【藤原道長⑩】すべてが思い通り!? いや、悲しみも。道長の晩年「人物相関図」
歴史のオモシロさを「人物相関図」を使って少しでも分かりやすく伝えたいという思いでつづっているnoteです。
今回のシリーズは藤原道長。全記事をまとめたマガジンはコチラから↓
前回の記事では 道長が 新たな天皇である三条天皇に、自身の娘・藤原妍子(けんし)を中宮(正妻)にすえ権力を固めた様子を描きました。
今回の記事では 道長が かの有名な「望月の歌」を詠む絶頂の姿、そして悲しき晩年について書いていきます。
歴史に名を残す絶大権力者・藤原道長も喜びもあれば 耐え難い悲しみもある...。そう思わされる人生です。
ついに自分の孫が天皇に コレでまさに無双!!
対立関係になっていた三条天皇が病気になり政務が滞るようになったことで 道長は帝に「譲位」を迫っていました。
ゼッタイに天皇の座は譲らないと頑張っていた三条天皇ですが 病により視力が弱りきってしまい泣く泣く譲位を決意します。
次の天皇は、、、
道長の孫!

道長の娘 藤原彰子と一条天皇との間に生まれた男の子が
後一条天皇として即位します。
わずか9歳で!
道長は幼い天皇を支える「摂政」となります。
誰も揺るがすことのできない権力を手に入れている状態ですね。
藤原道長、無双してます。
自分の娘を自分の孫に嫁がせてさらに盤石に
さらに道長は手をゆるめません。
自分の孫である一条天皇に、自分の娘である藤原威子を入内させ中宮(正妻)とします。

一条天皇にとっては9歳年上の伯母との結婚。
藤原威子にとっては9歳年下の甥っ子との結婚。
この二人は幸せだったんですかねぇ。
これが平安時代の宮中というものか。。。
いずれにせよ 王朝は道長ファミリーによって完全に固められていきます。
「摂政」の座は息子である藤原頼道にゆずり しっかりと後継者を育てている状態。
ホント、カンペキです。
ちなみにこの藤原頼道が「平等院鳳凰堂」を建てた人です。
権力の絶頂! 藤原道長「望月の歌」を詠む
自分の孫が天皇
そして
自分の娘たちの
藤原彰子が太皇太后に(前の前の帝の一条天皇の中宮だった)
藤原妍子が皇太后に(前の帝の三条天皇の中宮だった)
藤原威子が中宮に(今の帝の一条天皇の中宮)
という状態
そして
後継である自分の息子が摂政
これを完全なる勝利と言わずになんと言おう
これゆえに「藤原氏の摂関政治の全盛」と呼ばれるんですね
藤原道長 スゲー

このタイミングで有名な「望月の歌」を詠むこととなります
この時、道長53歳
道長さん オメデトウゴザイマス!
子供たちの死… 藤原道長 悲しき晩年
絶頂を極めた道長ですが、実は体を病んでいました。
糖尿病だったと言われています。
お兄さんの藤原道隆と同じ病気ですね。。。
「望月の歌」を詠んだ翌年、出家した道長。
目がよく見えなくなり、体も弱っていきます。
正妻の倫子も出家しました。
そして正妻・源倫子との間の娘たちである藤原嬉子(きし)、藤原妍子(けんし)たちや、もう一人の妻・源明子との間の息子である藤原顕信が続けて死去してしまうという悲しみに見舞われます。

続けて起こる身内の不幸に悲しみに暮れる道長。
そして。
1027年。62歳で自らも病死します。
栄華を極めた男 藤原道長も大切な家族の死や病には負けてしまいます。
絶頂を極めた人生だったけれど 悲しみも多かった晩年だったのではないでしょうか。
権力闘争のライバルだった2人の兄、甥っ子、姪っ子たちが次々と亡くなったり自滅したり。
自分の娘たちが天皇との間に男の子を産んでくれたり。
自分の力だけではない「運」も大いに藤原道長には味方したと感じます。
一方、その「運」を引き寄せる力、そして「運」を実績に変えていく手腕があったのだろうとも感じます。
さて。
最大の権力者がいなくなり、
日本は藤原氏の世から院政の時代へ、
その後、武士階級である平清盛が権力を握り、
その後、源頼朝が鎌倉幕府を打ち立て、
平安時代は終わりを告げます。
まさに諸行無常!!!
さて、次回は藤原道長の一生を人物相関図を使って一挙にまとめるハイライト記事となります。
藤原道長の一生を描く記事をまとめたマガジンはコチラから↓
平安時代から鎌倉時代へ! 源頼朝&源義経ブラザーズの一生を人物相関図を使ってご紹介するマガジンはコチラ↓
