【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第6章:慣れそうで怖い
朝の光が窓の縁に貼りついて、なかなか部屋の奥へ進んでこないころ、ひかりは台所の蛇口をひねったまま、手の中のスポンジを動かさずにいた。
水の音だけが一定で、ほかは静かだった。昨夜の雨が残した冷えが、床のあたりに薄く溜まっている気がする。気がする、という曖昧さが、最近は多い。確かなものは数字くらいだと思っていたのに、数字も人の手を通ると揺らぐ。揺らぐものの中で、揺らぎに慣れたくない自分がいる。
スマホはテーブルの上に伏せてある。画面は黒いまま。黒いままなのに、視線だけが勝手にそこへ寄る。寄るたびに、何も起きていないことが確認される。確認されると、胸の奥が少しずつ乾いていく。
直哉からの連絡は、昨夜から来ていなかった。
来ないことは普通だ。普通なのに、来ないことが新しい情報みたいに感じる。感度が上がっているのが怖い。上がった感度は、ちょっとしたことで痛む。
会社へ向かう道で、空気が入れ替わるのを感じた。ビルとビルの間を抜ける風は、湿り気を少しだけ置き去りにして、代わりに冷たさを運ぶ。道路脇の植え込みは雨の匂いを抱えていて、土の匂いが一瞬だけ鼻の奥をくすぐった。東京の匂いはいつも混ざっているのに、今日は混ざり方が少し薄い。
フロアに入ると、仕事の音がある。打鍵。紙を揃える音。短い呼びかけ。椅子の脚が床を擦る音。音があるから、心は仕事へ寄る。寄ってくれるのは助かる。助かるのに、寄りきらない。
午前のうちに、直哉からチャットが来た。
今週、かなり詰まってる。帰り道、たぶん無理。ごめん。
短い文。丁寧な言葉。最後のごめんだけが、やけに湿って見えた。ひかりは画面を見て、すぐに返信を打てなかった。打てないのは、困る。困っているのが自分だけだと分かってしまうからだ。
指先が迷って、結局、いつもの言葉を選ぶ。
了解。無理しないで。
送信したあと、ひかりは椅子に深く座り直した。背もたれが背中を受け止める。受け止められると、胸の奥の何かが少しだけ沈む。沈んだものは、消えない。沈んだまま、そこにある。
無理しないで。
その言葉に、どこまでを含めてしまったのか分からない。仕事を。身体を。生活を。帰り道を。いちいち分けないほうが安全なのに、もう分けられない気がしてくる。分けられないなら、混ざったまま抱えるしかない。抱えると、重い。
その週は、忙しさが目に見える形でフロアを覆った。
予算の見直し、決裁の締め、急な差し替え。ひかりの手元にも、いつもより少し尖った依頼が飛んできた。人は余裕がないと、言葉の角が出る。ひかりは角を丸める。丸める作業は得意だ。得意だから、自分の角がどこにあるのか分からない。
昼休み、食堂の湯気を避けるように、ひかりは自席でコンビニのおにぎりを食べた。包みを開くときの音がやけに大きく聞こえる。海苔の匂いが一瞬だけ立ち上がって、すぐに消える。消える匂いは、なぜか寂しい。
隣の席の同僚が軽く話しかけてきた。
「篠原さん、最近静かじゃない?」
「そう? 忙しいだけだよ」
「忙しいのはみんな忙しいけど、なんか、帰り急いでない?」
急いでいない。急いでいないのに、帰り道の気配だけを急いでしまう。気配がないのが嫌で、帰りを急ぐ。そう言えたら楽なのに、言えない。
「早く帰って寝たいだけ」
ひかりは笑ってそう答えた。笑い方は、たぶん上手い。上手いから、見抜かれない。見抜かれないのが、孤独だ。
定時が過ぎ、フロアの人が少しずつ減るころ、ひかりは机の上の書類を揃えた。揃えることで終わりを作る。終わりを作らないと、今日が終わらない気がする。けれど、終わってほしいようで、終わってほしくない。終わったら、帰り道が始まってしまうからだ。
帰り道が始まって、そこに直哉がいない。
大井町の改札を抜けた瞬間、いつもなら胸の内側がふっと緩む。今日は緩まない。むしろ、息が少しだけ硬い。駅前の光は明るい。明るいのに、空気の手触りは重い。人の流れに乗って歩きながら、ひかりは高架下へ向かう足を、わざとそちらへ寄せないようにした。
行っても仕方がない。
仕方がない、と言えるほど大人ではないのに、大人のふりをしてしまう。ふりをする癖が、こういうときに自分を守る。守るのに、守られた自分が苦しい。
