【創作大賞2026応募作品】帰り道の名前 第8章:音が隠さなくなる
朝の空気が少しだけ軽いのに、胸の内側だけが重いまま残っていた。
ひかりは歯を磨きながら、昨夜の言葉を何度も口の中で転がしていた。明日。ここで。いい。好きだ。好きだのあとに添えられた、この道が、という逃げ道の音まで含めて、全部が舌の裏に残っている。残っているのに、声に出せない。声に出したら、形になる。
形になったら、守れない気がする。
守れないのに、守りたい。そういう矛盾は朝には似合わないはずなのに、朝ほど容赦なく浮かび上がる。夜なら音に隠せる。昼は隠せない。隠せないから、仕事をするしかない。
フロアに入ると、いつも通りの雑音がある。雑音は安心する。安心するのに、今日はそれがどこか遠い。遠いまま、ひかりは席に座り、パソコンを立ち上げた。画面の白がまぶしい。まぶしい白は、気持ちの影を薄くするはずなのに、影だけが濃くなる。
午前中は淡々と進んだ。数字を集めて、表を整えて、確認を重ねる。ひかりの指先は正確で、頭は静かで、顔は落ち着いている。落ち着いているように見える。それが自分の得意技だと、今は少しだけ腹が立った。
もっと分かりやすく揺れればいいのに。
揺れたら、誰かが気づいてしまう。気づかれたら、説明が必要になる。説明は、結局言い訳になる。言い訳を重ねると、帰り道が汚れる気がする。帰り道は、できれば汚したくない。汚したくないと思う時点で、もう汚れている。
昼前、直哉から短いメッセージが届いた。
今日、行ける。いつもの。
いつもの。いつものが戻ってきたことに、ひかりの胸が少しだけ緩む。緩むと同時に、緊張が来る。昨日の裏通りで、言葉を出した。足りなかったと言った。怖かったと言った。明日も、と言った。
今日は、その続きになる。
続きにならないようにするのが、今までの二人だった。続きにしないことで守ってきたのに、続きが始まってしまっている。始まってしまうと、止められない。止められないものに自分が乗っている感覚が、怖い。
ひかりは返信した。
うん。行ける。
うん、という短い言葉の中に、いくつもの感情を押し込む。押し込むのは得意だ。得意だから、苦しくなる。苦しさに慣れたくない。慣れたくないのに、慣れてしまう。慣れそうで怖い。第6章の言葉が、そのまま戻ってくる。
午後の光が窓の向こうでゆっくり薄くなるころ、ひかりは資料の最終確認を終えた。終えたのに、席を立つタイミングが分からない。分からないまま数分だけ手を止める。止めた時間が、心の準備になるかもしれないと思った。そんなことをしても、準備なんてできるわけがないのに。
駅へ向かう道は、空気がひんやりしていた。風が頬の熱を攫う。攫われると、さっきまでの緊張が少しだけ薄まる。薄まるのに、足元の感覚は鋭い。靴底が路面を捉える感触が、普段よりはっきりする。感覚が鋭いのは、気持ちが尖っているからだ。
改札を抜けると、電車の音が頭上で割れる。割れて、落ちて、また繋がる。その繰り返しが、今までは心を守ってくれていた。今日は、守ってくれるかどうか分からない。守りが頼りなくなるのは、心が以前より外側に出てきたからだ。
直哉は、いつもの柱の近くにいた。
いつもより少しだけ早く気づいたのは、こちらの視線が探していたからだろう。探す自分が嫌だと思う前に、直哉もこちらを見る。視線が上がる前に一拍遅れる。遅れた呼吸が、ひかりの胸を小さく叩く。
「おつかれ」
「おつかれさま」
言葉は軽い。軽いのに、目の奥に重さがある。直哉の目の下には薄い影が残っていて、それでも今日は昨日ほど疲れて見えない。疲れて見えないのが逆に怖い。余裕があるときほど、言葉が出てしまうからだ。
二人は並んで歩き出した。高架下の白い光が、肌の色を少し冷たくする。光が冷たいと、声の温度が目立つ。目立つ声を出したくなくて、ひかりは口を閉じる。閉じた口の中で、舌だけが忙しい。
直哉が先に言った。
「昨日、言いっぱなしで終わったな」
