【ファスティングと斎戒】断食による「オートファジー」と霊的感覚の研ぎ澄まし
序章 ―― なぜ、神主は神事の前に「物を断つ」のか
私が神事に臨むとき、必ず行う作法があります。
肉を断ち、酒を断ち、強い香りの野菜を控え、心身を清浄に保つ。これを神道では「斎戒(さいかい)」、あるいは「潔斎(けっさい)」、より古い言葉では「物忌み(ものいみ)」と申します。
斎戒 ―― 祭りを執り行うなど、神聖な仕事に従う者が、飲食や行動を慎み、心身を清めること。物忌み。潔斎。 (『デジタル大辞泉』)
なぜ、神に近づく者は、まず「食を慎む」のか。現代の合理主義からすれば、前時代的な迷信に映るかもしれません。
しかし二〇一六年、この古来からの作法に対して、極めて重大な科学的応答がなされました。東京工業大学の大隅良典栄誉教授が、「オートファジー」のメカニズム解明によりノーベル生理学・医学賞を単独受賞したのです。
オートファジーとは、ギリシャ語のauto(自ら)とphagy(食べる)を組み合わせた語で、**「細胞が飢餓状態に陥ったとき、自らの細胞質タンパク質やオルガネラなどを消化・分解して、細胞生存に必要なアミノ酸やエネルギー源として再利用する仕組み」**を指します(東京大学教養学部報、二〇一六年)。
つまり、人は空腹になることで、細胞レベルで自らを「掃除」し、「再生」していた。我が国の祖先は顕微鏡もMRIも存在しなかった時代に、すでに「神事の前は飲食を慎め」と命じていた。それは単なる宗教的禁忌ではなく、人体と精神の生理的真実を見抜いた、極めて合理的な智慧だったのではないか。本稿では、この「斎戒」と「ファスティング」という、一見無関係に見える二つの営みが、実は同じ一本の真理に貫かれていることを論じてまいります。
第一章 ―― 神社本庁が定める「斎戒」の作法
神社本庁は昭和四十六年に通達を発し、現代の神職が遵守すべき斎戒規定を次のように定めています。
一、祭祀に奉仕する者は、大祭、中祭にはその当日及び前日、小祭にはその当日斎戒するものとする。 二、斎戒中は、潔斎して身体を清め、衣服を改め、居室を別にし、飲食を慎み、思念、言語、動作を正しくし、汚辱、不浄に触れてはならない。 (長野県神社庁・神社用語解説)
注目すべきは、斎戒が単なる「断食」ではないという点です。飲食、思念、言語、動作――生命活動のすべてを律する総合的な「整え」の作法なのです。
その源流は奈良時代の養老律令・神祇令にまで遡ります。律令は、大嘗祭などの大祭にあたって「散斎(あらいみ)一月、致斎(まいみ)三日」を課しました。すなわち、軽度の物忌みを一ヶ月、厳重な物忌みを三日間、神に奉仕する者に義務付けたのです。一ヶ月――現代人の感覚では気が遠くなる長さですが、古代の祭祀者たちは、それだけの時間をかけて己を整えなければ神に近づけないと考えていた。
具体的な禁忌は、肉食を避け、匂いの強い野菜(葷・くん)を控え、他者と火を共有しないといったものでした。火は穢れを移す媒体と考えられ、別火(べっか)を立てて専用の竈で調理した清浄な食をとった。平安貴族たちも陰陽道の影響で頻繁に物忌みを行い、その日数は年間で一ヶ月にも及んだと『日本大百科全書』は記しています。見えない世界に対する感覚を保つために、見える世界での生活を厳しく律していたのです。
第二章 ―― 大隅良典博士が明かした「飢餓」の科学的意味
時代を一気に飛び越え、現代の細胞生物学の知見へ移りましょう。
大隅博士は一九八八年から酵母を用いた研究を開始されました。当時、生命科学の世界では「タンパク質を作る仕組み」を調べる研究が花形でしたが、博士は**「生命は合成と分解が平衡した関係で成り立っている」という哲学的信念**から、誰も注目しない分解の方を選ばれたのです(日本科学未来館、二〇二一年)。
