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【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第3章:触れない秘密

週の真ん中を少し過ぎたころ、朝の光は冬に向かう手前の冷たさを少しだけ孕み始めていた。窓の外の空は、澄んでいるのにどこか乾いていて、ビルの輪郭をくっきり縁取っている。通勤電車の窓ガラスにも、そのくっきりした線が何度も映り込んでは流れていった。

私はいつもより一つ早い電車に乗っていた。目覚ましを早くかけたわけではないのに、目が覚めたときにはもう眠りに戻れる感じではなくなっていて、布団の中でぐずぐずするより、黙って顔を洗って家を出る方が楽だと思ったからだ。早く会社に着けば、そのぶんだけ頭の中に余計な連想が湧く前に、仕事のタスクで埋め尽くせる気がした。

フロアに入ると、まだ蛍光灯は部分的にしか点いていなかった。窓際の席のあたりだけが白く浮かび上がり、それ以外の島は薄い影の中に沈んでいる。空調の風がゆっくりと回り始める音と、遠くのコピー機の立ち上がる低い唸りが、静かな空間の奥で混ざっている。

自分の席にバッグを置き、コートをハンガーにかける。机の上の小箱は、もう封が切られ、中身のパンフレットが書類トレイに移されていた。昨日のうちにやってしまったことを一瞬忘れていた自分に苦笑する。最近、こういう小さな記憶の抜け落ちが増えた。何かを考えすぎていると、別のところに穴が空くのかもしれない。

パソコンを立ち上げる前に、私はまた給湯スペースへ向かうことにした。朝のフロアを歩くときだけ感じられる、まだ人の体温が染みついていない空気の軽さが、好きだ。カーペットの少しざらついた感触と、通路の曲がり角に溜まる冷気。誰もいないキッチンの窓から見える隣のビルの壁には、斜めに差し込んだ光が細長い梯子のような影を作っていた。

電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。湯が温まり始める音を聞きながら、私は無意識にスマートフォンを手に取る。画面を点けると、通知のアイコンがいくつか並んでいる。友人のグループトーク、ニュースアプリ、通販サイト。その中で、彼とのメッセージアプリは静かなままだった。

何日か前、中目黒の川沿いで彼と並んで座った夜から、私たちは意識的に「仕事の顔」に戻っていた。社内チャットでは案件の話しかしないし、直接交わす会話も、プロジェクトの進行やクライアントの癖の話ばかりだ。それを安心と呼ぶか、物足りなさと呼ぶか、まだ決めきれていない。

カップにコーヒーの粉を落とし、湯を注ぐ。香りが立ち上がり、曇った窓ガラスの一部を白く染める。その香りに、川沿いの夜に漂っていた別のカフェの匂いが重なりかけて、私は意識的に違うことを考えた。今日は午後に大きな案件の打ち合わせがある。資料の最終確認。構成案の修正。やらなければいけないことは山ほどある。

フロアに戻ると、エレベーターの方から人の声が聞こえた。早めに出社してくる営業の男性と、出張帰りらしい誰かの明るい挨拶。私は自分の席に座り、モニターの電源を入れる。画面がゆっくりと立ち上がるあいだ、カップの縁に指を引っかけ、そこに伝わる熱をじっと感じていた。

社内チャットを開くと、プロジェクトのスレッドに久遠蓮の名前が並んでいる。前夜遅い時間に送られた確認メモ。そこには、クライアントとの打ち合わせでの宿題が箇条書きになっていて、私の名前もその中に含まれていた。仕事の指示としては、ごく普通の文面。なのに、その一つ一つを読むたび、川沿いで「忘れてほしくなかったのかもしれない」と言った彼の声が、薄く裏打ちとして響いてくる。

午前中は、メールの返信と細かな修正であっという間に過ぎていった。キーボードを叩く指先は忙しく動いているのに、心のどこかではずっと同じ一点を見つめているような感覚があった。最近、彼と視線を合わせる時間が、ほんの少しだけ短くなった気がする。意識して避けているのか、無意識に守っているのか、その境目も曖昧なままだった。

昼前、コピー機のあたりで紙詰まりを直していると、背後から足音が近づいてきた。機械のカバーを閉める直前に、その足音の持ち主が誰なのか分かってしまう自分が、また少し嫌になる。

