に詮索じゃないよ。でもさ」
でもさ、が来る。ひかりは内心で身構える。身構えても止められない。
「篠原さんって、ちゃんとしてるからさ。恋愛、先延ばしにしそうで心配になる」
ちゃんとしてる。先延ばし。心配。言葉は柔らかいのに、輪郭がはっきりしていて、逃げにくい。ひかりは笑って、うなずいて、受け流す。受け流すのが得意だ。得意だから、自分の本音がどこにあるのか分からなくなる。
先輩は話題を変えるように言った。
「そういえばさ、うちの後輩、結婚するんだって」
結婚。次の言葉も重い。恋愛から結婚へ、世間の会話は勝手に流れていく。流れは自然で、自然だからこそ怖い。ひかりは相槌を打ちながら、直哉の顔を思い浮かべてしまう。思い浮かべたくないのに、浮かぶ。浮かぶだけで胸が少し熱い。
「早いですね」
「早いよね。でも二十代って急に周り動くよね。誰かの結婚式が増えたり、同棲したり、転職したり」
転職。結婚。同棲。言葉の並びは生活そのものだ。生活は均衡だ。均衡が崩れるのが怖いのに、均衡が動かないままなのも怖い。どっちも怖い。怖いものばかり増える。
「篠原さんは、将来どうしたいとかあるの」
将来。ひかりは、口の中が乾くのを感じた。乾きは声の出方を変える。変えないように、ゆっくり息を吐く。
「まだ、特に」
先輩が軽く笑う。
「まだって言うの、ひかりちゃんっぽい」
ひかりちゃん、という呼び方の近さが、逆に遠い。近い呼び方は、逃げ道を狭める。狭められると、息が浅くなる。
「でも、まだって言ってるうちに、あっという間だよ」
あっという間。ひかりはその言葉を飲み込めなかった。飲み込めないまま、皿の上のものを噛む。噛んでいるあいだ、耳が勝手に先輩の言葉を反芻する。あっという間に、何が起きる。何が終わる。何が始まる。
午後は資料の修正と社内調整で埋まった。埋まっているのに、頭のどこかに食堂の言葉が残る。残るものは、いつも最終的に夜まで持ち越される。
夕方、窓の外の光がゆっくり沈んでいくころ、直哉からチャットが来た。
今日は定時で出られそう。もし行けるなら、帰り道。
もし。行けるなら。ひかりはその柔らかい言い方に、少しだけ胸が緩むのを感じた。緩むのが嬉しい。嬉しいと思った瞬間、昼の先輩の声がよみがえる。付き合うとか。将来とか。だいたいそうなるとか。
そうなる、の中に自分たちが入ってしまうのが怖い。
でも、帰り道がない夜を思い出すと、もっと怖い。怖さの種類が違う。違う怖さを比べている時点で、もうだいぶ危ない。
ひかりは返信した。
行けます。いつものところで。
送ってしまってから、心臓が少し早い。早いのに、呼吸は落ち着いている。動揺しているほど声が落ち着く癖と同じで、身体と心がずれている。ずれは見たくない。見たくないのに、見えてしまう。
仕事を片づけて、エレベーターに乗り、駅へ向かう。
改札を抜けると、夜の匂いが戻ってくる。高架下へ向かう人波の中で、ひかりは直哉を探してしまう。探してしまう自分が嫌だと思う前に、見つけてしまう。
直哉は柱のそばに立っていた。スマホを見ていて、肩が少しだけ下がっている。仕事の終わりの疲れが、背中に出ている。けれど、ひかりの気配を感じたのか、視線を上げる。上げる前に、いつもの一拍。
「おつかれ」
「おつかれさま」
その挨拶だけで、胸の奥が少し楽になる。息が深くなる。深くなった息が、すぐに怖さを連れてくる。息が深くなるほど、失ったときの苦しさを想像してしまうからだ。
二人は歩き出す。高架下の蛍光灯が路面を白く塗る。電車が通り、音が頭上で裂けて、すぐに縫い直される。音があるから、沈黙が成立する。今日はその沈黙が助かる。昼の言葉を、ここで引っ張り出す勇気がない。
裏通りに入ると湿り気が増す。壁が近い。匂いが濃い。足音が自分のものとしてはっきりする。
直哉が先に口を開いた。
「今日、昼どうしてた?」
「先輩に誘われて食堂」
「そっか」
それだけ。短い返事。短い返事の中に、少しだけ何かが混じっている気がして、ひかりは横を見そうになった。見ない。見たら、確かめてしまう。確かめたら、戻れない。
ひかりは代わりに聞く。
「直哉くんは」
「適当。ちゃんと食べてない」
言葉がさらっと出るのが怖い。怖いけれど、心配が勝つ。
「ちゃんと食べなよ」
言ってしまった。言ってしまうのが自分の癖だ。相手の生活を揺らしたくないのに、揺らすようなことは言ってしまう。心配は理屈より先に出る。
直哉が小さく笑う。
「ひかりに言われると、正論すぎる」
正論。正しい。そういう言葉で褒められると、ひかりは少しだけ苦しくなる。正しさは安全で、正しさは時々孤独だ。正しい場所に立ち続けると、誰もそこに来ない気がする。来なくていいと思うのに、来てほしいと思う夜もある。
