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【創作大賞2026応募作品】川沿いの秘密 第8章:言えない答え

川沿いの回り道から、いくつかの夜が過ぎた。そのあいだの東京は、季節を一気に進めることもなく、かといって足踏みをしているわけでもなく、薄い灰色の雲を行き来させながら、静かに空気の湿り方だけを変えていった。

オフィスの窓の外に見えるビルの外壁は、午前の光を受けてもきらきらとはせず、淡い鈍色を保ったまま立ち続けている。空調の音とキーボードの打鍵音が混ざるフロアの片隅で、私は今日もいつもと同じようにパソコンを立ち上げた。

メールソフトを開くと、未読の件名がいくつか並んでいる。営業からの部数の相談、別の担当作家からの短い質問。スクロールした視線の途中で、ひとつだけ、指先が自然に止まった。

「新作・第4稿です」

差出人欄には、久遠蓮の名前。送信時刻は、昨夜遅く。
件名の横に並ぶ小さなクリップのマークが、デスクライトの反射で控えめに光っているように見えた。

ファイルをすぐには開かず、まずデスクの端に置いてあるマグカップを手に取る。温度を失いかけたコーヒーを一口飲み、喉を通る苦味を確認してから、ようやく添付ファイルのアイコンをクリックした。

画面いっぱいに広がるテキストデータの白い地の上に、黒い文字が整然と並んでいる。いつもと同じフォント、同じ行間。それなのに、今日は最初の一行に辿り着くまでに、指先にわずかな抵抗があった。

「冒頭、少しだけ呼吸を長くしてみました」

本文の前に添えられていた一文。
それだけで、昨夜遅く、彼が画面に向かっていた姿が、まだ見ぬ光景として頭の中に滲んでくる。デスクの隅に置かれたカップ、消し忘れたスタンドライトの円い光、窓ガラスに映る自分の顔。想像でしかないのに、妙に手触りのある像として浮かぶ。

「相沢さん、例の販促の件、このあと少しいいですか?」

向かいの島から声が飛んできた。私は慌てて顔を上げる。

「はい、大丈夫です。このあと会議室、空いているところがあれば」

「取っておきますね」

同僚の気配が遠ざかるのを確認してから、私は画面に視線を戻す。仕事の段取りは変わらない。原稿を読み、チェックし、著者とやりとりし、営業と相談して、企画を前に進める。そこに私情を混ぜ込まないことが、少なくとも今までは、自分なりに守ってきた線だった。

スクロールを少しずつ進めながら、言葉の流れに身を預けていく。新作の主人公は、前作とは性格も背景も違う人物になっていた。職業も年齢も、まったく別の設定。それでも、行間に漂う温度や、会話の間に置かれた沈黙の形は、確かに久遠蓮のものだと分かる。

「この人、誰かに似ているな」

読み進めるうち、ふとそんな考えが頭をよぎる。
すぐに、首を横に振ってその感覚を追い払う。登場人物が、担当編集者に似てしまうことなど、よくあることだ。仕事の話だけをしていても、無意識に口調や反応が文章の中に混ざる。そこに特別な意味を見ようとするのは、たいていの場合、読者側の勝手な投影だ。

そう自分に言い聞かせながらも、指先はときどきスクロールの速度を緩めていた。ページの中ほどまで来たとき、画面の下の方に、見慣れた地名が目に入る。

「川沿いの遊歩道に、夜の風が低く流れていた。」

一文を読み終えた瞬間、胸の奥で空気の層が変わる。
画面の光が、急に別の色を帯びたように見えた。指先のスクロールを止めきれず、そのまま視線だけが先の行を追ってしまう。

物語の中の二人は、私たちとは別の名前を持っていた。職業も違うし、抱えている事情も似ていない。けれど、川沿いの描写は、あの夜の景色と限りなく近い温度を持っていた。

遊歩道に落ちる街灯の間隔。欄干に触れたときの金属の冷たさ。遠くの橋を渡る車のライトが水面に描く細い線。
どれも、あの夜、私が身体で覚え込んでしまった要素とほとんどずれていない。

そして、少しスクロールした先に、その台詞はあった。

「まだ、大丈夫だよ」

物語の中では、彼氏でも夫でもない誰かに向かって、登場人物がそう言っていた。言い回しはわずかに違うのに、意味の核の部分は、あの夜、川沿いで私が口にした言葉に限りなく近い。

胸の奥で、何かがきゅっと縮まった。
眼球の裏側が、画面の光を受けすぎたせいでじんじんと熱を帯びる。マウスを握る手のひらに、じわりと汗がにじんだ。

読者として読むなら、きっとこの場面を好きだと思っただろう。ぎりぎりの場所で交わされる、曖昧な約束。線を越えないことを確認し合いながら、それでも互いの存在に依存し始めている二人。そのバランスの危うさは、小説としてとてもよくできている。