「助かります」

振り返ると、そこに久遠さんが立っていた。片手に厚めの資料の束を抱え、もう片方の手には ID カードをぶら下げている。スーツの色も、ネクタイの控えめな柄も、見慣れた光景の一部になりつつあった。

「さっきからずっとエラー出てて」

「トレイ開けたら紙が斜めに刺さってました」

私は、直したばかりの部分を指で軽く叩いてみせる。彼が笑いながら礼を言う。その笑い声は、オフィスの空気に馴染んでいて、川沿いで聞いたときの柔らかさとは少し違っている。

「午後の打ち合わせの資料、それですよね」

資料の束を顎で示すと、彼はうなずいた。

「うん。さっきまで直してた。相沢さんの構成案、だいぶそのまま使わせてもらった」

「ありがとうございます」

「こっちこそ」

短いやり取りが終わりかけたところで、彼が少しだけ声のトーンを変えた。

「今日、打ち合わせのあと、少し時間ある?」

その言い方は、周りの誰かに聞かれても問題のない響きを保ちながらも、対象を限定する種類の柔らかさを含んでいた。私は一瞬だけ返事をためらう。時間があるかどうかで言えば、ある。帰るだけなら、いつでも少し遅くできる。

「資料の振り返りですか?」

あえて仕事の文脈に言葉を置いてみる。彼は、それに乗るようにうなずいた。

「それもあるけど、他にも見せたいものがあって」

見せたいもの。仕事の資料なのか、それ以外なのか。具体的な名詞が出てこないせいで、言葉の行き場が余計に増える。私は視線をコピー機のパネルに落とし、表示されている待機中の画面の青い光を見つめる。

「たぶん、カフェかどこかで落ち着いて話した方がいいやつ」

彼は、さらりと言った。川沿いのベンチではなく、カフェ。仕事の打ち上げでも、会社帰りの居酒屋でもない。私たちの関係の名前を、うまく決められない場所。

「……少しなら、大丈夫です」

そう答えている自分の声が、思ったよりも静かで、諦めと期待を半分ずつ含んでいるように聞こえた。自分ではっきりと「大丈夫」と言ってしまったことに少し遅れて、心臓がゆっくりと打ち方を変えていく。

「じゃあ、打ち合わせ終わったら一回デスク戻るね」

彼はそう言って、資料の束をコピー機にセットした。トレイから出てくる紙が、規則的な音を立てながら一枚ずつ積み重なっていく。その音が、今夜の自分の選択を数えているみたいに聞こえた。

その日の午後の打ち合わせは、思っていた以上に神経を使うものだった。クライアント側の担当者が途中から一人増え、別の視点からの質問が次々に飛んでくる。私は画面を共有しながら、言葉の温度を調整し続けた。どこまでを約束と呼べるのか、どこからが期待に過ぎないのか。その線を引く作業は、仕事でもそれ以外でも、なぜこんなに似ているのだろう。

会議が終わるころには、頭の中が少し痺れていた。会議室を出て自分の席に戻ると、椅子の背にもたれたときのクッションの沈み方がやけに優しく感じられる。モニターに向かってしばらく無意識にメールの画面を眺めていると、視界の端に久遠さんの気配が現れた。

「お疲れさま」

彼の声に振り向くと、机の端に軽く手を置いた彼が立っていた。フロアのざわめきの中で、その姿だけが少し輪郭を濃くしている。

「さっきの質問、うまくさばいてくれて助かった」

「久遠さんが間に合うように、話しながら伸ばしてただけです」

「それがすごいんだって」

軽く笑い合ったあと、彼は少しだけ真面目な顔つきになった。

「このあと、どう?」

午前中のコピー機の前での会話が、そのまま引き継がれる。私はモニターの右下に表示された時間を一瞥し、オフィスの窓の外の光をちらりと見た。まだ、完全に夜に変わるには少し早い。街が昼と夜のあいだで揺れている、その曖昧な時間帯。

「……行きましょう」

そう言ってしまうまでに、思っていたほど時間はかからなかった。自分の中の「少しなら」の範囲が、気づかないうちに広がっていたのかもしれない。

「中目黒の方がいい? それとも、会社の近くで探そうか」

彼の問いに、私は一瞬だけ川沿いの夜を思い浮かべてから、頭を振った。

「今日は、恵比寿とか……別の場所がいいです」

「分かった。ちょっと探してみる」

彼はスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。私は自分のパソコンをシャットダウンしながら、その横顔をちらりと盗み見る。川沿いであの秘密を話したときと同じ人が、今は仕事帰りのカフェを検索している。そのギャップに、胸のどこかが小さく軋む。

