【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第9章:遠回りの選択
朝の空が薄くほどけるころ、ひかりはカーテンの隙間から入る白さに、少しだけ怯えた。
昨日の手の熱が、まだ指の記憶に残っている。残っているのに、目に見えるものは何も変わらない。変わらないのが、少しだけ苦しい。苦しいから、いつも通りの順番で支度をする。歯を磨いて、髪をまとめて、服を選んで、玄関で靴を履く。
いつも通りにすると、いつも通りの人になれる気がする。
なれる気がするだけで、ならない。
会社へ向かう道の風は冷たく、建物の影の濃さが昨日よりはっきりしていた。光が澄むほど、影が逃げない。影が逃げないのと同じように、ひかりの中の言葉も逃げてくれなかった。
特別。
触っていい?
待ってる。
その言葉たちは形を持ってしまった。形を持ったものは、扱いが難しい。難しいから、仕事に逃げる。逃げても追いついてくるのが、恋の気配だと分かってしまう。
午前中、ひかりはいつもより丁寧に資料を作った。丁寧に作れば安心できるはずなのに、安心は持続しない。印刷した紙の匂いが鼻に残る。インクの乾いた匂いは、現実の匂いだ。現実の匂いの中で、昨夜の裏通りの湿りを思い出してしまう。
昼休み、先輩が席に来た。
「ひかりちゃん、今日も机?」
「うん。ちょっと立て込んでて」
先輩は椅子に腰をかけず、机の端にもたれる。
「最近さ、顔色、悪くないけど」
悪くないけど。言い方が優しい。優しい言い方は、こちらの逃げ道を狭める。
「なんか、気になるんだよね。ちゃんと寝てる?」
寝ている。寝ているのに、眠れていない夜がある。眠れない理由は言えない。言えない理由を抱えたまま笑う。
「寝てるよ。たぶん」
「たぶんって言うの、怪しい」
先輩は笑った。笑いは軽い。軽いのに、ひかりは胸が少し詰まる。軽い会話の中に、自分の重さが混じると浮いてしまう。
「ほんとに。大丈夫」
大丈夫。大丈夫と言う癖は、便利で、危ない。自分にも言い聞かせてしまうからだ。
先輩は机の上の資料に目を落とす。
「そういえばさ、佐伯さん、最近忙しそうだね」
ひかりは一瞬だけ手を止めた。止めないふりをする。
「そうなんだ」
「営業企画、外の調整増えてるって。残業続いてるって聞いた」
聞いた。誰かが聞いている。誰かの耳に入る。直哉の忙しさは、職場の噂になる程度には目立っている。目立つ忙しさの中で、ひかりとの帰り道は余計に小さな出来事になる。小さな出来事なのに、ひかりの中では大きい。
先輩がちらりとひかりを見る。
「篠原さんも、何か手伝えることあったらって言っといたら?」
言っといたら。軽い提案。軽い提案なのに、ひかりの胸の奥が熱くなる。手伝えること。そういう言葉で直哉に近づくのは、仕事の名目を使うことになる。名目があると安全だ。安全だから、余計に卑怯に感じる。
「うん。そうする」
ひかりは曖昧に答えた。曖昧に答えると、その場は終わる。終わらせるのが癖だ。終わらせたくない話ほど、終わらせてしまう。
先輩が去って、席に残ると、ひかりはスマホを伏せたまま、指先で机を軽く叩いた。叩く音はほとんどしない。しないのに、自分の中にだけ響く。
直哉にメッセージを送るか迷った。
昨日、言えたね。
今日はどう?
