見出し画像

YHWHヤハウェ:本来の読み方とその意味~ハルマゲドンへの道⑩


יהוה (YHVH
あるいはYHWH)

י(ヨッド)=Y、 ה(ヘー)=H、 ו(ヴァヴ)=V/W、 ה=H、

 聖書の神の名を表すヘブライ語の4文字、テトラグラマトン。

 セム系言語は母音を表記しないので、わかっているのは子音のみ。

 イスラエル人は長いあいだ神の名を読みあげることを避け、「アドナイ
」(主の意味)と代読していたがために、かつて神の名がどのように発音されていたのかは今となっては謎である。

 一応、「エホバ」や「ヤハウェ」などの読み方が提案されているものの、なぜその読み方で、それがどういう意味なのかを説明できる人はどれだけいるだろうか。


 ということで、今回は深い歴史の深海に沈んでしまった神の御名について、歴史の視点から、その本来の読み方と意味を追求してみる。


 悪さをしているヴォルデモートでもあるまいし、神は隠れたいわけではない。人間が勝手に隠してしまったが、名前もちゃんと知ってもらいたいはずだ。だから、手掛かりは残されている。

 それでは、さっそく、




太古の神



 聖書に記述されている歴史はヘブル人だけのものではない。

 アブラハム以前の歴史については、世界中の神話と共通している要素は多い。

 人類の創造に、黄金時代に大洪水。

 とくに、古代シュメールの記録は、聖書に書かれた歴史を別の視点から記録したもののように感じる。

 紀元前3千年紀のメソポタミアの神の概念は、聖書のそれとよく似ている。
 姿を見せない天の神と、人の姿で現れる神が別に存在しているところや、「神の山」の概念など。
 犠牲の獣も牛・羊・鳥と、共通している。


 ならば、その神も同じなのではないだろうか?

 シュメール人とヘブル人の両方が崇拝していた神とは誰だろうか?

異文化における神話の類似と矛盾。視点によってはまったく別の物語が生まれる。



 Y H V H

 テトラグラマトンは、実はふたつに分けることができる。

 YH と VH だ。


 その根拠のひとつは、神の名が人名に組み込まれるときには「YH(יה)」のみとなり、「YHVH」すべてが組み込まれた人名は聖書にはない、ということ。
יהושע シュア……ヤハウェが増し加える、נחמיה ネヘミ……ヤハウェは慰め、等々)


 また、別の根拠は、モーセに名前を尋ねられた神の答えにある。


 出エジプト記3章14節で、神はまず「אהיה(エヘィエー)」と答えている。これは「わたしは在る」と翻訳されている部分である。

 さらに、15節では「יהוה אלהי(ヤハウェ エロヘイ)」と名乗っている。ここは「神ヤハウェ」と訳されている。

 אהיה(エヘィエー) と יהוה(ヤハウェ)。
 共通部分は יה(YH)。


 
ひょっとして、14節で神は「わたしは在る」ではなく、「わたしはYH」と名乗っていたのではないだろうか?

 
あるいは、古代エジプトのことばで「akh(アハ/アヘ)」は霊を指す。
 
だから、「霊なるYH」と名乗った可能性もある。モーセはエジプト出身なのだ。

 名を聞かれたのだから、名前を答えなくてはおかしいのだ。



 では、YHとは何だろうか?
 聖書以外にそのような名前の神を見出すことができるのだろうか?

 ……もちろんできる。

 シュメールの神、その名もエア


 
 古代シュメールではおもに偉大な3柱の神として、アン、エンリル、そしてエンキ/エアが祭られていた。

 シュメールでは言語の混乱の影響もあってか(シュメール人は自分たちの言語の混乱を自覚していた)、エアとエンキは誤って習合されてしまったようだ。

 言語の混乱が起きたとき、シュメール人はおそらくエアの意味が理解できなくなり、自らの文字でとりあえずエ(家)ア(水)と表記した。だから、現代になって「水の家」のようなそのまんまやんけな解釈が提案されたりして混乱が生じている。

 エンキとエンリルはシュメール語だがエアは違う。もっと古い言葉だ。

 エアはエンキの暮らす家のことではなく、エンキがそこで崇拝していた神である。エンキ(地の王/祭司)であるアダムはエデンの自宅近くに葬られ、彼の家は記念としてエリドゥに神殿のかたちで残された。だから、そこではエンキとその神エアが祭られていた。

 エアとエンリルは本来同じ神である。
 もし、言語の変化がなかったなら、エンリル(霊の王/祭司)というシュメール語の称号自体が生まれず、エアと分離することはなかっただろう。

 エンリルは偉大な先祖である神々でさえ直視できないほどまばゆい姿で人前に現れるという。これは聖書の神と同じ特徴である。
 
 (詳しくはこちらでも解説⇩)