裏通りではなく、少し明るい通りを選ぶ。店の匂いが漂う。焼けた肉の匂い。出汁の匂い。油の甘さ。匂いが濃いと、心が紛れる。紛れたふりができる。できるだけだ。
家に着いて、靴を脱いだとき、部屋が広く感じた。広いのは実際の広さのせいではない。音が少ないせいだ。直哉と歩くときの電車の音、蛍光灯の白い唸り、足音。そういうものが消えて、代わりに冷蔵庫の低い稼働音が部屋を支配する。
支配されると、寂しい。
寂しい、と言葉にするのは卑怯だと思う。寂しいと言えば、何かを求めていることがはっきりしてしまう。はっきりした欲は、相手を困らせる。ひかりは困らせたくない。困らせたくないと言いながら、自分が困っている。
その夜、ひかりは洗濯機を回した。回る音が、部屋の静けさを少しだけ削る。削ってくれるのがありがたい。ありがたいのに、洗濯が終わって音が止まると、また元に戻る。
元に戻る、という言い方が変だ。
直哉と歩く日々が、もう元になっている。そう気づくと、胸が痛む。痛みは静かで、呼吸に混ざる。混ざった痛みは、吐いても出ていかない。
二日目も、直哉からは同じような連絡が来た。
今日も遅い。ごめん。
ひかりは即座に返信した。
大丈夫。気にしないで。
気にしないで。文字にすると簡単だ。簡単だから怖い。簡単に言えることほど、自分の中で実は重い。重い言葉を軽く投げると、いつか自分に返ってくる気がする。
その週の後半、ひかりは少しだけ苛立っている自分に気づいた。
会議で誰かが曖昧な返事をすると、いつもなら丁寧に拾えるのに、今日は拾う前に胸がざわつく。資料の数字が合わないとき、いつもなら落ち着いて原因を追うのに、今日は指が早くなる。早くなるとミスが増える。ミスが増えると自己嫌悪になる。自己嫌悪になると、さらに苛立つ。
苛立ちの向け先がない。向け先がない苛立ちは、自分に向かう。
ひかりは、昼休みに自販機で甘い飲み物を買った。第1章のあの缶の甘さとは違う。違うのに、甘さは同じ場所を撫でる。撫でられると少し落ち着く。落ち着くと、余計に寂しさが見える。
夕方、窓の外が黒に沈んでいくころ、ひかりはスマホを見た。直哉からの通知はない。ないことに慣れようとする自分がいる。慣れたら、今の痛みは減るかもしれない。減るかもしれないのに、慣れるのが怖い。慣れたら、この関係の重さを自分で軽くしてしまう気がするからだ。
帰り道は、もう選ぶのが面倒になっていた。高架下を避けても、結局どこかで電車の音を聞く。遠い音が耳の奥に残る。残る音は、思い出を連れてくる。連れてこられるのが嫌で、ひかりはイヤホンをつけた。音楽を流した。流したのに、音楽の隙間から、電車の低い振動が入ってくる。
大井町の夜は、逃げ道が少ない。
金曜の夜、空気が少しだけ軽くなるころ、直哉から久しぶりに長いメッセージが来た。
今週ほんとに無理だった。ごめん。来週も少し怪しい。仕事が片づいたら、ちゃんと話したい。
ちゃんと話したい。
その言葉が、ひかりの胸の奥に落ちる。落ちた瞬間、嬉しさより先に怖さが来た。ちゃんと話すって、何を。帰り道がなくなった理由を。忙しさを。疲れを。名前のことを。距離のことを。指先のことを。
話すという行為は、形を作る。形ができると、関係は変わる。変わるのが怖い。怖いのに、変わらないまま離れていくのはもっと怖い。
ひかりは返信を打ちかけて、消した。打って、消して、また打った。
大丈夫。落ち着いたらでいい。
落ち着いたらって、いつだろう。落ち着かないまま季節が進んだらどうするんだろう。考えたくないのに、考えてしまう。
結局、ひかりは短く返した。
うん。体調だけは崩さないで。
送ってしまうと、胸の奥が少し空く。空いたところに、すぐ寂しさが入る。入ってきた寂しさを追い出すために、ひかりは湯を沸かした。湯気が立つ。湯気は部屋を少しだけ柔らかくする。柔らかくなると、泣きたくなる。泣きたいわけじゃないのに、目の奥が熱い。
泣くのは、負けみたいで嫌だった。
負け、という言い方も変だ。恋に勝ち負けなんてない。ないのに、自分の心が先に折れそうになると、負けた気がする。折れたくない。折れたくないのに、折れそうだ。
週末、ひかりは一人で大井町を歩いた。