そんな軽い言葉が、逆に重い。言葉は軽いほど、真意が透ける。透けると怖い。怖いから送らない。送らないことで守れるものがあると思ってしまう。守れると思うのは錯覚だと分かっているのに。
夕方、窓の外が褪せていくころ、直哉から連絡が来た。
今日は遅くなる。たぶん、最後に一件。終わったら連絡する。
最後に一件。終わったら。たぶん。
言葉の端に疲れが見える。疲れが見えると心配が出る。心配が出ると、会いたくなる。会いたくなると、また怖くなる。心の動きが忙しいのに、外側の自分は静かだ。静かなまま、ひかりは返信した。
うん。無理しないで。終わったら教えて。
教えて。言いながら、待っていると言っている。待っていると言ってしまったから、もう後戻りはできない気がする。
定時を過ぎて、フロアの人が減っていく。椅子の軋みが遠くなる。空調の音が目立つ。目立つ音は、心を空にする。空になりかけた心に、直哉の一拍遅れの呼吸が浮かぶ。
帰り道がある日は、終業の時点で気持ちが決まる。今日は決まらない。決まらないまま、ひかりは鞄を持って席を立った。エレベーターの鏡に映る自分は、やっぱり整っている。整っている顔は、誰の味方でもない。
駅に着くと、空気が違った。
人の流れが速い。金曜ほどではないが、夜の街はどこか浮ついている。傘を持つ人が増えていた。空が湿っているのが分かる。雨の匂いが、まだ降らないまま漂う。降らない雨は、落ち着かない。
改札を抜けて、高架下の方向へ足を向けかけて、ひかりは止まった。
まだ連絡がない。
先に行くべきか、待つべきか。いつもなら自然に待っていた。今日は違う。待つという行為に意味が乗りすぎる。意味が乗ると、待つことが約束になる。約束になったら、期待が生まれる。期待が生まれると、外れたときに痛い。
ひかりは少しだけ息を吸って、ベンチの近くに立った。座らない。座ったら長く待つ覚悟ができてしまう。覚悟は怖い。
スマホが震えた。
終わった。今、改札出た。
短い文。短いのに、胸が一度だけ跳ねる。跳ねたことを誰にも見られたくなくて、ひかりは周りを見た。誰も見ていない。見ていないのに、見られている気がするのが自意識だ。
ひかりは返信した。
私もいる。いつものところ行く?
送ってから、指が少し冷たい。冷たい指で、熱いことをしている。熱いことをしているのに、熱いと言えない。
直哉の返事はすぐだった。
行きたい。けど、今日、少し話していい?
話していい。話すことがある。昨日も話した。今日は違う話だろうか。同じ話の続きを、今夜こそ終わらせる話だろうか。ひかりは胸の奥が少し重くなるのを感じた。
いいよ。会おう。
送信したとき、自分の言葉が少し震えた気がした。震えた気がしただけで、画面の文字は整っている。整っている文字は、感情を隠す。
高架下へ向かう途中、電車の音が落ちてきた。いつもなら、その音が膜になってくれる。今日は膜が薄い。薄い膜は、隠すより透かす。
柱の影で直哉が待っていた。
ひかりに気づいて、視線が上がる前に一拍遅れる。遅れた呼吸が、ひかりの胸を叩く。叩かれるたびに、身体が素直になるのが怖い。素直になると、守ってきた距離が崩れる。
「おつかれ」
「おつかれさま」
直哉の声は少し掠れていた。疲れの掠れ。喉を使い続けた人の声だ。ひかりは思わず言いそうになる。ちゃんと食べた? 寝てる? 無理しないで。そういう言葉は安全で、痛い。
ひかりは代わりに、短く言った。
「寒くない?」
「少し。ひかりは」
「大丈夫」
大丈夫。大丈夫と言いながら、全然大丈夫ではない。寒さは平気でも、心の温度が落ち着かない。
二人は歩き出した。高架下の白い光が道を平らにする。平らになった道を歩くと、気持ちも平らにしたくなる。平らにすると、言葉が出にくい。出にくい言葉ほど出したくなる。
裏通りに入ると、匂いが変わる。少し湿った壁の匂い。油の薄い甘さ。遠くの店の湯気。ひかりはその匂いを吸い込んで、喉の奥が落ち着くのを感じた。落ち着くのは、ここが二人の場所になってしまったからだ。