けれど、担当編集者として読むとき、そこに別の視点が割り込んでくる。この言葉を、このまま印刷所に渡してしまっていいのかどうか。自分の声が、自分の知らないところで、別の誰かの台詞として世界に配られていくことを、私はどこまで許容できるのか。

カーソルをスクロールバーの上に残したまま、私は深く息を吸った。
コーヒーの残りを飲もうとして、マグカップの底がもうほとんど空なのに気づく。立ち上がって給湯室へ向かうと、フロアの空気が少しだけ薄くなったように感じた。

給湯室の窓から見える空は、昼と夕方の境目に向かう途中で、色を変えかけている。遠くのビルのガラス面に、淡い光の層が斜めに走っていた。その光の筋をぼんやりと眺めながら、私は紙コップに新しいコーヒーを注ぐ。

「相沢さん、顔色、ちょっと悪くないですか?」

たまたま同じタイミングで給湯室に入ってきた同僚が、心配そうに言った。

「大丈夫です。ちょっと集中しすぎただけだと思います」

「売れっ子先生の原稿ですよね。無理しすぎないでくださいね」

軽い冗談めかした声に、私は苦笑いを返す。
「はい。ほどほどにします」

ほどほどに、という言葉が、喉の奥で少し引っかかった。
仕事と個人の境界線を、ほどほどに曖昧にした結果が、今目の前に広がっている原稿なのではないか。そんな考えが頭をかすめる。

自席に戻ると、画面には先ほどと同じページが開かれたままだった。川沿いの場面の冒頭。私の視線は、その一文の少し上から読み返していく。

そこには、あの夜には存在しなかった行も、いくつも書き足されていた。
登場人物の家庭の事情、仕事への行き詰まり、友人との関係。そこに積み上げられた背景が、川沿いの会話に別の重さを与えている。あの夜、私たちが持ち込まなかった種類の負荷が、物語の中には丁寧に組み込まれていた。

つまりこれは、単なる写し取りではない。あの夜の断片を起点にしながら、彼なりの文脈の中に置き直した結果だ。そのことは頭では理解できる。
それでも、「まだ、大丈夫だよ」という一文だけは、どうしても編集の赤を入れにくい場所にあった。

「ここ、少しだけ表現を変えませんか?」

そうコメント欄に書きかけて、途中でカーソルを止める。
言い回しを変えさせたところで、核の部分は変わらない。むしろ、表面だけを少しずらすことで、自分だけが余計にその真ん中を意識してしまう気がした。

画面の端に、小さな時計のマークが表示される。会議の時間が近づいていることを知らせる通知だ。私はいったんファイルを保存し、ウィンドウを閉じた。

打ち合わせは、いつもと同じように淡々と進んだ。
販促用のポップの案、書店への挨拶回りのスケジュール、SNSでの告知文の案。誰も、原稿の中に川沿いの夜が書き込まれたことなど知らないまま、「期待の新作」という言葉を何度も口にする。

会議が終わり、席に戻る途中、スマートフォンが短く震えた。ポケットから取り出して画面を見ると、メッセージアプリに新しい通知がひとつ。

「原稿、届いていますか?」

久遠さんからだった。
送信時刻は、打ち合わせが始まる少し前。私は一度画面を閉じかけてから、慎重に入力を始める。

「はい、拝見しています。全体として、とても良かったです」

そこまでは、迷いなく打てた。
問題は、その先だった。

「川沿いの場面について、少しだけ相談させてください」

そう続けてみる。
文字列としては、ごく普通の担当編集者のメッセージだ。どの作家に送っても不自然ではない文面。それなのに、送信ボタンに指を近づけたところで、心臓の鼓動が一段強くなった。

この一文を送った瞬間、あの夜の水の匂いが、ふたたび今現在の会話の中に呼び込まれてしまう気がした。仕事の話として扱うことで、守られるものもあれば、逆に輪郭をはっきりさせてしまうものもある。

指先をしばらく宙に留めたあと、私は迷いながらも、一度その一文を消した。画面上から、川沿いという単語が跡形もなく消える。代わりに、無難な言い方を打ち直す。

「何か所か、細かい表現についてご相談したい部分があります。別途、コメントでお送りします」

それだけにして、送信ボタンを押した。
画面の下の方で、小さな紙飛行機のアイコンがすばやく右方向に滑っていく。

しばらくして、すぐに返信が届いた。

「ありがとうございます。どこでも、遠慮なく直してください」

一文だけのメッセージ。
そこには、川の「か」の字も、あの夜を示す具体的な言葉もなかった。それでも、私の胸の中では、水面の冷たさがふっと蘇る。

机に戻ると、モニターの明かりが少しだけまぶしく感じた。さっきまで開いていた久遠蓮の原稿ファイルは最小化したままで、画面の手前には社内チャットのウインドウがいくつも重なっている。未読のバッジが並ぶのを、私はしばらく眺めるだけで指先を動かせずにいた。フロアの奥からは、誰かが椅子を引く音と、コーヒーメーカーの小さな駆動音が聞こえる。窓の外の光は、いつのまにか白から薄い金色へと傾き始めていて、ビルの壁面に沿って長く伸びた影が、ゆっくりとオフィスの床を這ってきていた。

