「信じない」というスキル
筆者は「○○を信じてますか?」という質問に、いつも困ってしまう。
その質問の仕方だと、信じている・信じていない、どちらかの答えを期待されているように感じるからだ。
「好き?嫌い?」の質問も同じだ。
子供のころはよく、「オレこれ嫌い。おまえは?」と聞かれて「どっちでもないよ」と答えて「なんでだよー」と言われていたが、それはこっちの台詞だ。なんで二元論なんだよ?
筆者はこの世の大部分が好きでも嫌いでもなく、少数の「好き」とごく少数の「嫌い」がある。
たいていの人はこんなもんではないだろうか?

まあ、好き嫌いは感情の話だから、ひとつひとつの物事や会う人すべてを好き嫌いで仕分けしている人がいたとしても、だから何ということはない。
ただ、本来、よく考えた上で決めるべき「信じる・信じない」を、感情で即決してしまうのは危険だ。
詐欺に引っかかると大変だからというだけではない。
「信じる」という宣言は、自分の思いと行動を縛ることになるからだ。
* * *
筆者はほとんどの情報を「信じる・信じないの」フィルターにかけていない。ただ、「そういう情報もある」ことを記憶しておくだけだ。
なぜなら、ひとつの情報の真偽はそれ単体ではわからないから。
たとえば、「○○君が生きているかどうか」を確認するには、実際に会って話して触って脈をとってみなければ、評価に必要な情報は得られない。
画面越しではフェイクかゴムマスクかもわからないし、会ってみたとしても中身のある会話をしなければ双子やクローンを見分けることはできないだろう。ひょっとするとアンドロイドかもしれないし、ネクロマンサーに操られている死体かもしれないから脈もとりたい。
「そんなわけないじゃん」と勝手に可能性を排除するのは科学的でもなく、視野が狭い行為である。そうして勝てるはずの戦いに敗れた武将たちは数多くいるのだ。
このようにして、評価に必要な情報すべてがそろった段階で、やっと「生きてたよ」と言えるわけだ。
それでも、「この世はゲームの世界で、君たちはただのデータでした」と言われたら、すべての前提が崩壊する。
だから、最終的な事実を見極めるためにはかなりの情報の蓄積が要るわけだ。

事実を見極めるのは意外と難しく、ほぼすべての人が何かしら見誤っている。天才と言われる人たちだって、普通に間違う。
そして、信じる価値があるのは事実のみだ。
バンジージャンプのゴム紐が体につながっていないのに、紐がついているはずと信じて飛び降りたら死んでしまうもの。
もし、「信じる・信じない」を即決しているなら、それは情報ベースではなく感情ベースである。
感情は間違う。
平和な日常で間違えても実害が少ないから間違えたところで記憶に残りづらいだろうが、戦場や非常時には誤った信念は人の死に直結するから鮮烈に印象に残る。
「オレの神のほうが偉大なり!(死んだら天国行けるし)」と無謀な突撃をする前に、冷静になって本当にそうかどうか少しは調べてもらいたい。
洗脳によって作られた感情のせいで死ぬのはもったいない。
ちゃんと調べて、バンジーの紐がつながってから飛んでもらいたいのだ。
これはテロリストだけではなく、すべての人に言える。
感情は基本的に「自分の今の内面に都合のいいことを受け入れたい」だけの、信用できない存在だ。
もし、バンジーの紐だと信じていたものが本当はチータラだったらどうするのか。
正しいゴム紐に即座に変えるべきだろう。
それとも、間違いを受け入れず、「チータラは紐なり!」という信念を変えずに飛んでしまうのか?

そもそも、なぜ間違いを受け入れられず、信念は変えづらいのか?
それは、「信じる」ことによって情報を自我の一部に組み込んでしまうからだ。
すると、その情報に対する批判は自己に対する批判にすり替わってしまう。
ただ情報が間違っているというだけの指摘が、その情報を信じていた自身への攻撃と認識してしまうのだ。
人は何よりも自我を守ろうとする。身体を守ろうとする以上に自尊心を守ろうとする。だから、攻撃に対しては頑なになり、自己正当化のために防御を固めてしまう。そういう傾向がある。
では、間違った情報を信じて手放せなくなるスパイラルに陥らないためにはどうすればいいのかというと、何事も簡単に信じないことだ。
あれはこうだ、あいつはなんだとレッテル張りしないことだ。
一度決めつけてしまうと、情報の更新が難しくなってしまうのだから。
* * *
では、自分を「間違いを訂正できない罠」に陥らせないためにはどうするべきか。
①どんな情報も単なる情報として、頭と心の棚におさめておく。
情報に感情を紐づけない。
②好き嫌いで情報を選別せず、多角的な情報を集める。
抵抗を感じても、信念と違う情報にも目を通して棚に置いておく。
③気軽に「○○を信じてる」と言って自分を縛らない。
「どうなんだろうね」で流す。
そうしていれば、それまでの見解と異なる事実を見せられたときに、軽やかに乗り換えることができるだろう。
これは、意識して訓練していけば身に着くスキルだ。

筆者はここのnoteに歴史がらみでいろいろと書いてはいるが、自分で書いているものを特段信じているわけではない。
これまで得た知見を基にしたひとつの見解を書いているだけなので、間違いに気づいたらあっさり乗り換えるつもりだ。
手のひら返しが早すぎてズッコケられることもあるが、それでいいと思っている。
軽々しく意見を変えるなんて……と、変に自意識過剰にならなくていい。だれもあなたをパーフェクトヒューマンだとは思っていないのだから。
むしろ、間違いは赤ちゃんのように素直に訂正したほうが、周りも楽だし印象がいい。
パーフェクトヒューマンより未熟な赤ちゃんのほうが、かわいがって面倒見てもらえるんだから得だよね♡

最近は「△△って信じる?」と聞かれても、だいたい「知らん」で済ませている。面倒だからだけど、嘘でもない。
自分の目だって当てにならないのに、他人が見たことや画面越しの情報なんか信用できるかいな。だから「I don' t know (アイドンノ)」と言っておくのが無難だと思う。
たまに、「プギャー、騙されてやんのー、バーカバーカ」とか言ってはしゃぐクソガキどももいることだしね。……そのうち井戸に縛りつけて貞子召喚してやろうかな。

いいなと思ったら応援しよう!
もし記事を気に入ってくださいましたらサポートいただけますと励みになります。いただきましたものは資料の入手に使わせていただきます。