用事があったわけではない。スーパーで買い物をするついでに、ほんの少し遠回りをしただけだ。遠回りをしたのに、足は勝手に高架下の方向へ向かった。向かった瞬間、胸が痛んだ。痛いのに、歩くのをやめなかった。
高架下の白い光は、昼でも白かった。蛍光灯の白が、影の輪郭を薄くする。電車の音が頭上を通るたび、地面が少し震える。震えは生活の一部みたいに当たり前で、当たり前だからこそ、ここで直哉と並んでいたことが嘘みたいに思える。
嘘ではない。嘘じゃないから痛い。
裏通りの入口で、ひかりは立ち止まった。匂いがある。少し湿ったコンクリートの匂い。油の匂い。店の裏の匂い。匂いは変わらない。変わらないのに、隣が空いている。
空いている場所は、目に見えないのに見える。
ひかりは、そこに直哉の歩き方を置いてみる。半歩前に出ない。自分の歩幅が小さくなると、速度を落とす。沈黙が長くなると、こちらを急かさない。そういう気配を、勝手に想像で埋める。埋めると、余計に苦しくなる。
苦しさは、恋だろうか。
ひかりはその問いを、まだ認めたくなかった。認めたら、名前がつく。名前がついたら、守れない気がする。守れないのに、守りたい。守りたいのは、この時間。帰り道の沈黙。呼吸が楽になる瞬間。
「この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい」
声には出さなかった。出したら、ここで一人になっている事実が確定してしまう気がした。確定させたくない。確定させたくないのに、確定している。
その夜、直哉から電話が来た。
画面に表示された名前を見た瞬間、ひかりは指が止まった。電話は、チャットより重い。声が出る。息が漏れる。間が見える。言葉の前の一拍が、耳で分かる。分かるから怖い。
でも、取らないという選択肢はなかった。取らないで守れるほど、ひかりは強くない。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
自分の声が落ち着いているのが分かって、ひかりは少し腹が立った。動揺しているほど声が落ち着く癖は、こんなときに役に立たなくていい。
「……もしもし」
直哉の声は少し掠れていた。疲れが混じっている。息の奥に、乾いた感じがある。
「どうしたの」
「ごめん、急に」
直哉は言って、そこで一拍置いた。いつもより長い一拍。言葉を探している。探しているのは、謝り方なのか、本音なのか。
「今、帰り?」
「うん。会社出たとこ」
「遅いね」
「遅い」
直哉がそう言って、小さく息を吐く。その息が電話越しでも分かるのが、妙に生々しい。生々しさは、距離を縮める。縮めるのが怖いのに、縮まると安心する。
「ごめん」
また謝る。謝る言葉が続くと、ひかりは苦しくなる。謝られると、許す役割が発生する。許す役割は、自分を良い人に固定する。固定されるのが嫌だ。でも、怒るのはもっと嫌だ。怒ったら、関係が壊れる気がする。
「謝らないで」
ひかりは言った。言ってしまった。言ってしまうと、自分がまた優しい人に戻る。戻りたくないのに戻る。
直哉は少し黙った。黙りの中に、電車の音が混じる。直哉のいる場所の電車の音。東京のどこかで鳴っている同じ種類の音が、電話の向こうから届く。
「ひかり」
名前を呼ばれると、胸が一段強く打つ。たったそれだけで自分が揺れるのが、嫌になる。嫌になるのに、嬉しい。
「今週、ほんとに無理だった。来週も、たぶん」
「うん」
「……怖い」
直哉が突然そう言った。ひかりは息を止めそうになって、止めなかった。
「何が」
「帰り道がなくなるのに、慣れそうで」
慣れそうで。ひかりの胸がきゅっと縮んだ。直哉も同じことを思っていた。思っていたのに、言わなかった。言わなかったのは、ひかりを困らせたくないからだろう。困らせたくないという優しさが、今は少し痛い。
「私も」
ひかりは言いかけて止まった。止めたのに、直哉は待つ。待つ沈黙が、電話の向こうから流れてくる。
「私も、慣れたくない」
声が少しだけ掠れた気がした。掠れたのは、夜の空気のせいにしたい。自分のせいにしたくない。
直哉が小さく息を吸う。
「ごめん」
「だから、謝らないで」
「謝りたくなる」
「謝っても戻らない」
ひかりは言ってしまってから、言葉の鋭さに驚いた。刺すつもりはなかった。刺したのは、たぶん自分の痛みだ。痛みは、ときどき言葉を尖らせる。