博士は、酵母を「栄養不足の状態」に置くと細胞内に劇的な変化が起こることを発見しました。細胞内に膜が突如出現し、分解対象のタンパク質や古びたミトコンドリアを包み込んで「オートファゴソーム」を形成、リソソーム(液胞)と融合して内部の酵素により分解・再利用される――(東京工業大学広報誌『Tech Tech』第29号)。
ここで重要な事実を申し上げます。オートファジーは、空腹の時にこそ最も活発になるのです。満腹の時は外から栄養が来るため細胞はオートファジーを抑制しますが、栄養供給が断たれた時、細胞は生き残るために体内のゴミ・古びた部品を回収し、新たな素材として再利用しはじめる。
この機構は酵母から人間に至るまですべての真核生物に保存された普遍的な生命機構であり、その破綻は神経変性疾患(パーキンソン病、アルツハイマー病)や癌、糖尿病の発症と深く関わることが分かっています(SPring-8広報資料)。
そして注目すべきは、脳への影響です。新潟医療福祉大学の総説論文によれば、断食によって体のエネルギー源が糖からケトン体へとシフトする際、ケトン体はBDNF(脳由来神経栄養因子)の合成とオートファジーを同時に活性化させると報告されています。
BDNFとは、脳神経細胞の生存・成長・シナプス形成を促す「脳の成長ホルモン」とも呼ばれるタンパク質です。二〇二六年一月CareNet紹介の臨床試験の系統的レビューでは、間欠的断食やケトジェニック食でBDNF血中濃度の上昇が確認されており、認知機能改善との関連が示されています。さらに空腹時に分泌されるホルモン「グレリン」も、集中力と記憶力を高める作用があることが知られています。
整理しましょう。人は空腹になることで、細胞内のオートファジーが活性化して不良タンパク質や古びたミトコンドリアが処理され、ケトン体が脳の主要エネルギー源となり、BDNFが増加して神経細胞の働きが活性化し、グレリンが集中力・記憶力を高める。これらすべてが満腹時には起こりにくく、空腹時にこそ起動する機構なのです。
第三章 ―― なぜ祖先は「空腹で神に向かえ」と命じたのか
ここで、和氣流の視点から本質を読み解いてまいります。
古代の神主たちは、当然ながらオートファジーもBDNFも知らなかった。にもかかわらず、彼らは経験的に、**「胃腸を空にした時、人の感覚は研ぎ澄まされる」**ことを知っていました。
この事実は、神道だけに限ったものではありません。釈迦は六年間の苦行の末に菩提樹下で覚りを開きましたが、その境地は満腹の宴席ではなく、極限まで簡素化された食生活の中で訪れた。修験道の山伏たちは木食行(もくじきぎょう)を行い、穀物さえ断って木の実だけで山に籠もりました。イスラム教徒はラマダーン月に日中の飲食を絶ち、キリスト教徒は四旬節(レント)に節制を行う。ユダヤ教にもヨム・キプル(贖罪日)の断食があります。世界の主要な霊性伝統が、判で押したように「神に近づくには食を断て」と教えているのです。
これは偶然ではありません。満腹の時、私たちの体は「消化モード」に入っています。血液は胃腸に集中し、副交感神経が優位になり、意識は内側へと弛緩する。これは生命維持上は必要な状態ですが、外界の微細なシグナルを捉える感覚は鈍化する。
逆に空腹の時、人体は「狩猟モード」に切り替わります。グレリンと交感神経が活性化し、感覚が鋭くなり、思考が冴え渡る。空腹の動物が獲物を見逃さぬよう、五感が研ぎ澄まされる必要があった――進化生物学的にも合理的な機構です。
そして、この「狩猟モード」の感覚の鋭敏さこそ、古代の神主たちが「神の声を聴く状態」と表現したものに他なりません。