 
 エンリル神のシンボルのひとつに雄牛がある。
 
 雄牛はおそらくエデンでアダムの代わりに屠られた最初の動物であり、あとでやって来る完全な犠牲イエス・キリストの予型でもある。

 このように、霊なる祭司であり、人前に姿を現し、雄牛をシンボルとするシュメールの神エンリルは、ヤハウェ/キリストと同等の神である。
 
 また、エンリル神には天体のシンボルとしてが割り当てられていた。
 雄牛の立派な角と三日月の形は似ている。



 一方で、セム系言語では月の神としてea/iaの音は長らく保存されていた。

 その名も月神イアフ。 iah=yah。

 古代エジプトでも発音は同じだ。


 ウガリットやエジプトの月神イアフにヘブライ語のアルファベットを当てるとיה(YH)となる。

 ならば、月神イアフ=ヤハウェ(YH)でいいだろう。


 エア/エンリル = YH = イアフ



 ……しかし、なぜ月なのだろうか?

 月を表す別の言葉もあるから、月そのものがイアフだったわけでもなさそうだ。
 雄牛の角との形状の類似以外に理由があるのだろうか?

 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるヤハウェの声を聞いた、それで人とその妻は、神であるヤハウェの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。(創世記3章8節)

 上の句の冒頭の直訳はלרוח היום 「その日の風に向かって」だが、ここは「そよ風の吹くころ」(新改訳)や「その日の夕方」(リビングバイブル)などと翻訳されている。

 その解釈で良いのなら、ヤハウェの神は夕方の風が吹くころに園を訪れたことになる。

 砂漠にいると、昼と夜との境目の夕暮れ時に風が吹きすさぶのをはっきりと感じることができる。

 そして、夕暮れ時の風が吹くころ、空に月が輝きだす。

 神は夕方の散歩を日課としていたのだろうか?


 神を月に例えることは、あるいは、創造の様子から導き出されたのかもしれない。

 初めに、神が天と地を創造した。
 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
  神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。
  神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された。
  神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(創世記1章1~5節)

新改訳聖書

 当初、世界は闇に包まれていた。そこに神は光を創造された(天体ではない)。
 闇夜にかがやく月は、闇の中に創造された光を想起させる

 これが神のシンボルを月にした理由だろうか?
 
 



 YHの崇拝の起源は古い。

 セツにもまた男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。
 そのころ、YHVHの名を呼ぶことがはじめられた。
 (創世記4章26節)


 アダムの子セツの子エノシュ。
 アダムに孫が生まれた時代から呼ばれつづけている名、YHVH。

 神の名そのものがYH(イアフ)だとしたら、後半のVHはなんだろうか?


太古の称号


 神の名につづく言葉、VH

 単純に考えれば、それは「神」を表すタイトルか、「~様」のような尊称であるはずだ。

 古い言葉の中にヒントはあるのだろうか?



 古代エジプトには興味深い言葉がある。
 聖霊を表すバーゥ(ba:w)

 これをイアフにつなげれば、イアフ・バーゥ「聖霊なるイアフ」となる。


 この言葉もイアフと同じく非常に古いものと考えられ、おそらくインド・ヨーロッパ語族に見られる「神」を表すbhagaやbogといった音もルーツは同じだろう。

 古い時代にイランに伝わった語尾Hの音は、どうやらGの音に変化しやすかったようだ。たとえば、イランの王の系譜の祖ホーシャングは、おそらくハオ・シャー(hao shah 善い王)であった。

 日本語もそうだが、息の音であるHをその音を持たない言語が受け入れようとすると、どうしても本来の音からずれてしまう。無理やりカナ表記にしようとすると「ハ」か「フ」になるだろうが、実際にはそういう音ではない。
 さっきから「イアフ」と書いてはいるが、この「フ」も日本語の発音でのフではない。

 エジプトでは息の音Hはwuに近づいていき、イラン方面ではgに変化した。このように推測している。
 そして、ba:wもbogも同様に神霊を指す言葉である。


 エジプトとイラン方面に同じルーツの言葉があるならば、そのあいだにいたセム系民族の言語にも同様の言葉があってしかるべきである。というか、ヘブル人はエジプトに4百年もいたのだ。当然、エジプトの言葉ba:wを知っていただろう。



 というわけで、ここまでの推測をもとにすると、YHVHとは、

 YH (iah) VH (vah)   

 イアフ ヴァフ

 より正確には イアhヴァh (hは母音を発音せず息の音だけ)。

 このような発音が古代の音に近いのかもしれない。


 おっと、ヤハウェよりエホバのほうが近いかも?