言いっぱなし。そう言われると、確かにそうだと思う。足りなかった、慣れたくない、ありがとう、明日。言葉が全部途中で止まっている。止まっているから助かった。止まっているから、今日は続きを言わなければいけない気がする。
「終わったっていうか」
ひかりは言いかけて、止める。止めたところに、電車の音が落ちた。助かる。助かるのに、助けを求めている自分が少し恥ずかしい。
音が引いたあと、ひかりは続けた。
「終わらせたくなかっただけかも」
言ってしまった。言ってしまうと、胸の奥が熱い。熱いのに、顔は落ち着いているふりをする。ふりが自然にできるのが、自分でも腹立たしい。
直哉が小さく頷く。
「俺も」
その短い同意が、今日は深く刺さる。深く刺さるのに、痛みが嫌ではない。痛みがあると、現実だと分かる。現実だと分かると、逃げにくい。逃げにくいから怖い。
裏通りへ入る。少し湿った匂いが濃くなる。壁が近くなり、足音がはっきりする。足音がはっきりすると、沈黙が成立しやすい。成立しやすい沈黙が、今日はむしろ重い。重い沈黙は、言葉を引き出す。
直哉が口を開いた。言い出す前に一拍遅れる。遅れは、躊躇の音だ。
「ひかり、今日さ」
「うん」
返事をしてしまうと、もう戻れない気がするのに、返事をしてしまう。返事をしないで守れる距離は、もうないのかもしれない。
直哉は歩きながら言う。
「最近、音がさ」
「音?」
「電車の音。前は助かったのに、今は邪魔」
邪魔。直哉がそう言うのは珍しい。音が邪魔だなんて、帰り道のルールを自分で壊すみたいだ。ひかりは喉の奥が少し熱くなる。
「邪魔って」
「隠してくれないから」
隠してくれない。ひかりはその言葉を聞いて、昨日の夜の自分を思い出した。音のせいにできる。そう言ったのは自分だ。音があるから、言えないことを言わずに済んだ。音があるから、触れないことを正当化できた。
正当化が、もう効かなくなっている。
「隠してもらってたんだね」
ひかりが言うと、直哉は小さく笑った。笑いはすぐ消える。
「隠してた。隠してもらってた。どっちも」
どっちも。言葉の選び方が丁寧で、だから余計に逃げられない。ひかりは視線を前に固定した。横を見たら、直哉の表情を確かめてしまう。確かめたら、今日の帰り道が別物になる。
でも、もう別物なのかもしれない。
ひかりは自分の歩幅が小さくなるのを感じた。直哉はそれに合わせて速度を落とす。いつもの癖。いつもの癖に意味が乗りすぎている。意味が乗ると、癖が優しさになる。優しさが怖い。優しさは、触れていないのに触れてしまうからだ。
「ねえ、直哉くん」
ひかりは言った。自分でも声が落ち着きすぎているのが分かる。動揺しているほど声が落ち着く。そんな癖は、今夜はいらない。
「なに」
「忙しいって言ってた時」
ひかりは言葉を探しながら歩く。言葉を探すと、足が遅れる。遅れても直哉は急かさない。急かさないのが、余計に言わせる。
「忙しいのは分かってたけど」
「うん」
「私、怒ってたのかも」
怒ってた。ひかりは自分で言って、少し驚いた。怒るという感情を、長いこと自分の中で薄くしてきた。怒りは場を乱す。怒りは関係を壊す。そう思っていた。思っていたのに、怒っていた。
直哉はすぐに返さない。沈黙が落ちる。沈黙が落ちたところに、換気扇の低い音が重なる。生活の音が、二人の会話の隙間に入り込む。逃げ道を作ってくれる。作ってくれるのに、今日は逃げたくない。
直哉がようやく言う。
「怒っていい」
「怒ってよかった?」
「よかったって言い方は変だけど」
直哉は一瞬言葉を噛んで、続けた。
「怒ってるのに、怒ってないふりされるほうが怖い」
怖い。直哉の怖いは、いつも静かだ。静かだから重い。ひかりは胸の奥がじくりと痛む。
「私、怒ってないふりしてた」
「してた」
直哉は短く言った。責める音ではない。確かめる音だ。確かめられると、ひかりは自分の嘘が見える。嘘が見えると、息が詰まる。
「ごめん」