『古事記』に登場する天照大御神が天岩戸からお出ましになる場面で、神々は神饌を整え、祝詞を奏し、舞を舞いました。しかしその祭祀に与る神々自身は、決して飽食の状態ではなかった。祭祀者は、自らを空にすることで、神を迎える「器」となる――これが日本古来の祭祀観の核心です。
満ちた器には、新しいものは入りません。人もまた、胃腸が満ち、欲が満ち、思考が満ちた状態では、より高次のものを受信することができない。断つことは、受け取るための準備なのです。
第四章 ―― 現代人のための「擬似的斎戒」の実践
では、現代を生きる我々が、この智慧をどう日常に活かせばよいか。
神主のように毎月一ヶ月の散斎を実践することは、現代の生活では困難です。しかし、科学が示す通り、間欠的断食でも十分にオートファジーは活性化します。具体的には、食後十時間から十六時間以上の空腹時間を設けることで、ケトン体代謝への移行が始まるとされています(前掲・新潟医療福祉大学レビュー)。
私が日常的に提唱しているのは、以下のような「擬似的斎戒」です。
第一に、夜の早い時間に最終食を済ませること。 たとえば夕食を午後七時までに終え、翌朝の食事を午前十一時にする。これだけで十六時間の空腹時間が確保されます。睡眠時間の大半を空腹で過ごすため、生活への負担も少ない。
第二に、神事や重要な祈りの前日には、肉と酒を控えること。 完全な断食でなくとも、強い消化負担を与える食を避けるだけで、翌朝の感覚は驚くほど澄みます。これは神社本庁の斎戒規定の精神を、現代風に応用したものです。
第三に、月に一度、一日だけ「水と少量の塩のみ」で過ごす日を設けること。 これは現代でいう「ファスティングデー」に当たりますが、私はこれを「月次祓(つきなみのはらえ)」の精神で行うことを薦めております。胃腸を空にし、思考を空にし、ただ静かに自らの内なる声に耳を澄ませる日を、月に一度だけ設ける。
ここで申し添えたいのは、この実践は単なる健康法ではないということです。
斎戒の本義は、**「中今(なかいま)に立ち返る」**ことにあります。中今とは、過去でも未来でもない、いま此処にある生命の輝きそのもの。満腹で意識が散漫な時、人は中今から外れ、思考の渦の中で過去を悔やみ未来を憂います。しかし空腹で感覚が研ぎ澄まされた時、人は否応なくいまこの瞬間に引き戻される。
胃腸の空白が、心の空白を呼び、心の空白が、宇宙との接続を回復させる。
これは古代の神主が経験的に知り、大隅博士が分子レベルで証明し、世界の宗教伝統が口を揃えて伝えてきた、普遍的な生命の法則なのです。
結章 ―― 飽食の時代に、神を取り戻すために
我が国はいま、史上類を見ない飽食の時代にあります。コンビニエンスストアは二十四時間開き、スマートフォンを開けば食事が三十分で届く。胃腸が空になる暇がない。
この状態で、現代人の霊性は鈍麻していきます。オートファジーは抑制され、BDNFは低下し、感覚は鈍り、神からの微細なシグナルを受信する能力が失われていく――これは比喩ではなく、生理学的な事実です。
我が国の祖先が一千数百年にわたって守り続けてきた「斎戒」の作法は、決して時代遅れの宗教的儀礼ではありませんでした。それは、人が人として、神を感じ、宇宙と繋がる感性を保ち続けるための、生命科学的な処方箋だったのです。大隅良典博士のノーベル賞は、現代の科学がようやくこの古代の智慧に追いついた瞬間でした。
胃腸を空にすること。心を空にすること。そして、神を迎える器となること。この三位一体の作法を、現代の我々もまた、いま此処で実践することができます。明日の朝食を一食抜いてみる――そのささやかな一歩から、我が国の霊性は再び目覚めはじめるのです。
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