「相沢さん、さっきのゲラ、ざっとでいいから今日中に見られそう?」

通路側のデスクから、営業の山口が顔だけこちらに向ける。私は姿勢を少し伸ばし、机の端に積んである紙束を見下ろした。

「大丈夫です。細かい赤字は明日になるかもしれませんけど、誤植チェックくらいなら今のうちに済ませておきます」

「助かる。あ、もし上がりそうなら、さっき話してた打ち上げ、顔出す?」

「今日はやめておきます。まだ原稿、残ってるので」

言いながら、視界の端でタスクバーに並ぶファイル名を見た。久遠蓮の作品タイトルが、他の案件と同じフォントで無機質に並んでいるだけなのに、そこだけ色が違って見える。

「そっか。じゃあ無理しないで」

山口はそれ以上踏み込まず、軽く片手を上げて自分の席に戻っていった。彼の背中を見送りながら、私はようやく原稿ファイルを再び開く。先ほど閉じた川沿いの場面を避けるように、スクロールバーを少し下へ滑らせ、あえてその先の章から読み進めていく。

地方都市の駅前を描いた場面に差し掛かったところで、私は一度手を止める。ロータリーを回るバスのヘッドライト、夜行バスの乗り場に立つ人々の肩越しに見えるコンビニの明かり、聞き慣れないアナウンスの抑揚。その情景を追いながら、私はコメント欄を開いた。

「ここ、東京との空気の違いがすごくよく伝わりますね。ただ、少しだけ情報が多くて読者が疲れてしまうかもしれません」

ひとりごとのように呟きながら、キーボードに指を置く。

「『東京との温度差がほんの少しだけ伝わるくらいの分量』に調整していただくことは可能でしょうか?」

そう打ち込んでコメントを確定すると、画面の端に小さな吹き出しが現れた。仕事としての文面は、いつも通りの落ち着いた調子を保っている。それでも、そのすぐ近くにさっき読んだばかりの台詞が残っているせいで、胸のどこかがざわついたままだ。

「ここまで来ちゃったら、もう戻れないんだろうね」

ページの中で彼がそう言ったとき、私は思わず椅子の背にもたれて天井を仰いだ。川沿いで聞いた、本物の声の温度が、文字の形を借りて別の角度から差し込んでくる。私はペンの先で机を軽く叩き、わざと意識を仕事に戻した。

「……ここ、どうコメントしたらいいんだろう」

自分に聞かせるように小さく呟いてみても、答えは簡単には出てこない。これは物語の中の台詞で、現実の久遠蓮が私に向かって発した言葉ではない。そう何度も言い聞かせながら、私は「この台詞、とても印象的でした」とだけ短く書き加えた。そこから先は余計なことを言わない方がいい気がして、コメント欄を静かに閉じる。

ページの終盤までたどり着いたころ、社内チャットに新着の通知が灯った。「お先に失礼します」という挨拶の連鎖がいくつも流れていく。私は原稿を最後まで読み切ってから、未読のまま残していた久遠蓮とのスレッドを、ようやく開いた。

「先ほど、改稿版をお送りしました。時間のあるときに見ていただけると助かります」

昼間に届いていたそのメッセージの下に、私の返信はまだなかった。カーソルを置き、短い文を考える。

「ありがとうございます。こちらでも全体通して確認しています。いくつか重要な修正もあるので、改めてお時間いただけると助かります」

そこまで打ち込んでから、私は少し迷い、エンターキーを押す前に一行追加した。

「直接お話ししながらの方が、ニュアンスを共有しやすいかもしれません」

文字として画面に並んだそれは、どこからどう見ても、編集者から作家への提案に過ぎない。それでも「直接」という二文字に、あの川沿いの空気が薄くまとわりつくのを、私は否定できなかった。送信ボタンを押すと、すぐに既読のマークがつく。