直哉が言った。
「今日、会えたの、助かった」
助かった。第8章のありがとうと似た言葉。言葉が穏やかなほど、重いものを包んでいる。
「私も」
ひかりは短く返した。短い返事は、時々嘘を隠す。今日は隠したくない。
直哉は歩く速度を少しだけ落とした。ひかりの歩幅に合わせる癖ではない。話のための速度。速度が変わると、空気の密度が上がる。
「ひかり」
直哉が名前を呼ぶ。名前は近い。近い言葉は、距離を縮める。
「今週、来週の話」
来週。直哉の忙しさはまだ続く。続く忙しさは、また帰り道を奪うかもしれない。ひかりは胸が少し痛む。
「うん」
「俺、来週」
直哉はそこで止まった。一拍遅れて、視線を逸らす。癖。逸らす先は濡れた跡の残る路面だった。濡れは消えない。消えないものを見ると、人は言葉を選ぶ。
「部署のほうで、外に出る日が増える」
外に出る。直哉の生活が、会社の外に引っ張られる。引っ張られると、帰り道が減る。減ると、また空白が増える。空白は慣れたくない。
「出るって、出張?」
「出張ってほどじゃないけど、夜まで拘束が多い。相手に合わせるから」
相手に合わせる。直哉はいつも誰かに合わせている。仕事でも、帰り道でも。合わせることで成立する人だ。成立するのに、誰も彼の本音を知らない。ひかりは、その本音に触れかけている。触れかけているのが怖い。
「そっか」
ひかりの声が落ち着いてしまう。落ち着いてしまう声は、自分の心を裏切る。裏切られて、胸が痛い。
直哉が言った。
「帰り道、今みたいには、しばらく無理かもしれない」
その言葉が、裏通りの湿りに吸われずに残った。残って、ひかりの胸に刺さる。刺さったのに、顔は整ってしまう。整ってしまう自分が嫌だ。
「うん」
ひかりはそれしか言えなかった。うんの中に、分かったと、仕方ないと、嫌だが混ざる。混ざった言葉は苦い。
直哉が息を吐いた。
「ごめん」
「謝らないで」
ひかりは反射で言ってしまった。反射は癖だ。癖で言った言葉が、今日は自分を追い詰める。謝らないでと言ってしまうと、直哉は余計に何も言えなくなる。何も言えなくなると、また空白が増える。
ひかりは続けた。
「謝らなくていい。……でも、怖い」
怖い。自分の口からその言葉が出た。出た瞬間、胸の奥が少し軽くなる。軽くなるのに、涙が近い。泣いたら困らせる。困らせたくない。困らせたくないのに、怖いと言った時点で困らせている気もする。
直哉は頷いた。
「俺も怖い」
「何が?」
「慣れそうなこと」
また同じ言葉。二人は同じ怖さを共有している。共有は救いで、同時に罠だ。共有すると離れられなくなる。
直哉は続ける。
「だから、今日、選びたい」
選ぶ。第8章の言葉がここで重くなる。選ぶのは何だろう。帰り道の頻度か。距離の形か。関係の名前か。名前をつけたら、いまの距離が失われる。失われるのが怖い。怖いのに、選ばないと壊れる。
ひかりは足を止めた。直哉も止まる。止まった瞬間、裏通りの音が近づく。換気扇。遠い車。誰かの笑い声の残り。音があるのに、沈黙の輪郭が濃い。
直哉が言う。
「ひかり、今日さ」
「うん」
「遠回り、しない?」
遠回り。言葉は軽い。軽いのに、意味は重い。遠回りは、二人が選ぶ行動だ。遠回りを選ぶと、別れ道を先延ばしにできる。先延ばしは楽で、痛い。
「遠回りって」
ひかりは聞いた。聞きながら、答えを知っている。今日はいつもの角で終わらせたくない。直哉も同じだ。だから遠回りを提案した。遠回りの先で、何を言うつもりなのか。
直哉は一拍遅れて言う。
「いつもの角じゃなくて、もう少し歩きたい」
もう少し。もう少しという言葉は、無限に伸びる。伸びるから怖い。けれど、もう少ししか今夜はない気もする。
ひかりは頷いた。
「いいよ」
言った瞬間、胸が熱くなる。熱が上がって、喉が詰まる。詰まりを隠すために、ひかりは歩き出した。直哉も歩く。歩く速度が遅い。遅い速度は、今夜の覚悟を作る。