直哉は少し黙って、低く言った。
「戻したい」
その一言が、ひかりの胸の奥を温める。温まると涙が近づく。泣きたくないのに、目の奥が熱い。
「戻したいって、何を?」
「……ひかりと歩くやつ」
やつ、という言い方が直哉らしくなくて、ひかりは少しだけ笑ってしまった。笑うと、熱が少し下がる。下がると、また寂しさが見える。
「やつって」
「言い方分かんない」
直哉の声が少しだけ揺れる。揺れる声は、普段見えない直哉を見せる。見せられると、ひかりは守りたくなる。守りたいのは、関係なのか、直哉なのか、自分なのか。
「ひかり、今どこ?」
「家」
「今週、会ってない」
会ってない。事実のはずなのに、言葉にされると痛い。痛いのに、直哉が言ってくれたことで少し救われる。自分だけが数えていたわけじゃない。
「会ってないね」
「声、聞きたかった」
ひかりは返事ができなかった。返事をしたら、同じ気持ちだと認めてしまう。認めたら、もう戻れない。戻れないのに、戻りたくない気もある。
直哉が続ける。
「来週、たぶん一回、どうしても遅くなる日がある。そこ抜けたら、少しマシになる」
「ほんとに?」
「たぶん」
直哉がたぶんと言うのが、ひかりには痛かった。たぶんは、確約ではない。確約がないという現実が、急に冷える。冷えると同時に、ひかりは気づく。自分は確約が欲しいのだ。帰り道が続く保証が欲しい。保証が欲しいという欲が、もう恋の形をしている気がする。
「たぶんって言うの、直哉くんもなんだ」
ひかりがそう言うと、直哉は小さく笑った。
「俺も怖いと、たぶんになる」
怖い。二人の会話は、最近その言葉に戻ってくる。怖いのに、話す。話すから、少しだけ息ができる。
「ひかり」
直哉が言う。いつもより静かな声。
「今のままは、嫌?」
嫌。嫌と聞かれると、答えは簡単なはずなのに、簡単に言えない。嫌だと言えば、直哉は責任を背負うかもしれない。嫌だと言わなければ、自分が我慢するしかない。どちらも嫌だ。嫌が二つある。
ひかりは、正直を少しだけ混ぜた。
「嫌っていうより、落ち着かない」
落ち着かない。自分の言葉としては柔らかい。柔らかいけれど、意味は重い。直哉がそれをどう受け取るか分からない。分からないまま言ってしまった。
直哉は一拍置いて言った。
「俺も落ち着かない」
その返事が、ひかりには救いだった。救いは、依存の入り口でもある。入り口に立ってしまった気がして、ひかりは少し怖くなる。
「ねえ」
ひかりは言った。言いながら、何を言うつもりか自分でも分からない。考えながら話す揺らぎが、今夜は出てしまう。
「帰り道が重なるのって、当たり前じゃなかったんだね」
直哉の呼吸が、電話越しに遅れる。
「当たり前にしちゃった」
「しちゃったね」
言って、ひかりは笑った。笑いは短い。短い笑いは、すぐに沈黙に吸われる。
直哉が言う。
「当たり前にしたのに、守るって言いながら何も言わないの、ずるい」
ずるい。直哉がその言葉を使う。ひかりは胸の奥がじくりとする。ずるいのは自分だと思っていた。直哉もずるいと思っていた。二人のずるさが同じ場所で重なると、少しだけ形になる。
「ずるいね」
ひかりは言った。
直哉が少し笑う。
「ひかりに、会いたいって言うのもずるい?」
会いたい。直球の言葉が来ると、ひかりは一瞬、呼吸を忘れる。忘れて、すぐ思い出す。思い出した息が、少し震える。震えを感じた自分が恥ずかしい。
「ずるい」
ひかりは言った。言ってから、続けた。
「でも、言ってくれて、助かる」
助かる。助かると言うとき、自分がどれだけ寄りかかっているかが見える。見えるのが怖いのに、言ってしまう。言ってしまうと、嘘が減る。嘘が減ると、少しだけ楽だ。
直哉は静かに言った。
「助かるなら、また言う」
また言う。約束みたいな言葉。ひかりはそれを受け取ってしまう。受け取ってしまうから、胸があたたかい。あたたかいのに、痛い。あたたかさが消えたときのことを先に考えてしまう癖が、まだ残っている。
電話の向こうで、駅の構内放送が聞こえた。直哉は歩いている。帰り道にいる。ひかりだけが家にいる。
「今、大井町?」
ひかりが聞くと、直哉は一拍置いた。
「うん。改札出た」
「雨、降ってる?」