沈黙が一度落ちた。
落ちた沈黙の中で、直哉がふと視線を逸らす。考えているときの癖。逸らした先は路面の黒い点々だった。乾ききらない水の跡。消えそうで消えない。
「今日さ」
直哉が言う。言い出す前の一拍が少し長い。長い一拍は、迷いだ。
「うちのチームで、結婚の話が出て」
ひかりは、胸の中で息を吸った。昼の食堂と繋がる。繋がるのが嫌なのに、繋がったことが妙に嬉しい。自分の生活と直哉の生活が、同じ話題の上に乗る。その事実が、距離を縮める。
「誰が」
「後輩。年齢近い」
「早いね」
「早い。でも、早くないのかも」
直哉の声が少し低い。仕事の低さではなく、個人の低さ。ひかりはその低さに、胸が締まるのを感じた。締まるときは、だいたい言いたくないことが近づいている。
「みんな、普通に祝ってて」
直哉が続ける。
「普通に将来の話してて」
将来。ひかりの喉がまた乾く。乾きは、言葉を出しにくくする。出しにくいのに、聞きたい。
「俺、何も言えなかった」
「直哉くんが?」
「うん。俺が」
直哉は短く言い、息を吐く。吐いた息が夜に溶ける。溶けるのが早い。早いものほど、掴めない。
「なんで」
ひかりは聞いてしまった。聞いてしまってから、踏み込んだと思う。踏み込まないことで関係を守っているのに、踏み込む。踏み込むのが怖いのに、踏み込んでしまう。
直哉はしばらく黙った。黙って言葉を探す。探している沈黙は重い。重い沈黙の中で、ひかりの心臓の音がはっきりする。音があるのに、沈黙が成立してしまう。
「……将来の話をするとさ」
直哉が言う。
「今の話が嘘になる気がして」
今の話。ひかりは足元を見た。濡れているところと乾いているところが混じっている。境目は曖昧だ。曖昧だから滑る。滑るから怖い。
「嘘になるって」
「今、特別なものがあるって認めることになる」
特別。直哉がその言葉を口にした瞬間、ひかりの胸の奥が熱くなった。熱くなって、怖い。怖いのに、熱を否定できない。
「認めたら、戻れない」
直哉の声は荒れていない。荒れていないから、余計に刺さる。刺さるのは、言葉が丁寧だからだ。丁寧な言葉は逃げ道を塞ぐ。
「……今日、私も似た話された」
ひかりは言ってしまう。言ってしまってから、後悔する。後悔しても遅い。遅いのに言う。言わないと、胸の中が詰まるからだ。
「誰に」
「先輩。恋愛とか結婚とか、将来とか」
直哉が小さく息を吸う。いつもの一拍が揺れる。揺れる一拍は、直哉の疲れを見せる。見えてしまうと、こちらの心が勝手に動く。
「ひかりは、なんて答えた」
ひかりは食堂の自分の声を思い出した。違いますよ、と強く言った声。守りたいものが何か分からないまま守った声。
「ごまかした」
「俺も」
「逃げた?」
「逃げた」
逃げた。直哉がそう言うと、ひかりの胸の奥がちくりとする。直哉は逃げない人だと思っていた。逃げない人が逃げたと言えるのは、この話が仕事ではないからだ。仕事ではなくて、生活だからだ。
裏通りの匂いが濃くなる。油の甘さと、冷えたコンクリートの湿りが混ざる。どこかの裏口が開いたのか、湯気が一瞬だけ流れてきて、頬を撫でて消えた。消えるあたたかさが、逆に痛い。
ひかりは口を開いた。
「私たちって、何なんだろうね」
言ってしまった。言ってしまうと、空気が変わる。変わった空気の中で、電車の音が遠くで鳴っても助けにならない。言葉の輪郭だけが残る。
直哉はすぐに答えない。答えない沈黙が重くなる。重くなるほど、ひかりは視線を前に固定する。横を見たら、何かがこぼれる気がする。
直哉が言う。
「何でもないって言うのが、一番楽」
「うん」
「でも、何でもないって言うたびに、嘘ついてる気もする」
嘘。嘘は嫌いだ。嫌いなのに、嘘で守ってきたものがある。守りたいから嘘をつく。嘘をつくから疲れる。疲れるから、また守りたくなる。堂々巡り。
「嘘、つきたくない?」
ひかりは聞く。聞いてしまう。聞くことが踏み込みだと分かっているのに、止められない。
直哉は一拍置いて言った。
「つきたくない」
その言い切りが、ひかりの胸に落ちる。落ちて、静かに広がる。広がると、次の言葉が勝手に出そうになる。出そうになる言葉が怖い。
ひかりは、あえて言った。
「じゃあ、名前をつける?」
口にした瞬間、喉がきゅっと縮む。付き合う。恋人。そういう言葉が頭の中で勝手に並ぶ。並んだだけで息が詰まる。詰まると、怖い。
直哉が足を止めた。ひかりも止まる。止まると、裏通りの音が近づく。換気扇の低い回転音。遠い車の走行音。誰かの笑い声の残り。音があるのに、二人の間は静かだ。