やがて、彼が画面をこちらに向けて見せてくる。駅から少しだけ離れた路地の中に、小さなカフェのピンが立っていた。写真には、木のテーブルと本棚と、天井から吊るされた裸電球の淡い光が写っている。

「ここ、どうかな。そんなに混まないって書いてある」

「いいと思います」

即答してから、その店の名前を覚えないようにする。名前をきちんと覚えてしまったら、その場所がこれからの自分にとって、特別な地図記号になってしまう気がした。

退勤処理を済ませ、コートを羽織る。エレベーター前で彼と合流し、ほかの人たちと一緒に箱の中に乗り込む。鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけ血色がよく見えた。緊張と、微かな高揚。そのどちらも、仕事帰りのカフェに向かう後輩の顔には余計なものかもしれない。

ビルを出ると、外の光はもう街灯の方が強くなり始めていた。車のヘッドライトが途切れなく流れ、人の影がその間を縫うように横切っていく。ビルの谷間を抜ける風は、昼より少しだけ湿り気を増していて、遠くのどこかで雨の予感を孕んでいるようにも感じられた。

「電車で行く?」

「歩ける距離ですよね」

「そうだね。じゃあ歩こうか」

並んで歩き出しながら、私は足元の舗装の感触に意識を向けた。アスファルトのわずかな凹凸、横断歩道の白いライン、信号待ちで止まる車のエンジン音。そうしたものの一つ一つに、今夜の選択を結びつけないように、慎重に歩幅を選んでいく。

会社のある街から恵比寿の方へ抜ける道は、オフィス街と住宅街とが入り混じっていて、コンビニの明かりとマンションの窓の光とが複雑に重なり合っていた。信号で立ち止まったとき、隣に立つ彼の肩が、こちらの肩とほんの少しだけ高さを違えていることに気づく。その差が、職場での関係性の差とも重なって見えて、私は視線を足元に落とした。

「最近、ちゃんと休めてる?」

不意に、彼が尋ねた。仕事の話でも、川沿いの夜の延長でもない、真ん中あたりを探るような問いかけだった。私は少し考えてから、正直に首を傾げる。

「どうでしょう。ちゃんと、ってどれくらいのことを言うんでしょうね」

「休みの日に、会社のこと考えない時間がどれくらいあるか、とか」

「それで言うと、だいぶ怪しい気がします」

彼が小さく笑う。その笑い声が、夜の街のざわめきの中にすぐ溶けていく。信号が青に変わり、私たちはまた歩き出した。

「相沢さんはさ」

歩道橋の下をくぐるとき、彼が少し声を落とした。

「自分のことを、ちゃんと休ませるの、下手そうだよね」

「否定できないです」

「俺も人のこと言えないけど」

彼の横顔に一瞬だけ影が落ちる。街灯と店のネオンが交互に彼の顔を照らし、そのたびに表情の陰影が変わって見えた。川沿いで聞いた秘密の一部が、また頭をもたげる。彼があの夜、自分の家庭のことを話したときの声の揺れ。あの揺れはいま、どこにしまわれているのだろう。

「だから、見せたいものがあるって言ったんですよね」

自分からその話題に触れることになるとは思っていなかった。口に出した瞬間、自分の声にわずかな震えを感じる。

「うん」

彼は短く答えたきり、それ以上は何も言わなかった。私もそれ以上は訊かなかった。訊いてしまえば、答えの種類まで想像してしまう。その想像が当たっていても外れていても、今歩いているこの距離が別の形に変わってしまいそうで怖かった。

恵比寿の駅前に近づくころ、街の明かりは一段と増えた。飲食店の看板から漏れる黄色い光と、ビルの上階に広がる白い光とが、空の低いところで混ざり合っている。待ち合わせをする人たちの群れを避けるようにして、私たちは少し脇の路地へ入っていった。

路地に一歩踏み込むと、さっきまでの喧騒が少し遠のいた。アスファルトの上に落ちる足音の響き方も変わる。細い道の両側に、小さな店の看板が控えめに光っている。その奥に、彼がさっき画面で見せてくれたカフェの入口があった。