「降ってない。風が少し冷たい」
風が少し冷たい。ひかりはその言葉だけで、高架下の白い光を思い出した。電車の音。裏通りの湿り。二人の足音。自分の呼吸。
「帰り道、通る?」
ひかりは聞いてしまった。聞いてしまってから、言わなければよかったと思う。通ると言われたら、想像が苦しくなる。通らないと言われたら、もう終わったみたいになる。
直哉は少し黙ってから答えた。
「通る。……一人で」
その言い方が、痛かった。一人で、という言葉がいらないのに、付けたのは直哉の優しさか、弱さか。どちらでもいい。痛いのは変わらない。
「気をつけて」
ひかりは言う。言うことしかできない。言うことしかできないのが悔しい。
直哉が小さく言った。
「ひかりの家のほう、通りたい」
その一言で、ひかりの胸が跳ねた。通りたい。帰り道ではなく、ひかりの方向へ寄りたい。そういう言葉が出ると、関係の輪郭が少しだけ濃くなる。濃くなるのが怖いのに、濃くなってほしい。
「無理しないで」
「無理じゃない。少し遠回り」
遠回り。第3章、第5章で遠回りが意味になったことを思い出す。遠回りは、言い訳であり、選択だ。選択は、恋の入り口だ。
「じゃあ、……気をつけて」
ひかりはまた同じことを言った。同じことを言ってしまう自分が嫌だった。でも、他の言葉が見つからない。
直哉が笑いそうになって、笑わない声で言った。
「ひかりも、寝ろよ」
「寝る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
直哉が小さく息を吐く。
「じゃあ、また」
「うん。また」
通話が切れる。切れたあと、部屋は急に静かになる。冷蔵庫の音が戻ってくる。戻ってきた音が、さっきまでの声の余韻を押しのける。押しのけられると、寂しさがまた立ち上がる。
ひかりは、窓のカーテンを少しだけ開けた。
外の街灯が、濡れていない路面を照らしている。光は一定で、風の動きだけが影を揺らす。遠くで電車の音が薄く聞こえた。距離があるから、音は柔らかい。柔らかい音は、逆に胸に残る。
直哉は今、あの高架下を一人で歩いているのだろうか。
想像してしまう。想像すると苦しい。苦しいのに、想像をやめられない。自分がどこまで入り込んでしまったのか、確認したくなる。確認したところで、戻れないのに。
ベッドに入っても、眠りはすぐに来なかった。
暗い天井を見ていると、言葉が浮かぶ。会いたい。怖い。慣れたくない。助かる。そういう言葉が、胸の中で静かに擦れる。擦れると熱が出る。熱が出ると、涙が近づく。
ひかりは、涙が出る前に目を閉じた。
目を閉じると、音が近くなる。冷蔵庫の音。遠い車の音。遠い電車の音。自分の呼吸。呼吸が浅い。浅い呼吸を深くしようとすると、胸が痛む。痛むのは、空白ができたからだ。空白は、今まで埋まっていた場所があることを教える。
空白ができた場所に、名前をつけたくない。
けれど空白の痛みは、名前をつけないままでも確かに存在してしまう。
翌週の月曜日、直哉からメッセージが来た。
今日も遅い。ごめん。でも、昨日電話できてよかった。
よかった。ひかりはその言葉を見て、胸の奥が少しだけほどけた。ほどけたことで、また痛みが見える。痛みが見えることが、もう怖くないわけではない。
でも、怖いままでも進めるのかもしれない。
そう思った瞬間、ひかりは自分の弱さを少しだけ許せた気がした。許せた気がしただけで、明日になればまた戻るかもしれない。それでも今は、気がした、を大事にしたかった。
ひかりは短く返信した。
うん。私も。
送信して、画面を伏せる。伏せた黒い画面に、自分の顔がうっすら映った。整っているようで、整っていない目をしている。整っていないのが、少しだけ人間っぽい。
高架下の音がない夜が続く。
その空白に慣れたくないまま、二人はそれぞれの時間を歩いていく。歩いていく先で、また同じ道に戻れるのかどうかは、まだ分からない。
分からないまま、ひかりは仕事の画面を開いた。数字が並ぶ。並ぶ数字は、今日も冷たくて、今日も頼れる。頼れるものがあるから、心は辛うじて形を保つ。
けれど、帰り道の形は、もう以前のままではいられない気がしていた。
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