裏通りを抜け、高架下の音が戻る。電車が通るたび、会話が切れる。切れるたびに、言葉の続きを胸の中で組み立ててしまう。組み立てた言葉は、出すと壊れる気がする。壊れるのが怖いから、出さない。出さないまま歩く。歩くのに、近づいている。
遠回りは、駅とは反対方向へ少しだけ向かう。明るい通りを避け、住宅の気配が増える道を選ぶ。街灯の輪が地面に落ち、雨の痕が薄く残る。濡れたアスファルトの匂いが微かに立つ。降ったか降らなかったか分からない程度の湿り。湿りが、今日の気持ちに似ている。はっきりしないのに、確かにそこにある。
直哉が言った。
「さっきの話」
「うん」
「帰り道が減るの、俺も嫌だ」
嫌だ。直哉の口から、はっきりした感情が出る。出るだけで、ひかりの胸が少し軽くなる。軽くなると、痛みが見える。痛みが見えるのは嫌ではない。現実が見えるからだ。
「嫌なら、どうするの」
ひかりは聞いた。聞いてしまった。聞くと答えが来る。答えが来ると、受け取らなければならない。受け取るのが怖いのに、受け取りたい。
直哉は一拍置いて言う。
「俺、ひかりと会う時間を、ちゃんと作りたい」
会う時間。帰り道だけではない時間。言葉はまだ曖昧だ。曖昧の中に、未来がある。
「作るって」
ひかりの声が少しだけ震えそうになる。震えを抑える。抑えると苦しい。苦しいのに抑える。
直哉は続ける。
「帰り道が減っても、なくならないように」
なくならないように。直哉が言うその未来は、ひかりが怖がっている未来でもある。関係に名前をつけた瞬間、いまの距離が失われる。けれど、名前をつけないままだと、時間が勝手に奪う。奪われるのは嫌だ。
ひかりは息を吸った。冷たい空気が肺を満たす。満たされた肺が、言葉を押し出す。
「それって、約束?」
約束。約束という言葉は、重い。重い言葉を口にすると、嘘が許されなくなる。嘘が許されなくなるのが怖い。怖いのに、嘘で守るのはもう限界だ。
直哉は一拍遅れて頷いた。
「約束にしたい」
したい。直哉の言い方は慎重だ。慎重な言い方は、相手の逃げ道を残す。逃げ道があるのに、ひかりは逃げたくないと思ってしまう。逃げたくない自分が怖い。
「ひかりは?」
直哉が聞く。
「どうしたい」
どうしたい。問いが自分に向くと、急に足元が不安定になる。ひかりは自分の本音を言う前に、相手の反応を想像してしまう。想像してしまうから、正直が遅れる。遅れると、時間が逃げる。逃げる時間が怖い。
ひかりは立ち止まった。直哉も止まる。街灯の輪の中で、二人の影が並ぶ。影は触れそうで触れない。触れない影が、二人の距離そのものだ。
ひかりは言った。
「怖い」
直哉が頷く。
「うん」
ひかりは続けた。
「でも、なくなるほうがもっと怖い」
言ってしまった。言ってしまうと、言えない言葉の核心が見えてしまう。見えてしまうのに、もう隠れない。
直哉の目が少し柔らかくなる。柔らかくなる目は、ひかりを弱くする。
「ひかり」
直哉が呼ぶ。
「今日、遠回りしたの」
言いかけて止める。止めたあと、直哉は言い直すみたいに言った。
「今日、遠回りしてよかった」
よかった。よかったと言うとき、直哉は今夜を大事にしている。大事にされると嬉しい。嬉しいと同時に、責任が生まれる。大事にされる側にも責任がある気がして、ひかりは少し怖くなる。
ひかりは小さく笑った。
「まだ、よかったって言うの早くない?」
直哉も少し笑う。笑いが短い。短い笑いは、笑いで済ませられないことが近いときの笑いだ。
「早い。でも、言わないと、また言えなくなる」
言わないと、また言えなくなる。第8章の夜に言った。言えた。言えたことが、二人をここへ連れてきた。だから今夜も言うしかない。
直哉が息を吸う。吸う前に一拍遅れる。癖。癖が今夜は祈りみたいに見える。
「ひかり、俺さ」
言いかけて止まる。止まると、ひかりの心臓が鳴る。鳴る心臓の音が、外の音より大きい気がする。音が隠さなくなる、という第8章の言葉が、ここで現実になる。
直哉は続ける。
