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いい加減【右か左か】を超えて、【真っ直ぐか傾いているか】で問題を見ませんか?

私のnoteには、「マスコミ」や「戦後体制」を批判的に取り上げた記事が少なくありません。

長らくこの日本では「マスコミ」「戦後体制」を批判する論調は【右】というカテゴリーに属するものとして取り扱われてきました。

思想が「右っぽい人」「右寄りの人」

それどころか「極右」と危険人物扱いされたり、

「ネトウヨ」というネットスラング用語で侮蔑的冷笑的にこき下ろされることすらあります。

これは、敗戦で「戦前まで右が強かった日本」が「戦後は左が天下の日本」にひっくり返る価値観の逆転が起こり、その戦後体制を「政府が二度と“右”に戻らないよう」監視するマスコミが支え続ける構造によって生まれる現象だと言えます。

この構造を盾に取られるかぎり、マスコミと戦後体制は完全なる善で絶対正義の存在です。こちらがどんなに筋の通った批判をしても「マスコミや戦後体制を批判する人は右であり悪である」と取りつく島もありません。多様性などどこにもないいびつで独善的な言論空間が戦後ずっと続いてきました。

過去記事を読んでもらえればわかると思いますが、私は何もマスコミの姿勢や戦後体制の問題を【思想の違い】で批判しているつもりはありません。【設計のゆがみ】【制度の欠陥】を指摘しているつもりです。「その建物、傾いてませんか?」と言いたいのです。建物の素材に木を使えだの、日本人なら和風にしろとか言ってないのです。設計や技法といった根幹にかかわる部分の問題点について、ここはおかしいんじゃないのかと問題提起しています。素材やデザイン以前の問題として、設計や技法に問題があったらゆがむし、傾くでしょ? 建築学としておかしくないか? という疑問を呈しているだけなのです。

もちろん、設計や技法の種類の違いをもって「このやり方が正しい」「この手法は間違っている」と言っているのではありません。ゆがみや欠陥を生じさせるような設計と技法は、どんな考え方や意見、好みを持つ建築家だろうと反対するでしょう。その次元の話です。

日本に本当の意味での【言論の自由】【報道の自由】はあるのでしょうか。日本は、新聞社とテレビ局が一体化する「クロスオーナーシップ制度」を認める世界でも稀有な民主主義国家です。なぜ民主主義国家でそれを認めないかと言うと、マスコミ同士の相互チェックが働かないからです。誰もチェックしなければマスコミの【聖域化】が進み、腐敗や暴走の傾向が見られても止められず、やりたい放題を許すことになります。マスコミは国家権力でなくても世論醸成や国民の意識形成に巨大な影響力を及ぼす【社会権力】であることを忘れてはいけません。

アメリカのジャーナリズムは権力を厳しくチェックしますが、マスコミ同士でもかなり激しくやり合うと言います。だから一つのマスコミ勢力が巨大化することはありません。そのためそれぞれに異なる思想の勢力が分散化する均衡のとれた現象が生まれやすくなるのです。

新聞テレビが一体化し、かつ記者クラブ制度や日本記者クラブといった「村社会システム」を温存する日本のマスコミに、アメリカで見られるような勢力の分散化は期待できません。日本で政治家や企業が不祥事を起こすとマスコミの袋叩きに遭う現象がたびたび見られますが、それはマスコミという業界自体に大きな力が集中していることの証左でもあります。アメリカでは何か問題を起こして叩かれても、別のマスコミが味方についてくれるため、日本ほどマスコミを怖れない風潮もあるみたいです。

クロスオーナーシップは一つの例に過ぎません。マスコミは既得権益にガチガチに守られ、このような制度上のゆがみや瑕疵は一つや二つじゃないのです。こういうことを指摘すると「右」になるのでしょうか? それともエリートたちに対する嫉妬ややっかみに聞こえるでしょうか? リベラルを自称する人たちは不思議とこの問題に対して沈黙しています。指摘するのは世間からいわゆる「保守派」「右派」と呼ばれる人たちで、思想が批判スイッチのオンオフを決めている現象が起きています。制度上の欠陥や瑕疵は思想以前の問題だと思うのですが、こうした常識的な感覚を麻痺させるほどに思想とは厄介な代物です。