直哉は前を見たまま、少し時間を置いた。言葉を選んでいる。選びながら、選びすぎないようにしている。そういう苦労が見える。
「……つけたら」
直哉が言う。
「今の距離は、終わるかもしれない」
ひかりは頷くしかない。自分も同じことを怖がっている。関係に名前をつけた瞬間、いまの距離が失われる。失われたら、もう息ができない気がする。
「終わるのが怖い」
直哉が続ける。
「でも、終わらせないために何もしないのも、怖い」
怖いが二つ並ぶ。二つとも本物だ。どちらかが嘘なら楽なのに、どちらも嘘じゃない。
ひかりは、胸の奥の言葉に触れる。
この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。
言えない。言えないけれど、言えないままでいいのか。直哉の言葉が、その問いを浮かせる。
ひかりはゆっくり言った。
「名前をつけないままでも、たぶんもう、変わってるよね」
直哉が頷く。
「変わってる」
「変わってるのに、何も言わないでいるのって」
ひかりが続けられないところで、直哉が言った。
「しんどい」
その言葉が救いになるのが不思議だった。しんどいと言える関係になってしまった。なってしまった、と言うのは違う。なりたかったのかもしれない。認めたくないだけで。
「しんどいね」
ひかりも言った。言ってしまった。言ってしまうと、共通の言葉が増える。増える言葉は関係を濃くする。濃くなるのが怖い。怖いのに、薄いまま失うのはもっと怖い。
直哉が一歩だけ近づく。肩は触れない。でも空気が変わる。空気が変わると、視線の温度が上がる。温度が上がるのに、誰も触れない。触れないことで保っている距離が、いまは薄い膜みたいに震える。
「じゃあ、今は」
直哉が言う。
「名前をつけないまま、しんどいって言うのはどう」
ひかりは瞬きをした。そんな折衷案があるのかと思う。踏み込まないまま、踏み込む。矛盾しているのに、現実的だ。二人が今ここでできることは、たぶんそれくらいだ。
「ずるい」
ひかりが言うと、直哉は小さく笑った。
「ずるい。でも、限界まで我慢するよりはいい」
限界。限界という言葉が、夜の匂いと一緒に胸に残る。限界は崩れる前触れでもあるし、変わる前触れでもある。どちらになるかは分からない。分からないから、明日も歩くしかない。
二人はまた歩き出す。足音が揃う。揃うと、ひかりの呼吸が少し深くなる。深くなると怖い。怖いのに、深くなる息が好きだ。
分かれ道が近づく。いつもの角。いつもの角が見えると、少し痛い。痛いのに、いつも通りに立ち止まる。いつも通りの形で別れないと、今夜が壊れそうだからだ。
直哉が足を緩める。
「明日も」
直哉が言う。
「同じくらい?」
ひかりは頷いた。頷くと、少しだけ未来がつながる気がする。未来がつながるのが怖い。怖いのに、つながってほしい。
「うん」
直哉は頷いて、言い足した。
「今日の話、忘れない」
忘れないと言われると、胸が温まる。温まると、また怖くなる。温まったものは冷えるときが痛いからだ。
「忘れなくていいの?」
ひかりは聞いてしまった。聞いてしまうのは頼っているからだ。頼っていると認めたくない。
直哉は一拍置いて言った。
「いい」
それだけで、ひかりは息を吐けた。吐いた息が夜に溶ける。溶けていくのを見送るように、ひかりは小さくうなずく。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がる。直哉の足音が遠ざかる。遠ざかる足音の向こうで、電車の音が一度だけ大きくなる。音が大きいと、心の中の言葉が少し沈む。沈むと、息ができる。
家までの道の途中で、ひかりは一度立ち止まった。立ち止まると、裏通りの匂いが濃くなる。濃くなる匂いの中で、先輩の言葉がまた浮かぶ。だいたいそうなる。あっという間。
あっという間に、何が起きるんだろう。
ひかりは答えない。答えないまま、鍵を回す。ドアを開けると、室内の乾いた空気が頬に触れる。外の湿り気が少しずつ消える。消える前に、今日の言葉が残る。
名前をつけないまま、しんどいって言う。
それは逃げなのか、工夫なのか、まだ分からない。分からないまま、ひかりはコートを脱いだ。脱いだ布が、夜の匂いを小さく吐き出す。吐き出された匂いが消える前に、ひかりは息を吸った。
この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。
言えない言葉はまだ胸の底にある。底にあるのに、水面は揺れている。揺れを止められないまま、夜がゆっくり更けていった。
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