ガラス戸の向こうには、木のテーブルと椅子がいくつか並んでいて、奥の方には本棚が見える。天井から吊り下げられた裸電球の光が、店内を柔らかく照らしていた。外から一瞬見ただけで、その光の温度が、会社の蛍光灯とも川沿いの街灯とも違う種類のものだと分かる。

「ここ、だね」

彼がガラス戸に手をかける。その瞬間、私の胸の奥で、小さな音を立てて何かが位置を変えた気がした。仕事でもなく、川沿いでもない場所で、彼が私に何を見せようとしているのか。その答えに触れる前の、このわずかな間が、一番長くて、一番甘くて、一番苦い。

扉が開き、温かい空気とほんのりしたコーヒーの匂いが外へ漏れ出してくる。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、一歩、店の中へ足を踏み入れた。

店の中は、外から見たよりも少し狭く感じた。木目の濃いテーブルがいくつかと、壁際に細長いベンチシート、それに合わせるように背の高いスツールが並んでいる。奥の本棚には背表紙の色がばらばらの本が不揃いに詰め込まれていて、その前に小さな観葉植物の鉢がいくつか置かれていた。音楽は、ごく小さな音で流れているのかどうか分からない程度で、代わりにエスプレッソマシンの低い振動と、グラス同士が触れ合う澄んだ音が、ときどき空気の底を叩いていた。

カウンターの中から出てきた店員に案内され、私たちは窓から少し離れた二人掛けのテーブルに向かい合って座った。入口のガラス越しに路地の明かりがぼんやり滲んで見える位置で、外の世界とは少しだけ距離を置いた場所だった。テーブルの上には、小さなガラスのボトルに挿された一輪のドライフラワーが乗っていて、その影が照明の加減で細長く伸びていた。

「何にする?」

メニューをめくる私の手元を、彼が横から覗き込む。紙をめくる音が、妙に耳に残る。私はあまり悩まずにコーヒーを選び、彼も同じものを頼んだ。店員がオーダーを取り終えて去っていくと、テーブルの上に一瞬だけ静かな間が落ちる。その沈黙を、誰のものにするかを決めかねているうちに、彼が口を開いた。

「ここ、前に一回来たことがあってさ」

「そうなんですか?」

「打ち合わせが長引いたときに、ひとりでふらっと。あんまり混んでなくて、落ち着くから」

そのときの様子が一瞬だけ彼の目に映った気がして、私はそれ以上は訊かなかった。誰と来たことがあるのかとか、どんな気持ちでこの店を見つけたのかとか、訊けばいいのに、言葉は喉の手前で絡まってしまう。

やがて、白いカップに注がれたコーヒーが運ばれてきた。表面に浮かんだ薄い泡が、照明を受けてかすかに光る。カップの縁に付いた雫が、静かに落ちて皿の上に小さな輪を作る。その様子を見ているだけで、胸の内側に妙な緊張が広がっていった。

「でね」

彼が、ポケットからスマートフォンを取り出した。画面にロックを解除する指の動きが、いつもより少しだけ慎重に見える。テーブルの真ん中にそれを置き、私の方へと軽く回転させる。その小さな所作が、「見ていい」と「ここまで」の境界線を同時に示しているように感じられた。

「見せたいって言ってたやつですか?」

「うん」

表示されたのは、メモアプリの画面だった。日付とタイトルのない、白いページに文字だけが詰まっている。上から下へ向かって、行間少なめで文章が流れていた。最初の数行を斜め読みしただけで、それが仕事の企画書でも、クライアントへのメールの下書きでもないと分かる。

「……小説ですか?」

気づけば、声が少し低くなっていた。彼は照れ隠しのように鼻先を指でこすりながら、短くうなずいた。

「まだ人に見せるレベルじゃないけど。相沢さんには、一回ちゃんと見てもらいたくて」

この人は職業として文章を書いているわけではない。編集として、企画や構成をする側にいる。だからこそ、彼が自分の名前ではない誰かの声で綴った文章をこうして私の前に差し出していることに、少し足場を崩される。