戦後体制のゆがみも相当なものです。戦後体制とは要するに「戦勝国=正義、敗戦国=悪」という価値観が基盤となる統治システムのことを言います。敗戦後、日本は占領統治するGHQの検閲下に置かれたわけですが、報道を規制する【プレスコード】に「戦勝国の批判をしてはならない」という事項がありました。戦後80年たってもこのプレスコードは生きていて、日本のジャーナリズムを縛り付けています。

高市首相の誕生後、中国の恫喝がやみません。いつものことなので別に驚きもしないのですが、国民は率直に言って、あの中国のやり方を見てどう感じるのでしょうか? マスコミ報道を見ていたら、「日本にも問題がある」という印象を持つ人もいるかもしれません。しかし、もう最近は気づき始めた人も増えて、上っ面だけの中立ぶった態度、いかにも大人ですと言わんばかりの澄ましぶりに、違和感を覚え始めた人も出てきたでしょう。あそこまで露骨な狼藉を見せても正面から批判せず、それどころか無理くり擁護に回ったり、意味不明に向こうの立場を代弁したり、なりふり構わず高市首相が悪いと見えるような方向にもっていったり、中国問題になるとおっかなびっくりの態度になるのは滑稽を通り越して憐れに見えるくらいです。それもこれも彼らが戦後体制の価値観から一歩も抜け出せず病膏肓に入っていることを物語っています。

しかし、日本の言論界はいまだ「中国を批判するのは右の人たち」というステレオタイプのレッテル貼りが生きています。まだまだ効き目があるみたいなのでステレオタイプでもないのかもしれません。日本で「右の人」というと、それは人でなしにも近い印象がありました。人間失格と言わんばかりの中傷が込められている響きすら聞こえました。今でも「右」と呼ばれることを怖れる人は一定数いると思います。それは、高学歴層やエリート層、企業経営者や団体トップなどの立場ある人、作家や映画監督、ミュージシャンといったリベラル感染力が異常に強力なクリエイター界隈、文化人や芸能人など社会的影響力のある人ほど顕著に見えます。右っぽい印象を持たれると「あ、そっちの人なの?」と色眼鏡で見られ、これまで築き上げてきた信用が一気に崩れ落ちる危険があるからです。

戦後の言論空間を牛耳ってきたリベラル左翼勢は、「右の思想」に忌まわしい印象を擦り付けることに成功してきました。しかし、最近は選挙結果を見ればわかる通り、リベラル左翼が目も当てられないほど凋落しているのがわかります。マスコミの高市叩きも意外と効果なく、高支持率はキープしたままです。【常識ある国民の感覚】が、彼らにそっぽを向きはじめています。

戦後体制のシステムに甘え、やりたい放題やってきて、ちっともアップデートしてこなかったツケをここにきて払わされることになった彼らは、途方に暮れ、どうしたものかと悩んでいることと思います。それでも路線変更や軌道修正に向かえないのが人間というものです。ここで態度を改めるとこれまでの自分たちの行いが間違いだったと認めることになります。自分たちが信じてきたものを否定し、それを受け入れることは、なかなかできることじゃありません。これは左だからではなく、右の人も同じでしょう。思想関係なく人間の性の問題です。

だから、いい加減【右か左か】で議論するのは終わりにするべきです。文脈にもよりますが、安易なレッテル貼りで印象操作したり、相手の口を封じ込めようとするのも慎むべきです。【常識的に考えてこれはどうなの?】という素朴な感覚をもっと大事にしませんか? 私が述べた、マスコミを異常化させてきた既得権益の構造や、戦後体制にいつまでも縛られ続ける価値体系への問題提起は、思想からくるものでしょうか? それをもって私は「右」になるのでしょうか? 私は【それ傾いているから真っ直ぐなるようにしない?】と言っているだけのつもりです。どうすればリベラルが復活するかという議論をたまにみますけど、私がアドバイスするなら、「思想じゃなく常識をもっと大事にしたらどうですか」と言います。


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