ひかりが言うと、直哉は首を振った。
「謝らなくていい」
「でも」
「謝るとまた、ひかりが我慢する」
我慢。直哉がそこまで言えるのが怖い。怖いのに、嬉しい。直哉は見ている。ひかりが我慢するところを、見ている。見ているのに、止められなかった。止められなかったことが、たぶん直哉の痛みでもある。
ひかりは息を吸った。湿った空気が肺に入る。肺の中が少し冷える。冷えると、言葉が出る。
「我慢してたのは、私だけじゃないでしょ」
直哉は一拍遅れて頷いた。
「俺も」
その二文字で、裏通りの空気が少しだけ変わる。言葉は簡単なのに、意味は大きい。大きいのに、二人はまだ小さくしか扱えない。
歩いているうちに、前方に小さな段差が見えた。舗装の継ぎ目。濡れた跡が薄く残って、滑りそうな光をしている。第5章の雨の夜を思い出してしまう。触るなら触ればいいのに。あの言葉。あの指先。
ひかりは段差を避けるように歩く。避けたのに、靴底が少し滑った。ほんの少し。転ぶほどではない。でも身体が揺れた。揺れた瞬間、直哉の手が動く。
肩に触れそうで触れないところで止まる。
止まった手が、空中で迷う。迷う手を見てしまって、ひかりは息を止めそうになった。止めない。止めたら、ここで固まってしまう。
「大丈夫?」
直哉の声は低い。低い声は本気の声だ。ひかりは頷く。頷いたのに、直哉の手は戻らない。戻らない手が、触れたい気持ちを持っているように見えてしまう。見えるから、胸が熱い。
ひかりは言ってしまう。
「また、止めたね」
直哉の手が少し引っ込む。引っ込んで、また迷う。
「止めた」
「触れたら、何か変わるって思ってる?」
ひかりは自分で言って、自分の言葉の鋭さに驚いた。責めたかったわけじゃない。確かめたかった。確かめる行為は、関係に名前をつけるのと似ている。似ているから怖い。
直哉はしばらく黙った。電車の音が遠くで鳴る。今日は音が助けにならない。助けにならないのに、音があると呼吸ができる。
直哉が言う。
「変わる」
短い。短いのに、はっきりしている。ひかりの胸がぎゅっと縮む。
「変わるのが怖い?」
直哉は一拍置いて、首を少しだけ振った。
「怖いのは、変わることじゃない」
「じゃあ何」
「変わったあとに、戻れないこと」
戻れない。第7章でも出た言葉が、また出る。戻れないことが怖い。怖いのに、戻りたいわけじゃない。戻ると言った瞬間、今を否定してしまう気がする。今は否定できない。今は、二人の息の形だ。
ひかりは小さく笑ってしまった。笑いは乾いている。乾いた笑いは、涙の手前だ。
「もう、戻れないよね」
直哉がこちらを見る。白い光の下で、表情が隠れない。隠れない目が、ひかりを見ている。見ているのに、押しつけない。押しつけない視線が、余計に怖い。
「戻れない」
直哉が言う。
「でも、戻れないなら、ちゃんと行きたい」
ちゃんと行きたい。行きたいという言い方は、どこへ行くのかを曖昧にする。曖昧にするのが直哉の優しさだ。優しさが、今日は少し痛い。曖昧のままでは、もう耐えられない気がする。
ひかりは、喉の奥が詰まるのを感じながら言った。
「ちゃんとって、何」
直哉は一度だけ視線を逸らした。癖。逸らしてから戻す。その一拍遅れの呼吸が、今夜は震えているように聞こえる。
「言うこと」
直哉が言う。
「言わないで守ってきたの、もう限界」
限界。第4章で出た言葉が、ここで現実になる。限界は崩れる前触れだ。崩れたら、何が残るのか。残るものがあるのか。怖いのに、崩さないと何も変わらない。
裏通りの影が少し深くなる場所に差しかかった。街灯の輪が途切れ、白い光が薄くなる。薄くなると、顔が見えにくい。見えにくいのが助かる。助かるのに、助かりたくない。
直哉が歩く速度を落とした。ひかりの歩幅に合わせるためではない。言葉を置くための速度だ。速度が変わると、空気の密度が上がる。密度が上がると、息が苦しい。
「ひかり」
直哉が呼ぶ。名前が近い。
「……俺、ひかりのこと」