「今度の恋愛短編集の企画、覚えてる?」

「あの、実体験をもとに書くって話の……」

言ってしまってから、自分の声の中に含まれてしまった好奇心の成分に気づく。彼は苦笑しながら、画面を軽くスクロールした。

「ちゃんとフィクションにしてるけど、どうしても自分の話が混ざるんだよね。そこをどう扱うか、ずっと引っかかってて」

「それで、私に」

「うん。相沢さんは、全部をすごく真面目に受け取るけど、それでもちゃんと距離を取りながら読める人だと思ってるから」

距離を取れる。そう評価されることが、嬉しいのか寂しいのか、すぐには判断できなかった。川沿いのベンチで、彼の家庭の話を聞いてしまった夜から、私の中の距離感はずっと微妙にずれたままだ。それでも彼の目には、まだ「ちゃんと距離を取れる後輩」として映っているのだろうか。

「全部はここで読まなくていいけど、一部だけでも。変だと思うところとか、引っかかるところとか、教えてほしくて」

そう言って、彼はスマートフォンを私の方へ押しやった。画面に表示された文字列が、ぐっと近づく。私は一度深呼吸をしてから、指でスクロールした。

そこには、都会の川沿いを歩く男女が出てきた。仕事帰りのスーツ姿の男と、その職場の後輩らしい女。川面に映る光の描写が、妙に細かかった。男が自分の過去の失敗を話し始める場面では、彼の声の揺れ方まで文章の中に閉じ込めようとしているのが分かった。女の方は、相手の話を正面から受け止めすぎる癖があると、地の文でやわらかく指摘されている。

読めば読むほど、胸の奥が静かにざわつく。書かれている具体的な出来事は、私が知っているものとは少しずつ違う。それでも、会話の間の取り方や、視線の動かし方、歩幅の揃い方の描写が、ひどく既視感を呼び起こした。違う名前の人物たちのふりをして、あの夜の空気の一部が紙の上に逃がされているようだった。

「どう?」

一度区切りのいいところまで読んだところで、彼が問いかけた。私はスマートフォンから視線を上げる。カップの向こう側で、彼の指がゆっくりと組み替えられていた。

「……ずるいな、と思いました」

口から出てきたのは、川沿いの夜に私が言ったのとよく似た言葉だった。彼は一瞬きょとんとした顔をしてから、小さく笑う。

「前にも、そんなこと言われた気がする」

「実体験を混ぜたフィクションって、読む人の側の立場まで勝手に巻き込んでいくから」

「巻き込まれてる?」

今度は、今の私に向けられた問いだった。私はカップの縁を指で撫でながら、少しだけ間を置く。

「正直に言うと、ちょっとだけ」

「ちょっと、か」

「大部分はちゃんとフィクションだって分かるから、安心もしますけど」

「安心させたいわけじゃないのかもしれないけどね」

彼はそう言って、視線を少しだけ窓際の方へ逃がした。外の路地を行き交う人影が、ガラス越しにぼんやりと動いて見える。その向こうに、中目黒の川沿いの風景が薄く重なっているのを、私は勝手に想像する。

「こういうの、誰に読ませるか迷ってて」

「編集の人たちじゃなくて、ですか?」

「同じ職場の編集仲間には、あんまり。仕事のモードで読みすぎるから、良くも悪くも」

「私は仕事モードじゃないですか?」

「半分はね」

彼はそう言って、少しだけ目を細めた。カップの縁に落ちた照明が、その瞳の中で小さく揺れる。

「もう半分は?」

「中目黒で俺の話を聞いちゃった人のモード」

その言い方は、責めるでもなく、甘えるでもなく、そのどちらにもなり得る温度を保っていた。私は返す言葉を探しながら、しばらく沈黙を味わった。店内の他のテーブルから聞こえてくる小さな笑い声や、スプーンが皿に当たる音が、遠くの出来事みたいに聞こえる。

「……あの夜のこと、勝手に書くのはずるいと思います」

「うん」

「でも、こうやって見せてくるのも、やっぱりずるいと思います」

「それも、うん」

彼は二度うなずいた。反論もしないし、言い訳もしない。その代わりに、少しだけ目を伏せる。その伏し目が、川沿いで自分の家庭の話をしたときのそれと同じ角度だと気づいてしまって、胸の奥に静かな波紋が広がる。