「こちらこそ、丁寧に見てくださってありがとうございます。必要そうなら、ぜひ一度お話させてください」

続けて、もう一行が追加された。

「相沢さんの都合のいい時間に合わせます。夜でも大丈夫です」

その「夜でも」という言葉が、胸の奥で小さく引っかかる。私は余計な連想を振り払うように背筋を伸ばし、できるだけ事務的な調子で返事を打つ。

「ありがとうございます。では、今週か来週のどこかで、夕方以降のお時間を相談させてください。候補を整理して、あらためてご連絡します」

送信を終えたところで、背後から声が飛んできた。

「相沢さん、そろそろ上がる?」

振り向くと、同じ部署の先輩がコートを片手に立っていた。

「はい、そろそろ。ゲラ、ひとまずめどはつきました」

「よかった。相沢さん、最近残ること多かったからさ。たまには中目黒で途中下車して、ちゃんと夜の空気吸って帰りなよ」

「……そうですね。そうします」

軽く笑って返しながら、自分でも驚くほど素直にその提案を受け入れていることに気づく。先輩は「お疲れさま」と言って手を振り、エレベーターへ向かって歩いて行った。

パソコンをシャットダウンし、デスクの上を手早く片づける。オフィスを出てビルの自動ドアを抜けると、街はすでに夜の顔を濃くしていた。濡れていないアスファルトが街灯の光を薄く跳ね返し、信号待ちの車列が赤いライトを静かに揺らしている。私は地下鉄の入口へ向かいながら、ポケットの中のスマートフォンが小さく震えるのを感じた。

歩道の端に寄り、通知を開く。久遠蓮からのメッセージが一つ。

「中目黒あたりなら、どこか静かに話せる場所、ありますか?」

短いその一文に、思わず指先が止まった。すぐに返事を打てるはずなのに、頭の中にはいくつもの店の名前と、それぞれの照明の色や席の配置が一度に浮かんで、どれを選ぶのがいちばん無難なのか判断がつかない。

「いくつか候補はあります。落ち着いて話せるところ、探しておきますね」

そう返してから、ほんの少しだけ間を置いて、もう一行を付け足す。

「川沿いから少し離れた場所の方が、ゆっくり話せる気がします」

送信すると、間もなく既読がついた。

「ありがとうございます。相沢さんの行きやすい場所で大丈夫です」

それだけの、穏やかな返事。そこに余計な含みは見えないのに、「川沿い」という単語をこちらから出してしまったことが、後からじわじわと熱を帯びて押し寄せてくる。スマートフォンをポケットに戻し、私は地下鉄の階段を降りていった。

電車に揺られて中目黒へ向かうあいだ、車内の蛍光灯は窓ガラスにくっきりと映り込み、その奥で街の灯りが細い糸のように流れていく。ふと斜め前を見ると、同じ車両の若い女性が、スマートフォンを握ったままぼんやり外を眺めていた。画面には誰かとのメッセージが開かれているようで、時折、親指がゆっくりと上下する。その横顔を見ていると、自分も同じような表情をしているのではないかと思えて、目線を慌てて外した。

中目黒の駅に着き、ホームに降り立つと、夜気は昼間より柔らかく、それでいて芯には冷えが残っている。改札を抜け、まっすぐ家に向かうこともできたが、足は自然と川の方へ向いてしまった。遊歩道に出ると、風の匂いだけがあの日と違っている。同じ欄干、同じ石畳、同じような照明の配置なのに、空気の奥に混ざる乾いた気配が、季節の端が少しだけずれたことを告げていた。

欄干に手を添えたとき、ポケットの中のスマートフォンが、また小さく震えた。画面を点けると、久遠蓮からの新しいメッセージが届いている。

「今度会うとき、あの夜のこと、少しだけ聞かせてもらってもいいですか」

文字をなぞる指先が、途中で止まる。

「書き手として、ちゃんと向き合いたくて。無理なら無理って言ってください」

私は欄干にもたれ、しばらく川面を見つめた。ビルの光が水に映ってこまかく震え、その震えが心臓の鼓動とどこかで重なる。画面に戻り、ゆっくりと両手でスマートフォンを支える。

「……少しだけなら、大丈夫です」

声に出してみると、その言葉は思っていたよりも静かだった。私は同じ文をメッセージ欄に打ち込み、最後に一文を足す。

「私も、自分の中で整理した方がいい気がしてきました」

送信ボタンを押すと、胸の奥で何かがかすかに軋む。その音は痛みにも似ているのに、どこかでほっとしている自分もいる。久遠蓮からの返事は、すぐには来なかった。代わりに、川面を撫でる風の音と、対岸のマンションのどこかの窓から漏れる笑い声が、夜の隙間をゆっくりと満たしていく。

言葉になり損ねた感情と、まだ形を持たない願いと、どこまでを仕事の名の下に包み込めるのか。答えのない問いを抱えたまま、私は欄干から手を離し、ゆっくりと遊歩道を歩き出した。足元の石畳が、さっきより少しだけ冷たく感じられた。

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