「来週、帰り道が減っても」
「うん」
「ひかりと、続けたい」
続けたい。何を。帰り道を。関係を。特別を。まだ名前のないものを。続けたいと言うのは、選ぶということだ。
ひかりの喉が詰まる。詰まるのに、言葉を返さなければいけない。返さないと、続けたいは宙に浮く。浮いた言葉は、落ちたときに割れる。
ひかりは言った。
「続けたいって、言っていいの」
自分でも変な言い方だと思った。許可を求めている。直哉の言葉に許可を出すことで、自分も言える気がしている。ずるい。自分がずるい。
直哉は首を振る。
「許可じゃない。俺が言いたい」
言いたい。言いたいと言える人は強い。強さに頼りたくなる。頼りたくなるのが怖い。
ひかりは、息を吐いて言った。
「私も、続けたい」
言えた。言えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。軽くなると怖い。軽いものは飛ぶ。飛ばないように、ひかりは視線を落とした。落とした先に、路面の小さな水たまりがある。街灯の光が揺れている。揺れは風のせいか、二人の呼吸のせいか分からない。
直哉の手が、ひかりの手の近くまで来た。触れない。触れないまま、迷う。迷いが見える。見える迷いは、触れることが決定になると知っている証拠だ。
ひかりは小さく言った。
「触る?」
直哉が一拍遅れて頷く。
「……いい?」
ひかりは頷いた。頷くと、手が熱くなる前に心が熱くなる。
直哉の指先が、ひかりの指に触れた。今度は手の甲ではない。指と指が触れる。触れた瞬間、ひかりの身体が小さく震えた。震えは寒さではない。寒さのせいにしたいのに、できない震えだ。
直哉は握らない。指を絡めるでもない。ただ、触れて、確かめる。確かめる触れ方は、約束より重い。
「ひかり」
直哉の声が低い。低い声は本気だ。
「俺、怖いけど」
「うん」
「離したくない」
離したくない。言葉が出た瞬間、ひかりの胸がきゅっと縮む。縮んで、痛くなる。痛みは嬉しさの形でもある。嬉しさだと認めたくなくて、ひかりは目を閉じた。
「私も」
ひかりは言った。言った瞬間、涙が出そうになる。出そうになる涙を、息で抑える。抑えながら、抑えなくていい気もしてくる。抑えない自分を見せたら、直哉は困るだろうか。困らせたくない。困らせたくないが、今夜は自分も少しだけ困りたい。
直哉が言う。
「今日、選びたいって言ったの」
「うん」
「帰り道が減っても、ひかりが俺の中で減らないようにしたいって意味」
減らないように。そんな言い方は、恋の言い方に近い。近いのに、まだ恋と言わない。恋と言わないことで守るものがある。守りたい気持ちは分かる。分かるから、ひかりはその言葉を否定しない。
「減らないよ」
ひかりは言いそうになって、止めた。止めた。言い切りは危ない。言い切ると約束になる。約束が外れたときに痛い。痛いのは嫌だ。嫌なのに、痛いことを選んでいる。
ひかりは代わりに言った。
「減らしたくない」
減らしたくない。自分の意思にした。意思にした瞬間、胸が少しだけ楽になる。楽になるのに、怖い。自分の意思は、自分の責任になる。
直哉が小さく息を吐いた。
「それ、嬉しい」
嬉しい。嬉しいと言われると、自分の言葉が誰かを動かしたと分かる。動かしたことが怖い。怖いのに、嬉しい。
遠回りの終わりが見えてきた。結局、いつもの角へ戻る道へ繋がっている。遠回りは遠回りでしかない。別れ道は、避けても避けてもどこかにある。
いつもの角が見えると、ひかりの胸が痛む。ここで別れる。別れると、今日の言葉が部屋の静けさの中で大きくなる。大きくなるのが怖い。怖いのに、直哉の指がまだ触れているのが救いだ。
角の手前で、直哉が足を止めた。ひかりも止まる。
高架下の音が遠くで鳴った。電車が通る音。音が二人を隠してくれる。隠してくれるうちに、言葉を言える気がした。
直哉が言う。
「ひかり」
「うん」
「来週、たぶん、帰り道は少ない」
「うん」
「でも」