「誰かに読んでほしいんですか、それとも、誰か一人に分かってほしいんですか」

自分でも少し危うい線を踏みにじっている自覚があった。それでも訊かずにはいられなかった。彼はテーブルの上で指を組み直しながら、ゆっくりと息を吐いた。

「たぶん、後者の方なんだと思う」

「特定の誰かに」

「うん」

その「誰か」が誰なのかを、わざわざ口に出す必要はなかった。もし違っていたとしても、今この場では同じ意味を帯びてしまう。私はカップの中の冷めかけたコーヒーを一口含み、その苦味で舌の上を少し痺れさせた。

「でも、それをやっていいのかどうかは、別の話ですよね」

「そうだね」

「相手の人が、どんな立場で聞かされているかとか」

「その人にとって、どんな重さになるかとか」

彼が私の言葉を引き取るように続ける。そのやり取りは、仕事で企画の良し悪しを話し合うときの癖にどこか似ていた。違うのは、今議論しているのが誰かの人生の一部であることと、その「誰か」の中に私自身が含まれているかもしれないということだけだ。

「だから、相沢さんに見せてるんだと思う」

しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりと言った。

「どういう意味ですか?」

「俺が今書いてるものが、相沢さんにとってどれくらいずるいか、ちゃんと教えてもらわないと、多分どこかで線を越える」

「もう少し手前で止めたいと」

「そう思ってる自分もいるし、どうせなら越えてしまえって言ってくる自分もいる」

彼は自嘲気味に笑った。その笑いには、軽さと重さが同居していた。自分の中にいる複数の声を、全部同じように理解しようとする人特有の疲れが滲んでいる。

「そういう話を、私はどこまで聞けばいいんでしょう」

「聞きたくなかった?」

「聞きたくないなら、たぶんここには来てないです」

本音だった。行かない理由はいくらでも作れたのに、この店のドアをくぐることを選んだのは私だ。それでも、自分で選んだからといって、受け取るものの重さまでうまくコントロールできるわけではない。

「線を引きたいなら、相沢さんの方から引いた方がいいんだと思う」

「久遠さんの方からじゃなくて」

「俺は、自分に都合のいい方に線を引きたくなるから」

それは、彼が自分の弱さを認めている言葉でもあり、その弱さを理由に責任を預けてくる言葉でもあった。私はスマートフォンの画面をもう一度見下ろす。そこに並んだ文字列は、さっきよりも少しだけ重く見えた。

「じゃあ、今はまだ、読んでいても大丈夫なところまでは来てないです」

「それは、どういう」

「この文章を読んで、具体的に誰かの顔を思い浮かべて苦しくなる人が、まだ私以外にはいなさそうだから」

自分で言っておきながら、その「苦しくなる人」の中に自分を含めたことに少し遅れて気づく。彼は短く息を吸い、それからふっと息を吐いて笑った。

「それ、結構きつい感想だね」

「でも、多分正直な感想です」

「ありがとう」

彼の「ありがとう」は、仕事で何かを手伝ったときのそれとは少し違う音をしていた。カップの底に残っていたコーヒーを飲み干すと、舌の上にしつこく残る苦味が、さっきよりもはっきりと自覚される。

「ちゃんと読ませてもらってから、改めて感想送ります。今のは、途中経過ということで」

「怖いな」

「怖がってください。ずるさの度合いを測る役目を任されたなら、それくらいは」

言いながら、私は自分で自分の役割を固定しようとしていることに気づく。ずるさを測る人。線を引く人。境界を認識し続ける人。その立場にいる限り、私は「越える側」にはならないでいられる気がした。

店を出るころには、路地の空気は少し冷えていた。外に出た瞬間、室内の温かさとコーヒーの香りが背中の方へ押し戻されていく。暗くなり始めた空の下で、街灯がひとつずつ光を強めていた。さっきまでいたカフェの窓からは、内側の明かりが通りに漏れている。その光を背に受けながら、私たちは駅へ向けて歩き出した。

さっきまでの会話の続きをするには、路地は少し開けすぎていた。飲食店の看板から漏れる笑い声や、踏切の方から聞こえてくる警報音が、言葉を選ぶ余裕を奪っていく。私は歩幅を少しだけ狭め、彼との距離を半歩広げた。わずかな空白が、さっきまでテーブルを挟んで向かい合っていた記憶と、今並んで歩いている現実を、ぎりぎりのところで切り分けてくれる。