神の名の意味とは



「聖霊なるイアフ」 Iah-Vah。

 では、神の御名イアフにはどのような意味があるのだろうか?

 先に結論を言うと、「よくわかりませんでした」。

 非常に古い上に非常に短い言葉なので分解することも難しく、語源の特定は困難である。

 しかし、一応、推測だけでも書いておこうと思う。


 とっかかりとして、文字に着目してみた。


 上の段が古いヘブル文字で、下の段がヒエログリフ。
 ヘブル文字の並びが逆だし、ヒエログリフの発音記号も厳密にはこうじゃないけれど、細かいことは置いておいて、わかりやすく並べてみた。

 どちらも表音文字ではあるけれど、両方に「腕」の文字があるのが気になっている。


 世界中の文字の出発点は、どれも表意文字と表音文字のハイブリッドである。単に音だけを表す文字として生まれたものはなく、文字のひとつひとつには意味がある。
 外国語を表記する場合や、他言語から借用した文字を使っている場合には文字と言葉の意味の乖離がおきるのは普通のことだが、その言語のために作られた文字を使う場合には乖離は少ないものだ。
 中国語なんかがわかりやすい例で、文字の意味と発音される言葉の意味は一致している。

 ヘブライ語もひょっとすると、文字と音との意味の一致があるのではないだろうか?


 ヘブル文字のYは腕、Hは息


 息は風であり、生命でもある。すべての生物が生きるには空間を動かす力が不可欠であり、その力が霊である。霊なる神が完成したバイオマシーン・アダムに吹き込み、生きた人間に変えた力がそれである。
 通電しているだけでは機械にすぎず、息(霊)が与えられてはじめて生物となる。


 アブラムとサライに神が与えた新しい名前は、もとの名前にHが加わったものであった。

 אברם アブラム ⇒ אברהם アブラハム
 שרי サライ ⇒ שרה サラh

 
 神は意味もなく改名はしない。ふたりの名にが加えられたということは、聖霊が加えられたということだろう。
 アブラハムの改名は99歳のとき、イシュマエルが生まれたあとであり、イサクが生まれる前のことである。以前から誕生の約束を与えられており、両親に聖霊が加えられたのちに生まれたイサクはイエス・キリストの予型、ひな型である。
 
 Yは腕、Hは聖霊。
 ならば、YHは「霊なる御腕」と読み取れなくもない。


 さらに、י(Y)のゲマトリアは10、ה(H)は

 モーセの十戒や十の災いのように、10は満ちた数であり、全部を表す数である。十分の一税は、すべての収穫の中から一割を神にささげるものである。

 ちなみに、エンリル神に割り当てられた数は50
 5×10=50(聖霊 × 全部 = 聖霊満ち満ち)なのだろうか?


 また、5はモーセ五書と関係している。

 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、わたしの知性を用いて五つの言葉を話したいのです。(コリント第一14章19節)

 上の句でパウロが言いたいのは、「危機管理のさしすせそ」のような標語的なものではない。
 五つの言葉とはモーセ五書を指し、神の言葉を意味している。



 さて、ここまで見てきた文字の意味と文字に割り当てられた数の意味をまとめてみると、

YHとは 「聖霊に満ち、御言葉を行う御腕をもつお方」

のようにまとめることができる。
 

 はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1章1節)

 ヨハネの福音書の冒頭で、イエス・キリストは「ことば」として紹介されている。

 ことばは空間をゆらす波であり、そのエネルギーを操ることによって神は世界を形造った。聖霊に満ちているとは創造するエネルギーに満ちているということであり、言葉を実行する腕をもつということは、創造をおこなう力があるということを意味している。

 たしかに、この世を創造なさった神にふさわしい名であるかもしれない。




 ちなみに、Vの文字には「留め杭」のような意味があり、セム系言語では現在でも英語のand の意味として「ヴェ」や「ワ」などのようにV/Wの音が使われている。

 VHには「聖霊を加えとどめる」ような意味もあるのかもしれない。


結論



 神の名はiah、尊称はvah。

 YHVHのもとの音は  Iah-Vah (イアhヴァh) 。

 聖霊なるイアフ───神イアフ。

 イアフの名前の意味は「聖霊に満ち、御言葉を行う御腕をもつお方」。


 これが今回の結論である。


 正しいかどうかはわからない。
 本当のところを知りたい方は、ぜひ天に昇るかハルマゲドンを通過して千年王国に入るかして、神様に直接尋ねてほしい。

  雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
  わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
(イザヤ書11章7~9節)

新改訳聖書


 それでは。

《もくじ》
《歴史バカの大冒険トップページ》





いいなと思ったら応援しよう!

歴史バカ  もし記事を気に入ってくださいましたらサポートいただけますと励みになります。いただきましたものは資料の入手に使わせていただきます。