直哉はそこで止めた。止めたあと、指先が少しだけひかりの指を押す。押すだけ。握らない。押すだけなのに、意思がある。
「今日みたいに、遠回りでもいいから」
遠回りでもいい。遠回りは言い訳ではない。選択だ。選択を積み重ねると、関係は形になる。形になったら、名前が必要になる。名前が怖い。怖いのに、形が欲しい。
ひかりは言った。
「遠回りじゃなくてもいい」
直哉がこちらを見る。
「え?」
ひかりは息を吸って、言葉を出した。
「帰り道が少なくても、会うって言うなら、会うって言えばいい」
会うって言えばいい。自分の声が少し震える。震えているのに、言ってしまった。言ってしまうと戻れない。戻れないのに、言いたかった。
直哉の呼吸が一拍遅れる。遅れて、目が少しだけ揺れる。
「……会いたいって言っていい?」
第6章の電話の夜の言葉が戻る。声で聞きたい。聞きたいのに怖い。怖いのに、聞きたい。
ひかりは頷いた。
直哉が小さく息を吸う。
「会いたい」
その言葉は、電車の音よりはっきりひかりの胸に落ちた。落ちて、熱になる。熱になると涙が近づく。近づく涙を、今夜は抑えきれなかった。
ひかりの目の奥が濡れる。零れないまま、視界だけが少しぼやける。ぼやけた中で、直哉の顔が真剣に見える。真剣な顔は、怖いほど優しい。
ひかりは小さく言った。
「私も」
それだけ。私も、の中に全部を詰めた。恋という言葉はまだ言わない。言わないままでも、もう十分に恋の形をしている。
直哉が、ひかりの指を今度は少しだけ握った。握る強さは弱い。弱いのに、離さない意思がある。意思がある触れ方は、約束より確かな気がする。気がするだけかもしれない。気がするだけでも、今夜は救いだ。
直哉が言った。
「明日」
「うん」
「明日、仕事終わったら、少しだけ」
少しだけ。少しだけと言いながら、続きが欲しい。続きが欲しいのに、欲しいと言えない。言えないまま、ひかりは頷く。
「うん」
直哉が少し笑う。笑いは柔らかい。柔らかい笑いは、今夜の緊張を少しだけほどく。ほどけると、寂しさが見える前に安心が来る。
安心が来ると怖い。
安心のあとに落ちると、痛いからだ。
ひかりは、直哉の指をそっと返した。握り返す。握り返すことで、自分も選んだと伝える。伝えるのが怖いのに、伝えたい。
電車の音が遠ざかる。音が遠ざかると、二人の沈黙が露わになる。露わになった沈黙の中で、別れ道が目の前にある。
直哉が言った。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がり、数歩進んでから立ち止まった。振り返りたい衝動が来る。衝動は熱い。熱いまま、ひかりは振り返った。
直哉はまだそこに立っていた。立っていて、こちらを見ている。見ているのに追ってこない。追ってこない距離が、今夜の二人の選択の結果だ。
ひかりは小さく手を上げた。直哉も手を上げる。
その瞬間、ひかりは思う。
遠回りを選んだのは、別れ道を避けるためじゃない。別れ道を、二人で越えるための時間だったのかもしれない。
部屋に帰ると、静けさが待っていた。冷蔵庫の音。遠い車の音。遠い電車の音。音はいつも通り。いつも通りなのに、今日はうるさくない。うるさくないのが、少し怖い。
スマホが震えた。
直哉からだった。
今夜、言えた。ありがとう。明日も会いたい。
明日も会いたい。文字が整っている。整っているのに、心が熱い。熱いまま、ひかりは返信を打つ。打って、消して、また打つ。言葉を選びすぎる癖が戻る。戻る癖を今日は叱らない。叱っても変わらないなら、せめて正直を混ぜる。
ひかりは送った。
私も会いたい。明日、待ってる。
送信して、画面を伏せた。黒い画面に映る自分の目が、少しだけやわらかい。やわらかい目は、怖いのに嬉しい。
別れ道は避けられない。
避けられないなら、選ぶしかない。
選ぶ夜が、もうすぐ来る。
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