言いかけて止まる。
止まったところで、電車の音が来るはずなのに、今日は来ない。音が来ない夜は、残酷だ。隠してくれない。隠してくれないから、言葉が裸になる。
直哉は喉の奥で息を整えた。整える息が一拍遅れる。遅れは迷いだ。迷いのままでもいい。ひかりはそう思いたい。思いたいのに、迷いが長いと苦しい。
ひかりは言ってしまう。
「言わなくていい」
言った瞬間、胸が痛んだ。言わなくていいなんて、嘘だ。言ってほしい。言ってほしいのに、言われるのが怖い。怖いから、言わなくていいと言う。自分がずるい。
直哉は首を振った。
「言う」
その言い切りが、ひかりの胸の奥を叩く。叩かれて、涙が近づく。泣いたら困らせる。困らせたくない。困らせたくないのに、泣きそうだ。
直哉は続ける。
「言わないでいると、また仕事に逃げる。逃げたら、ひかりがどんどん遠くなる気がする」
遠くなる。ひかりはその言葉を聞いて、自分の中の怖さが形を持つのを感じた。遠くなる怖さは、もう何度も味わった。帰り道がなかった週。慣れそうで怖かった夜。部屋が静かなのにうるさかった夜。
「遠くならないよ」
ひかりは言い切った。言い切りは危ない。危ないのに、言い切らないと今夜が崩れる気がした。
直哉は小さく首を振る。
「遠くなる。俺が何もしないと」
その言葉は、責任の宣言に近かった。責任は重い。重い責任を直哉に背負わせたくない。背負わせたくないのに、背負ってほしい自分がいる。背負ってほしいという欲が、恋の輪郭を持ってしまう。
ひかりは、声を落とした。
「直哉くんが何かするって、何」
直哉は一拍遅れて、静かに言った。
「選ぶ」
選ぶ。ひかりはその言葉の意味を、すぐに理解してしまう。帰り道を重ねるか、重ねないか。踏み込むか、踏み込まないか。名前をつけるか、つけないか。どれも同じ種類の選択だ。選択は痛い。痛いのに、避け続けた痛みが、今はもっと痛い。
直哉は言う。
「俺、ひかりを特別だと思ってる」
特別。言葉が出た瞬間、空気が静まる。街の音が消えたわけではないのに、ひかりにはそう聞こえる。特別という言葉は、名前の手前だ。手前なのに、もう十分に強い。
ひかりは息を吸った。吸った空気が冷たい。冷たいのに、胸が熱い。熱いのに、声は出ない。
直哉が続ける。
「恋って呼ぶのは、まだ怖い」
恋。直哉がその言葉を口にしただけで、ひかりの喉が詰まる。恋と呼ぶのが怖い。二人とも、同じ場所で止まっている。止まっているから守れていると思ってきた。止まっているのに、もう止まれない。
「でも」
直哉が言う。
「特別って言わないと、嘘になる」
嘘。ひかりはその言葉に、胸が痛む。嘘をつくのが上手い自分が、ここでは嘘をつきたくない。嘘をつきたくないのに、嘘みたいな顔をしてしまう。落ち着いた声。整った表情。逃げ道の多い返事。
ひかりは、深く息を吐いた。吐いた息が少し震える。震えを隠さない。隠さないことを、今日は選ぶ。
「私も、特別だと思ってる」
言えた。言えた瞬間、胸の奥が少し軽くなる。軽くなると同時に、怖さが増す。言葉にしたものは戻せない。戻せないものを言ってしまった。
直哉の目が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなるのが怖い。怖いのに、柔らかさが欲しかった。
「ひかり」
直哉が呼ぶ。声が近い。
「触っていい?」
第5章の雨の夜と同じ問いが、今夜は乾いた空気の中で出る。傘もない。雨の音もない。隠してくれるものが何もない。何もないから、返事が必要になる。
ひかりは頷いた。
頷きは小さい。小さいのに、世界が動く気がする。
直哉の手が、今度は迷わずに動いた。迷わずに動いたのに、触れ方は慎重だ。ひかりの手の甲に、指先がそっと乗る。乗るだけ。握らない。引っ張らない。温度を確かめるみたいに、ただ触れる。
触れられたところが熱い。熱いのに、痛い。痛いのに、安心する。矛盾が全部一緒に来て、ひかりは言葉を失う。