「さっきの、小説のことなんですけど」

駅のホームに向かう階段を上りながら、私は口を開いた。彼は一段上の位置から振り返る。

「うん」

「もし、どこかで本になったら」

自分でも、ずいぶん先の話を持ち出している自覚があった。彼は少しだけ目を細める。

「そのとき、私はきっと買ってしまうと思います」

「うん」

「でも、多分、名前は出さないでおきます」

「誰にも?」

「近い人には、なおさら」

それは、彼の本が世に出ることを願う言葉でもあり、読者としての自分と、あの夜の秘密を知っている自分とを切り離すためのささやかな防波堤でもあった。彼は階段を上り切ったところで立ち止まり、短く笑った。

「それ、最高の読者だな」

「ずるい作者の本には、そういう読者がちょうどいいんだと思います」

ホームに入ってきた電車の風が、二人の間をすり抜けていく。アナウンスの声が天井に反響し、線路の上に薄くこだまする。乗り込む人の流れに押されるようにして、私たちも車内へと歩を進めた。

帰り道の電車は、行きのときより少しだけ混んでいた。吊り革と吊り革のあいだに、無理なく立てるくらいの空きがある。私はドアのそばに立ち、彼は少し離れたポールにもたれかかるようにして立った。二人の間に、知らない人たちの肩やバッグが挟まる。その物理的な距離が、さっきまでカフェで交わしていた言葉の温度を、少しずつ現実に戻していく。

しばらくして、彼がポケットからスマートフォンを取り出した。さっき見せてくれたメモアプリの画面を開いているのが、ちらりと見えた。彼の指が、短い文章をいくつか打ち込んでいる。きっと、さっきの会話のどこかを、何かの形で保存しようとしているのだろう。私も鞄からスマートフォンを出し、画面を点ける。彼とのメッセージアプリのスレッドは、数日前の仕事のやり取りで止まったままだった。

何か一言だけ送ってしまえば、きっと簡単に動き出す。さっきの小説の感想の続きを、冗談めかして書くこともできる。でも、私は画面を見つめるだけで、指を動かさなかった。今はまだ、言葉を足さないことの方を選ぶ。その選択を、自分で自分に言い聞かせるように、電車の揺れに身体を預けた。

乗り換え駅で彼と別れることになった。ホームに降り立つと、向かい側の線路には別の電車が滑り込んでくるところだった。アナウンスが重なり合い、人の足音が入り乱れる。そのざわめきの中で、彼が少しだけ身を寄せるようにして言った。

「今日はありがとう。読んでもらうの、やっぱり相沢さんでよかった」

「感想、ちゃんと送りますね」

「覚悟しとく」

そう言って、彼は笑った。その笑い顔を見たとき、胸のどこかで「もう戻れない方へ少し傾いた」という感覚が、確かに形を持った。誰かに説明できるほどはっきりした傾きではないのに、自分ではもう元の位置がどこだったのか思い出せないくらいの変化。

別々の電車に乗り込み、反対方向へと運ばれていく。窓越しに見えるホームの光が遠ざかり、すぐに反対側の景色に塗り替えられる。車内の揺れに合わせて、自分の中の揺れもゆっくりと広がっていった。

家に着いて部屋の灯りを点けたとき、窓の外の空には、雲の切れ間からわずかに星が見えた。東京の夜空にしては珍しく、いくつかまとまっている。ベランダの手すりに寄りかかりながら、それを見上げる。冷たい空気を吸い込むと、肺の奥が少し痛んだ。

部屋に戻り、テーブルの上にスマートフォンを置く。メモアプリを開き、タイトルも付けないまま、今日のことを短い文でいくつか書き留める。誰に見せるでもない、私だけのメモ。その中に、「ずるい作者」と「最高の読者」という言葉を、そっと紛れ込ませた。

画面を閉じると、部屋の中の静けさが戻ってくる。カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、床の上に細長い四角形を描いていた。その光の端に足先を置きながら、私はゆっくりと目を閉じる。

明日もまた、オフィスの蛍光灯の下で、仕事用の距離を取りながら彼と向き合うことになる。そのことを思い浮かべるだけで、胸の奥に、少し苦くて、それでも手放したくない温度がじわりと広がっていった。

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