直哉が小さく息を吐く。
「……あったかい」
たったそれだけの言葉が、ひかりの胸を満たす。満たすと同時に、怖さがまた出る。満ちたものは溢れる。溢れたら、元に戻れない。元に戻れないのに、戻りたくない。
ひかりは言った。
「今、言ったのずるい」
直哉は少し笑った。
「ずるい」
「でも、嬉しい」
嬉しいと言ってしまった。言ってしまうと、もう隠せない。隠せないのに、隠さなくていい気もする。そう思える自分が、少しだけ大人になった気がして、すぐに恥ずかしくなる。
直哉は指先で、ひかりの手の甲をほんの少し撫でた。撫でる動作は一度だけ。繰り返さない。繰り返したら、どこまでも行ってしまいそうだからだろう。行ってしまいそうなのは、ひかりも同じだ。
二人はそのまま歩き出した。手は触れたままではない。直哉が一度だけ離した。離して、また隣に戻る。戻る距離が、さっきより近い。近いのに、肩は触れない。触れないことで守っている膜が、もう薄い。
分かれ道が近づく。いつもの角。いつもの角が、今日は違って見える。違って見えるのは、手の甲の熱が残っているからだ。残っている熱が、帰り道全体に意味を塗ってしまう。
角の手前で、直哉が言った。
「明日も、来る」
断定。珍しい断定。断定は約束になる。約束になると怖い。怖いのに、嬉しい。
「来られなくてもいい」
ひかりは反射で言いそうになって、飲み込んだ。飲み込んだのが、自分でも驚きだった。いつもなら言ってしまう。相手の負担を減らす言葉で、自分の寂しさを隠す。隠す癖が、今日は止まった。
ひかりは代わりに言った。
「待ってる」
待ってる。言ってしまった。言ってしまうと、もう引けない。引けないのに、言えたことが嬉しい。嬉しいのに、涙が出そうになる。
直哉の目が揺れる。揺れて、すぐに落ち着く。
「……待たせない」
直哉が言った。強い言葉ではない。けれど、今夜の直哉にとっては強いはずだ。
ひかりは頷いた。頷くと、喉の奥がまた詰まる。詰まるのは、言いたい言葉があるからだ。
この時間がなくなるなら、恋じゃなくていい。
その言葉が、今夜は少し形を変える。
この時間がなくなるなら、恋でもいい。
口には出さない。出さないまま、胸の底で静かに揺れる。揺れが止まらない。
直哉が小さく言った。
「おやすみ」
「おやすみ」
ひかりは角を曲がった。数歩進んでから、今夜は振り返った。振り返ってしまった。振り返ったら、直哉がまだそこに立っていた。立っていて、こちらを見ていた。見ているのに、追ってこない。追ってこない距離が、二人の選んだ距離だ。
ひかりは小さく手を上げた。上げた手の甲に、さっきの熱が残っている。直哉も、小さく手を上げた。手を上げる動作が、妙に幼くて、だからこそ胸がいっぱいになる。
家に着いてドアを閉めると、部屋の静けさが戻った。
けれど、今夜の静けさはもう空白ではない。空白の音ではない。直哉の言葉が、指先の熱が、帰り道の匂いが、部屋の空気に混ざっている。混ざっているから、うるさくない。うるさくないのが、少し怖い。怖いのに、安心してしまう。
ひかりは手袋を外し、手の甲を見た。何も変わっていない。赤くもない。痕もない。なのに、確かに触れられた場所がある。触れられた場所は、心のほうだ。
スマホが震えた。直哉からだった。
今日は、言えた。ありがとう。
ありがとう。ひかりは画面を見て、すぐに返せなかった。ありがとうに返す言葉は、いつも足りない。足りないまま返すと嘘になる気がする。
ひかりは、短く打った。
うん。私も。
送信して、画面を伏せた。黒い画面に、自分の目が映る。目は少しだけ濡れている。泣いてはいない。けれど、泣く手前の熱がある。
沈黙が限界に近づくとき、音は隠す役目をやめる。
隠さない音の中で、二人は少しずつ、自分たちの距離の名前を探し始めてしまった。
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